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<東京怪談・PCゲームノベル>


水馬の宿

 羽音が聞こえる。
 眼下に広がる霞のような桜の木々と光る水面を、うっとりとした表情で見下ろしながら、彼はぼんやりと思った。
 身が軽い。まるで、己の体が空気でできているような気さえする。ぶぅうんという耳障りな羽音さえなければ、もっと心地よいだろうに。
 そう思いながら、彼は右方向に重心を移した。途端に、くるりと視線が切り替わる。水の蒼から、晴天の青へ。薄紅から、白雲に。
 春爛漫。
 そんな言葉が、彼の脳裏を過ぎっていった。春色の衣を纏った山野を高く越えて、彼は花の香を胸いっぱいに吸い込み、ほわっと溜息をつく。これが夢なら覚めないでほしい……そう思いながら、彼は桜の花の間に降りていった。



「厄介なことになったものだ。」
 地界の城都、遥城が中央に位置する万花園の奥の一室で、城皇神は苦虫を噛み潰したような顔で溜息をついた。
 事の起こりは、一時間ほど前、遥城南門付近を見回っていた武官が、1人の青年を連れてきたことによる。青年の名前は、谷崎洋人。写真家の卵であるらしい。問題は。
「遥城を訪れる霊魂は、その天命を既に終えた者である筈。だが、彼の命数はまだ残っているのだ。」
「……手違い、ということか?」
 窓辺に寄り、水面に揺らぐ瑠璃燈の青い灯火を見ていた匂史人が、優美な動作で振り返った。静かな色を湛える金の目が、真直ぐに城皇神を射抜く。その視線から目を反らすように、僅かに顔を動かして、城皇神は腕を組み直すと唸るように言った。
「何が起こっているのか、全く分からん。手違いなら、元の体に戻せば済む話なのだがな。」
「戻せないと?」
「戻すべき体がないのだ。下の者に調べさせた所によれば、彼の体は東京のとある病院を自力で抜け出し、行方不明らしい。」
「自力で?……魂のない体が動く訳がないな。これは、何かに憑かれたか?」
「或るいは、何かに持っていかれたか、だ。」
 あまり有難くない結論に達し、2人の地府の官僚は、互いに渋面を見合わせて息を吐いた。重い空気が、花の香漂う室内に満ちていく。その空気を破るように、ゆっくりと城皇神は言葉を紡いだ。
「命数の尽きていない者を鬼籍に登録する訳にはいかぬ。湘月を借りるぞ。」
「それは構わぬが……あれには、些か荷が重いのではあるまいか?」
「そうだな。では、遥城に奇縁ある者に、助力を願うこととしよう。」
 2つの溜息が、仄かに灯された灯火を揺らす。花の園の奥深く、どこかで小さな羽音が聞こえたような気がした。


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(本文)



