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『迷う子羊は聖母の微笑みに癒されて、愛を謳う』
「今日も主のご加護がありますように」
心から願う、人々の平和を。
世界が安らぎに満ちて、
歌のように世界が優しかったらどれだけいいだろうか?
また世界はそうなれる?
新聞やテレビ、雑誌などを見れば未だに世界中に戦火の火種はあり、人々は争っている。
思想の違い、
民族間の問題、
過去から続く憎悪、
悲しい事に宗教でさえも戦争へと発展してしまう、人の愚かさ。
世界は未成熟で、そこに住まう人もまた迷っているのだ。
または世界はどうしようもなく行き詰まって、故に人は方向性を失ってしまったのだろうか?
ボクは世界という場所で、人の平和や安らぎ、愛を謳う。
主への祈りに込めて。
それでも世界は無慈悲で、ちっとも優しくなんかなくって、その現実にボク自身はそれを謳う一方で、その事の無意味さや空虚さ、やるせなさに襲われて、時折本当に何もかも投げ出したくなってしまう。
ボクひとりがそれを謳ってどうなろうか?
それは打ち寄せてくる波に向って大砲を撃つようなモノなのではないのか、って。
そう醒めてしまったのは現実がそうあるから。
それを見ないフリして、謳えばいい?
―――それに何の意味があるだろうか?
嘘も方便、確かにそういう言葉もあるけど………。
だったら、それに醒めてしまったから、もうボクは口を閉ざして、それを謳わない?
―――それはきっと楽だろう。だけどそれには何の救いも無い。
それともいつかはそれに慣れて、何も感じなくなる時が来るだろうか?
祈りは世界に響き渡って、溶け込んでいく。
でもそれはどうにも世界の有り様に流されて、茫洋な意味しかなさいような気がしてならない。
エィメン。エィメン。エィメン。エィメン。エィメン。エィメン。主よ、我を救いたまえ………
ああ、心の中でボクは己の信仰に迷い、道を見出せない。
想いはボクの目を目隠しして、何も見えない世界の中。
言葉は聞こえない、欲し続ける神の声。
―――果たしてボクが欲しいのは、主の肯定の声か、否定の声か。
道に迷う幼い子どものようにボクはその場に蹲って、両手で抱え込んだ膝に顔を埋めた。
【いち、にの、さん】
クレアス・ブラフォードの朝はいつもと変わらない。
孤児院に響き渡るのは子どもらの今日も朝から元気な声。
それは笑う声だったり、
喧嘩したりする声だったり、
誰に似たのか減らず口を叩く声だったり。
まるでパッレットを染める絵の具の色のようなその子その子の声。
大合唱。
それに方向性があるのならまだしも、元気が良い、という事以外は方向性にまとまりが無いから、ただ騒々しい。
クレアスはほとほと苦笑する。
でもそれは別に呆れてるとか、げっそりとしているとか、そういうのではなくって、まるで優しい母親がやんちゃ盛りの幼い子どもに向けるような表情で、確かにそこには繋がりがあった。
別に母子の繋がりは血だけがそれを証明するモノではない。
その事を体現するようなクレアスの表情は、だからその光景の優しさを、クレアスや子どもらの繋がりの深さを、証明していた。
まるで泣きたくなる。
―――そんな事を想うのは、どこか真夏に聴く蝉の大合唱のような子どもらの声が響き渡るこの場ではおかしいだろうか?
