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<東京怪談ノベル(シングル)>


daymare

 追い立てる怒号があるでなく、姿を暴く焔があるでない。
 けれど確かに追われて、曲闇虎は風を足場に空を駆けていた。
 ひそ、と囁く声が長く、細く、絶え間なく幾筋も身にまとわりついて動きを阻もうとする……鵺を、人の恐れる妖を折伏しようと放たれたにしては、あまりにも呪いに近い。
 一度身に絡めば、情を交わした女の髪のように、闇虎を縛そうとするだろう。
 人の姿はとうに解き、本性である赤黒い虎の姿はその名の示す如く容易に闇に溶けるが、闇から沁み出す呪言の帯は執拗に闇虎の存在を探って触手を伸ばす。
 人と、術者と対峙するは、闇虎とて初めての経験ではない。妖を滅しようとする者は絶えず、得物や術の別はあれど、それ等は力の限りを持って立ち向かって来たものだ。
 けれどこのようにひそりと、姿を隠して致命的とは言えない呪いを絶えず向ける陰湿なやり様に出会したのは初めてで、困惑と苛立ちとに闇虎は喉の奥で低く唸った。
 闇虎に触れようとした呪の一筋をその牙で断ち切れば、遥か先で確かに命の絶える手応えがあるが、あまりの細さに先を辿るに到らないと言うのにまた新たな呪いが加わるばかりの悪循環に限りがない。
 防戦……というよりも逃げの一手を打つしかない、その状況に転機が訪れたのは夜明け近くになってからだ。
 また一筋、闇虎は呪いを捉えたが、それを断ち切るより先に術師が恐れを覚えたか、中途半端な形で手放された術が元へと返るを咆哮に喚んだ風に紛れて後を追う。
 行き着いた先は貴族の住まう地区……とはいえど、外れに位置して廃れた感の強い区域だ。
 土地を下賜された者が権力の座から遠のいたか、死したか。
 だが闇虎に地位の高低は関係なく、煩わしい術を仕向けた者達が二度と自分に手出ししないよう……出来ないよう、いつものように身を護るだけだ。
 闇虎は術の一筋が途切れた先、明り一つ灯らない邸宅の敷地で風に溶かした身を再び結んだ。
 先まで行使されていた他の呪も今は途絶えているとはいえ、看過出来よう筈がない。、人と違う命を生きる存在というだけで恐れを覚え、存在の全てを根絶やしにしようとするならば、闇虎はそれに抗するまで。
 暁を目前に最も暗き闇の刻、その間にこの邸に居るだろう術師を全てを始末しようと、荒れた庭先に下り立った闇虎は、その鋭敏な嗅覚が異様な臭気を捉えるのに気付いた。
 血の匂い。
 人のそればかりでなく、妖とされる諸々の存在の……腐敗した血と、肉の。
 本能が鳴らす警鐘を自覚する間もなく、闇虎の四肢は既にその場から跳躍していた。
 横様に跳んだ彼が寸前まで居た場所に、ザクリと鈍い音を立てて矛が深々と突き刺さるのを見る。
 動く先に次々と突き立てられる武器に、庭に気配を探るが投じているだろう人のそれはない。
 これもまた呪いがかりかと、苛立ちと腹立たしさに天駆ける風、夜から朝へと変わる大気の気流をそのまま喚び込んで全てを打ち壊そうとした闇虎の耳にひそ、と囁きが戻る。
 先まで患わされていたその呪に気を取られそうになった瞬間、闇虎は肩と背、横腹に加えられた衝撃に弾かれ、横様に倒れた。
 身を貫く矛は柄までを鉄で作られている……金属の類は自然の化生が苦手とする最たる物だ。
 爆ぜるような痛みに、怒りを咆哮に代えた闇虎は風に紛れようとするが、身を穿つ金気の重さに適わず再びどう、と地に倒れた。
 身に突き刺さる矛がもたらすのは痛みだけでない。
 その傷から凍えるような感覚が流れる血の熱を奪い、力を削ぐに強まる危機感に、闇虎は無理を押して虎の姿を解き、矛を抜き取る手を持つ人の、姿へと変じる。
