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水馬の宿
羽音が聞こえる。
眼下に広がる霞のような桜の木々と光る水面を、うっとりとした表情で見下ろしながら、彼はぼんやりと思った。
身が軽い。まるで、己の体が空気でできているような気さえする。ぶぅうんという耳障りな羽音さえなければ、もっと心地よいだろうに。
そう思いながら、彼は右方向に重心を移した。途端に、くるりと視線が切り替わる。水の蒼から、晴天の青へ。薄紅から、白雲に。
春爛漫。
そんな言葉が、彼の脳裏を過ぎっていった。春色の衣を纏った山野を高く越えて、彼は花の香を胸いっぱいに吸い込み、ほわっと溜息をつく。これが夢なら覚めないでほしい……そう思いながら、彼は桜の花の間に降りていった。
「厄介なことになったものだ。」
地界の城都、遥城が中央に位置する万花園の奥の一室で、城皇神は苦虫を噛み潰したような顔で溜息をついた。
事の起こりは、一時間ほど前、遥城南門付近を見回っていた武官が、1人の青年を連れてきたことによる。青年の名前は、谷崎洋人。写真家の卵であるらしい。問題は。
「遥城を訪れる霊魂は、その天命を既に終えた者である筈。だが、彼の命数はまだ残っているのだ。」
「……手違い、ということか?」
窓辺に寄り、水面に揺らぐ瑠璃燈の青い灯火を見ていた匂史人が、優美な動作で振り返った。静かな色を湛える金の目が、真直ぐに城皇神を射抜く。その視線から目を反らすように、僅かに顔を動かして、城皇神は腕を組み直すと唸るように言った。
「何が起こっているのか、全く分からん。手違いなら、元の体に戻せば済む話なのだがな。」
「戻せないと?」
「戻すべき体がないのだ。下の者に調べさせた所によれば、彼の体は東京のとある病院を自力で抜け出し、行方不明らしい。」
「自力で?……魂のない体が動く訳がないな。これは、何かに憑かれたか?」
「或るいは、何かに持っていかれたか、だ。」
あまり有難くない結論に達し、2人の地府の官僚は、互いに渋面を見合わせて息を吐いた。重い空気が、花の香漂う室内に満ちていく。その空気を破るように、ゆっくりと城皇神は言葉を紡いだ。
「命数の尽きていない者を鬼籍に登録する訳にはいかぬ。湘月を借りるぞ。」
「それは構わぬが……あれには、些か荷が重いのではあるまいか?」
「そうだな。では、遥城に奇縁ある者に、助力を願うこととしよう。」
2つの溜息が、仄かに灯された灯火を揺らす。花の園の奥深く、どこかで小さな羽音が聞こえたような気がした。
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(本文)
春に惑いて 男 地界に落ち
急に瀕して 水馬 人身を得る
■1
微かに鴬の囀りが聞こえる。
空の色は紅から黄、そして薄紫へと変わり、東の空から西の空へ、見事なグラデーションを描いていく。夕暮れ、黄昏、そして、そろそろと、街の上から薄い紗の布を被せるように、夜の帳が降り始める。そんな中、何処かで鴬が鳴いているのだ。その声は、何処から聞こえて来るのだろう。ビルの谷間に小さく見え隠れする桜の中か。それとも、ビルの屋上に作られた人工の緑の中からなのか。
春の香気を乗せた風に誘われて、ふらりと外へくりだした帯刀・左京(たてわき・さきょう)は、そんな事を考えながら、夕暮れの街を気の向くままに歩いていく。夕刻の風の中に溶け込んだ甘い花の香りに、ふと、今年の桜はどうなっているのだろうか、という思いが頭を過った。居候している家の窓から、僅かに近所の公園に咲く桜が見えるのだがが、それは建物の影に隠れ、なんだか小さく萎縮してしまっているようで風情に欠けるのだ。
昔、東京が江戸と呼ばれていた頃は、花見客の中に紛れ込んで、夜桜見物と洒落込んだものだが……。
朧月。頭上を埋める白雲のような桜花。踊るような足取りで行き交う人々。遥かに遠い、記憶の中に埋もれてしまっていたそれが、ちらりと左京の脳裏に蘇る。途端に、胸の奥がざわめいたのは……春の陽気のせいなのか、それとも。
