コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


いまひとたびの



 四月も半ばを迎え、東京では既に八重桜さえも花を散らし始めていたが、車で二時間程北上したこの辺りでは山の裾野に未だ白い花の姿が見える。
 車を走らせながら、目に映る景色に槻島綾は眼鏡の奥で目を細めた。
 対向車も後続車もいない、アスファルトに舗装された二車線の道。
 その周囲に広がるのは、目に鮮やかな緑の景色だった。
 春の陽射しの中で輝く若々しい青に染まった山々。空を映す水田には風にそよぐ早苗の姿があり、畦道には蒲公英、点在する民家の軒先には白木蓮や花水木が見て取れる。
 可憐に、優雅に、慎ましやかに、華やかに、訪れた季節を謳歌し、里を彩る花々。
 ああ、春だ、と綾は思う。
 都心では駆け去るように過ぎていった春が、またこの地には逗留している。
 

 運転をしながら、散策でもしてみようか、という気分になったのは、その表情豊かな花々に誘われたからと云っても良いかもしれない。今回は時間に制約があるわけでも、目的地のある旅でもない。
 流れゆく車窓の景色の中に、小高い山を見つけて綾はスピードを緩めた。
 山の中腹に緑陰に紛れるように在る、古びた山門の姿が垣間見える。
 その周囲に白や黄色の花の色を認めて、小さく頷くと綾はゆっくりとハンドルをきった。
 
 
◇ 
 頭上を覆う木々の梢から零れる光が、薄暗い山道を柔らかく照らす。
 凹凸のある、地肌をさらけ出した小道の上を、光と影がさんざめくように現れては消え、消えては現れる。
 揺らめく水面のようなその光景と樹木が生み出す清澄な空気が、呼吸をするたびに、知らぬうちに綾の内に凝った疲労の欠片を浄化してくれているような気がする。
 
 その時。
 どこか遠くで、ほととぎすが鳴いた。
 まず一声。
 一拍置いて歌うように鳴き続けるその声は、まるで何かに語りかけているようだと綾は思う。

(ほととぎすといえば……)
 歩みを止め、その声に耳を傾けながら、頭上へと向けていた視線を綾は行先へと向ける。
 そこにはいつの間に現れたのだろうか、一人の男性が悄然と佇んでいた。
 老年と云って良いだろう彼のその横顔を窺うに、何かを思い悩んでいるように見える。
「どうかなさいましたか?」
 声をかけた綾に男性は困惑したような笑みを浮かべると、木々の葉擦れの音に掻き消えてしまいそうなか細い声でこう云った。
「命の水をご存知ではありませんか?」



 聴くと男性はこの辺りの人間ではないのだという。
「こちらの地方には命の水の伝承がありまして、わたしはそれを求めてこちらに参ったのです」
「命の水、ですか。それは…」
「アルコールのことではありませんよ」
 綾の言葉をやんわりと遮り、男性は頬を緩める。
「養老の滝をお探しなのかと思いました」
 苦笑を浮かべる綾に老人も笑う。
「今昔物語ですね……。古事記の因幡の白兎のくだりはご存知でしょうか」
「因幡の白兎……。オオクニヌシの話ですね。まさに情けは人のためならず、というような」
「そうです。ではヒメを娶った後のオオクニヌシの物語はご存知ですか。根の国に下る前、そのことに嫉妬した兄たちにオオクニヌシは殺害されてしまうのです。それを嘆き哀しんだ母神が天上に願い、命の水を身体に振りかけることによって、オオクニヌシは蘇る、そんなくだりがあるのですよ」
「そうなんですか」
「これと似たような話は世界各地にありましてね、メソポタミア神話にも似たような記述があります。……そしてこちらにも」
 老人は綾にかいつまんでその「昔話」を語った。
 その昔、この一帯を治める領主の妻が神の怒りをかって死んだのだという。
 嘆き哀しんだ領主は己の立場も忘れ死んだ妻の魂を求めて、死の国に繋がる入り口を探してこの周囲の山々を彷徨い歩いた。
 けれども人である領主に黄泉への入り口を探し出すことなどできず、とある泉の傍らで絶望に嘆息していたという。
 その様子を哀れに思った泉の神が男の前に現れこう告げた。
『もしお前の妻の魂がこの世に未だ留まっているのであれば、この泉の水を振りかければ蘇るであろう』
 領主は館に戻り妻の身体に泉の水を振りかけると妻は蘇ったのだという。
 

 老人の話が終わるまでその声に静かに耳を傾けていた綾は、溜息とともに囁く。
「……蘇らせたい方がいらっしゃるんですね」
「……連れ合いを……取り戻したいのです」
 男性は頭上を見上げ、緑の隙間に見える遠い空に目を細めた。

 

 その場所には山吹が咲き乱れているのだという。
「ですが、どこにも山吹の花の姿など見えず」
 老人の深い嘆息に、綾は車窓から見えた景色を頭に思い浮かべ、もしかしたら、と呟いた。
「僕がお役に立てるかもしれません」
 周囲を見渡し山門の位置と自分が見た景色とを頭の中ですり合わせ、黄色い花の姿が見えた場所にあたりをつける。
「…よろしいのですか?」
「ええ、僕自身先を急いでいるわけでもありませんし。ご希望を叶えられるかどうかは分からないんですけれど」
「……有難うございます」
 深々と頭を下げ、柔らかな笑みを浮かべるその人の顔を、けれども綾は痛ましげに見つめた。
 