だけど多くの子どもらに分け隔ての無い優しい表情を浮かべて、愛情深く接するクレアスを見て、彼女、風間月奈はそう想ったのだ、心の奥底から。
ああ、いいな、と想った。
苦しいからこそ、
道に迷うからこそ、
だからそうやって誰にでも優しく接する彼女を見ていると、重い物を感じる胸に何かまるで砂糖菓子が水に溶けるようなそんな感覚を覚えて、救われるような気がした。
月奈に主は答えてはくれない。
でも何故かクレアスならそれに答えてくれるような気がした。
静かな水面に波紋が浮かんだ。
+++
クレアスは自分の子どもや月奈などを見ていて、自分が18歳であった頃はどうであったかをしばしば考える。
その時分は教皇庁ヴァチカンのシスターとして、主の教えに反するモノを狩っていた。
それが彼女の信仰の体現であったのだ。
主の教えに反するモノ、それを狩るのが正義。主の愛は尊い。罪は罪。死ぬ事で初めてそれは神の教えに触れて、癒される、そう想っていた。
だから自分の手を濡らす赤が、誇らしかった。
―――泣きながら何度も血に濡れた手を洗った、初めて人を殺めた夜、それさえも心の奥底に閉じ込めて、見ないフリして。
降りしきる激しい雨、雷が轟く夜中、それが彼女が少女を連続でレイプしていた司教を異端の名の下に粛清した夜だった。
少女らの中にあった信仰を汚し、神の名を汚した司教を粛清するのに、異端審問官である彼女の正義は揺るがなかった。ただクールに神の名の下に。
しかし、とある国で争う人々を分け隔てなく看病していた神父を粛清する時、その時に初めてクレアスの中に疑問が生じた。
クレアスの正義とヴァチカンの正義は一緒だった。
崇高なる主への信仰を汚す者、人に仇を成す異端の者を粛清する事は隣人への愛を謳う主の言葉に反する事は無い。
人が神を欲するのは救いを求めるから。神に救われたい、愛されたい、愛したい神を。
クレアスも愛していた、主を。
主のために異端の者と戦うクレアスに神も共にあると想った。
それが正義だ、正しき信仰だ、とヴァチカンもクレアスに言っていた。
だけどこの神父はどうだろうか?
彼の教会には確かに人々の笑顔があった。
教会の外では憎しみあっている人々がしかし、その中で笑いあっているのだ。
そうだ。本当は誰もが戦いなど望んではいない。誰もが平和に暮したいのだ。
故にクレアスは異端審問官として戦っていた。己がヴァチカンの剣となり、悪と戦い、この世から悪を滅し、教会からも膿を出してしまえば、そうすればヴァチカンは人類のリーダーとして相応しく正統に愛を謳う権利を有し、世界をまとめて、世界を平和にできると想ったから。
だがしかし、この神父がしているのはそれと同じなのではないのか?
教会という場所で神父は平和な人々の居場所を作っている。
誰にでも主は共にある、そう教えていた。
クレアスは迷った。ラルク、そういう仇名を付けられるほどに戦ってきたヴァチカンの剣が。
ヴァチカンはこの神父が許されざるべき者たちにも主の恩寵は与えられる、と説いているのが背信行為だと主張していた。
本当にそうであろうか?
しかしその神父もクレアスと共に派遣されていた派遣執行官によって殺された。
―――多分、その神父の下で笑う人々の顔を知らなかったら、迷わなかった。猜疑心など抱かなかった。
だけどクレアスは見てしまった、人々の笑顔を。
神父の死を哀しむ人々の顔を。
もうそれまでのように心の奥底に自分の本心など閉じ込める事はできなかった。
おそらくはきっと、クレアスは泣きたかったのだと想う。
あの嵐の夜からずっと。
しかし主はそのクレアスに言葉をかけてくれることは無かった。
それはクレアス自身が見つける事だったからだろう。
主はともにある。誰にでも。
ヴァチカンが主張するのは主はヴァチカンと共にあるから、だから主と共にありたいのなら、ヴァチカンと共にあれ、と。
ヴァチカンは許さない、認めない。主はすべての者と共にある事を。
だからあの神父も粛清された。
クレアスよ、神の声を聞きたければ、ヴァチカンの剣となり、ヴァチカンのために戦いなさい。そうすればきっと神は貴女に声を聞かせてくれる。
神はヴァチカンと共にあるのだから。
本当に?
