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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


御令嬢誘拐事件
 見上げる天井に充満したは濃い闇は、底無しの井戸を覗き込んでいるような錯覚を誘う。
 正確な時間こそ推し量る事は出来ないが、恐らくは深夜。岸壁を打つ波音と薄らと感じる潮の香は、海の近さを裏付ける。
「では、そのようにお願いします」
 本来の役割を終えた携帯電話を、通話状態のまま放り投げた女──綾和泉汐耶は、ひと息ついてから長い足を器用に組み替えた。
 その動きに、もごもごと過敏に反応してみせる者が居る。文字通り汐耶の尻に敷かれている田中裕介であった。何故かメイド姿で四肢を拘束され、粘着テープで口を塞がれており、さらに汐耶がその上に腰掛けているため身動ぎすら困難な状況である。
 せめて口元のテープだけでも、と訴えかける祐介の視線に対しあからさまに気付かない振りをしながら、汐耶はこれまでの経緯を整理するため自らの思考に没していった。

 ◆ ◆ ◆

 小汚い一室に一組の男女。
「とまあ、そんな感じだ」
 紫煙に埋もれた男が放り投げるように書類を差し出す。この業界で知らぬ者は居ないであろう、怪奇探偵こと草間武彦である。
 一方、対峙するは知的な雰囲気の女性。その長身ゆえ一見すると男性と見紛うが、仕種の端々には優美な女性の香りを感じ取る事ができる。名を、綾和泉汐耶という。
「確かにお受けました。さっそく現場に向かいたいのだけど、よろしいかしら」
 依頼内容の再確認なのか、草間の説明をあてにしていないのか、透明感のある細指で渡された書類をめくりながら草間を見ずに問う。後者の方だと解釈した草間は、お好きに、と短く答えるだけだった。
 それを聞いた汐耶は、社交辞令を形にしたような笑顔を残し、草間興信所を後にした。
 興信所のある建物から出た汐耶は、携帯電話を取り出してメモリーを漁り始める。二、三回キーを叩いて目的の番号を呼び出し、短めにカットした髪を電話器で梳くように耳にあてがった。
「おはよう、仕事が入ったわ。ついでに先日の約束を果たして貰うわね」
 そう用件だけ告げ、通話スイッチを切る。回線の向こうに喚き声が聞こえたが、汐耶には少しも気に留める様子は無く、その口元には微かに笑みが浮かんでいた。

 ◆ ◆ ◆

 数ヶ月前から、いわゆる山の手のお嬢様の連続失踪事件が多発しており、警察が誘拐事件と断定して捜査を行っていた。だが思うような成果が得られず、徒に時間を浪費していた。
 そんな警察の努力を嘲笑うかのように失踪事件は続き、何度目かの事件で政府高官の娘が失踪したらが、ひと月ほど前の話であった。
「では、その政府高官の御令嬢を救出すればよろしいのですね」
 無駄の無いしなやかな動きでカップに紅茶を注ぎながら、書冊に視線を落す汐耶の横顔に問うメイド。
 しかし返答が無いことを承知しているのか、足首まで隠れるロングスカートを揺らすことなく別室へと下がる。
 汐耶は読書の邪魔をされる事を極端に嫌う。だがそのメイドに対しては怒りを覚えることはなく、むしろ洗練された身のこなしに感嘆のため息を漏らしていた。
 女の視点から見ても良く出来た女性だと思える。問題なのは、そのメイドが田中祐介という至極まともな男性であるということであった。
 過去、二人は様々な事件で肩を並べてきたが、結果的に汐耶が不利益を被る事が大半を占めていた。祐介もそれは自覚していたらしく「なんでも言う事を聞く」という念書にサインしたのだった。
 その結果、祐介は汐耶の侍女役として囮捜査に参加しているのである。
 クライアントが用意した洋館で過したこの数日のうちに、祐介はすっかり貞淑な乙女の香りを醸し出す、理想的な女性へと変貌していた。
「お嬢様。先程この地区の自治会の方が招待状をお持ちになられました。内容ですか? ……どうやら、お嬢様の転居を祝ってパーティーを開催したいとのお申し出のようです」
 祐介にお嬢様と呼ばれる事に、違和感を覚えなくなった自分に苦笑する汐耶。微かに破顔する主人の意図が掴めず、首をかしげる祐介。
 その仕草がまた女性らしくて何とも言えない気分になるが、何でもないからと断りを入れて、汐耶は草間の資料を取り出した。
 草間武彦が洗い出した事件の参考人リストを開く。紙面にぎっしりと敷き詰められた個人情報を、リスト上部から順に指でなぞる。
 その指が、赤色でマーキングしてあるうちの一人で止まった。備考欄には自治会長と明記されている。
「わかりました。喜んで御相伴に与らせていただきましょう」
 祐介は深々と頭を垂れ、電話のある部屋へと向かっていった。
 その後姿を見て、やはり感嘆のため息が漏れそうになる汐耶であった。