春に惑いて 男 地界に落ち
急に瀕して 水馬 人身を得る




■1

 ゆらり、と、視界の隅で白い光が揺れた。
 ゆらり、ゆらり。
 自らの視界の隅で揺らめくものに気がついた四宮・灯火(しのみや・とうか)は、歩道橋の階段を登る足を止めて、僅かに顔を後ろに向けた。彼女に目線の先には、道端に立つ電柱がある。その上部には、白い光を放つ街灯が取り付けられていた。夜道を照らす、道標のようなそれ。揺らぐことなどない人工のともし火の白い粒子が、夜の黒と溶け合い、朧な闇となって、街灯の周りに纏わり付いている。
 灯火は、それを暫く眺めた後、止めていた足を次の段へとかけた。一段上る度に灯火が履いた草履が、コトリ、コトリ……と、小さな音を立てる。彼女の頭上には、ガランとした星のない空。東京の空に昇った月は、黒々とした墓標のようなビル群の後ろに隠れ、カーテンの引かれた住宅の窓からの橙色の明かりが零れ落ちている。時計は既に、深夜に近いのだろうか。東京とはいえ、流石に、夜更けともなれば、自然と人通りは少なくなる。それが、郊外ともなれば、尚更だ。階段を上り終えた灯火は、何時もと違う夜気を感じて、歩道橋の上で僅かに目を細めた。その頬を香気を含んだ夜風が撫でる。土の匂い、花の香。昼間は排気ガスの臭いに消されていた春の香気が、夜気に中に漂っているのだ。
「桜……桃、それと……」
 そっと目を伏せて、彼女は夜気の中に混じる香りを吸い込み、僅かに微笑んだ。以前の主人を探して、夜の街をさ迷うのは、何時もの事。けれども、灯火は春宵の夜行が嫌いではなかった。湿気を帯びた風が、彼女が纏った着物の袖を翻す。それと同時に、何か周囲の空気が変化したような気がして、灯火は閉じていた目を開き、驚いたように足を止めた。
 ざわめきが聞こえる。人の行き交う音、話し声。明々と周囲を照らす、道の両側に吊るされた幾つもの灯篭。声を張り上げる物売り。屋根の先が反り返った家屋が軒を連ねている。微かに聞こえたのは、時を知らせる鐘の音だろうか……。
 灯火の目の前に一瞬にして現れたそれは、ひどく異国的で古めかしい街だった。中華的とでもいうのだろうか。その街の様子に、以前、骨董品店『神影』で見た古い中国の街を描いた絵が、彼女の頭を過る。目の前にある風景は、その絵が実体化したのではないかと思うほどに酷似していた。
「ここは……一体、何処…なのでしょう……?」
 何時の間にか、虹橋(アーチ状の橋)へと変わってしまった歩道橋の上で、灯火は呆然とした様子で街を見ながら呟いた。
「遥城だよ、人形のお嬢さん。ここに来たのは、初めてかね?」
 そんな灯火の頭上から、しわがれた声が掛けられる。振り返ると、牛に乗った老人が長い髭を撫でながら、灯火を見下ろしていた。
「ここは、遥城……と、いうのですか……?」
「地界の城郭、地府への関。有り体に言えば、鬼籍に入った連中の街、といった所かな。」
「地界……」
「あの世のことよ。」
 言い淀むことなく、そう言って老人は、ほっほっほっと楽しげに笑った。
「まぁ、ゆるりとなされ。ゆるりとなされよ。」
 のそり……とした歩みで老人を乗せた牛が、虹橋を渡っていく。その姿は、すぐに雑踏の中に紛れて見えなくなってしまった。
「不思議な所……。」
 老人を見送った後、灯火は虹橋を一人で渡った。ゆっくりとした足取りで橋を渡る灯火の横を、幾人もの住民らしき者が追いこしていく。初め、灯火は彼らの足元に影がないことを不思議に思ったが、この街の人間は誰1人として、その事を気にする様子もなく、ここではこれが当たり前なのだと理解したのだった。橋を渡りきった向こうには、人の行き交う広い通りがある。そこへ目を向けた灯火は、橋のたもとで、誰かを待つように立っている役人らしき人物に気が付いた。枹というのだろうか、中国古代の役人の着ているような衣装を身につけ、腰には刀を下げている。その人物は、灯火の姿に気がつくと、深々と頭を下げた。
「四宮灯火殿ですな? 城皇神の命にて、御迎えに参りました。」