「桜、ねぇ……。そういや、今年は河川敷の桜並木が満開だって話だったな。」
ふと、昨日の夜に流れたニュースを思い出して、左京の足は河の方へと向けられた。河川敷の桜並木までは少し距離があるが、偶には夕暮れの風に吹かれて歩くのも悪くはない。
カラリコロリと、彼の履く下駄が一足毎に軽やかな音を立てる。夕暮れの風は、心地よいと感じる程度の湿り気を帯びており、左京の頬を冷やしながら後ろへと流れていった。
時刻は、17時を回っている。普段ならば、夕飯の買い物をする主婦や会社帰りの人で賑わっている道なのだが、今日は不思議なほどに人影がない。その事に気付いた左京は、ふと内心、首を傾げたが、余り気にする事もなく、無人の交差点に足を踏み入れた。
その途端、世界が揺れた。
一瞬のうちに、くにゅり……と視界が歪む。まるで、ピンボケした写真のように左京の周りの風景がぼやけて崩れ落ちる。ほんの瞬きするほどの間の空白。そして、周囲が元の色を取り戻した時、彼は見知らぬ場所に立っていた。
目の前に広がるのは、黄昏の街だ。だが、それは左京の知る東京ではない。
道の両脇に、屋根の先が反り返った屋根の酒楼が軒を連ねている。それぞれの店の脇には、一本づつ、思い思いの木が植えられており、枝に吊るされた明りの灯されていない灯篭が風に揺れている。ざわめき、人の行き交う音、話し声、嬌声。香の匂いに混じって、何処かで料理を作っているのか、実に良い匂いが通りの方まで漂ってきている。紫紺に染まりつつある東の空に、淡く光る月と高い塔のようなものが見えた。
左京の目の前に一瞬にして現れたのは、酷く古めかしい街だった。異国の街だ。長い間、日本のあらゆる場所を巡って来た左京にも馴染みのない、大陸の匂いを感じさせる場所。あえて、雰囲気の近い場所をあげるとするのなら、中華街になるのだろう。最も、こちらの街の方が古風である事に間違いないが。
「ここは、何処だ…?」
何時の間にか、アスファルトの道路から石畳の道へと変わってしまったその場所で、左京は周囲を見まわしながら、ポツリと呟いた。
「遥城だよ、刀の旦那。この街は初めてかい?」
呟く左京の脇から声がかかる。顔を横に向けると、見るからに堅そうな、虎髭を生やした男が人懐っこい笑顔で立っていた。片手に酒の入っているらしい瓢箪をぶら下げている。その身体からは、酒の匂いに混じって、微かに獣のような匂いがしていたが、左京は僅かに眉を寄せただけで口には出さなかった。
「遥城?……聞いた事がないな。」
「地界の城郭、地府への関。鬼籍に入っちまった連中の街だ。普段、向こうに居なさる方は、知らなくても無理はないがね。」
「向こう?地界?……分る言葉で話してくれ。」
「一言で言えば、ここは、あの世ってヤツよ。で、だ。旦那の居なさる世界が、現世ってヤツさ。」
些か剣呑な響の混じった左京の言葉に怯えることもなく、男は豪快に笑いながら、ぐいっと瓢箪を傾けた。途端に鼻をつく濃い酒の匂い。
「ま、ゆっくりしていきな、旦那。俺達にとっちゃ、ここは居心地のいい街だからよ。」
かかっと愉快そうに笑って左京の肩を叩くと、男は虎の尾を引きながら、千鳥足で去っていく。その姿は、すぐに雑踏の中に紛れて見えなくなった。
「あの世ってのが、本当にあるとはな。」
消えていく男の背中を見送った後、左京はゆっくりと歩き始めた。その脇を幾人もの住民らしき者が追いこしていく。初め、左京は彼らの足元に影がないことを不思議に思ったが、この街の人間は誰1人として、その事を気にする様子もなく、ここではこれが当たり前なのだと理解したのだった。
石畳の道は、西から東へと真っ直ぐに続いている酒楼の並んだ通りの外れにある小さな橋を渡ろうとした左京は、己の片袖が、くいっと引かれたのに気が付いて足を止めた。一体、今度は何事かと思いながら、袖を引いた人物がいると思われる方を振り返る。その途端、袖を掴んだままの童女と目があった。艶やかな髪を頭の上で結い上げ、華美ではないが品の良い着物を纏っている。長裙は、薄い紅色で桜の花を思わせた。その童女は、小さな手で左京の袖を掴んだまま、頭を下げ、そして口を開いた。
