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サクラサケ
桜咲く季節は疾うに過ぎたと思ってたけれど遅れて咲く桜もある。
今からだってまだまだ遅くない。
――――サクラサケ。
◇◇◇
朝の陽射しに瞼を叩かれた――というよりは明らかに空腹で目を覚まして、シオン・レ・ハイはとぼとぼと“自分の家の庭”にある水飲み場で顔を洗った。
空っぽの腹が不平を唱えるのを大量の水で誤魔化して溜息を吐く。
たぷんたぷんと今にも音が聞こえてきそうな腹を抱え、彼は“自分の家の庭”にあるベンチに腰掛けた。
さて、いかにしたものか。
事態は切迫していた。日雇いか、或いは先払いしてくれるバイトか、はたまた食費支給のアルバイトを今すぐにでも見つけなければ、生命維持に関わる大問題だ。
だが如何せん腹が減って血流の悪くなった頭ではいい案が浮かぶわけもないらしい。
彼は“自分の家の庭”を行き交う人々を眺めながらそこはかとなく考えた。
犬の散歩をしている人を見やりながら【忙しいあなたの代わりに散歩引き受けます】などというアルバイトが脳裏を横切る。そういうのを昔何度かボランティアでやった事があった。いや、正確には1回500円が、気付いたらボランティアになっていただけの話なのだが。
再び彼は溜息を吐き出した。
朝のジョギングをしている人や、仕事か学校か何れにせよ足早に抜けていく人達を見ていると、何故だか段々意識がフェードアウトしていく。空腹ゆえか。
折りしも彼の座るベンチには春の柔らかい日差しが穏やかな陽気を投げかけていた。
春眠。そんな言葉が脳裏を過ぎっていった時には、既にシオンはうたた寝の中であった。
「Zzzzz……」
それからどのくらい経ったろう、先程犬の散歩をしていた人がまだ前を歩いているので、実際は一瞬の事なのかもしれない。ふと、彼の膝の上で日向ぼっこをしていた彼の垂れ耳ウサギが、そこから飛び降りた。
軽くなった膝の上に目を覚ましたシオンが慌てて立ち上がる。
「あぁ、待ってください……」
ウサギを追いかけた。
ウサギは軽やかな足取りで低木の間を抜けて“彼の家の庭”を奥へと入っていく。
ここに越してきて、もう3日も経つのに、広い庭をまだ全部見て回っていいシオンは迷子になりそうになりながら、見失うまいと自らも身を屈め小さくなって低木の隙間を抜けた。ウサギを追いかけ奥まった茂みを四つん這いで抜ける。
何とかウサギを捕まえた。
「もう、ダメですよ」
垂れ耳ウサギの頭を撫でてやる。
それからふと、顔をあげた。
「あ……」
彼は思わず驚きの声をあげていた。
目の前に一本の桜の木が立っている。
それが満開だったからだ。
もう“庭の”桜の木はどれも散ってしまっていたのに、その一本だけが、今を盛りに咲き誇っている。
シオンはウサギを抱き上げ、陶然と桜の木を見上げた。
時折吹くあたたかな春風が桜色の花びらを舞い散る雪のように降らせている。
「こんな所があったんですね」
奥まっている為か人気もなく、ひっそりと咲き乱れる桜に、シオンは自分1人で見ているのが勿体無くて、胸に抱いたウサギさんにお願いをした。
「キウィさんを呼んでください」
彼女にも見せてあげたいです。
◇◇◇
その“公園”の入口で可愛いピンク色のクロスリボンブラウスに、同じくピンクのトーションレーススカートを身につけ、褐色の肌に銀色のふわふわの髪をなびかせた、まだ小学生に入ったばかりと思しき女の子が、キョロキョロと辺りを見回していた。
どうやら人を捜している風だ。
広い公園内には多くの人がいる。
子供達が遊ぶような遊具は見当たらないかわりに、大きな噴水と、小高い丘のようになった芝生があった。そこでは何人かがフリスビーで遊んでいる。
ビニールシートを敷いて、お弁当の準備をしているような親子もいた。
噴水を囲むように並べられたベンチの一つに、目的の人物を見つけて走り出す。
「シオンちゃん!」
声をかけるとシオンが立ち上がって振り返った。
「キウィさん」
そう言って少女――キウィ・シラトの顔を覗き込むようにシオンは少しだけ腰を屈め微笑む。
「見せたいものがあるって、なぁに?」
キウィが期待に胸を膨らませたような顔でシオンを見上げた。それに意味深な笑みを作ってシオンは「ないしょです」と笑った。それで少しだけ頬を膨らませたキウィの頬を指で軽くつついてみる。それからおもむろに踵を返した。
「びっくりしますよ。こちらです」
シオンはそう言ってキウィを促した。
どこか納得のいかない顔でキウィがシオンの後をついていく。木々を抜け、低木の隙間を四つん這いになって公園の奥へと入っていくシオンに不審に首を傾げていると、ふわりと何かが舞い降りてきた。