―――私はヴァチカンの剣となり戦ってきた。
だけどそれに対する神の声は聞いた事は無い。
それはきっと心のどこかで私は私の目を、耳を、覆っていたから。
神の愛は等しきもの。決して一つが独占してよいものではないのだ。
私は、だからヴァチカンを離反した。
己の信仰の方法を探し求めて。
+++
「まるで戦争のようですね。シスター・クレアス」
「ええ。毎朝これよ。本当に参いるわ。だけどまあ、元気な事は良い事だけどね」
「確かに」
肩を竦めながら苦笑するクレアスに月奈もくすりと微笑んだ。
そしてクレアスはそんな月奈の顔を覗き込んでにんまりと笑う。
月奈は小首を傾げた。
「どうしましたか?」
「いえね、若い子は色々と大変だな、って想って」
さらに月奈は眉根を寄せる。確かに自分なりに大変な事もあるけど、それを顔に出すような事はしていないと想う。今は確かに。
にこりと笑っているはずだ。クレアスの隣で安らぎを感じて。
それでもその顔から自分が抱いている悩みとかが読み取れるのなら、クレアスはその方向の学問でも修めているのか、それともエスパーなのか。
しばし考えて、だけどやっぱりよくわからなくって、それでそれを考える事を月奈は放棄した。
「手伝います。シスター・クレアス。あの娘も大変そうですし」
クレアスは月奈が見ている方を見て、苦笑する。
「お願い。小さいお母さんも自分の事もしないといけないし、それに兄の癖に弟のように世話のかかる子の面倒もみないといけないからね」
月奈は小首を傾げて、
その月奈におませさんグループの女の子が耳を貸して、と手を振るので身をかがめると、こっそりと内緒話で教えてくれた。高校生二人のラブラブぶり、当の本人たちだけがまったく気付いていない事を。
月奈は苦笑した。
クレアスは自分を見る月奈にウインクして、
「まあ、そういう事なのよ。見ててこっちがこう切なくなると言うか、くすぐったくなってしょうがないわ」と言い、「ああ、でもそこら辺は3時のおやつを食べながらゆっくりとおしゃべりするとして、この状況をどうにかしましょう。まずは学校に行く子たちを行かせないと」
「はい」
くすくすと笑いながら頷く月奈にクレアスも頷いて、そして五月蝿い子どもらを一片に黙らせて、操作できる魔法の言葉を耳打ちする。
「じゃあ、いいかしら?」
「はい。いち、にの、さんで」
「ええ」
いち、
にの、
さん。
「「こらぁー。早く学校に行く準備をして、朝ごはん食べて、学校に行かないと、おやつのプリンをあげないぞぉー」」
ぴたりと止んだ子どもらの声。
それからクレアスと月奈の叫び声の余韻が残る部屋に今度は忙しない子どもらの足音が響き渡る。
早く学校の準備をして、朝ごはん食べて、学校に行かないと、おやつのプリンが無くなっちゃうから。
取り残されたクレアスと月奈、高校生の女の子は、毎朝こんな感じなんですよ、と毎度お決まりの状況に苦笑し合うのだった。
【ゴキ騒動】
高校生コンビ(カップル)のやり取りは確かに見ていて面白かった。こう、初々しいというか、なんというか。
胸が切なさに痛くなるようなその感じに月奈は優しく微笑んで、学校に登校して行く二人を見送った。
「さてと、じゃあ、次は洗濯かな。手伝ってくれる、シスター・月奈」
「はい」
二人で服の袖を捲くりながら洗濯をしに行こうとすると、女の子が泣きながら走ってきた。
またぞろ何か問題が起こっただろうか?
クレアスはしゃがみこんで、両手を開いて、その子を迎えた。
泣いているその子はクレアスの胸に抱きついて、ぼろぼろと涙を流しながらしゃくり声で切羽詰った状況を口にする。
「どうした、ん?」
「あのね、シスター。出たの、あいつが」
あいつ、それだけでは月奈には何が出たのかわからなかった。
しかしクレアスの方はそれで何が出たのかわかったようだ。
そして月奈は小首を傾げて、訝しげに眉根を寄せる。
「シスター・クレアス?」
月奈の声がどうしても不思議そうなモノになるのは何故かあのシスター・クレアスの表情が苦々しげなモノになっているからだ。
一体、あいつとは何なのだろうか? あのシスター・クレアスにこんな表情をさせるなんて。
「不味いわ。うん、すごく不味い。困ったわね、あの子が居ないこんな時に」
「あの子?」
そう問う月奈にクレアスは高校生の男の子の名前を口にする。
「うちであいつを退治できるのは唯一あの子だけなのよ」
なんとなくその会話で月奈にもあいつ、が何であるかがわかってきた。
「よもやあいつとは、黒光りして、偉そうに触覚なんかを生やしているあいつですか?」
「ええ、そうよ、シスター・月奈。名前を口にするのも嫌なあいつよ。Gよ」