 骨が、筋肉の位置が変わるそれを矛に阻害されて痛みは身を裂くが如く、骨を貫かれた肩口は殊更、骨を砕くようで最早呻く声すらもない。
 虎の姿からすればどうしても身の厚みを失うのに、背に突き刺さる矛先が肺に達したか、気管を逆流する血の香りに咳き込めば、びしゃりと音を立てて吐き出された赤が地面に散った。
 肩を貫く矛になんとか手をかけるが、伝う血に握り込む掌はぬるりと滑り、複数の傷からの痛みに意識と力が拡散して、震える手に力を込めるが精一杯だ。
「……これはこれは」
玉砂利を踏む、足音が目の前で止まるのを、闇虎は朱金の眼で睨み上げた。
「やけに手強い妖であるかと思えば。鵺とはな」
 嫌味なまでに白い衣を纏った術師が、生身ながらひそ、とした声の調子が変わらぬ様子に先の呪の主かと知れる。
 暁闇の刻が過ぎ、東の空が白々とした光を宿し始める中、闇虎の姿を認めた術師は小さく笑う。
「琥珀の肌に、赤き瞳か。異国の民のような相貌だが、人の言葉は話せるのか?」
微笑みを……明らかに己の優位を確信した歪んだ感情を面に浮かべ、近付こうと術師の足先に込められた力に、闇虎は猛りに吼く。
「近付くな!」
「なんとも活きのいい」
ビク、と足を竦め、動きを止めた術師だが、直ぐさま上げた嗤いの声に誤魔化すと、背後、同じように術師であろう者達に顎先で闇虎を示す。
「一族の者から犠牲こそ出たが、このように良い贄が手に入った」
贄、という言葉の持つ不遜な響きに闇虎は眉を寄せる……それを痛みに対しての物ととったか、術師は楽しげに笑う。
「何、案じる事はない。大人しく我等に仕えさえすれば多少の便宜は図ってやろう……何しろ大妖・鵺だからな。今まで捉えた妖のように脆くはなかろうよ」
幾つも応意の声が上がる。
 人如きの虜となるものか、と闇虎は相手の意図に覚えた怒りをそのまま手近な、主格と思しき術師にぶつけようと人の柔な身体など容易に引き裂く爪と牙を持つ本性、虎の姿へと戻ろうとしたが、再びの変化は深い傷を負った肉体自体が耐えきれず。
 流れ落ちる血に引かれ落ちるを止める事が出来ぬまま、闇虎は意識を失った。


 一筋の光も差し込まぬ場に昼夜の刻を判別する術はなく、冷え切った空気は流れすら作らずに籠もるばかりだ。
 陰陽師に狩り立てられるまま虜となった闇虎は人の姿のまま岩室に篭められていた。
 身を貫く矛はそのまま闇虎を繋ぐ楔となり、刃の反対に形作られていた輪が縛めの鎖に繋がれて自由を奪う。
 横になる事も、座り込む事も出来ぬよう止められた高さに、眠りに落ちる事も出来ず、放置され塞がる事のない傷の痛みとに消耗の度合いは増していく。
 幸か、不幸か……精を糧とし得る為、剥き出しの岩壁が伝える地の精に、食事を与えられずとも命を繋ぐ事は出来る。
 けれど、知覚する幾重にも重ねられた結界はそれ以上の外の情報は闇虎に掴ませはせず、時折訪れる術師達は更なる用心に術で縛して、闇虎の血肉を奪って行く。
 その都度、全身を炎に灼かれるような、臓腑を掻き回されるような激痛が伴うに、何を為す為に必要かは悟るに易い。
 形代にでも使っているのだろう。
 術と呼ばれる類、呪いと呼ばれる部類は成就を為さねば術師に返る。それを防ぐ為に人型に切った紙を本人に見立てる事があると聞くが、そんなまどろっこしい真似をせずとも、生きた命をそのまま対象に据えてしまえば良いというのだろう。
 それが人でないなら尚更。簡単に死なぬのならば殊更良い……それは術師達が闇虎が死なぬを見て幾度も感嘆に口にした言だ。
 仇とも言える陰陽の一族も、この鵺を巧く使えば滅するも適おうと、醜い欲を昏い笑いに変えた術師達は闇虎を揶揄する。
 それはこの一族を束ねる者であろう……主格の術師が最も顕著だ。