 ◆ ◆ ◆

「あ、あの、お嬢様。私などがお邪魔してよろしいのでしょうか」
 ホームパーティーとはいえ上流階級の集まりである。参加者の着飾るドレスはみな煌びやかで、それ故に濃紺のメイド服は際立っていた。
「綾和泉に仕える者ならば、どのような場所であっても堂々していなさい」
 一般に、パーティー会場内部まで使用人を引き連れる人間は居ない。他の参加者もそれを承知しているのか、皆祐介を蔑んだ目で見ている。
 それを肌で察知した祐介は、精神的に疲弊し始めていた。だからこそ、汐耶は皆に聞こえるように祐介の正当性を謳ったのだ。
 黒一色のイブニングドレスを纏った汐耶は、会場内でも飛びぬけた存在感を示していた。それに相まって、威風堂々たるその言動に一部から拍手が巻き起こった。
 その称賛の中心から顔を出した中年紳士が、新たな仲間を歓迎して乾杯をしようと提案する。会場は拍手と歓声でそれを後押しする。
 提案者の中年紳士が、耶にカクテルグラスを手渡す。御付の方もどうぞ、と祐介にまでドリンクを渡している。
 柔らかな作り笑顔でグラスを受けながら、紳士の顔をしっかりと見据える。草間の資料にあった顔写真と合致する。この会の主催者であり、目下、誘拐グループ頭目の最有力候補である。
 ちらりと祐介に目配せすると、同じように目で返答してくる。
 新しい友人に乾杯、という掛け声の語尾部分を、会場の参加者が復唱する。それぞれが手にしたグラスを一気に傾けた後、拍手の輪が一斉に広がっていった。
 異変は、汐耶たちの正面から始まった。
 まず女性が一人、その場に崩れ落ちる。何事かと全員の視線がそちらに集まると、死角となった場所でまた一人倒れる。そこからはあっと言う間の出来事であった。
 次々に昏倒して行く参加者たち。ものの数分で、パーティー会場は静寂に包まれてしまった

 汐耶と祐介も例外なく床に倒れこんでいたが、意識はしっかりとしていた。お互い、差し出された飲料には口を付けていなかったのである。
 間を置かず主催者である男が指示を出しはじめた。それに応えたパーティーのスタッフ達が、倒れた参加者たちを次々に拘束していった。汐耶たち二人もされるがままに手足を縛られ、粘着テープで目と口を封じられる。
 一通り作業が終わったのか、次いで自動車のエンジン音が近づいてくるのが分かった。それはやがて汐耶の間近までやってきて停車し、バタンバタンと開扉の音をたてる。
 犯行グループは縛り上げた人々を小型のコンテナ車へと積み込み、どこかへ移送する算段なのである。
 一人、また一人と積み込まれる意識の無い被害者。作業は滞りなく進行しているようで、とうとう汐耶が積み込まれる番が来た。
 二人がかりで担ぎ上げられる汐耶。賊は手馴れているのか、扱いが丁寧で感心してしまう。この状況下で危機感の欠片もない汐耶は、賊の言葉に耳を傾ける余裕すらあった。
「でもいい女だよな。相当な高値が付くんじゃないか?」
 言っている事は不穏極まりないが、女として高評価なのは悪い気分ではなかった。だがそれも、すぐに不遜の色で塗り潰されてしまった。
「こっちのメイドの方が全然いい女だろう。これは最高値更新も期待できるぞ」
 賊の頭目が言うメイドはどう考えても祐介のことであるが、女としての矜持を傷付けられたとかそういうものは全く無く、むしろ同意したくなる自分に少し呆れる汐耶であった。