「はい」
月奈もきゅぅっと唇を噛み締めた。エクソシストの真似事なんかもやっている彼女であるが、やはり女の子。どうしてもあいつ……ゴキブリだけはダメだ。
「シスター・クレアスでもダメなんですか?」
「ええ、どうにも苦手よ」
クレアスは肩を竦めながら溜息を吐く。
女の子はしくしくと泣いている。そしてきゅっとクレアスの尼僧服のスカートを掴んでいた。その手をクレアスは握り締めて、優しく微笑みかける。
「皆は部屋?」
「うん。皆で泣いてる。怖くってお部屋を動けないの」
「そうか。じゃあ、私が退治してくるから、待ってて」
「わたしも行く」
首を横に振って、頑なに言う女の子にクレアスは微笑んだ。
月奈は小首を傾げる。
「シスター・クレアスも苦手なのでは?」
「そうよ。でも頼れる男の子が居ないんじゃ、ここは私が踏ん張らないと。ほら、言うでしょう? 母は強し、って」
ウインクするクレアス。
それから彼女は殺虫剤と新聞紙を丸めて作った棒を手にすると、子どもらの泣き声が聞こえる部屋へと踏み込んでいった。
子どもらは部屋に入ってきたクレアスへと駆け寄ってきて、抱きついてわぁ−わぁーと泣き声を上げた。
月奈はどこからゴキブリが飛んでくるかわからないこの危険な状況で、だけど場違いにもその光景に和んでしまった。
(シスター・クレアスは本当に子どもに好かれているのね)
月奈は想う。
―――果たしてシスター・クレアスならボクの問いにどう答えてくれるだろうか?
人に自分の悩みを打ち明けるのは難しいモノだ。だけどクレアスにならごく自然とそれを打ち明けるのも簡単なように思えた。
だけど今は、か弱き子どもらを泣かすあいつを神の名の下に滅する方が先であろうか?
「シスター・クレアス。殺虫剤はボクが請け負います」
「ええ、ではシスター・月奈。任せます」
クレアスと月奈はそれぞれ役割分断すると、子どもらを部屋から出して、背中に子どもらを背負って、部屋を見回した。
あいつはいない。
いないならいないで全然構わない、って言うか、寧ろ、出てくるな。
「シスター・クレアス。あいつはいないようですね」
「ええ、そのようね、シスター・月奈。居ないモノは退治できないわよね」
どこか二人とも自分自身を納得させようとするかのようにそう言いあって、そして体にこめていた緊張を解こうとした。
だがしかしその瞬間、奴が何処からともなくあの二本の触覚を偉そうに揺らしながら飛んでくる。
子どもらの悲鳴が上がり、
シスター二人は共に戦慄した。
「汝の罪は永遠に。されど我は汝のために祈らん。エィメン」
素早く神への祈りを捧げて月奈は殺虫剤を飛んでいるゴキブリめがけて噴射した。
しかしゴキブリはそれで天に召される事は無く、それどころから狂ったように飛び回り始める。
子どもらは完全に恐慌してしまう。
「天は自らを助ける者を助ける。エィメン」
クレアスは新聞紙をまるめた棒でまるでバッターがボールを打つような感じでゴキブリを叩きつけた。
そしてそのままゴキブリは窓にぶち当たって、昇天したようだった。
………合掌。
+++
男の子はいつもこうだ。
ガキと言うか何と言うか。
それが男の子の性?
好きな女の子を男の子は絶対にいじめる。
かまって欲しい。多分そう。逆効果なのがわからないのが、子ども。
だからその男の子はクレアスがゴキブリの死骸を片付けたほうきを手に持って、女の子を追いかける。
「ゴキブリの死骸を片付けたほうきだぞー。汚いぞー」
「きゃぁー、こっちに来ないでー」
「おら、おら、おらー」
「うわぁーん」
そしてゴキブリを片付けたほうきが女の子の顔にぴたりとくっついた。
「おわぁ、汚ねー」
「エーンガチョ、エンガッチョ。10年バーリア」
男の子は意地悪を口にして、女の子はゴキブリを片付けたほうきを顔にくっつけられて、もうどうすればいいのかわからない。
ぼろぼろと涙が流れて、それで大声で泣き出した。
月奈は溜息を吐いて、泣いている女の子を抱きしめて、どうやって男の子をたしなめるか考えるが、
でもクレアスの方は何も考えていないかのように実にあっさりと男の子の頭をげんこつで叩いた。
そしてにんまりと笑って、男の子のほっぺたを両手で抓って、
「こら、好きな女の子にかまってもらいたいからって、いじめすぎると、嫌われちゃうぞー。ってか、もう嫌われてるね。嫌われちゃったね。嫌いだよね?」
クレアスはとても楽しそうに男の子にそう囁いて、それで女の子にそう問う。
女の子は力をこめて言った。
「大嫌い!」
そしたら今度は男の子が大声で泣いて、
月奈はちょっと慌ててしまう。子どもにそんな態度をとってもいいのだろうか?