「帯刀左京様ですね?城皇様がお招きです。ご同行願えますか?」
「誰が、呼んでいるって?」
童女の言葉に、左京の眉が僅かに寄せられる。
「城皇様です。それと、匂史人様。」
「……どっちも知り合いじゃねぇな。」
暗に行きたくないという思いを込めて、ぼそりと言った言葉にも、童女は全く動じることはなかった。
「詳しいことは存じませんが、帯刀様に、ご用があるのだそうです。」
「用事、ねぇ……。」
「一緒に来ていただけますか?」
自分を恐れることもなく、首を傾げて見上げる童女。昔の自分なら、どうしていただろうか…と、ふと、そんな思いが頭を過ったが、左京は溜息と共に首を縦に振っていた。
「まぁ、いいだろ。どうせ、暇だしな。招待に応じてやるさ。それで、何処に行けばいいんだ?」
「私が、ご案内いたします。」
左京の言葉を聞いた途端、童女は花が咲いたように笑った。そして、ぱっと身を翻すと左京の先に立って、跳ねるような足取りで人波の中を擦りぬけていく。左京は童女の小さな背中を見失わぬようにと、慌てて後を追いかけた。童女の足は早い。だが、大人と子供では、歩幅の大きさが違う。その為、童女に追いついた左京は、その姿を見失わぬ程度の速度で歩きながら、街の様子を見物することができた。
道筋に大道芸人達が並び、それぞれの得意技を披露しては、見物人を湧かせている。その見物人の間では、果物売りが声を張り上げ、細工物を扱う店に掛けられている灯篭に付けられた見事な細工の飾りが、シャラリと涼しげな音を立てている。ふと覗いた脇道の向こうには、もう1本、それなりの広さを持った通りがあり、何枚もの色とりどりの布を並べた店が軒を連ねているのが見えた。
そういうものを眺めているうちに、何時しか歩いていた通りの左手に緑を囲む低い白壁が現れた。白壁の中央付近、右手の大通りとぶつかる辺りに円形の門があるのが分る。童女は、迷うことなく、その門を潜っていく。後に続く左京は、ふと門の上を見上げた。そこに文字が書いてあったからだ。『園花万』、と、それは読めた。それは、この門の先にある庭の名前だったが、左京は少し足を止めただけで童女の後に続いた。
門を潜ると、甘い香りが左京の鼻をくすぐった。ここ、そこ、至る所に咲いている様々な花が咲いている。その甘い芳香が、夜気の中に溶け出しているのだ。門にあった『万花園』とは、この事であったのかと頷いて、彼は足を進めた。
庭園の中にかかる幾つもの橋を渡り、小亭を横切り、長廊を歩く。街の喧騒が嘘のように、その庭園の中は静まり返っていた。時折、小亭の中や木陰に座っている人影があったような気がしたが、確かめるよりも早く、巡らされた壁や竹林などで視界が遮られてしまう。やがて、左京が案内されたのは、万花園の中でも奥の方にあると思しき、水亭だった。睡蓮の花が浮かぶ池の上に、張り出すように造られているそこは、池に向かう正面のみ吹き抜けで、左右には幾何学模様の入った漏窓が設えられている。部屋の中央には、黒檀で作られた卓が置かれ、そこに二人の人物が座っていた。
一人は、枹というのだろうか、中国古代の役人の着ているような衣装を身につけた文官らしき男性。そして、もう一人は、この中華的雰囲気にそぐわない、格好をした男性だった。彼が着ていたのは、日本の病院で良く見かけるような、灰色の病院専用パジャマのようなもの。ここまで来る間に、すっかり異国的な雰囲気に慣れてしまっていた左京の目には、その格好が酷く場違いなもののように映った。
「帯刀殿か?御足労願ってしまったようで、申し訳ない。」
水亭の入り口に立ったままだった左京に声を掛けたのは、文官風の男性の方だった。彼は、左京を案内してきた童女に下がるように合図すると、左京に席を勧め、彼の前に白磁の椀を置いた。その中に、満たされた琥珀色の液体から、爽やかな薄荷の香りが宙に漂う。それを感じながら、左京は真っ直ぐに卓を囲む二人のうち、文官風の男性に目を向けて、口を開いた。
「あんたが、城皇か?」
「いや、私は匂史人。地界の都、鬼都にある地府の官の一人……。貴方を招いたのは、この遥城を治める城皇なのだが、今、少々立て込んでいるのでな。私が、その代役を務める事となった。重ね重ね、非礼とは承知しているが、どうか目を瞑って頂きたい。」
