|
白猿公の廟門
「どうしてそう武彦さんは……っ!」
一旦上げかけた声のトーンを抑え、シュライン・エマは大きく息を吐いた。
携帯電話の向こうの草間武彦が必死に謝っている姿が目に浮かぶ。
物事はもっと計画性を持って進めても良いんじゃないかしら。
「悪い! 今度必ず埋め合わせするから、な?
とにかく今はお前しか頼めそうな奴がいないんだ!」
草間の話は、結城探偵事務所で調査に協力して欲しいという事。
元々は草間に来た依頼だったらしい。
ある華僑が密かに祀ってきた神、白猿公が最近実体化したという噂が流れ、時同じく行方不明者がその廟堂の近くで相次いでいるという。
同業ともいえる結城所長は慎重な人物らしく、一人協力者を入れる条件で引き受けたようだ。
実際結城に会った事はないが、草間が事務所で出される珈琲を絶賛していたのをシュラインは覚えている。
「結構厄介な事件なの?」
「ん、まあ、そこそこな」
危険な内容とは裏腹に、そんな時頼りにしてくれる草間をシュラインは嬉しく思った。
が、同時にある種複雑な気分にもなる。
少しは心配してくれてるのかしら、ね。
「わかりました。直接結城さんの所にうかがえばいいの?」
「助かるよ。今から連絡先言うから、メモして――」
草間の明るい声を聞いただけで、全てを許してしまいそうになる自分に苦笑しながら、シュラインは通話を切った。
大きく天井まで取られた窓に掛けられたレースのカーテンや、木製の手すりが優美な曲線を描く階段。
明治に建てられた洋風建築の事務所がシュラインを迎えていた。
草間から連絡をもらったあくる日の午前。
結城探偵事務所の六角に張り出した応接スペースで、シュラインは結城と顔を合わせている。
結城の足元には雪狼が行儀良く座っている。
結城さんが飼ってらっしゃるの? それにしても珍しい生き物ね。
結城は穏やかな表情の壮年の男で、眼鏡の奥の瞳は優しくこちらに向けられている。
名刺を差し出しながら、結城は改まった口調で切り出した。
「草間君にはお世話になっています。
結城探偵事務所所長、結城恭一郎です。それから、こちらは調査員の和鳥鷹群」
「宜しくお願いします。危険な事は俺と所長でやるから安心して下さい」
珈琲をシュラインの前に置いた青年が礼儀正しく頭を下げる。
やや幼い顔立ちの中で、左目の下の泣き黒子が印象に残った。
シュラインは珈琲に口を付け、その香りに草間が入れ込む理由を理解する。
確かにこの珈琲なら毎日飲みたくなるわね。
「草間君から事件のあらましは聞いているかい?」
「大まかにですが」
結城の質問に頷くと、和鳥が閉じられたレポートをシュラインに手渡してくれた。
「これ、草間さんがくれた資料です」
人々の想いを糧に、怪異は人の前に姿を現す。
ぱらぱらとめくった内容から、シュラインは行方不明者に共通項がないか考えていた。
白猿公は永きに渡って華僑一族の信仰を集めてきた。
そんな存在が何故人々を攫うのだろう。
「依頼人の名前は明かせないけれど、廟堂に入る前に会ってくれるそうだ。
とても責任を感じられていてね……」
結城が苦い表情を見せたのは決して珈琲の味のせいばかりではないようだ。
「白猿公を説得できないかしら。
言葉が通じる相手なら……少しでも知性があるなら、無益な戦闘は避けたいの」
「戦わずにすむなら俺もそうするのが良いと思う。
どうしてもやむを得ないなら、咆哮鞭を使うけどね」
これも咆哮鞭で実体化させたものなんだよ、と結城は雪狼の身体を撫でた。
「鷹群が使うのは剣精で……見てもらうのが早いか」
和鳥が壁にかけていた日本刀を手に取り、刀身を鞘から引き出した。
抜刀――銀色の輝きが年若い女の姿を取る。
「……お初にお目にかかります。我が名は剣精が一騎、紅覇(くれは)。