「私を……ですか……? それは、一体……。」
「私は、詳しい話は存じません。詳細は貴方自身で、城皇に直接問われるとよいでしょう。どうぞ、こちらに……。」
 丁寧だが、有無を言わさぬ口調でそう言って、役人は踵を返し、灯火を案内するかのように先に立ち、街の奥へと歩いていく。灯火は、一瞬、その場で戸惑ったように立ち竦んだが、すぐにその背中を追いかけた。歩幅の小さい灯火に合わせたのか、役人の歩みは遅く、灯火は彼の後に続きながら街の様子を見物することができた。
 食べ物屋の店先で、銀杯を片手に酒を酌み交わす男達がいる。その店の傍では、果物売りが声を張り上げており、細工物を扱う店の軒下に掛けられた灯篭の下に付けられている見事な細工の飾りが、シャラリと涼しげな音を立てていた。ふと覗いた脇道の向こうには、もう1本、それなりの広さを持った通りがあり、何枚もの色とりどりの布を並べた店が軒を連ねているのが見えた。そういうものを眺めているうちに、何時しか歩いていた通りの先に緑を囲む低い白壁が現れた。白壁の中央、通りの行き着く先に円形の門がある。役人は、迷うことなく、その門を潜った。後に続く灯火は、ふと門の上を見上げた。そこに文字が書いてあったからだ。『園花万』、と、それは読めた。それは、この門の先にある庭の名前だったが、灯火はちょっと首を傾げただけで、役人の後を追いかけた。
 門を潜ると、甘い香りが灯火の鼻をくすぐった。ここ、そこ、至る所に咲いている様々な花が咲いている。その甘い芳香が、夜気の中に溶け出しているのだ。『万花園』とは、この事であったのかと一人頷いて、灯火は足を進めた。
 庭園の中にかかる幾つもの橋を渡り、小亭を横切り、長廊を歩く。街の喧騒が嘘のように、その庭園の中は静まり返っていた。時折、小亭の中や木陰に座っている人影があったような気がしたが、確かめるよりも早く、巡らされた壁や竹林などで視界が遮られてしまう。やがて、彼女が案内されたのは、万花園の中でも奥の方にあると思しき、水亭だった。睡蓮の花が浮かぶ池の上に、張り出すように造られているそこは、池に向かう正面のみ吹き抜けで、左右には幾何学模様の入った漏窓が設えられている。部屋の中央には、黒檀で作られた卓が置かれ、そこに二人の人物が座っていた。
 一人は、灯火を案内してきた役人と同じ、枹を着た中国古代の文官を思わせる男性。そして、もう一人は、この中華的雰囲気にそぐわない、格好をした男性だった。彼が着ていたのは、日本の病院で良く見かけるような、灰色の病院専用パジャマのようなもの。ここまで来る間に、すっかり異国的な雰囲気に慣れてしまっていた灯火は、彼の格好に密かに首をかしげた。
「四宮殿か?御足労願ってしまい、申し訳ない。」
 水亭の入り口に立ったままだった灯火に声を掛けたのは、文官服を着た男性だった。彼は、灯火を案内してきた役人に下がるように合図すると、灯火に席を勧め、彼女の前に白磁の椀を置いた。その中に、満たされた琥珀色の液体から、爽やかな薄荷の香りが宙に漂う。それを感じながら、灯火は真っ直ぐに卓を囲む二人のうち、文官風の男性に目を向けて、口を開いた。
「貴方が…城皇様…と仰る方、ですか…?」
「いや、私は匂史人。地界の都、鬼都にある地府の官の一人……。貴方を招いたのは、この遥城を治める城皇なのだが、今、少々立て込んでいるのでな。私が、その代役を務める事となった。重ね重ね、非礼とは承知しているが、どうか目を瞑って頂きたい。」
 文官風の衣装を纏った彼――匂史人は、灯火の問いに僅かながらの笑みを唇に端に乗せて、そう応じた。
「匂史人様……ですか。えと、そちらの方は…?そして、私は……どうして、ここに…呼ばれたのでしょうか……?」
 灯火は、匂史人の隣に座る青年に目を向けて、不思議そうに呟く。匂史人は、その問いに直ぐには答えずに、隣の男性を見、灯火を見、そして、視線を元に戻すと溜息を落とした。彼の隣では、パジャマ姿の男性が、呆けたような表情で宙を見つめている。その様子は、いささか異常だ。匂史人は、卓上で指を組み替え、少しの間、考える様子を見せたが、やがて何かを決めたように、灯火の方へと顔を向けると、静かに言葉を紡いだ。