文官風の衣装を纏った彼――匂史人は、些か剣呑な響きの篭った左京の問いに、僅かながらの笑みを唇に端に乗せて応じた。
「匂史人……さっき、迎えにきた奴が言ってた、もう1人の方だな。それで、俺に何の用だ?」
「貴方を迎えに言ったものが話したかもしれないが、少々、手を貸して頂けまいかと思ってな。」
「いや、詳しい事は聞いてない。用事があるっていう事だけだ。内容次第では、手を貸してやらんこともないが……それはさておき。」
やれやれというように、肩を竦めてみせた後で、左京は匂史人の隣に座る人物に目を向けた。
「こいつは、誰だ?」
匂史人は、その問いに直ぐには答えずに、隣の男性を見、左京を見、そして、視線を元に戻すと溜息を落とした。彼の隣では、パジャマ姿の男性が、呆けたような表情で宙を見つめている。その様子は、かなり異常だ。匂史人は、卓上で指を組み替え、少しの間、考える様子を見せたが、やがて何かを決めたように、左京の方へと顔を向けると、静かに言葉を紡いだ。
「彼は、谷崎洋人殿。貴方と同じく、人界は東京の人間だ。用事というのは、彼に関するものなのだが…。聞いているかもしれないが、この遥城は、地界、すなわち、冥界にあって、普通の人間の場合、余程の事がない限りは、死亡した者しか来ることは出来ない。だが、谷崎殿は天命が尽きる前に、ここへ辿り着いてしまってな。」
「天命?…あぁ、寿命のことだな。すると、そいつは、まだ死んでいないということになるのか。」
「理屈上は、そういう事になる。死んでいない者を死者として鬼籍に登録する訳にはいかないので、こちらとしては、彼を人界に戻したいのだが……。」
そこまで言って、匂史人は柳眉を寄せると、深く深く溜息を付いた。その様子に、思わず左京は目の前の文官同様に眉を寄せる。人が死ぬというのは、体から魂が抜けること。目の前にいる谷崎の魂を、彼の体に戻せばいいのではないのか。左京が、そう思っていると、何時の間にか彼の方を見ていた匂史人が、苦笑を浮かべていた。口には出さなかったが、表情には出ていたらしい。
「彼自身の体へ谷崎殿を戻せればいいのだが、肝心の体が行方不明なので、それも出来ない状況なのだ。」
「……まさか。魂のない体が動くことがある、だと?俺は、死体なら幾つも見てきたが、そんな奴は見た事ないぞ。」
「無論、普通なら考えられない。だが、現実に、今、それが起こってしまっている。谷崎殿は、昨日、東京郊外で倒れているのを発見され、意識不明で都内の病院に搬送された。その翌日、遥城に彼はやってきているのだが、城皇が部下に調べさせた所によれば、谷崎殿の体は自力で病院を抜け出して行方不明となっている。」
まるで、報告書を読み上げているかのように、匂史人は言い、もう一度溜息を付いた。
「私や城皇は、あちらにおいそれと出掛ける訳にはいかないので、部下に探させているのだが、芳しくない状況でな。手を貸してほしいというのは、この事だ。どうか、谷崎殿を生き返らせる為にも人肌脱いで貰えまいか?」
「行方不明になった場所は、病院か。活きのいい空いた体があったら、何か入っても可笑しくはないな。……いいぜ、どうせ暇だ。付き合ってやるさ。」
そいつが、体に戻ることを望むかどうかまでは知らんが。
口には出さなかったが、左京の思いを感じたのか、匂史人の口の端に僅かばかりの苦笑が上ったような気がしたが、すぐにそれは消え、金色の眼差しが彼を射抜いた。
「やって貰えるか。では、あちらで事に当たらせている者に、帯刀殿の事を伝えておこう。まだまだ未熟だが、少しは役に立つこともあると思う。」
「余り期待はしないでくれ。人探しは慣れてないんでね。」
そう答えて、左京は席から立ち上がり、水亭の入り口に向う。水亭を出る前に、振り向いて見た谷崎は、自分がどんな状況にあるのか全く理解していない様子で、恍惚とした表情を浮かべ、ただただ宙を見つめ続けていた。
