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<東京怪談ノベル(シングル)>


風の前奏

 夜だというのに奇妙に明るい気がするのは、雪が積もったせいだろう。
 静かな夜だった。
 もっとも、このあたりは普段から静かなところではある。まして、雪が、音を吸収しているのだ。まるで全世界が眠りについているようだった。
 そして、暗い。
 珍しく、東京の街を雪が覆った夜、月は新月であった。
 その静寂を、しかし、ひとつの足音が乱す。
 さくさくと、雪を踏む音が、その建物に近付いてきた。
 そっと門を開け、玄関へ。門柱の看板を見れば、そこが孤児院であると知れる。
「…………」
 冷えた夜の空気に溶ける、弾んだ息遣い。
 ほっそりした人影は、おそらく女性だ。その顔をスカーフが覆っていた。そして彼女の腕の中には――
 バスケットの中に、布にくるまれ、寝息をたてるちいさな命。
「……これしか――」
 女が呟いた。
「これしかないの」
 それは、自分に言い聞かせるための物言いであったのか、それとも、その赤ん坊に赦しを乞うていたのか。今となっては、知るすべはない。
 玄関の、ひさしの下には、雪が積もっていなかった。その床の上に、バスケットがそっと降ろされた。赤ん坊が目を覚ます気配はない。
 ふわり――、と、スカーフがその上にかけられた。
 それが、赤ん坊に暖をとらせるためだけでないことは、すぐにわかった。一瞬で、バスケットとうすい布地とが、床の色に溶けていったからである。保護色だ。
 しばし、女性は去りがたい様子でそこにたたずんでいたが、やがて意を決したように動き出す。
 彼女がまずとった行動は、玄関前の雪をいったん乱し、それから、手で均していくことだった。自分の足跡を消すためである。むきだしの手は冷たかろうに、黙々とその仕事を終えると、門柱の陰から通りをうかがい、誰もいないことを確かめてから、足早に立ち去ってゆく。
 最後に一度だけ……彼女は振り返った。
 美しいが青ざめたおもてが、街灯の光を浴びる。
 だがそれもすぐに、彼女が取り出した新しいスカーフに隠される。その背中が闇の向こうに消えていった。

 それから――
 どのくらいの時間が経ったのだろうか。
 く、く、く……と、押し殺した含み笑い。
 さく、と雪を踏んでゆく人影があった。
 その男――男なのだろう、声からすれば――があらわれるにつれ、闇はいっそう濃く、空気はより冷え込んでいったように思えたのは気のせいだろうか。
「逃げても変わンないのになァ」
 言葉には、したたるような邪悪がにじんでいた。
 人影が孤児院の前を過ぎる。
 男の前に、そこを通った女が残した痕跡に、気がつく様子はなかった。
 もし男の姿を見たものがいたなら、その両手に、まっさきに目をひかれただろう。
 それは血の赤だ。
 積もった雪の白さと対照をなすように、男の両手は真っ赤に染まっている。そして奇妙なことには、両の手首から先をのぞいては、男はどこにも血を浴びてはいないのだ。
 新月の闇色。
 雪の道のまぼろしのような白。
 そして鮮血の赤。
 それはどこか、狂った画家の描いた、悪夢のタブローに似ていた。

「よく晴れたわね」
 空を見上げて、保母は思わずそう呟いた。
 早朝の空気は、きん、と冷えていたが、太陽が澄んだ冬空に照っているので、むしろさわやかなのである。
 新聞受けへと、雪を踏んでいく。
 毎朝配達されるそれを、受け出して、そこでまず広げてみるのが、彼女の習慣だった。雨でない限りは、そこでざっと主だった見出しを拾う。持って入ってから読めばいいのに、と、孤児院の他の職員たちは彼女の妙な癖を笑ったが、朝のすがすがしい空気の中で、インクの匂いを感じると、今日も一日が始まった、という気がするのだった。
「あらあら」
 だがその朝、彼女が見たのは、殺人事件の物騒な見出しだ。
 惨殺死体が発見されたというニュースを報じた記事を読めば、住所はこの近所だった。
 眉をひそめる。
「物騒になったものね、東京も」
 あとでもっと詳しく読もうと思いながら、新聞をたたみ、玄関へ戻った。戸締まりにもっと気をつけたほうがいいだろう。ここには、幼い子どもたちだっているのだから――。
「……」
 足先になにかがふれたのを感じて、視線を落した保母の動作がとまった。
 バスケットだ。そして、その中に眠っている赤ん坊。
「…………ま、まあ……!」
 ここに置き去りにされていたのだ。
 しかしなぜ、最初にドアを開けたとき、気がつかなかったのか。
 あわてて、赤ん坊を抱き上げる。生きてはいるが、身体は冷えている。そのせいかあまり元気はないように思える。
「なんてこと……」
 捨て子なのか。ここが孤児院と知って置いていった母親がいたのだ。保母は、いいしれぬ哀しみのような、憤りのようなものを感じた。
 ふと、バスケットにひっかかったスカーフに目が止まる。
「…………」
 彼女は、赤ん坊をバスケットに戻すと、おずおずとスカーフを手に取った。
 そしてそれを、そっとバスケットに掛けてみたのである――