 大人しく飼われるならば可愛がってやろうものを、そのように睨むのでは頭を撫でてもやれんではないか。
 肉を血を、刃物で切り取られる闇虎の姿を楽しげに見ながら、人を使うばかりで己の手を汚そうとしない。
 その術師が闇虎に触れたのは、ただの一度。
 冷気と痛み、揶揄と侮蔑、それ以外に意識に訴えかける刺激を失い、肩に背にかかる加重に傷の痛みすらも麻痺してゆるゆると眠り続ける事の多くなった闇虎を……いつものように術で縛した術師の一人が刃物でなくその自らの歯を琥珀の肌に立て、肉を食いちぎった。
 それはいつもの痛みと違い、闇虎の内に喪失感を穿ち、それは事ある毎に闇虎を苛んだ。
 次に左の腕を、足を、時々に違う者達が獣のそれと比べ物にならぬ程鈍い歯を突き立て血を啜り、闇虎を、喰らうのだ。人が。
 苦痛と、屈辱とに晒され、結界を破り逃れる事すら適わぬ程、体力は削げ落ちて行く。
 その最後に、訪れたのが主格の術師だった。
「漸く儂の術が完成する」
初めて、一人で訪れた術師は闇虎の顔を灯りで照らしながら、口元だけで笑った。
 大きく見開かれた眼は血走り、闇虎を見据えて瞬き一つない様は、その内から溢れん狂気ばかりを浮彫りにする。
「覚えておろうか。お前の肉を最初に喰んだ者は、炎のような熱に冒され死した。次の者は身の内から爆ぜるようだった。臓腑を散らす様は見物であったぞ?」
血の繋がりを持つ者であったろう筈の、一族の死を楽しげに口にする術師の狂気に晒され、闇虎は嫌悪に眉を寄せた。
「おう、何故と問うか。それはな、ヤツらが弱かったからだ。お前の血肉を取り込み、その力を得るには準備が居る……幾度も試しを重ねた末にようようその手段が掴めた。今、お前の血肉を喰らって生き残り、尚、その力を術の源としよう者が四人もおる。如何なる高貴な方々も成し得なかった不老不死の技を、この儂が完成させるのだ。最も強く近く、お前の命を得るには儂こそが相応しい」
それこそが熱に浮かされたような物言いで、術師は闇虎に触れる……冷え切った肌は術師の熱の移動を明確にする。
 だが、ぬくもりを持った手の動きは爬虫類めいて這うように闇虎の身を撫で、悪寒ばかりを誘起する。
「……お前」
闇虎は、呻くように術師に呼びかけた。
「お前は、殺す」
久方ぶりに苦痛以外の目的で発した声帯は掠れ、それだけで血を吐くように痛んだ。
 闇虎の宣告に、術師は狂った表情のままにぃと口の端を横に引いた。呵呵と笑う。
「おう、やれるものならやってみれば良い」
喉まで這い上がった手がぴたりと止まった。
 首筋を撫でる手が、更なる熱を帯びる。
「儂の命はお前の命となる。儂を殺そうというのならお前は身喰いをするも同然よ」
ぐ、と首を傾ける力に抗する余力すらなく、首筋を晒す形になりながらも、闇虎は怒りを……如何に力を、命を削られようと失う事なく宿る怒りを、その誇り故に苛烈なる、感情を術師に叩き付けた。
「お前は殺す」
怖じる気配で、術師は一度手を引きかけた。
 が、動きを奪う矛の存在と幾重にも重なる封じに、満身創痍である妖が動けよう筈がない、と再び笑いを浮かべようとするが適わず、その苛立ちを闇虎の首筋に突き立てる歯に篭めた。
 肉を裂き、血を啜る耳障りな音を至近で聞きながら、今までにない勢いで急速に己の命が奪われていく感覚が凍えるようで、闇虎は喘ぎを堪えた。
 容易に老い、死ぬ。時の流れに錆び朽ちる人の命を支えるなど、死の瞬間が果てしなく続くも同然だ。
 このまま、朽ちるも果てるも。許せぬ怒りを抱えたままこの場でただ生を繋ぐのか。
 目が眩む程の瞋恚が、炎の如く胸の内を炙る……術師は血の香に酔ったかのように闇虎の首筋に顔を埋め、一片でも、一滴でも多くの血肉を得ようと歯を立て舌で舐め取るを続ける。