水亭を一歩出た瞬間に、世界が揺らぐ。突風に引き千切られたように、中華風の庭園は消え失せ、気がつくと、左京はすっかり日の落ちた街角に戻っていた。相変わらず、人影は少ないが、先程までいなかった白い人影が道路脇のガードレールに背を預けて彼を見ている。その影は、左京に気がつくとガードレールから身を離し、彼の正面に立った。
「帯刀左京さんですね?私は、湘月(シアンユエ)。匂史人から、今回に件を任された者です。」
白いもの――動きやすそうな導士服のようなものを着た少女はそう言うと、左京に向かって、にっこりと微笑んだ。
■2
「とりあえず、その谷崎ってやつが入院していたっていう病院に行ってみるか。」
他に行くアテもない事だしな……。
カラリコロリと下駄の音も軽やかに、日が落ちて冷え始めたアスファルトの上を歩きながら、左京は隣を歩く湘月に言った。日は落ちたといっても、まだまだ、人通りのある時間帯だ。サラリーマンやOLが多く行き交う道を行く、派手な着物に下駄を履いた今時珍しい格好の青年と青と白の導士服の娘の二人連れ。それは何とも目立つ存在である筈なのだが、すれ違う人、行き交う人、道を歩く人々の誰も彼らに目を向けようとしない。まるで、そこに彼らが存在しないかのような……。そんな人々の様子に気づいた左京は、内心首を捻った。
「どうかしました?」
左京の様子がおかしいのに気が付いたのか、彼の僅かに後ろを歩いていた湘月が声をかける。
「あぁ…いや、たいした事じゃない。何だか、周りの連中の様子がな、少し気になっただけだ。」
「それって、もしかすると……。」
左京の言葉に、なにやら思うところがあったのか、湘月はにっこりと微笑んだ。
「余計なことかと思ったんですけど、目立つのも嫌でしたので、極小規模な人払いの結界を張ったんです。気になさってる事の原因が、周りの人間に見えてないような気がするという事でしたら、その結界のせいですよ。」
「なるほど、人払いね。ってことは、本当に見えてないわけだ?」
「見えてないといいますか、気づかなくした、が近いですけど…。」
「どっちでも同じようなもんだ。この状態で、病院に潜り込めるならな。それで、谷崎の入院してた病院っていうのは、何処辺りにあるんだ?」
「えーっと、ちょっと待ってくださいね。」
左京に聞かれて、湘月は袂から小さく折りたたんだ紙を取り出した。それは、今回の件に関する情報を書き込んだメモであるらしく、彼女は紙面を上から辿りながら、左京に求められた情報を探す。
「…都内の…あ、その角を曲がって、直ぐですよ。それほど、大きい病院じゃないみたいです。」
「なんだ、直ぐそこなのかよ。」
些か拍子抜けしたように呟いて、左京は片手で首筋をなでた。都内は都内でも、かなり遠くと言われずに良かったと少し思う。と、同時に、ふとした疑問が生じた。
「ところで、谷崎ってヤツは何で入院なんかしてたんだ?匂史人は倒れたって言っていたが、病気だったのか?」
「その辺は、良く分からないんです。運ばれた直後の病院の検査では、異常なしになっていたらしくって。入院も念の為、一日だけと……。城皇や匂史人が、遥城で谷崎さん自身に、その辺の事情も聞こうとしたらしいのですけど…。」
「無理だったんだな?」
湘月の声音に困ったような響きが混じる。左京は、遥城であった谷崎の様子を思い出した。ぼぅっとして宙を見てばかりいた様子は、普通の状態ではなく、あれでは話を聞くのは無理だっただろうなと彼は思った。
「その通りです。今の谷崎さんは、始終、呆けているような状態で、幾つか発した言葉も要領を得ないものが多かったみたいなんですよね。何個か、書いてありますので、読み上げましょうか?」
「……そうだな、参考に聞いとこうか。」
「『羽音が聞こえる』、『体か軽い。空に手が届きそうだ。』、それから、水辺と桜が見える…と…。」
湘月が読み上げる谷崎が言ったという言葉を聞きながら、左京は、まるで暗号のようだと思った。
「水辺に桜ねぇ・・・…。桜といえば、春の風物詩だが、谷崎も桜見物にいったのか?」
「あら、匂史人から聞いてませんか?病院に運ばれた時、彼、桜の木の下で倒れていたんです。谷崎さん、カメラマンらしくて、撮影途中で倒れたんだろうって……。」
「カメラマン?!聞いてないぞ、そんな話は…。」
