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黒狼の鏡像
ブタペスト空港を定刻通りに発ち、パリでの乗り継ぎを経た便は、たそがれ時に成田に着いた。
旅行前のざわめきと緊張に満ちた出発ロビーとは打って変わって、到着ロビーには独特の気だるい雰囲気が漂っている。
非日常の終焉を惜しみながら無事に日常へ帰還できたことを安堵し、それでもまだ人々の表情には旅の名残が色濃い。
帰りの成田エクスプレスの時間を確かめているOLとおぼしきふたりづれは、東欧諸国とウィーンを巡るツアーに参加していたようだった。少し疲れが出た顔で、「百塔の街」プラハの迷路のように入りくんだ街なみを、聖ヴィート大聖堂第三礼拝堂のアルフォンス・ミュシャによるステンドグラスを、ウィーン国立歌劇場で楽しんだオペラを、言葉すくなに語り合っている。
しかしそれらは、すでに想い出に変わりつつある情景だ。
(旅行って、あっという間だね。明日から仕事かぁ)
(未入力の伝票が机に山積みだよ。やんなっちゃう)
(あたし、朝一で支店の売上集計しないと)
(今日は早く寝なくちゃね。……ねえ。見て、あの女の人)
彼女たちは同時に、ひとりの女に目をやった。
美しい黒髪の、どこの国籍とも知れぬ女性である。ささやかな寂寥が渦巻くロビーをまっすぐに突っ切って行くさまは、さながら海を割って歩くモーゼのようだ。
固い床に小気味の良いハイヒールの音を響かせ、ベージュのスプリングコートを翻し、重そうな手荷物をぬいぐるみでも抱えるように軽々と扱っている。
女はふと、立ち止まった。
その視線が、ひとりの男に据えられる。
ロビーの壁に寄りかかっていた黒いスーツの男が片手を上げた。どうやら出迎えに来ていたらしい。
形の良い唇をほころばせ、女はサングラスを外した。
あらわれた琥珀色の瞳と、髪をかき上げる仕草が、まるで名作映画のカット割りのように人目を惹く。
(うわぁ、綺麗な人。女優さんかな?)
(恋人が迎えに来てくれたんだ。いいなー。素敵)
失われていく旅の夢を惜しむOLたちは、せめてもの非日常を求めて囁き合うのだった。
◇ ◇
しかし。
彼女らがもう少し聞き耳を立てていたならば、それは大いなる誤解であることに気づいたであろう。
黒いスーツの男――藍原和馬は、空港に恋人を出迎えた男にはありえない台詞を放ったからである。
「師匠、お帰りなさいましッ! 無事に税関を抜けられたようで」
「……人聞きの悪い」
骨董品屋「神影」店主マリィ・クライスは、手荷物をまとめて和馬に渡した。それらはすべて、東欧とウィーンを回って買い求めてきた骨董品である。
マリィのほっそりした腕は、並の男では太刀打ちできない力を秘めている。受け取った荷物の重量感に、さしもの和馬さえよろめいた。
「うぉっ! 重っ!」
「丁寧に扱うんだよ。落として壊したりしたら承知しないからね」
「………………。……。はいっ! そりゃもう」
「なんだい、その不自然な間は。まさか、私の留守中に何かあったんじゃ?」
仕入れ旅行中の店番は、いつも和馬の役目だ。来客がない時の倉庫整理や掃除も含めて。
「そそそそそんなことないっス!!!」
あからさまに反応した和馬を、マリィは怪訝そうにうかがった。日程は伝えてあったとはいえ、いつもなら和馬は空港にまで出迎えに来たりはしない。店で待っているはずだ。
「わざわざお出迎えご苦労さま。で、何か隠してるね?」
「そんなことないっすよー。そ、そうだ。仕入れの首尾はどうスか?」
「悪くはないよ。ルネ・ラリックの香水瓶、林檎の花をかたどったティアラ、ドームの藻魚台花形ランプにスカラベ模様の花器。ウィーンの骨董市も捨てたもんじゃないね」
「それって、曰く付きの出物っすか?」
「いや、どれも普通のアンティーク。香水瓶に入れた中身が妖しい霧になったりしないし、スカラベが夜中に動き出して人の血を吸ったりもしない」
「そりゃ良かった。商売的にはまともな在庫も必要ですもんね。ささ、『神影』に帰りましょ〜」
「和馬、あんた……」
「あ、商品は俺が親切丁寧愛想良く運びますんで、師匠はゆっくり休んでください」
不審そうなマリィにかまわず、和馬は陽気にその背を押した。
◇ ◇
店に戻るなり、マリィはつかつかと倉庫に向かった。
後ろめたいところのある和馬は、さぞお疲れでしょう、肩でも揉みましょうかお茶でも入れましょうかと追いすがったが、無駄であった。
「――和馬」
在庫状況をひとめ見るなり、雪の女王のような凍てつく声が壁を震わす。
「はっ、はひっ!」
「右の棚にあったはずの『神路明鏡』が見あたらないねぇ?」
「そ、それはですねッ」
そう、マリィが旅立つ前は、そこには大きな鏡が置かれていた。異世界への道を開くといういわれを持つ、貴重な品であったのだが――和馬が掃除中に割ってしまったのだ。
真っ青になり、額に汗を滲ませながら、和馬は棚の上に手を伸ばす。