  † † †

 なにかを切り裂くような音が、夜を駆け抜ける。
 インラインスケートが、アスファルトの上を走っているのだ。車道だったが、この時刻に通る車はいない。
 頬を、夜風が撫でてゆく。その感触に、彼――岑魁(シン・カイ)はそっと微笑む。

「うぇぇぇええええん、おにいちゃぁああああん」
 泣きじゃくる少女が指すほうを見れば、年長の男の子たちが、彼女のくまのぬいぐるみを取り上げたらしい、とわかる。
「こーら、駄目だろ」
 魁が注意しようとしても、わんぱく盛り、いたずら盛りの少年たちはアカンベェを残して駆け去ってゆく。
「うわああああああああん、くまちゃんがああああああ」
「ほら、泣かない。お兄ちゃんが助けてきてやるから。な?」
 少女の涙を、その指でそっとぬぐった。
 しゃくりあげながらも、なんとか落ち着いた少女を置いて廊下に出れば、また別の男の子たちがどたどたと走って過ぎてゆく。
「廊下、走るなよー」
 その背中に声をかける。
「ああ、魁。そこにいたの?」
 保母が食堂から顔を出した。
「厨房の蛍光灯が切れちゃったのよ。わたしじゃ背が届かないから、あなた、替えてくれないかしら」
「あ、いいですよ。やっときます」
 魁は答えた。
 彼女は古参の保母だ。魁が赤ん坊のときから知っている。だから、彼が十八にもなる今はすっかり老人と言っていい年齢なのだが、それでもまだ、この孤児院で働いている。むろん、職員は他にもいるが、最年長組に入る魁はなにかにつけ彼女たちの仕事を手伝う。
 泣いていた女の子のぬいぐるみを取り返してやったあと、魁は納戸で替えの蛍光灯を探す。
 それは雑多な物の奥に、壁にたてかけられてあった。取り出そうとして、細長い箱の先が上のほうのつくり棚に触れ、乗っていた物を落してしまった。
 埃が舞った。舌打ちしながら、それをなおそうとして――
「……?」
 見なれない箱だった。
 なにげなく中を覗き込んで……、魁は、そこに一枚のスカーフがたたまれているのを見る。
「――っ」
 ぐらり、と目眩のようなものを感じたように思ったのは錯覚か。

 後足で、勢いよく、地面を蹴る。
 弧を描く軌道で、魁の身体が宙に浮いた。
 かろやかに着地し、ふたたび、滑るように道を往く。
 学校や孤児院では見せることのない表情が、魁の横顔を彩る。

「……これ、誰かのですか?」
「え」
 保母が、ぎくりとした表情を浮かべた。
「納戸にあったから……。仕舞い込むようなものでもないと思いますけど」
「これは……。これはいいのよ」
 彼女はさっと、魁の手からそれを奪い取る。
「…………」

 夜中にそっと、孤児院を抜け出す。
 このことは誰も知らない。
 そして、魁は夜の街へと走り出してゆくのだ。
 まるで、なにかを追うように。なにかを振り切るように。……しかし、いったいそれはだろう――?
 答はどこにもない。あるいはそれが新月の空に宙ぶらりんになっているとでもいうように、彼は翔る。
 魁の黒い服は、新月の闇によく似合った。
 人っこ独りいない、アーケードの中を風のように駆け抜けてゆく。

 あの雪の降った新月の夜から、十八年の歳月が流れた。
 孤児院の保母はすっかり老け込み、彼女がその胸にだけおさめてきた秘密は、小箱に入ったスカーフとともに、まだ誰にも明かされないまま。
 十八歳になった魁もまた、まだおのれの運命をなにも知ることなく、ただ何かに突き動かされるようにして、東京の夜を翔ているのだった。

(了)