 ◆ ◆ ◆

 目的地に到達したのかコンテナ車は停車し、賊は被害者たちを降ろし始めた。もちろん汐耶と祐介も同様に、冷たく硬いコンクリートと思しき床へ横たえられる。
 作業の傍ら、頭目が部下を一人呼び寄せて定時連絡について指示を出す。汐耶の耳は、それをしっかりと捉えていた。
 一通り作業が終了したのか、見張りを一人残して車は去っていった。エンジン音が完全に聞こえなくなると、辺りは重苦しい沈黙に覆われた。
 しばらく汐耶は見張りの隙を窺っていたが、張り詰めた気配は少しも緩む事が無かった。
 意識不明で身体の自由を奪われた女達を前にしても、一切の油断のないプロの仕事。このまま受身の対応では埒が明かないと判断した汐耶は、コツコツと爪先で地を叩いた。その微かな音にも反応した見張りが、様子を確認しようと一歩踏み出した瞬間。汐耶の合図に応えた祐介の全身が、激しく蠢動して見張りを驚愕させる。
 一瞬とはいえ隙が生まれる。汐耶の待ち望んだ瞬間であった。
 目の前の奇行よりも、背後に感じる人の気配に危機感を覚えた見張りの男は、やはりそれ相応の実力者であった。だが振り返ること叶わず、意識を断たれて崩れ落ちてしまう。戒めより逃れた汐耶の渾身の一撃が炸裂したのであった。
 足元では、相変わらず暗闇の中に居る祐介が奇妙な動きを続けていた。

 ◆ ◆ ◆

「やっぱり、他に人の気配はありませんね」
 暗がりの奥から祐介の声が響いてくる。闇に目が慣れたとはいえその姿を確認することは難しく、この場所がそれだけの広さを持っていることの証でもあった。
 予想はできていたが、やはり誘拐された被害者たちはこの倉庫を経由して、別の場所へ移送されている模様である。
 クライアントが求めるアウトプットは唯一つ。娘の救出である。だが、それが困難な場合に限り特例が設けられていた。それが『被害者救出に繋がる犯行グループの確保』である。
 つまるところ、犯人一味を一網打尽にしてしまえという事なのだ。
 敵の殲滅だけならば祐介と汐耶の二人で事足りたであろうが、事件解決を念頭に置くとなると警察という組織を活用しなければ勝機は無いに等しい。すでに草間経由で警察の手配は終えている。携帯電話を通話状態で放置しているので、それを頼りにこの場所を割り出してくれるだろう。
 もうあとは、主賓の御帰還を待つばかりである。
「しかし、何といいますか、変な匂いですね」
 当面の敵が現れるまではやる事がない祐介が、真っ暗な倉庫を散策しながらそんな感想を漏らした。
「この匂いは養鶏飼料よ。ここは保管倉庫として使われてるみたいね」
 改めて辺りを見回してみると、粉末状のエサが詰まった大量の紙製の袋が土嚢のように積み上げられている。賊が銃器を所持していたとしても、見を隠す場所は存分に確保できそうだ、と。小走りに駆け回るメイドの姿を目で追いながら、汐耶は戦闘プランを幾つも練り上げていた。

