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<東京怪談ノベル(シングル)>


胎蟲

 何の変哲もない、公団のマンションである。
 そのコンクリートの輪郭が、墓石のように不吉に見えるのは、気の持ちようだろうか。花曇りの灰色の空の下の建物を、冴波は見上げた。メモの住所を確認する。308号室。
 ぬるい風が頬をなでた。
 いつでも風だけは、彼女の味方だ。たとえそれが、裏手のドブ川から吹いてくる、腐ったような風であっても。
 ざわり。
 どこかで、なにかが、よくない予感に身じろぎをするような感覚があった。

「依頼人は33歳、男性。職業、公務員。荒川区在住。ひとつ歳下の、専業主婦の妻とふたり暮らし」
 草間武彦はそう切り出した。
「3ヵ月ほどまえ、奥さんが流産をした。初めてのお子さんだったそうだが」
「気の毒に」
 冴波がすこし表情を曇らせる。
「だが、その後……彼女の奇妙な言動がはじまる。自分は流産なんかしていない。まだお腹に子どもがいる、と」
「…………」
「そして実際に、妊娠の兆候があらわれてきている」
「まさか」
「ところが、さほど珍しいことでもないらしい。医者の診察ではもちろん『想像妊娠』。流産のショックに耐えかねて、そのつらい現実を否定しようとしたのだと。『想像妊娠』で体質が妊娠中と同じになったり、本当に下腹がせりだしてくるのも、よくあることらしい。人間の身体は凄いもんだな」
 草間は肩をすくめた。
「……そう。で、どこからが本質的な問題なの。草間興信所に来た依頼なのでしょ」
「そう言うなよ。……奥さんは心療内科に通ってるが、本人は産婦人科だと信じている状態だ。症状の改善はみられない。そして…………旦那が言うんだな」
 草間はどう表現したものか言いあぐねたように、いったん、言葉を切った。だが、結局、依頼人の言葉をそのまま繰り返すことにしたようだ。
「『たしかに、あれのお腹の中には何かがいるようです』」
 冴波の唇に、うっすらと微笑が浮かんだ。
 目が輝く。この、首のうしろに細い風の通り道ができるような瞬間をもとめて、自分は草間興信所に訪れるのだと、彼女は思った。

