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<東京怪談ノベル(シングル)>


sake drunk under the cherry blossoms

 春と言えば花見と囀るのは日本人という民族の特性か、春の一時に咲いて散る華やかなれど儚い様を愛でる事を何よりも尊び、桜の季節に訪れる低気圧を称して花曇り、気圧の高低に流れ込む冷気すら花冷えと名付けて風雅を求める程に、この国の民は桜を愛しむ。
 併し乍ら花の下、溢れんばかり花の生気を受ける為の古来のシャーマニズムに繋がる美しい風習は形骸化し、今や単なる宴会の口実だ。
 花期の盛りは通常業務よりも宴席を設える事が最優先事項に据えられ、花の名所とされ且つ飲食を許される公園の敷地内などは、花下を求めての熾烈な場所取り合戦が勃発する……藤巻諫矢が座する場、その周辺の人々は今年の戦いの勝者であり、彼が所属する部署が中でも最も良い場所を取れたのは、この春配属されたばかりの新人の功績である。
 朝……というよりも昨日の深夜から、前の花見客が引けると同時に場を押さえ、宴の始まりまで身体を張って守り抜いた陣だ。
 因みに営業課では毎年新人がこの責任を担う。
 勿論、諫矢も通った道であるのだが、彼の場合は気合いの入ったガン付け一つでモーゼの如く人が割れ、花付きの良い一樹を丸々確保したはいいが、人が遠巻きで寂しかったと、後に感想を賜った。
 そんな常人に実行不能な伝説は別として、今年の新人はいい仕事をしたのだろう。
 淡い花色を照らし出す不粋なライトの周囲に人が集まるのは、照明と同時に暖を求めての事に違いない、と確保された領域の中でも奇妙に人口密度が違う様を眺めながら、諫矢は閑散と、とは言っても限られた場所に程度の問題であるが人が過密化していない区域で手にした紙コップで溜息を隠した。
 見上げれば花の天……心浮き立つ春の光景も今の諫矢に取っては胸の内に秘めた憂いの一助にしかならず、また零れかける溜息を一息に飲み干すビールで誤魔化す。
「お、藤巻君いい飲みっぷり!」
役職者を覗いて営業課での在籍年数が最も高い……俗にお局様と呼ばれる影の実力者が、感歎の声を上げるのに軽く紙コップを掲げた。
「でも仏頂面ねぇ〜、雨に泣かされずに済んだんだからもうちょっと楽しそうにしなさいよ!」
からからと笑って諫矢の肩を叩く……中年女性特有の遠慮の無さに磨きが掛かっているのは、職場と違う雰囲気とアルコールの為か。
 本当に雨が降らなくて良かったと、彼女の声にそこここから同意の声が上がる。
 全く関連も関係もない周囲の花見客までもが、花見を雨に邪魔されずに済んだ安堵を笑顔で語り合う場に奇妙な連帯感が生まれていた。
 喧噪もまた花見の醍醐味、この時ばかりのお隣さんと親交を深めるのもまたよしと……思いはすれど、諫矢はやはり内に秘めた憂鬱ばかりが重い。
――雨が降りゃあ良かった。
吐き出せぬ本心は溜息に代わり、花も酒も料理も楽しめぬままながらも、諫矢は己の不満で宴席を台無しにはすまいと気を遣って、ビールを勧められるまま空けるを機械的に繰り返している。
 本来ならこの週末、諫矢は彼女と同じ時間を過ごしていた筈なのだ。
 営業職という業務上、優先すべき仕事に負けて私的な時間にまで食い込む事が多い諫矢である……仕事の暇な時期を狙い、2週間も前から綿密にスケジュール調整を重ねて来たにも関わらず、桜の開花までは融通を効かせる事は出来なかった。
 桜前線の北上をじりじりと待ちかまえていた部長の鶴の一声で急遽、日付の宣旨が為されたのは三日前の事である。
 花見の宴全員出席が暗黙の了解、其処を彼女と先約があるなどと断れば、ひやかしの的とされるは必至……職場の人間関係と男の面子、楽しみにしていた逢瀬をそんな物と引替えにしなければならないとは、真、此の世は生き難い。
 ビール程度で酔うような諫矢ではないが、杯を重ね続ければそれなりの酒量に血中のアルコール濃度も上がろうものだ。
 時節のままに咲き時到れば散るばかりの桜にまで、不満を訴えるとりとめのない思考は花を見る目を嘆きに据わらせる。
 ……本人は周囲に気を遣っているつもりだが、親の仇を見るようにしてただ酒を呑むばかりの姿は傍目にかなり浮いていた。けれど、仏頂面・無愛想・ぶっきらぼうを三種の神器と掲げる諫矢に慣れた周囲は幸いなるかな悲しいかな、その心中と機嫌に気付く由もない。
 それを知るは満開の桜ばかりか。
 諫矢が睨み上げる枝から一片、落ちた花弁が風と空気に踊りながらはらりと、まるで慰めるかのように諫矢の紙コップの中へと舞い落ちた。
「あら、風流ねぇ」
気付いた女性社員が、まさしく花の杯とはしゃいで上げた声に、諫矢は不思議と彼女の静かな声音を重ねた。
 彼女も見れば喜んだろうか。名に花の一字を持つ彼女は殊更季節の花の風雅を好むが、諫矢にとってすれば彼女こそが最も愛でたき花である。
 風に雨に、凍えぬよう傷つかぬよう、護りたいと願うは気持ちばかりで、実際には仕事に追われて逢う時間すら取れず、予定を潰してしまう事もしばしば……彼女の優しさに甘える形で、我慢と辛抱ばかりを強いてしまっている己が不甲斐ない。
「……悪い」
とうとう口を吐いて出た諫矢の本心からの呟きに、応じるかのようにその頬をぽつりと一滴の雫が濡らした。
 その一滴を皮切りにぽつぽつと、粒の大きな水滴が振り注ぐのに狼狽の声が上がる。
「おわッ、雨?!」
「ヤバい! 撤収!」
あたふたとまだ呑み切れていない酒や、地面に直に腰を下ろしても冷えぬ工夫でビニールシートの上に重ねた毛布を抱える周囲を余所に、諫矢の口の端は安堵に自然と緩んだ。
 花見の宴をお開きとするには早すぎる時刻だけれど、今から彼女を呼び出せば食事ぐらいは出来る。
「あぁ、もう雨で花が散るだろー!」
先程まで諫矢が花を見ていたと同じ心持ちであろう同僚が更なる高み、今は暗く低く、ただ雨粒を落とすのみの天に向かって嘆きを吐く。
「いや、笑うさ」
そう断言した諫矢、返答があると思っていなかった人物からの台詞に、同僚が虚を突かれた顔をした。実際、花が満ちたばかりの桜は多少の雨風で即座に散るという事はない。
 諫矢は天が与えてくれた僥倖と、桜の気遣いへの感謝と……そして心の内で花、開くように笑う彼女の笑顔とに紙コップを掲げ、花弁ごと残ったビールを飲み干した。