キウィがそれに誘われるように顔をあげる。
そこには満開の桜。
「わあ……」
思わず感嘆の声がもれる。
「まだ、桜が咲いてる」
「はい」
シオンが笑顔で頷いた。
「綺麗」
キウィが嬉しそうに両手を握って見上げている。
それにシオンは提案した。
「お花見にしましょう」
「うん」
キウィが頷く。
「麗香さんにも見せてあげたいですね」
「そうだね」
お花見はたくさんの方が楽しいに違いない。キウィも賛同する。
しかしそこには1つ問題があった。恐らくあの敏腕編集長はシオンが誘っても120%くらいの確率で来てくれないだろう。
「キウィさん、誘ってきていただけますか?」
「いいよ」
「お願いします」
かくして、シオンはキウィを送り出したのだった。
とはいえ、まだ7歳の少女を、たとえ道のりが道路を挟んで100mしかなかったとしても、一人で行かせるのはちょっぴり心配なシオンである。
結局、彼はキウィを尾行する事にした。
「この短い距離で何かあるかもしれません。弘法の木登りです」
そう言って勢い込むシオンには、残念ながら、それを言うなら高名の木登りだ、と突っ込む者はいなかった。
「案の定、さっそく愛らしい少女に魔の手が伸びました」
たとえばその魔の手とやらを伸ばした男が、地図を片手に遠征バッグを肩に担いだ、見るからに旅行者風で、先ほどから何度も道ゆくサラリーマンに声をかけては、忙しいので、と断られ続けているような男だったとしても、電信柱の影からキウィしか見ていないシオンには知りようのない事であった。
男がキウィに声をかけた。
それだけでシオンには男が立派な幼女誘拐犯に見えたのである。
シオンは走り出した。
とはいえ、キウィに尾行を悟られるわけにはいかない。
彼は風になった。
風がキウィの目の前を凄まじいスピードで吹き抜けていった。
道を尋ねてきた男を攫ってである。
後に残されたキウィが、忽然と消えてしまった男に首を傾げていた。
一方、風になっていたシオンはとりあえずビルの影に男を連れ込むと首を絞めん勢いで、男に掴みかかった。
「わ…あぁぁぁ!!」
男が驚いて両手をあげる。
「キウィさんをどうするつもりだったんですか?」
シオンがどすのきいた低い声で詰め寄った。
「ど…どうするって、どうもしませんよ。ぼ…僕はただ道を聞いていただけで……」
「道?」
シオンは手を離すと男が差し出す地図を覗き込んだ。それから男の顔を見て、どうやらこの男の言に嘘がないらしい事を悟る。
シオンはばつが悪そうに舌打ちした。
「紛らわしいことしないでください」
勝手に間違えておいて、酷い言い草である。
「紛らわしいって……それより、ここ、どこだかわかりますか?」
男は辟易しながら、それでもシオンに道を尋ねた。
「自分で捜してください」
シオンは冷たく男をあしらって、既に通りの方へ歩き出している。
「は?」
「私は忙しいんです。……まったく、こんな事をしている間にキウィさんを見失ってしまったじゃないですか」
呆気にとられる男を残してシオンは路地を出ると辺りをきょろきょろ見渡した。目的地はわかっているのだから、そこまでの道を追いかければいい。
興味の対象物しか映さない彼の特殊な目が、4車線道路を挟んだ大通りの向こうにキウィを見つけた。
急いでそちらへ向かう。
たとえば、そこにある4車線道路はお構い無しだ。
だってそんなものが、自分たちの間に天の川の如く立ちはだかってるなんて、彼は全く気付かなかったのだから。
交通量の激しい大通りを横断するように駆け出したシオンに、横合いから2tトラックが突っ込んできた。
それを殆ど紙一重で交わす。
悪運は強い方だ。
だが、それもどうやら尽きたらしい。
公園から子ども達が遊ぶサッカーボールが飛んできて、シオンの後頭部を直撃したのだ。
前に転んだシオンを、急に止まれない車が容赦なく踏み越えていった。
「ぐえっ」
カエルが踏み潰されたような声をあげてつぶれるシオンに都合5台の車が通り過ぎていく。
運転手達が慌てて飛び出してきた。
しかし、幸いというべきか、シオンは車にはねられたわけではない。自分で転んでアスファルトに叩き付けられたのだ。その衝撃は膝小僧に軽い擦過傷を作っただけであった。後は車の圧迫だが、4輪ある内の1輪づつに踏まれた事で、彼にかかる力が分散した事などが重なって彼は骨も折れず、背中にタイヤの跡をつけるに留まった。もしかしたら、9割ぐらいは彼の中に流れるパパやママの血のおかげかもしれない。
とにもかくにもシオンは立ち上がった。
「おぉ〜」
周囲から喚声と拍手が沸き起こる。