湘月の言葉に、左京は声をあげたが、直ぐに何か思うところがあったのか、湘月に別の問いを投げかけた。
「その倒れた場所に、谷崎は初めて行ったのか、それとも、行き慣れていたのか、その辺はどうなんだ?」
「行き慣れていたかどうかまでは分かりませんけど、初めてではなかったみたいです。谷崎さんの部屋に同じ場所の写真が何枚かあった、と聞いてますから。」
「ふぅん……なるほどな。病院で何も分からなかったら、そっちに行ってみるってのも手だろうな…。」
考え込むように呟いて、左京は足を止めた。目の前に、白い建物が闇の中に威厳を持って建っている。谷崎が入院していたという病院だ。正面入り口の明かりは落とされてしまっているが、救急用の入り口には、まだ人気があった。
「やれやれ、病院ってのは何時来ても、余り良い気持ちはしねぇな。死にかけだったり、病気だったりで、あんまり美味そうなヤツもいないし……。それはともかく…とりあえずは、谷崎の入院してた部屋だな。場所は分かるよな?」
そう言って、後ろに付いて来ているはずの湘月を振り返る。彼女の顔には、なんだか複雑な表情が浮かんでいた。
「308号室、この後ろにある棟の3階、一番西側にある部屋みたいです。」
「おう、じゃ、早速行くか。」
湘月の複雑な顔など気にも止めず、さっさと救急用の入り口に歩き出した左京の後ろから、湘月の声が飛ぶ。
「……食べちゃダメですからね、帯刀さん。」
大きなため息と共に吐き出された言葉は、すぐに春の夜気に中へ溶けていった。
消毒液の匂いが鼻をつく。
明りの落された病院内の一室、谷崎が入院していたという308号室のドアが開いた。入ってきた人影は二つ。一人は左京、もう一人は湘月だ。救急患者用の入り口から病院内に入った二人は、エレベーターを避け、階段で三階まで上ったのである。
308号室は無人だった。左右に2つづつ置かれたベッドは何れも空で、きちんと布団が畳まれ、重ねられている。ただ1つ。右の窓際にあるベッドだけは、人の居た痕跡が残されていた。
サイドボードの上には、余程、気に入っていたものなのだろうか、フレームに入れられた桜の写真が置かれている。その横には、畳まれたままの朝刊と、プラスティック製のコップ。ベッドの下には、まだ新しいスリッパが押し込まれるように残されていた。ベッドにつけられたネームプレートには、『谷崎』の文字がある。その文字を確認した左京は、谷崎のベッドに二つの異なる気配を感じた。気配、というには、小さすぎる、残滓とでも呼ぶに相応しいそれ。一つは、あの遥城で会った谷崎本人の気配。そして、もう一つは……。
「…なんだ、これは。生きてるような、死んでるような妙な気配だ……。」
人でなく、霊でなく。そんな妙な気配に、左京は今まで会った事がなかった。あえていうなら、死者であり生者である、決して混ざり合わない境界線が交じり合ってしまっている気配だ。その微かな気配に意識を集中させると、それが窓から入って、扉から出て行った事が分かった。この妙な気配のヤツが、谷崎の体を奪ったのだろう。何にせよ、美味そうなヤツではなさそうだ。そう結論付けて、彼は小さく息を吐いた。
「何か分かりました?」
「あぁ、谷崎の他に妙な気配のヤツがいた事くらいだけどな。生きてるような、死んでるような気配のそいつは、窓から入ってきて、ここで谷崎の体に入り、ドアから出て行ったみたいだ。」
「窓から……妙な気配、ですか。それって……もしかすると……。」
左京の言葉に、湘月は窓とベッドへ交互に視線を送りながら、考え込むように呟いた。同じように窓とベッドを見て、左京は軽く肩をすくめると、サイドボードの上に視線を移す。そこに置かれたままの新聞にも同じ気配の残り香を感じる。その一面には、河川敷の桜の花の写真。その写真に、谷崎の呟いていた言葉が脳裏を過ぎる。水辺、桜……。サイドボードの上に置かれた写真も桜だな、と思いながら、それを手に取って左京は、それに気がついた。
「同じ場所だ……。」