そこには「神路明鏡」とは似ても似つかぬ、手のひらに収まるサイズのコンパクト・ミラーがあった。
「形が変化して、こんなになっちゃったんですよ。携帯に便利で効能そのまま。いやぁ、不思議な鏡ッス!」
もちろんそれは大嘘である。このコンパクトは、とある公園へ出向いた際、奇妙な劇に巻き込まれる形で押しつけられた代物だった。
制作スタッフが良くも悪くも異様な力の保持者であったため、「効能そのまま」はあながち間違いではない。しかし、マリィを誤魔化すには苦しすぎる代用品である。
「よぉくわかった。あんたが鏡を無くしたってことは」
「……う」
「でもこれは、どこで手に入れたんだい?」
あっさり見抜かれてしまい、和馬はうなだれる。
「ええと、話せば長いことながら、都内某所の異界に、さる女神がおわしまして。俺が大事な鏡を落としたって言ったら、その、同情して別の鏡を手配してくれたんです」
事実をかなり脚色、というかほとんど創作しながら、和馬は身を縮めた。
「私がどこかのホテルで会った女神じゃないだろうね。あんたが誰と仲良くしようと構わないけど、友達は選んだ方がいいと思うよ」
コンパクトを取り上げ、マリィは裏表を返しては眺める。
「ふぅん。力作じゃないか。持ちやすい大きさだし、手にもしっくり馴染む。これを作った人はセンスがいいんだね」
「えぇぇっ!!」
「……何で、そこで驚くかね。うん、使い勝手も良さそうだ」
ぱちん。
蓋を開き、なおものぞき込む。和馬は慌てた。
「ああ、フタ開けちゃ駄目スよ! 異世界へのゲートができてしま……」
「何も起こらないよ? 私の顔が映ってるだけだ。……あらいやだ、こんなところにニキビ」
「ししょー。ハタチ過ぎたらニキビじゃないっす。それは吹き出物」
「そんな定番の突っ込みはいらないよっ! ほら、見てごらん」
「あれ、ほんとだ。俺の顔が映って……え?」
――俺じゃ、ない?
コンパクト・ミラーは、ほんの一瞬、不思議な光を放った。
それまで射影していたマリィの琥珀色の瞳と、和馬のびっくりまなこはかき消えて――代わりに。
漆黒の馬に乗った、黒衣の騎士を映し出したのである。
騎士は、暗い森をたったひとりで旅しているようだった。
つややかな黒い革鎧に上質の黒いマント。携えた剣の鞘さえも、黒光りする凝った細工のものである。
すみれ色の空に輝くのは、赤と青のふたつの月。
月光が照らす横顔が、驚くほど和馬に似ている。
「うわぁ〜! まさかこいつ、どっかの闇のドラゴンが俺と間違えてた、黒狼の誰かさんじゃ」
「……見たところ、異世界の情景だね。モンスターがうようよしてそうな森だ。あのそっくりさんはあんたの知り合いかい?」
「知り合いと言うか、一方的に知ってるっつーか。こいつのせいで人違いされてて大変なんスよ」
――おーい。聞こえるかぁ? 今、どこにいるんだァ?
――こっちに亡命したあんたの上司が探してるぞー?
鏡ごしの和馬の声は、騎士の耳に届いたらしい。
ゆっくりと辺りを見回してから、ひたとこちらを向いた。
さらに和馬が話しかけようとした、その時。
草むらの中から、巨大な蜘蛛が現れた。
蜘蛛は騎士の背後から忍び寄り、毛むくじゃらの脚を伸ばす。
「危ねェ!」
和馬が叫ぶと同時に、騎士は身軽に馬から飛び降りた。
地に足を着いた途端、その姿は一匹の黒狼に変わっていた。
そして蜘蛛は、牙を剥く黒狼に恐れをなして標的を変更し――
こともあろうに鏡のゲートを抜けて、「神影」倉庫内にやってきたのだった。
◇ ◇
「何だって帰国早々、倉庫でバトルしなきゃならないのさ!」
肩で息をしながら、マリィは左手の爪を引っ込める。
蜘蛛型モンスターの退治そのものは楽勝だったが、在庫を破損しないように気を配りながらの戦闘は難儀であった。
「やー、さすが師匠! 一撃必殺っスね」
マリィの行動が素早かったため獣化する暇もなかった和馬が、ぱちぱちと拍手した。
「誰のせいだと思ってるんだい……」
やれやれと覗いた鏡には、騎士の姿に戻った黒狼が映っていた。
黒衣の騎士はマリィに向かって微笑んだ。貴婦人に対するように片膝を折り、礼を取る。
そのあとでちらっと和馬を見たが、こちらには口の端で笑っただけだった。
そのままマントを翻し、馬に飛び乗る。
森の影に呑まれ、騎乗の騎士は瞬く間に見えなくなった。
「ちょっと待ったア! 俺には挨拶も礼もなしかよ」
「男はどうでもいいみたいだね。そんなところまであんたそっくり」
「あいつ、これからどこへ行くつもりかなぁ。ふらふらしてないでこっちに来てくれないと、いろいろ迷惑なんスけど」
巨大蜘蛛の死骸の後かたづけをしながら、和馬はぶつぶつぼやいている。
「何にせよ、友達は選ばないとねぇ」
コンパクトを閉じ、呟くマリィであった。
――Fin.
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