「もうすぐ救急車がくるからな」
元気付けるような声が届いた。
しかし、シオンはそれどころではない。
彼は、周囲の心配をよそに歩き出した。
視線は右へ左へ何かを捜すように動いている。
言わずと知れたキウィだ。
救急隊員がやってきて、シオンを救急車へ運ぼうとするのを振り切って、シオンはそちらへ駆け出した。
麗香の勤めるアトラス編集部のあるビルだ。
その一階のガラス張りの向こうに受付ロビーが見える。そこにキウィを見つけてシオンはホッと安堵した。
公園から道を挟んで100m。
しかし、なんと危険の多い道のりであったろう。
帰りは麗香と一緒である。
シオンはホッと胸を撫で下ろして帰途についた。
横断歩道のあたりには、先ほどの救急車と救急隊が屯している。
シオンはそれを横目に歩道橋をのぼった。
帰っていく救急車を見ながら、歩道橋を渡る。
歩道橋を降りる階段。その一番上に、何の脈絡もなく、何の説明もなく、用意されたようなバナナの皮が落ちていた。
「あっ……」
彼は今までで最もハイスピードで歩道橋の階段を下りたのだった。合掌。
◇◇◇
キウィに連れられて碇麗香が自分のオフィスのあるビルの向かいの公園に来て見るとベンチに、ぼろぼろ、というようりは、血みどろになった男が座っていた。
キウィに誘われた時点で、何となく気付いてはいたが、無意識に肩を竦めてしまう。
その背中から滲み出る哀愁が何とも物悲しくて、気合の一発でも入れてやりたくなった。
だから麗香は容赦なく気合の一蹴りを入れてみた。
「何やってるのかしら?」
腕を組んで声をかけると、振り返ったシオンが麗香を見つけて嬉しそうに声をはずませた。
「あ、麗香さん」
「シオンちゃん、どうしたの?」
先程とはあまりに変わり果てたシオンの姿に、キウィが心底不思議そうな顔を向けている。
「あ、いえ、大丈夫です」
キウィを振り返りシオンは擦り傷だらけの顔で笑顔を作った。心なしかあちこちが痛そうに引きつっている。
「じゃぁ、行きましょうか」
シオンが立ち上がって麗香たちを促した。
「桜なんて本当にまだ咲いてるんでしょうねぇ?」
麗香が尋ねる。嘘だったらただじゃおかないぞ、という顔つきだ。
公園は見渡す限り葉桜であった。編集部の窓からこの公園が見えるのだが、咲いてる桜などどこにも見当たらないのである。
「こちらですよ」
そうして、3人は満開の桜の元へ訪れた。
「本当……。これ、八重桜ね」
麗香が、半ば呆然としながら満開の桜を見上げて言った。キウィから聞いていても、話半分くらいにしか信じていなかったのだ。何故、この場所がビルの上から見えないのだろう、と首を傾げる。
「これ、八重桜っていうの?」
キウィが麗香を見上げて尋ねた。
「えぇ。普通の桜より開花時期が遅いのよ」
麗香がキウィの頭を撫でながら応えた。
遅咲きの八重桜。皆が咲き綻ぶ時には蕾をかたくして、皆が散った頃、今を盛りに咲き誇る。
みんなよりも少しだけ遅れて、それから慌てて咲くのだ。
「まるで誰かさんみたいね」
呟いた麗香にシオンが振り返る。
「はい?」
「何でもないわ」
まるで、早く咲いてみせなさいよ、と口走りそうになった言葉を飲み込んで、麗香ははぐらかすように言った。
「で、お花見というからには、お花見弁当くらい用意してあるんでしょうね?」
「え?」
麗香の言葉にシオンは血の気が引いていく。
勿論、そんなものあるわけがない。水筒どころか、一円玉一枚持ってないのだ。どうやったらそんなものが用意できるというのだろう。
「しょうがないわね。サンドウィッチでも買ってくるか。キウィちゃんは何がいい?」
麗香がキウィの顔を覗き込む。
「はい。キウィは卵サンドがいいです」
答えたキウィを微笑ましげに見やって頷くと、麗香はシオンを横目で振り返った。
「で、あなたは?」
「え? 私ですか? あ、あの……私はお金が……その……」
しどろもどろになっていくシオンに、麗香がそんな事はわかってるわよという顔つきで、冷たく言う。
「後で体で払って貰うから」
「は、はい! 頑張ります!」
かくして3人はサンドウィッチを食べながらお花見を楽しんだのだった。
*大団円*
■おまけ■
就業時間を7時間ほど前に過ぎた編集部で、編集長のデスクの前にみかん箱を置いて校正の仕事をしていたシオンが、帰り支度をしている麗香に声をかけた。
「あ、あの、それで私の仕事はいつまで続くんでしょう?」
「校了までよ」
「それ、いつですか?」
「来週の月曜」
「が…頑張ります!」
何とも高いサンドウィッチであった。
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