奇しくも、その写真が、新聞の一面に載っていた写真と同じ風景だったのだ。写真を持ったまま、左手で新聞を持って、その記事に目を落とす。そこには、『河川工事で消える桜並木』の文字が踊っていた。ほんの3日後、その河川敷では工事が始まり、桜並木の大半の木に影響がでるらしい。
「帯刀さん、谷崎さんの言葉、覚えてますか?」
新聞とサイドボードの写真を見比べていた左京に、湘月から声がかけられる。写真を手にしたままで、左京は彼女の方へと顔を向けた。
「桜に水辺、だろ?それと、もう一つ、確か、羽音だったか?」
「えぇ、羽音……。帯刀さんが感じた気配、これが羽音に関係してるんだと思います。」
「どういうことだ?」
「以前、匂史人から聞いた話ですが、時折、人間の魂が虫になって体の外に飛び出すことがあるのだそうです。逆に、死んだ人の魂が虫に形を変える事も……。」
「すると、何か?遥城の谷崎は、自分の体から虫の形で飛び出した。で、その体に別の虫……つまり、俺の感じた妙な気配のヤツが入ったって事か。」
「予想の域は出ませんけど、多分…。問題は、その相手が谷崎さんの体で何処へ行ったか、ですね。」
困ったように顔をしかめる湘月に、左京は左手の新聞を示してみせた。
「多分、ここだ。こいつにも、同じ気配がこびり付いているからな。」
新聞とフォトフレーム、その2つの写真を
に再度、じっくりと眺めながら、左京は確信を持って呟いた。
夜の闇の色が変わる。
黒から紺へ。そして、紺から青へ。
夜明けまでは、まだ間があるが、そろそろ青へと変わり始めた空の下、桜並木は、白い花を濃紺へ染めて、花弁一枚すら動くことなく、静かに闇の中に沈んでいた。その桜の連なる土手を、左京と湘月が歩いていく。人払いの結界は、すでに用いられていない。こんな時間に一般人に会う事もないだろうから、と判断した湘月が術を解いたからだ。
ゆっくりと、湿り気を帯びた夜気の中を歩いていく。頭上から舞い落ちる、白い花びら。そういえば、今年初めての夜桜だな、と、左京は思った。そんな彼の耳に、夜明け前の静けさを破るような音が聞こえた。ザクリザクリという土を掘るような物音だ。それは、桜並木を進めば進むほど、大きく、近くなっていく。何者かが、土を掘り返しているに違いないのだが、一体、誰が、何の為にやっているのかは分からない。だが、それが谷崎の体をもっていった者を何らかの関わりはあるに違いない。
「あれは……。」
青い闇の向こうに黒い影が動いていた。目を凝らして、その影をじっと見つめた左京は、それが谷崎である事に気が付いた。一際大きな桜の下で、河川工事用の機材の山から持ち出して来たのか、スコップを握る谷崎の体。汗だくになりながら、土を掘り返し続けるその姿には、鬼気迫るものがある。だが、左京は、臆することなく、その背中に声をかけた。
「その体は、谷崎のものだな?」
びくりと、男の肩が震える。まるで、死刑の宣告をされたかのように、青くなって動きを止めた谷崎の体に向って、灯火の言を継いで、湘月は言った。
「谷崎さんの体を返してあげてください。彼の魂は、地界に落ちてしまいました。今、彼は天命尽きぬままに、死のうとしています。」
「どうか……」
肩を震わせたまま、谷崎の体を借りた何者かが、搾り出すように言葉を紡ぐ。
「どうか、もう少しだけ、私に時間を……!」
その言葉は、恐怖で青白く、そして所々震えていたが、強い意志の篭ったものだった。
「お前は誰だ?そして、何の為に、谷崎の体を持ち出したんだ?」
左京の問いに、男は何度か喉をビクビクの辺りを痙攣させた後、震える声で答えた。
「私は、昔、人間だったものです。この木の下には、私の一人娘が埋っています。私より先に病で死んだあの子を、私はここに埋めました。私は、あの子が心配で死んだ後も、あの世に行くことができず、水馬になって留まっていたのです。ですが……。」
一端、言葉を切って、自らを水馬―――アメンボウであると言った男はゴクリと喉を鳴らし、息を飲み込む。そして、息を吐出しながら、話を続けた。
「この木が河川工事で無くなり、ここが水に沈むと聞いて、私は娘を助けたいと思っていました。掘り出して、安全な所へ連れて行ってやりたい、と…。そんな折、私と同じく虫の姿をした魂を見つけたのです。」