 ◆ ◆ ◆

「当たった後の事はどうなってもいい。とにかくあのメイドを黙らせろ!」
 山積みの飼料袋を盾にして倉庫内を飛び回る祐介。光源がヘッドライトだけという状況下では、メイド祐介を捉えるのは無理であろう。
 時折、飼料の山に一斉放火が浴びせられる。その最中に、賊の背後で彼らの無能振りを嘲笑する。祐介は濃紺のスカートをはためかせながら、まさに神出鬼没の動きで敵の混乱を誘っていた。
 賊の帰還は汐耶の予想を少し上回っていた。スマートに事が運ぶと考えていたが、敵頭目は到着早々二人に向かって発砲してきた。
 一味はそれなりの武装をしているらしく、リーダーの行動に付き従うように、威嚇にしては多すぎる鉛弾を吐き出してくれた。
 多少の足止めを覚悟した汐耶だったが、祐介が敵の目を引く役目を請け負ってくれたおかげで、簡単に仕事のしやすい場所へ移動する事が出来た。
 目の前に高くそびえる飼料の山。愛しむように手を添え、集中力を高めるために目を閉じる。響く銃声と祐介の笑い声は、BGMとしては悪くなかった。
 古来より、本は最も身近な封印であり、読書は最も簡潔な解封であると言われる。末期中毒とも揶揄されるほど本にのめり込んだ汐耶は、『封』を知覚し『解』に転ずる能力を有するに至った。
 最も身近な闇に身を委ねる汐耶は、数多の『封』を感じとって目を見開く。その両の眼には強い光が満ちていた。
「封印解除(unsheal)!」
 短くてキレのある発声に銃声は一瞬の驚きを見せ、祐介は賊との距離を大きく開けた。
 その後は一瞬の出来事であった。汐耶の能力により閉じた世界から解放された鶏のエサは、これまでの抑圧に対する不満の全てを誘拐犯達に叩き付けたのだ。
 もうもうと立ち込める養鶏飼料独特の匂いの中、犯人達は混乱の極みにあった。ハンカチで口元を覆いながらも、その様を満足げに眺める汐耶は、祐介に向かって力強く頷いた。
「さあ、行きますよ!」
 逃げ回るばかりで鬱積したものがあったのか、締めの合図に歓喜で応えつつ敵の一味に向かって駆ける祐介。物理法則を無視して隠していたのか、その手にはトランクが一つ握られていた。
 ひと息で賊に駆け寄った祐介は、不思議トランクから純白のシーツを取り出して混乱の最中にある男達を覆ってしまう。この時ばかりは、神速という言葉が祐介の為にあると思えてくる。
 たっぷり三拍待ってから、それっとシーツを引き上げる。そこに現れたのは、祐介と同じメイド服に包まれ賊一味であった。
 ひとつだけ違っていたのは、その両手足が革製のバンドで縛り上げられている事。汐耶と祐介、二人合わせての完全勝利である。
 互いに笑みを交わして健闘を称え合う。足元ではメイド服の悪者達が、皆一様に咳き込み涙や鼻水を垂れ流していた。
 そこへタイミングよくパトカーのサイレンが聞こえてくる。汐耶は祐介に賊の監視を言い渡し、自身は倉庫の扉を開けて警察を出迎え行く。すでに倉庫前には数台のパトカーが詰めていた。
 汐耶の姿を確認したのかスーツ姿の刑事が駆け寄ってきたので、面倒な説明はせず一言だけ告げた。
「誘拐犯たちは、全員メイドの格好をして倉庫内に居ます」
 倉庫に突入する警察官の流れに逆らい、一人帰路に着く汐耶であった。

 ◆ ◆ ◆

 事件の翌日。
「放っておいて大丈夫なのか?」
 相変わらず紫煙に抱かれた草間武彦が、苦味を含んだ笑みを浮かべて汐耶に問う。
「あのこは私より高値が付く美女ですから。警察なんて色香で丸ごと虜にしてそのうち帰ってくるでしょう」
 草間はまた黙殺されると思っていたのか、予想外の返答に一瞬だけ驚きの色を見せる。だが、その内容を吟味し終えると、今度は疑問符で埋もれてしまう。
 その様を横目に見ながら、汐耶は手にした新聞を応接テーブルに放る。
 一面の見出しには「人身売買グループ壊滅、被害者女性は全員保護」と書かれており、彩りとして添えられた写真は警察署内へと連行される犯人達の姿を捉えたもの。その中に、一人だけ大暴れしている犯人が写っている。
 メイド服の良く似合う、田中祐介である。
 汐耶の口元には微かな笑みが浮かんでいた。