 そして次の日曜、彼女はそこへやって来たのである。
 チャイムに応えてあらわれたのは、小柄な、眼鏡をかけた地味な男だった。興信所の名を出すと通してくれた。
 案内されてリビングへ。
「…………」
 平静を装ってはいたつもりだが、一瞬、言葉を失う。
 彼の妻は、ゆったりとソファに身を預けていた。淡い色あいのマタニティ服に包まれた、洋梨を思わせる体型は――3ヵ月どころか、ほとんど臨月といってもいいくらいだったのだ。
 オーディオから流れるクラシックは胎教のつもりか。そして、これ見よがしに置かれたベビーベッド、その上でゆっくりと回っているメリー。色とりどりのベビー服。ふわふわした、ぬいぐるみたち……。
「あら、お客様?」
 小首を傾げて、微笑んだその顔は、32歳と聞いていたが思いのほかあどけない。それは彼女の表情が、純真な少女のようだからだ。この女性は信じている。自分の中に生命が芽吹いていること。そのちいさな命が、やがて生まれてこようとしていることを。そしてそれを迎えるための準備に、こんなにもこまやかに、懸命に、よろこびに充ちて勤しんでいるのだ。
 冴波は、痛ましさに胸を突かれたような気がした。
 彼女の子どもはもういない。二度と生まれてくることのない命を、しかし、迎えるために全霊をもってしつらえられたこの家の、なんと哀しく痛々しいことか。そしてそれを信じて疑わない彼女の微笑みの、それが清らかであればあるほどに募るような、しんと心が冷えるような……それは――、狂気だ。
(狂ってるわ)
 冴波は笑顔をつくり、頭を下げた。
「服が……なかなか合わないっていっていただろ」
 この家の主人が、あらかじめ打ち合わせしてあるとおりの嘘を口にした。
「仕立ててもらったらどうかと思って」
「まあ」
 大輪の薔薇のような笑顔を、彼女は輝かせた。
「うれしい。そうなんですよ。規制ものも、どこか、しっくりこなくって……。ほら、わたし、前に細く出ているでしょう、これ、とがり腹っていうそうですけれど……そうそう、とがり腹だと男の子だっていうけれど、本当かしら。あなた、どう思われます?」
「さあ……どうかしら」
 気押されるような気がして、一瞬、冴波は顔をこわばらせる。
「サイズを測らせていただいてもいいかしら」
「恥ずかしいわ」
 そう言いながらも、彼女は立ち上がって協力してくれた。疑うということを、知らない女のようだった。冴波はメジャーを手に、彼女の前に屈んだ。どう見ても、妊婦でないとは考えられない腹。妊娠でないとすれば、この中にはなにがあるというのか。愛しい胎児以外に、ここに包まれ、育まれているものがあるとすればそれは……小さな命を失った絶望か、その果てに芽生えた狂気なのか。
 そっと、その膨らみに触れてみる。
 どくん。
(……!)
 なまなましい感触に、火傷をしたように手をひく。
(何なの)
 ざわざわざわ――
(何かいる)
 なにかがうごめく。そして、それに呼応するように……彼女の中でもなにかがざわついていた。……これは敵意だ。なにかが冴波を威嚇している。そして冴波自身も……いや、冴波の中でなにかがそれに応えている!
「出てきなさいよ!」
 ぱっと飛び退いて間合いをとると、叱責するように冴波は叫んだ。
「ソコにいるのは……わかってるのよ」
 ふふふふふふ……
 あくまでもやわらかい笑い声。
「そんなに怖い顔をしないで。わたしの赤ちゃんに」
「赤ちゃんなんかじゃないわ。見なさいよ!」
 ばん、と、ひとりでに、ベランダのガラス戸が開いた。そこから風が、猛烈な勢いで吹き込んでくる。ベビー服が巻き上げられ、メリーがはげしく回った。冴波は風の中からひと振りの剣を取り出す。
「あ……、あ! あ! あ! あぁぁあああああああ!」
 ずるり、べしゃ、ずぶずぶずぶずぶ――
 冴波のうしろで、夫が悲鳴をあげるのが聞こえた。妻の中から、それが這い出してくるのを見たのだ。今度は彼のほうが、心に傷を残さねばいいが、と冴波は妙に冷静に思った。
 それは蟲だった。
 粘液と羊水と血にまみれ、赤黒い外骨格をてらてらと光らせた、百足とも蟷螂とも芋虫ともつかぬ、あやしい、無数の足をそなえ、さわさわと繊毛のうねる口を開けたもの。
「わぁぁ……たぁあ、しぃいのぅおおぉ……あ――か、ちゃ――ん」
「もういないのよ」
 冴波は、剣を握りしめた。
「あなたの子どもは、もういないの!」
 飛び出した。斬り付けると、それが耳障りな叫び声をあげた。それは確かに……赤ん坊の声に似ているとわかって、冴波は顔をしかめる。こんな……こんな蟲は、殺してしまわなければ。なにかに突き動かされるように、冴波は何度も何度も斬り付けた。
 それはのたうち、粘液をまきちらしながら、節足をふりあげ、冴波に喰い付こうと鎌首をもたげたが、彼女はどれもを蝶のようにかわした。
 蟲がこごった血のよどみなら、彼女は過ぎゆく風だったのだ。
 ずぶり、と最後の一撃が蟲の頭を貫通すると、ぎょええ、という叫びとともに、蟲の身体はぐずぐずと溶け崩れていった。
 吐き気をもよおす異臭は、しかし、それもまた風がさらっていってくれるだろう。
 どさり、と、だぶだぶのマタニティ服を着込んだ女の身体が床に倒れた。
 あとにはただ、からっぽのベビーベッドが残り、その上で、メリーだけがゆっくりと回っているのだった。


「まだすこし心療内科に通っているそうだが、調子はいいようだ」
 草間が後日、そう教えてくれた。
「また新しく妊娠することもできるようだから……、うまくいくといいよな」
「そうね」
 興信所のソファにもたれながら、冴波は言った。
「草間さんは子どもってほしい?」
「さあな。そういう自分はどうなんだ」
「そうねえ……。子どもはかわいい、とも思うけれど……」
 なんとなく、自分の腹に手をやった。
 絶望と狂気に寄生する蟲を孕んだ女の表情を、冴波は思い出す。かりそめではあったけれども、しかし、あそこには幸福があった。あの瞬間、彼女は聖母だった。
「妊娠する、ってさ、自分の中に別の生き物がいるってことでしょ。なんだかそれってよく考えると、気味が悪いわね」
 冗談まじりに、そんなことを言ってみる。
 ざわり。
 彼女の中で、なにかが動いたような気がした。 

(了)