「実は、無理を承知でお願いしたいことがあるのだ。少々、我らに手を貸して頂けまいか……?」
「私……が、でしょうか……。」
 匂史人は頷くと、隣に座る男性へと目を向けた。
「彼は、谷崎洋人殿。貴方と同じく、人界は東京の人間だ。この遥城は、地界、すなわち、冥界にあって、普通の人間の場合、余程の事がない限りは、死亡した者しか来ることは出来ない。だが、谷崎殿は天命が尽きる前に、ここへ辿り着いてしまってな。」
「テンメイ……寿命、の事ですね……。すると、谷崎様は、まだ……死んでいない…ということに……なりましょうか…?」
「理屈上は、そういう事になる。死んでいない者を死者として鬼籍に登録する訳にはいかないので、こちらとしては、彼を人界に戻したいのだが……。」
 そこまで言って、匂史人は柳眉を寄せて、深く深く溜息を付いた。その様子に、おや?と灯火は首を傾げる。人が死ぬというのは、体から魂が抜けること。目の前にいるg谷崎の魂を、彼の体に戻せばいいのではないのか。灯火が、そう思っていると、何時の間にか彼女の方を見ていた匂史人が、苦笑を浮かべていた。口には出さなかったが、表情には出ていたらしい。
「彼の体へ谷崎殿を戻せればいいのだが、肝心の体が行方不明なので、それも出来ない状況なのだ。」
「行方不明……なのですか…?失礼ですが…魂の……抜けた体が…動くことが……あると?」
「普通なら考えられない。だが、現実に、今、それが起こってしまっている。谷崎殿は、昨日、東京郊外で倒れているのを発見され、意識不明で都内の病院に搬送された。その翌日、遥城に彼はやってきている。城皇が部下に調べさせた所によれば、谷崎殿の体は自力で病院を抜け出して行方不明となっている。」
 まるで、報告書を読み上げているかのように、匂史人は言い、もう一度溜息を付いた。
「私や城皇は、あちらにおいそれと出掛ける訳にはいかないので、部下に探させているのだが、芳しくない状況でね。……そこで、四宮殿にも、彼を救う手助けをして貰えまいかと、ここまで御足労願った次第、という事なのだが。どうだろう、手を貸して頂けるだろうか?」
「……人の…生き死にが、かかっていますから……否、とは…言いません……。ところで…谷崎様の……魂が…こちらに来てしまったのは……匂史人様達の手違い…という訳ではない…のですね?」
 灯火の青い目が、真っ直ぐに地府の文官を射抜く。その眼差しを真っ向から受け止めて、半ば自嘲するような微笑と共に彼は応じた。
「そのような手違いが全くない、とは口が裂けてもいえない。だが、今回の件は別物だと断言してもいい。」
「そう……ですか…。では…私は、東京で……谷崎様の体を捜そうと…思います……。」
「向こうで事に当たらせている者に、四宮殿の事は伝えてある。まだ未熟だが、少しは役に立つ事もあるかと思う。」
「分かりました……なんとか、探して…みましょう……。」
 そう答えながら、灯火は席から立ち上がり、水亭の入り口に向う。水亭を出る前に、振り向いて見た谷崎は、自分がどんな状況にあるのか全く理解していない様子で、恍惚とした表情を浮かべ、ただただ宙を見つめ続けていた。
 水亭を一歩出た瞬間に、世界が揺らぐ。突風に引き千切られたように、中華風の庭園は消え失せ、気がつくと、灯火は黒い空の広がる東京の歩道橋の上に、一人ぽつんと立っていた。否、一人ではない。先程までいなかった白い人影が、歩道橋の欄干に座っている。それは、灯火に気がつくと欄干から身軽に飛び降り、彼女の正面に立った。
「四宮灯火さんですね?私は、湘月(シアンユエ)。匂史人から、今回に件を任された者です。」
 白いもの――動きやすそうな導士服のようなものを着た少女は、そう言って、自分が巻き込まれた事が夢か現実か、悩む様子の灯火に向かって、にっこりと微笑んだ。



