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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


逃げた黒猫 - Tales of EA 1 -


 木枠のガラス戸を開けると、上のほうで鈴か鳴る。
「いらっしゃいませ」
 店の奥にあるカウンターからやわらかい声が迎えた。
 ガラスポットに入った茶葉が並んだ棚を背後に、金髪の店主が頭を下げる。
 中国雑貨と茶の店である北庭苑の店内には、茶葉と点心の香りがする。
 カウンターに向かうと店主、典・黒晶(でぃあん・へいしぁん)は柔らかい笑みを浮かべる。
「新しい緑茶が入りましたよ。碧螺春(ピールォチュン)と言うんですが、いかがですか?」
 緑茶もいいが、と黒晶に話す。
 白紙の論語を見せてもらいたい、と。
 黒晶は笑顔を崩さずうなずく。
「ええ、どうぞ」
 カウンターの内側に招かれる。
 回り込んで入ると、客からは見えない位置、カウンターのすぐ下にノートパソコンが開かれていた。
 黒晶が少し声を落とす。
「――少し、急ぎのことがありましてね」
 言われて、液晶の画面に表示されている内容を読む。
 声に出さず、内容もすべて暗記。それがここでの取り決めのひとつだった。
 黒晶が独自のネットワークで集めているという、特殊な能力者への仕事の仲介。
 大概仕事は複数あるようだが、今回のは急を要するらしい。
 画面には仕事の内容が記されていた。

 依頼種別:捜索(動物)
 対象:日本猫 短毛 毛色黒 金目 体長二十八センチ 体重三.二キログラム
 特徴:赤色の皮製首輪に、二センチ×三センチの金属プレートを下げている。
 プレートには識別番号「EASM0508」の刻印あり。
 依頼者:某研究機関
 依頼内容:逃げ出した実験動物の捕獲。
 人に危害を加える可能性が高いため、急ぎの捕獲を希望。
 生きての捕獲を望むが、難しいようであれば生死は問わない。
 ただし、できるだけ損壊のない状態での引き渡しを望む。

 依頼内容に続いて、黒猫の写真が数枚表示されている。
 と、黒晶が小さなビニール袋をパソコンの側に置いた。
 ジッパーつきのそれに入っているのは、小さな金属プレート。
「今朝、ある病院の敷地内にあったそうです。発見は二時間前ですから、まだ対象がいる可能性はあると思いますよ」
 手にとってプレートの文字を読むと、「EAMS0508」とある。
 黒晶がマウスを動かし、一枚の画像を表示させる。
「病院の見取り図です。発見場所はここでした」
 示す先は広い敷地内の北側、病棟の裏にある小さめの建物の前だった。
「この建物は併設された幼稚園ですが、現在は廃園となっています」
 なるほど、と思う。
 それならば猫が隠れる場所はいくらでもある。
 仕事を受けようと話すと、黒晶は笑みを収めた。
「わかりました。ですが独自に調べたところ、この猫はかなり知能が高いようです。ただの猫探しのようにはいかないかもしれません」
 知能が高くて人に危害を加える、というのは確かに危険で、緊急性があるというのも頷ける。
「何かありましたらうちの従業員もお手伝いしますので、よろしくお願いします」