古の約定により、鷹群様の刃となりて全てを屠る者。以後お見知りおきを」
和鳥の肩の上に実体化した人工精霊は、清楚な長い黒髪をなびかせて微笑んだ。
淡い黄色のワンピースは春の花、フリージアのように柔らかく裾を広げ、白い裸足の向こうはうっすらと透けている。
「刀に人工精霊を載せているんだ」
結城の言葉ににこやかに紅覇は微笑むと、和鳥の肩に寄り添う。
「お前、やけにあらたまってるな。普段そんな言葉遣いじゃないだろ」
肩越しに渋い顔で和鳥は紅覇を睨んだ。
「本来名乗りは抜刀ごとに行うんです。
最近の使い手様方は面倒がる方が多過ぎますよ」
「あー、もう、紅覇は小言が多過ぎるんだよ!」
耳を押さえた和鳥が刀を一閃させ鞘に納めると、紅覇の姿も消えてしまった。
和鳥の左手の中でカタカタと刀――剣精・紅覇が震えている。
「それじゃ、戦闘はお二人にお任せしますね」
私は私にやれる事を精一杯やるだけ。
シュラインと結城、和鳥は白猿公を祀る森の入り口に立っている。
「何なの、この呪言……」
呪言が書き付けられた幾つもの杭が、森の中に突き立てられている。
自分の背よりも高い杭を見上げ、黒々と筆を走らせた呪言を見たシュラインは不穏な空気を感じずにいられなかった。
シュラインたちの他にもう一人の人物がいる。今回の事件の依頼者だった。
「私たちに伝わる緊縛の法です。
白猿公はこれで森の外へは出られなくなったはずです。
これ以上私たちの神が、無関係な人間を巻き込むなんて……嫌なんです」
依頼者はまだ少女の面影が残る若い女で、華僑に連なる者らしいが顔立ちからは全く大陸の血を感じさせない。
大陸を離れて久しいのだろう。
遠い異国の地で、たった一つの神を心の拠り所に支えあって暮らしてきた一族。
そうシュラインは思った。
「白猿公のルーツはいつ頃まで遡るのかしら?」
「殷時代と聞いています。青銅製の獣面を私たちは祖先神としてお祀りしてきました」
異形の神はその荒々しさで一族を守ってきたのね。
「場合によっては白猿公そのものを消してしまうけれど……それでも構わないね?」
結城の言葉は質問というよりも確認の意味合いが強い。
「お願いします。
白猿公はずっと私たちを見守ってくれた神様だから、止めてあげて欲しいんです。
神様にこんな事言うの、おかしいですか?」
静かに笑った依頼人に和鳥が真面目な表情で答えた。
「おかしくないよ。そうやって大切に想われてきた神だから、きっと姿を得たんだろう」
それならば尚更、白猿公を止めなくてはね。
依頼者だけをその場に残し、シュラインたちは森へと足を踏み入れていった。
鬱蒼とした森の中には呪言を書かれた杭が連なるだけで、行方知れずになった人々の手がかりになるような物は無かった。
そう広くない森のはずだが、重く立ち込める雰囲気に三人の言葉も少なくなっていた。
「ありましたよ、所長」
先を歩いていた和鳥が引き返してきた。
足の悪い結城と女性であるシュラインを気遣って、和鳥は道を確かめてきたのだ。
森の奥、広く開けた草原の中心に廟堂はあった。
決して大きな建物ではなく、元は朱塗りの華やかな柱も幾たびの風雨にさらされて色がくすんでいた。が、そこが人々の信仰を集めた場所なのは間違いなかった。
屋根の下には青銅製の異形の怪物がずらりと並んで、シュラインたちを見下ろしている。
むき出しの牙や長く伸びた爪は誇張されているが、根底になる生き物は猿の姿だった。
「シュラインさん……絶対に無理はしないで下さいね」
咆哮鞭を振るい実体化させた雪狼に囲まれた結城が、緊張した面持ちでシュラインに告げる。
「これでも己をわきまえているつもりだけど」
「いえ、貴女を信用していないという話ではなく」
結城はふと遠くを見るような仕草をした。ここではないどこかを……過去を?