■2

「まずは……谷崎様が…いたという病院に…行ってみようと思うのですが……。」
 ひたひたと、夜露が降りて冷たくなったアスファルトの上を歩きながら、灯火は隣を歩く湘月に言った。月明かりに照らされた道をいく、鮮やかな牡丹を散らした赤い振袖の少女と青と白の導士服の娘の二人。それは、人目を引くのに十分なものだったが、幸いなことに、真夜中だった為、二人の姿を見た者はいなかった。
「谷崎様が…入院していらした病院ですが……何処だか…分かりますか?」
「ちょっと待ってくださいね。確か、これに…。」
 灯火に聞かれて、湘月は袂から小さく折りたたんだ紙を取り出した。それは、今回の件に関する情報を書き込んだメモであるらしく、彼女は紙面を上から辿りながら、灯火に求められた情報を探す。
「えーと…都内の、あ、ここから近い病院ですね。それほど、大きくはなさそうですけど。」
「そうですか……。それにしても…谷崎様は…何故、入院を…されたのでしょう……?倒れた、と匂史人様は言って…おられましたけど……。どこか具合が……悪かった…のでしょうか……。」
「その辺は、良く分からないんです。運ばれた直後の病院の検査では、異常なしになっていたらしくって。入院も念の為、一日だけと……。城皇や匂史人が、遥城で谷崎さん自身に、その辺の事情も聞こうとしたらしいのですけど…。」
「聞くことが…出来なかったのですね……?」
 湘月の声音に困ったような響きが混じる。灯火は、遥城であった谷崎の様子を思い出していた。ぼぅっとして宙を見てばかりいた様子は、確かに普通ではなく、あれでは話を聞くのは無理だろうと彼女は思った。
「その通りです。今の谷崎さんは、始終、呆けているような状態で、幾つか発した言葉も要領を得ないものが多かったみたいですね。何個か上げてみましょうか?」
「……お願い…できますか……?」
「『羽音が聞こえる』、『体か軽い。空に手が届きそうだ。』、それから、水辺と桜が見える…と…。」
 湘月が読み上げる谷崎が言ったという言葉を聞きながら、灯火は、まるで暗号のようだと思った。
「水辺に……桜…ですか……。春ですし……谷崎様も…そのような場所に…行かれたのでしょうか……。」
「あら、匂史人から聞いてませんか?病院に運ばれた時、彼、桜の木の下で倒れていたんです。谷崎さん、カメラマンらしくて、撮影途中で倒れたんだろうって……。」
 何気なく呟いた言葉に返されたそれに、灯火は少し驚いたような顔をしたが、すぐに何か思う所があったらしく、囁くような声で訊いた。
「その倒れていた場所に……谷崎様は…初めて行かれたのですか……?」
「え?…いいえ、初めてではなかったみたいです。詳しくは聞いてませんが、何度か足を運んでたらしく、同じ場所の写真が何枚かあった、とだけは聞いてますけど。」
「……なるほど。その…場所にも……なにかあるような気はしますが…。」
 言いかけて、灯火は足を止めた。目の前に、白い建物が闇の中に威厳を持って建っている。谷崎が入院していたという病院。明かりの点いていない建物を見ながら、灯火は静かに言った。
「まずは…谷崎様のお部屋に……いって…みようと思います……。お部屋の…場所は、分かり……ますか…?」
「308号室、この後ろにある棟の3階、一番西側にある部屋みたいですね。」
「後ろの棟の…3階…西、ですね……」
 確認するかのように頷いて、灯火は意識を病院に建物の中へと集中させた。そして、大きく息を吐く。その一呼吸の間に、彼女の姿は空気の中へと溶け込んでいった。