「それが、谷崎だった、と言うわけか。」
「えぇ、そうです。私は夢中で、彼の後を追いました。そして、再び彼の魂が体から抜け出した間に、この体を……。ほんの少し、娘を助ける間だけ、と思っていたのに、まさか、そんなことになっていたなんて……。」
谷崎が死にかけている事に対する罪悪感か、それとも、己がやった事に対する後悔なのか。俯いたまま紡がれた男の言葉は、苦く、複雑な色が滲んでいた。その間にも、汗に塗れた男の額からは汗が滴り、地面の上に点々と染みを作っていく。左京の目には、何故か、それが地面の下にいるという彼の娘の涙に見えた。
「…仕方ねぇなぁ…。」
その目の錯覚が、彼を動かしたのだろうか。左京は、土手の下へと詰まれていた工事用の機材の方へと歩いていくと、その中からスコップをつかみ出した。
「おい、あんた。泣いてる暇があるなら、手を動かせ。俺も手伝ってやるからよ。…湘月、そのくらいの時間は、あるよな?」
左京の言葉に項垂れていた男が驚いたように顔を跳ね上げる。湘月が頷くのを認めてから、左京は男の掘っていた辺りへと深くスコップを差し入れた。
東の空が白む頃。
左京と男の二人掛かりで掘り返した土の中から、それはコロリと転がり落ちた。赤茶色の小さな小さな骨壷らしきそれを、男が慌てて拾い上げる。これが、男の捜していた『娘』であるようだった。
「見つかって良かったですね。」
土を除ける作業を手伝っていた湘月が微笑みながら、声をかける。その横で、左京はやれやれといった風情で、ぐるりと肩を大きく回した。男は、そんな二人を交互に見ながら、嬉しそうに頷く。そして、愛しそうに骨壷をひと撫でした後で、それを左京に向って差出した。
「我侭な願いですが、どうか、この子を安全な場所に連れて行ってやってくれませんか。水の中に沈んだりしないような、そんな場所に……。」
参ったな、心当たりがない、と、僅かにため息を零しながら左京はその骨壷を受け取り、それを湘月へと渡した。苦笑を浮かべて骨壷を受け取った湘月が、男へ向かって頷く。その二人の様子と指先から、娘の重みが消えたのを確認した後で、谷崎の体に入った男は、にっこりと満足そうに笑った。思い残すことはないと、彼の目が語る。そして、その鼻から、一匹のアメンボが飛び出すと同時に、谷崎の体は地面へと崩れ落ちた。
日は昇り、そして沈み、再び東の空へと昇る。
あの日から幾日か経った日の宵の口。あの日、出来なかった花見をやり直す為に、桜の名所へと出かけた左京は、頭の上の桜を見ながら、ため息をついた。あの目まぐるしい夜、あれは一体、何だったのだろうか。
遥城、万花園、匂史人、湘月、水馬――。どれもこれも、一瞬の夢だったのではないかと、思ってしまう。
あれは現実だったのか、夢だったのか。
考える左京の足元に、桜の花弁が舞い落ちる。それに混じるように、ヒラリと白いものが落ちてきた。それは一枚の香を染み込ませた上等の紙で、その表面には筆字で谷崎が助かったことが記されていた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
2349/帯刀・左京/男/398/付喪神
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■ ライター通信 ■
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『青瑠璃奇談』の世界へようこそ、ライターの陽介です。
依頼では、初めまして、左京様。
異界の依頼への御参加、ありがとうございました。
大変長らく、お待たせしてしまって、本当に申し訳ありません。
さて、今回は異界ということで、地界の城郭である遥城と、東京という二つの街を舞台に、
何時もとは、少し異なった雰囲気でお送りしてみたのですが、如何でしたでしょうか。
少しでも、お気に召して頂けたなら幸いです。
それでは、また、『青瑠璃』の世界でお会い出来る事を祈りつつ……。
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