でもクレアスは快活に笑いながらハンカチで男の子の頬を拭いてやり、それから言うのだ。
「だから男の子は好きな女の子に優しくしなくっちゃいけないんだよ。わかった?」
「うん」
「じゃあ、仲直り。いい? ごめんなさいして」
クレアスは男の子にそう言い、男の子は女の子に言う。
「ごめん」
月奈の腕の中で女の子は月奈を見上げ、月奈は頷き、そしてクレアスも頷いた。だから女の子は泣いていた顔に笑みを浮かべた。
「うん、いいよ」
なんとなくその光景に月奈はくすりと笑ってしまった。
かわいらしいというか、手がかかるというか。自分にもこんな時があっただろうか? 実に自分の感情に素直に泣いて怒って、笑う時が。
大人になるというのは感情のコントロールが上手くなるのではなくって、感情を素直に表すのが難しく、そして下手になり、色んな制約を受けるようになるのかもしれない。
「子どもは子どもなりに悩んで苦労してるんだろうけど、それでも本当に子どもは羨ましいよね」
「はい」
クレアスと月奈は仲良く遊ぶ二人を見ながら微笑んだ。
【答え】
お昼寝をするための部屋には月奈の優しく澄んだ透明な声が流れていた。
子どもたちは月奈の子守唄に耳を傾けながら、その歌声に包まれて、いつしか心地良い眠りへと誘われていく。
クレアスは小さく微笑むと、その部屋を後にした。子どもらは彼女に任せておけば大丈夫。
自分はもうひとりの助けを求める子羊の下へ。
「こんにちは」
孤児院の前に佇んでいた彼女にそう声をかける。
彼女はだけどそれに答えることは無く、クレアスを見続けている。
「こちらへ、シスター」
そしてクレアスもそれに対して何も言わずに彼女を薔薇園へと連れて行った。
咲き誇る薔薇たちの中で二人は向かい合う。
クレアスはただ優しく微笑みながら、彼女が何か言い出すのを待っていた。
「主はヴァチカンと共にあるのです。ヴァチカンを裏切ったあなたに主の恩寵は与えられない。なのにあなたはそうやって笑っていられる? それは何故です? 主の恩寵が欲しくないのですか? 私は欲しい。主だけが私の心の支えだから。主と共にあるために私は。ありたいから。なのにあなたは何故?」
血を吐き出すように彼女は言う。
クレアスはまるで母親を独り占めしたいからという理由で駄々をこねているような彼女にしかし呆れなかった。
彼女の胸元で静かに輝くロザリオを自分の掌に乗せて、それに柔らかな目を落としながらひとつひとつ、自分の言葉を確認するように言う。
「神の愛は等しきもの。決して一つが独占してよいものではないのだ。私もそれを長い事わからなかった。主はヴァチカンと共にある。だからヴァチカンと共にある事で主と共にいられて、そしてヴァチカンに反するモノは主に反するモノであると想っていた」
そこでクレアスは自嘲するような表情を浮かべた。
「だけどそれは違った。神の愛は等しき物なのだ。ヴァチカンは自分たち以外のモノと主が共にあるのを認めない。それは違うと想った。だから私はヴァチカンを離反した。私は私で主と共に信仰を広めていくために。多くの迷う人を助けるために。それが私の道だから。私自身も今もまだ道を探している」
クレアスは彼女のロザリオから手を離し、微笑みかけた。優しい教師が辛抱強く出来の悪い教え子にがんばれ、と微笑むように。
「あなたにとっての神の愛とはなんですか? あなたの道は。もしもそれが見つかったのなら、私に教えておくれ」
そしてクレアスは薔薇園に彼女を残し、そこを立ち去った。
+++
月奈はクレアスを出迎えた。部屋の窓から見ていたのだ。クレアスと見慣れぬシスターが薔薇園へと行くのを。
何となくそのシスターに月奈は自分と同じようなモノを感じた。
だからかもしれない、それを無意識に口にしていたのは。
「あれは誰なのですか?」
そう口にして、それで慌てて自分の口を片手で覆う。
「あ、すみません」
人のプライベートに口を出すべきではない。