 この腕さえ動けば。
 闇虎は矛の刺さらぬ左の腕、術に阻まれぴくりとも動かぬ指先を見た。
 この男の首を折るなど造作ないというのに。
 願い、とも呼べぬ闇虎の意思が不意に適ったのは次の瞬間だった。
 常に知覚し続ける、闇虎を閉じ込め、阻み、意を奪う結界の……外側に、紙を裂くように一筋の亀裂が生じた。
 綻びと呼ぶには人為的なそれだったが、今の闇虎にそれを判ずる術はない。命を削られて尚、否、それだからこそ封印の全てを破る力を鋭く一点に集中する事が出来たのだろう。
 内側から貫くように、結界が破られた事を術師が気付いたのはその一瞬の後。
 その時には闇虎の左腕は術師の頸椎を折っていた。
 術師はその場に倒れ……一瞬で訪れたであろう死が痛みを取り去る事なく、意識を保ち続けるまま、闇虎が身を貫く矛を無理から引き抜く様を開いたままの眼で見詰めた。
 広がる傷に荒い息を吐き、片膝を地に付きながらも……闇虎は己から視線を外さぬままの術師に僅か、笑いを口元に浮かべて見せる。
「何処まで喰らったらお前が死ねるのか、試してやろう」
頸椎を折られた術師が恐怖に目を剥く。哀願を紡ごうとする口元は震えるばかりで声にならない。
 闇虎は人の姿でも鋭利さを保つ犬歯を剥き、術師の指から喰い千切った。


 生々しい血の、香りさえ思い出せそうな夢の中から急速な浮上を促したのは、控えめな振動を繰り返す携帯電話のアラームだった。
 手にとって終了の操作を加え、同じ寝台で背を向けて眠る……家主であり、夜の営みの相手でもある陰陽師の眠りの妨げになっていない事を確認すると、朝の冷えた大気に晒された腕をぬくもりの残る夜具の内へと引き込める。
 あの後、残る術師の全てを喰らい……けれどその術師の一族を根絶やしにする事は適わず、容易に追っ手の打てようのない大陸へと逃れた。
 しかし今の世になって、再び人間の、しかも陰陽師と命を共有する羽目に陥ろうとは思ってもいなかった闇虎である。
 妖と命を繋ぐ事で人間をヒトならざる存在とし、寿命と死とを奪い去る……いかなる苦痛にも容易に死ねぬ身を作るを契約と呼ぶが、邪道の域であるとされる、多分、雛形となったのは過去、闇虎が喰らい尽くし、首だけになって漸く死したあの術師の技だろう。
 闇虎は咽の奥で小さく笑う。
 己の生に満足出来ぬ者の末路はどれも似たようなモノだ。
 夢に思いだした術師の最期はその後、長くを生きるに目にした、身に余る力を権を、金を、時に思う相手の情を求めて死んでいった者達のそれと大きな相違はない。
 この、男も。
 眠りに深い呼吸で揺れる背を、闇虎は見詰める。
 人に過分な寿命と力とを得て何処まで狂わずに居られるのだろうか。
 猜疑というよりも純粋な疑問を抱きながら、闇虎は寝台から抜け出すと素足を床に着けた。
 身支度を整える為か、壁際に立てかけられた姿見が己の姿を映すのに何とはなし気が引かれて、鏡面を覗き込む。
 視線を合わせる瞳は朱金と蒼灰……闇虎の自前の眼と、契約を交わした相手の眼だ。
 琥珀の肌を背景に色違いに収まった眼をしげしげと見詰めて闇虎は、口の端を上げた。
「やっぱ良く似合ってんなー」
契約の証とも言えるその色合いに、満足げに頷いて闇虎は大きく伸びをした。
 この瞳は気に入っている……だから、もし相手が狂うようであれば闇虎が、骨まで残さず喰らい尽くして眠らせてやろうと、その時までは決して表に出すまいと胸に秘かな誓いは、鏡を見る度に新たになる。
「さーて……昨日もいい運動したし、今日はイングリッシュ・ブレックファーストと洒落込むか」
精をつけてやらないとな、と一人勝手な納得に呟いて、闇虎は本日の朝食の準備の為、そっと寝室を後にした。