「連れ合い、といっても戸籍上はもう他人なんですけれども」
 お恥かしい話ですが、と後方で語り始めた男性の言葉に耳を澄ませながら、綾は草木を掻き分け歩みを進める。
 けもの道とまではいかないが、道幅は狭く繁茂した植物が行く手を阻む。
「今の時代よく聞く話かと思いますが、わたしも自分の経営していた会社を潰しまして。そうでなくともアレには苦労をかけたというのに、わたしも一人前に荒れまして。とうとう愛想をつかされました」
 それからまた一からやり直して、何とか人並みに暮らせるようになったんです、と男性は言った。
「そうしますとね、不意にアレのことを思い出すんです。どうしているんだろう、とか、元気だろうかとか。そこには以前抱いていた恨み辛みは不思議とないんですな。ただ、もう懐かしいといいますか」
 けれども突然届く訃報。
「わたし自身ももうこの歳ですから、ちょうど具合を悪くして入院をしていたんですけれども。その知らせを聞いてからは、悔いるばかりで。その後は昔の…妻とは学生時代に知り合いまして、その頃のことばかり思い出します。あの頃の彼女は学級委員長でね、優しく、それでいて強い人でした。気の弱いわたしは、よく怒られましたがその何倍も励まされもしました。大丈夫、頑張って、とね。そういえば彼女は、花を育てるのも好きでしたね。花が咲いたといってはよく笑っていた……いい思い出もたくさんあったのに、どうして苦しい時に思い出せなかったのか、思い出していればもっと別の道を歩むことが出来たのではないかと口惜しくてなりません。せめてもう一度、もう一度会って自分の気持ちを伝えられたらと、最後まで……そう最期までそのことばかりが心残りで」
 それっきり黙りこんだ男性を振り返ることも、声をかけることもせず、綾は先を急いだ。
 今は自分の言葉よりも沈黙が彼には必要だろうと判断したためだった。
 花の落ちた野生の椿をすり抜けると、脇に花を付け始めた鈴蘭の姿が見えた。
 鈴蘭の先には雪柳。
 そしてその奥で。
 陽の光に煌く深い黄色の群生が、綾ともう一人を待っていた。


 山吹とその小さな泉は光の中にあった。
 泉を半ば覆うようにして咲く山吹の花を春の陽射しが温かく照らし出している。
 周囲は背の高い木々が囲んでいるものの、泉の上空に光を遮るものは何もない。
 綾は光の中に一歩踏み出し、自分の背後を歩く人を振り返る。
「おそらくこちらかと思います。もう……お気づきになられましたか」
 綾に倣って歩みを進めた老人は射し込む陽射しに眩しそうに目を眇めながら、小さく頷いた。
 その身体は淡く光に透け、輪郭が朧だった。
「わたしもまたこの世のものではなかったのですね……」
 項垂れた老人にかける言葉が浮かばず、綾はやるせない笑みをその面に浮かべる。
 その人は、ふらふらと心もとない足取りで泉の傍らに近づき、その曇りのない水面へと視線を落とした。
「再びお前に会うことは出来ないのか……」
 呟きとともにその頬から流れ出る涙が泉に波紋を作る。
「……きっとあちらで待っていらっしゃいますよ」
「……そうですね。また、遅い、遅刻だと怒られてしまいますね。……怒ってくれると良いのですが」

 その時。
 泉の上を小さな鳥影がよぎる。
 一声。
 ──ほととぎすだった。
 
 綾は水面に浮かぶ八重の山吹の一枝を掬いとり、そっと老人に差し出す。
「ほととぎすは此岸と彼岸を渡る鳥だといいます。魂迎えの鳥、とも。きっとあなたを導いてくれるでしょう。道中の灯り代わりにこちらをどうぞ。奥様にお会いになられましたら、プレゼントするのもいいかもしれませんね」
 花が好きな方だったのでしょう、と笑うと、花を受け取った男性もそうですね、と破顔した。
「お気をつけて、というのはおかしいのかもしれないですけれど、どうぞ、お気をつけて」
「有難うございます。……あなたにお会いできて良かった」
 深々と腰を折る男性に、綾も同様に頭をさげる。
「僕こそ」
 そう言って頭を上げると、そこにはもう誰の姿もなく、柔らかな日溜まりがあるばかりだった。
 綾は空を見上げ呟く。
「どうぞ、次の世ではお幸せに」



 静かに時間が流れる。
 山吹と泉を中心とした景色に、思いを巡らせていた綾は、柔らかな笑みを浮かべ周囲をぐるりと見回した。
「僕を呼んだね?」
 空は見えるが背の高い木々に囲まれたこの場所が、外から、ましてや車中から垣間見えるというのはどう考えても無理だった。現にここから里の景色は全く見えない。そしてこの泉もまた彼岸に属するように思う。
 渡る風に草木がゆれ、綾の声に応えるようにさわさわとざわめく。
「ありがとう。呼んでくれて」


 遠くで不如帰(ほととぎす)が鳴いた。
 
 
 
 END