 消毒液の匂いが鼻をつく。
 明りの落された病院内の一室、谷崎が入院していたという308号室に灯火は姿を現した。部屋は無人だった。左右に2つづつ置かれたベッドは何れも空で、きちんと布団が畳まれ、重ねられている。ただ1つ。右の窓際にあるベッドだけは、人の居た痕跡が残されていた。
 サイドボードの上には、余程、気に入っていたものなのだろうか、フレームに入れられた桜の写真が置かれている。その横には、畳まれたままの朝刊と、プラスティック製のコップ。ベッドの下には、まだ新しいスリッパが押し込まれるように残されていた。ベッドにつけられたネームプレートには、『谷崎』の文字がある。それを確認し、灯火はベッドの脇にある電気スタンドへと、手を伸ばした。
「聞きたい事が…あるのです……。教えて……頂け…ますか?」
(なぁに?)
 そっと、指先で電気スタンドに触れて語りかけた灯火に、人工物特有の抑揚のない声が返される。
「このベッドに……男の方が、いましたよね…?その方が……居なくなった時のことを…聞かせて……いただきたいのです。」
(ベッドに寝てた人のこと?変な人。朝、鼻から蜂が飛んでいった。午後、アメンボが鼻から入った。その後、何処かへ行って戻って来ない。)
「蜂と……アメンボ…ですか…?」
 電気スタンドの言葉に、灯火の声に驚きの色が滲む。人間の体に、蜂やアメンボウが入ったりでたりするとは、一体どういう事なのか。灯火の動揺に気付いていないのか、電気スタンドは話しつづける。
(そう、蜂とアメンボ。変な人。出ていく前に、新聞見てた。)
「新聞を?」
 サイドボードの上に置かれた新聞に、灯火の目が向けられる。新聞の一面には、桜の花の写真。そして、『河川工事で消える桜並木』の文字が踊っていた。
(早く行かないと、時間がないって出ていったよ。)
 電気スタンドの言葉を聞きながら、灯火は新聞を手に取ると写真付きの記事に目を落とし、そして気が付いた。奇しくも、その写真は、サイドボードの上の写真と同じ風景だということに。そして、その桜並木に影響のあるという河川工事の開始される日付は、ほんの3日後である事にも。
「アメンボとは何なのか…よく分らない事もありますけど……でも、恐らく…谷崎様はここに……。」
 新聞とフォトフレーム、その2つの写真を見ながら、灯火は確信を持って呟いた。


 夜の闇の色が変わる。
 黒から紺へ。そして、紺から青へ。
 夜明け近くの桜並木は、白い花を濃紺へ染めて、花弁一枚すら動くことなく、静かに闇の中に沈んでいた。その桜の連なる土手を、灯火と湘月が歩いていく。灯火が病院で電気スタンドから聞いた話をした所、湘月は少し考えたあとで言った。
「人の魂が虫の形になって、体から出ていくという事があると聞いたことがあります。谷崎さんの体から出て行った蜂は、彼の魂。入り込んだ水馬は、他の人間の魂かもしれませんね。」
「水馬……あぁ、アメンボのこと、ですね……。なるほど、魂が虫の姿に……。それでしたら、谷崎様が仰っていた言葉も分る…気がします…。」
 ゆっくりと歩きながら、そんな言葉を交わす。そんな中、彼女達の耳に、ザクリザクリという土を掘るような物音が聞こえ始めた。それは桜並木を進むほどに近くなっていく。恐らくは、谷崎の体に入っているアメンボが何かしているのだろう。だが、何の目的で土を掘っているのかまでは、分らない。
「あれは……。」
 青い闇の向こうに黒い影が動いている。目を細めて、その影をじっと見つめた灯火は、それが谷崎である事に気が付いた。一際大きな桜の下で、河川工事用の機材の山から持ち出して来たのか、スコップを握る谷崎の体。汗だくになりながら、土を掘り返し続けるその姿には、鬼気迫るものがあった。だが、そんな谷崎の体に、灯火は意を決して声をかけた。
「その体は……谷崎様のもの…ですね?」
 びくりと、男の肩が震える。まるで、死刑の宣告をされたかのように、青くなって動きを止めた谷崎の体に向って、灯火の言を継いで、湘月は言った。
「谷崎さんの体を返してあげてください。彼の魂は、地界に落ちてしまいました。今、彼は天命尽きぬままに、死のうとしています。」
「どうか……」
 肩を震わせたまま、谷崎の体を借りた何者かが、搾り出すように言葉を紡ぐ。
「どうか、もう少しだけ、私に時間を……!」
 その言葉は、恐怖で青白く、そして所々震えていたが、強い意志の篭ったものだった。
「どうして……時間が欲しい…のです?」
 不思議そうに問い掛けた灯火に、男は震える声で応じた。
「私は、昔、人間だったものです。この木の下には、私の一人娘が埋っています。私より先に病で死んだあの子を、私はここに埋めました。私は、あの子が心配で死んだ後も、あの世に行くことができず、水馬になって留まっていたのです。ですが……。」
 一端、言葉を切って、男はゴクリと喉を鳴らし、息を飲み込む。そして、息を吐出しながら、話を続けた。
「この木が河川工事で無くなり、ここが水に沈むと聞いて、娘を助けたいと思っていた所、私と同じく虫の姿をした魂を見つけたのです。」
「それが……谷崎様、だったのですね?」
「えぇ。私は夢中で、彼の後を追いました。そして、再び彼の魂が体から抜け出した間に、この体を……。ほんの少し、娘を助ける間だけ、と思っていたのに、まさか、そんなことになっていたなんて……。」
 谷崎が死にかけている事に対する罪悪感か、それとも、己がやった事に対する後悔なのか。俯いたまま紡がれた男の言葉は、苦く、複雑な色が滲んでいた。その間にも、汗に塗れた男の額からは汗が滴り、地面の上に点々と染みを作っていく。灯火の目には、それが地面の下にいるという彼の娘の涙に見えた。
「あの……湘月様…。」
「はい?」
「この方の…娘さんを……土の下から捜す時間を…頂いても構いませんか……?」
 灯火の言葉に、項垂れていた男が驚いたように顔を跳ね上げる。湘月が頷くのを認めてから、灯火は男の方へ一歩足を踏み出した。
「1人よりも……2人で探した方が早いでしょうから……。」
 その顔に、僅かながらに笑みを浮かべて。彼女は、桜の下の地面へと、意識を集中させた。