「いや、いいよ。あの娘は昔の知人。尋ねてきてくれたのよ。私は別に道に迷ったのならその道を人に聞いてもいいと思っている。時には人の言葉を聞く事で、人の有り様を見る事で、気付けなかった事にも気付けるから。わからないから、迷う。そしてわからない事はわからないと言わないとわからないんだよね。人に聞くのは手っ取り早い。自分で見つけるのも大事だけど、訊いていい。本当に大切なのは見つけてから、だと想うのよ、私は」
月奈は小さく口を開けた。そしてクレアスは、ん、と微笑んで部屋を指差した。
「さてと、もうそろそろ子どもたちが目を覚ます頃だから行こうか」
「はい」
部屋に戻ると、もう子どもたちは目を覚まして、布団を片付けたり、遊んでいたり思い思いの時間を過ごしていて、そしてクレアスはその子たちに優しく微笑んで、接した。母親のように。
それの手伝いをしながら月奈はずっと訊いてみたい事を訊いてみた。
「何故この子たちを引き取ったのですか?」
それを訊く事で彼女の道が見えると想った。そこに自分が何を見るのかはわからないけど、でも何かが見えるような気がして、それでその見た物で自分の見たい何かもわかると思った。
これにクレアスは笑いながら、ただ一言。
「家族だから」
そう言ったクレアスは聖母のように見えた。大切なモノが彼女にはわかっているのだろう。そこに彼女は自分の信仰とか主の恩寵とかそういうモノを見ているのかもしれない。
だったら自分も何か大切なモノを見つければ、何かが変わるのだろうか? 迷う道を切り開けるのであろうか?
月奈はそれを想い、そして瞼を閉じた。そこには変わらぬ闇があるのだが、しかしその闇にも一条の光が差し込んできたように思えてきた。
迷いは、完全には消えた訳ではないけど、でも歩ける。
月奈はひとり小さく微笑み、
クレアスはそんな彼女を見つめながら頷いた。
【ラスト】
月奈はクレアスに見送られながら孤児院を後にした。
帰りに擦れ違う高校生二人。擦れ違い様に男の子の方にそっと囁いて。
「がんばれ、男の子」
囁かれた男の子の方は怪訝そうに月奈を振り返り、月奈はその視線に気付きながらも歩は止めず帰っていく。口許に手をやってくすりと笑いながら。
そしてそれを見るクレアスも肩を竦めてくすっと笑う。
「本当にがんばれ、若者たちよ。未来を切り開き、そこで笑う事が君たちの仕事なんだから」
クレアスは呟き、そして三人の若者たち、あのシスター、他の子らのために神への祈りを唱え、十字を切った。
― fin ―
++ライターより++
こんにちは、クレアス・ブラフォードさま。
いつもありがとうございます。
こんにちは、風間・月奈さま。
はじめまして。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
ご依頼、ありがとうございました。^^
今回はシスター二人の日常の姿という事でこのように書かせていただきました。^^
孤児院での日常の光景をお二人で書かせていただくのもすごく楽しかったですが、迷う月奈さんを導くクレアスさん、その中で何かを見つけた月奈さんを書けたのが凄く面白かったですし、嬉しかったです。^^
クレアスさま。
月奈さん、シスターに優しく接する雰囲気、ラストの語りかけるシーン、祈りを捧げるシーンがお気に入りです。優しく子どもを見守るお母さん、そういう感じを今回も感じていただけてましたら幸いです。^^ あとゴキ騒動も楽しかったですね。好きな女の子に意地悪する男の子に接するクレアスさんの姿は自然にイメージできました。^^
月奈さま。
今回はクレアスさんのサポートという事で、孤児院の忙しさや子どもたちの元気さ、高校生たちの初々しい関係、そういうのに触れて色んな事を想ったり、がんばる月奈さんを書くのが楽しかったです。^^ 上にも書きましたが、やはり何かを見つけた彼女を描けたのが嬉しかったです。こういう少年少女が何かを見つけるお話はすごく好きなのです。^^
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、本当にありがとうございました。
失礼します。
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