「誰かの犠牲で得られるものは、少ないという事ですよ」
結城は以前かけがえのないものを失くしたのだろうか。
束の間、シュラインは結城の過去に想いをはせた。
「そうそう、シュラインさん怪我させちゃ草間さんに怒られますしね」
結城の言葉を継ぐように和鳥も付け加えた。
そして紅覇が和鳥へにこやかに言葉の刃を突き付ける。
「鷹群様が女性お一人も守れないようでは、私も次の使い手を見つけなければ」
「お前キツイよ〜」
廟堂の軋む扉を開けて奥に進むと、窓から入り込む光が細やかな模様を床に散らせていた。
香の匂いがかすかに漂い、闇との対比で床の光が強く感じられる。
「白猿公が祀られてるのは上か? 祭壇がどこかにあるはずだ」
吹き抜けになった広間から、階段を三人は上って行った。
途中いくつもの小部屋の扉を開けたが、一向に人影らしき物は見当たらなかった。
誰もいないなんて、そんなはずは……。
シュラインの視界の横をきらりと光が掠めた。
壁に掛けられた鏡の奥、この部屋にいないはずの人々が映っている。
「ここに!?」
壁に駆け寄ろうとしたシュラインの横を、白く巨大な獣の腕が伸びて鏡をなぎ払う。
砕け散った鏡の欠片が、床にまた幾つもの世界を映し出した。
「どうして人を攫うの? 人々を守るはずのあなたでしょう?」
シュラインは落ち着いた声で白猿公に話しかける。
地方によってやや異なるが、古代殷時代の言語でシュラインは思い切って話しかけた。
「オオ、懐カシキハソノ言ノ葉ノ響キ……ソナタハ我ガ血ヲ分ケタ裔ノ者カ?
否、ソナタカラハ懐カシイ大陸ノ砂ノ匂イヲ感ジラレヌ」
腰を落とした低い姿勢の白い猿が、くぐもった言葉を発しながらシュラインを見つめていた。
黒い肌の中、金色の瞳が闇に浮かぶ月を思わせる。
暗闇に浮かぶ、狂気を誘う二つの月。
「何時カラカ我ハ、人々ガ祈ル姿ヲ見テキタ。
我ハチカラ無ク、タダ見テイルダケデアッタ……」
空を切って白猿公の爪がシュラインの頬を掠め、幾筋かの黒髪を床に落とした。
「シュラインさん!」
続く第二撃を和鳥の剣精が受け止め、その力を流すように刃を横に払った。
シュラインをかばうため、結城の冷気をまとった雪狼たちが白猿公の前に立ち塞がる。
「シカシ我ハ気付イタ……。
人ノ意識ヲ集メレバ、仮初メトハ言エ身体ヲ得ラレルノダト」
キリ、とシュラインは唇を噛む。
「勝手な事を言わないで。
大切な者のためなら、他人はどうなっても良いというの?」
白猿公が唸り声を上げシュラインに襲い掛かろうとした刹那。
結城の咆哮鞭が白猿公の腕を捕らえ、九体もの雪狼が腕や足に喰らい付く。
「貴方が想う人々は、誰かの犠牲を望んでいないわ。
そろそろ人の想いの器に戻る時ではなくて?」
シュラインの言葉に一瞬白猿公の抵抗が止まる。
「……コノ身カラ我自身デ狭間へ還ル事ナド、叶ワヌ……」
想いの深さ故に、哀しみも何て大きいの。
「……和鳥さん、白猿公を解放してあげて……!」
シュラインが叫んだその一瞬を逃さず、和鳥が紅覇の刃を上段に構えた。
剣精の刃の軌跡が真紅の残像を引き、白猿公の胸に刻まれる。
急速に光を失いつつある瞳をシュラインたちに向け――いや、大陸にいた時分から見守ってきた一族に向けて白猿公は言った。
「愛シキ者ヨサラバ……。
束ノ間ノ邂逅ヲ胸ニ……我ハ再ビ、人ノ祈リノ器トシテ眠ラン……」
砂が崩れるように白猿公の姿が消えた後には、青銅製の神面が二つに割れて落ちていた。
それを拾い上げた結城がようやく笑顔を見せた。
「ご神体だね。白猿公の魂は大陸へと戻って行ったのかな」
広間の方から人々の声が聞こえてきた。
きっと白猿公の作り出した空間が消えて、囚われていた人々が解放されたのだろう。
「シュライン様にお怪我が無くて何よりです。
私もまだしばらく次の使い手を捜さずに済みました」
笑顔を絶やさずそう言う紅覇に、がくりと和鳥は肩を落とした。
喜びも哀しみも、人の想いは時に神すら形作る程強くこの世界に満ちている。
私の想いもまた、何かや誰かを動かすきっかけになっていくのかしら、ね。
そんな思いを胸に、シュラインは重苦しさの消えた廟堂を後にした。
(終)
■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
■ライター通信
シュライン・エマ様
ご依頼ありがとうございます!
納品が遅れてしまって大変申し訳ありません……!
今回、白猿公を説得する事にポイントを置いて書きました。
少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。
|
|
|