 東の空が白む頃。
 灯火が念動力で持ち上げた土の中から、それはコロリと転がり落ちた。赤茶色の小さな小さな骨壷らしきそれを、男が慌てて受け止める。これが、男の捜していた『娘』であるようだった。
「見つかって……良かったですね……。」
 土を元に戻し、骨壷を抱えた男を見上げた灯火に、彼は嬉しそうに頷く。そして、愛しそうに骨壷をひと撫でした後で、それを二人に向って差出した。
「我侭な願いですが、どうか、この子を安全な場所に連れて行ってやってくれませんか。水の中に沈んだりしないような、そんな場所に……。」
 男の言葉に頷いて灯火が、その骨壷を受け取った。泥まみれの男の手から、小さな灯火の手へとそれが渡される。指先から、娘の重みが消えたのを確認した後で、谷崎の体に入った男は、にっこりと満足そうに笑った。思い残すことはないと、彼の目が語る。そして、その鼻から、一匹のアメンボが飛び出すと同時に、谷崎の体は地面へと崩れ落ちた。




 日は昇り、そして沈み、再び東の空へと昇る。
 あの事件から、数日経った日の朝、骨董品店『神影』の店の前を吐出しながら、灯火は小さく息をついた。
 あの目まぐるしい夜にあった事が、彼女の頭の隅を巡っているのだ。遥城、万花園、匂史人、湘月、水馬――。rどれもこれも、一瞬の夢だったのではないかと、思ってしまう。
 あれは現実だったのか、夢だったのか。
 考える灯火の足元に、ヒラリと白いものが落ちた。それは一枚の香を染み込ませた上等の紙で、その表面には筆字で谷崎が助かったことが記されていた。




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

3041/四宮・灯火/女/1歳/人形


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■         ライター通信          ■
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『青瑠璃奇談』の世界へようこそ、ライターの陽介です。
依頼への御参加、ありがとうございました。
大変長らく、お待たせしてしまって申し訳ありません。
さて、今回は異界ということで、地界の城郭である遥城と、東京という二つの街を舞台に、
何時もとは、少し異なった雰囲気でお送りしてみたのですが、如何でしたでしょうか。
少しでも、お気に召して頂けたなら幸いです。

それでは、また、『青瑠璃』の世界でお会い出来る事を祈りつつ……。