■■■

 中国緑茶の、果物のような甘い香りが店内に広がる。
 店主、典・黒晶が淹れた緑茶、碧螺春(ピールォチュン)を一口飲み、セレスティ・カーニンガムは小さな青磁の湯飲みを円卓に置いた。
 そして、卓上に置かれた金属プレートに視線を落とす。
「では、始めましょうか」
 言った言葉に、同じく円卓についたそれぞれシュライン・エマ、赤羽根・希、黒榊・魅月姫の三人がそれぞれに頷く。
「お願いするわ」
 落ち着いて言うシュラインとは対照的に、希は好奇心で目を輝かせている。
「面白そー」
 その隣に座る魅月姫は泰然として湯飲みを口に運びながら、無言でセレスティの手元を見つめている。
 店主である黒晶は、先ほど四人をそれぞれ簡単に紹介し、茶を出したあとはカウンターの奥から出てこない。あまり口出しをしないつもりのようだ。
 その黒晶の許諾を得て捜索対象の黒猫、EASM0508のものと思われるプレートをセレスティは預かっていた。
(具体的な移動経路などがわかればいいのですが)
 セレスティは冷たいプレートに触れ、そこに残留しているだろう情報を読み取ろうと、目を閉じて意識を集中した。
 最初に感じたのは、強い緊張感だった。
 続いて、おぼろげにどこかに向かおうという意志があり、そして狭い空間を通る映像が浮かぶ。
 すぐに開けた空間に出て、景色は銀色の大きな壁に囲まれた場所へと変わった。
 続けていくつかのイメージが浮かぶ。
 ビニールでパウチされた数種の物体と、缶詰。
 食料品の類だとすぐにわかった。
(なるほど、そういうことですか)
 セレスティは納得する。
 と、そこで不意にイメージが乱れた。
 瞬間的に景色が流れ、視界に遠く人の姿が見える。
 それがパジャマを着た少女だと見ると同時に、焦りと緊張が湧き上がる。
 そして安全な場所に移動させなければ、という思いが走り、景色が飛ぶ。
 直後、思考とイメージは途切れた。
 セレスティはゆっくりと目を開ける。
 希が待ちかねた様子で身を乗り出してきた。
「ねね、何かわかった?」
「ええ、一番新しい情報を読み取りました。どうやら、食べ物のある場所を気にしていたようです。その後目撃されて、逃げようとしてこのプレートを落としたようですね」
「食べ物のある場所というと、売店とか調理室かしら?」
 プレートを注視しながら、シュラインが言う。
「恐らく調理室でしょう。業務用の冷蔵庫やオーブンの類に見えましたから」
「他に何かありましたか?」
 魅月姫に言われ、セレスティはプレートを持ち上げて皆に見えるようにした。
「これを身に着けていた猫は、思考がかなり複雑で冷静でした。視点は低いのですが、成人の見たイメージと変わりありません。知能が高いということでしたが、判断力などもあるでしょうね」
「なら、人間の大人相手だと考えたほうがいいのかしら」
 シュラインが飲み終えた湯飲みを置きながら言うのへ、小さく頷いてみせる。
「恐らくは。思考面では、野生動物としては考えないほうがいいですね。もちろん猫としての特性はあるでしょうし、その辺りはこちらに有利だとは思いますが」
 希が軽く眉を寄せて、難しそうな顔をする。
「うーん、普通のにゃんこじゃないだろうとは思ってたけど、大人相手と同じかぁ。ちょっと大変そうだね」
「でもそれなら逆に、行動の予想が立てられないかしら。成人ならば意図的に人目を避けて行動するでしょうし、そうなると夜間に移動したりとか、そういった見当がつきそうだわ」
 シュラインの言葉に、セレスティは先ほど読み取った情報の断片を思い出した。
 読み取った情報に移動しなければという思いが感じられたが、そのときのイメージは夜と思われる暗いものだっだ。
 それを言うと、やはり夜に移動する可能性が高いだろうと、皆の意見が一致した。
 と、そこでいつの間にかカウンターから出てきていた黒晶が声をかけてきた。
「失礼します、お代わりはいかがですか?」
 手にしている盆には、湯飲みと揃いの青磁の急須が載っている。
 それではとセレスティが頼むと、黒晶は茶を注ぎながら、
 ふと、それまで黙っていた魅月姫が黒晶に問いかける。
「その黒猫は、どのような実験に係わっていたのですか?」
 黒晶が少し考えるような間を置き、それから口を開いた。
「私の方でわかっているのは、情報の収集と、意志及び情報の伝達≠ニいう内容のようだということです。つまり情報を認識、記憶する能力と、それを他者に伝える能力の開発ですね。実験の過程で、その情報の送受信が可能なユニットを額に取り付けられています」
「ユニットですか。それは目立つ形をしているのでしょうか?」
 セレスティが聞くと、黒晶は首を傾げた。
「直径一センチほどの、透明なクリスタルに似た円盤状のものだということです。額の中央にあるので見ればわかると思いますが、暗がりではわかりにくいかもしれませんね」
「そっか、でも一応目印にはなるね。にゃんこってちょっと見ただけじゃ、顔とかあんまりわからないからね」
 いいこと聞いた、と希が頷く。
 セレスティも先ほど記憶した猫の特徴に、そのユニットのことを加える。
 そして新しい緑茶を飲みながら、ふと依頼にあった生死を問わず≠ニいう条件を思い出した。
(生き物ですから、なるべくなら命を絶つようなことはしたくないですね)

■■■

 総合病院の裏手にある廃園となっている幼稚園に、シュラインは魅月姫といた。
 時刻はそろそろ日付が変わるころだが、街灯と病院の明かりにより、周囲は歩行に困らない程度には明るい。
 シュラインは片手に猫用のケージとICレコーダーを持っていた。
(効いてくれるといいのだけど)
 レコーダーに録ってあるのは、猫が嫌がるとされる高周波の音だった。
 誘導用のつもりだが、音量を上げれば多少の攻撃にもなる。
 ポケットにはマタタビスプレーも用意してある。
(子守唄なんかでなだめられればと思ったけど、そうもいかないみたいね)
 黒猫、EASM0508に成人並みの思考力があるとわかり、最初に想定していた手段の一つは使えなくなった。
 しかし、それ以外にも手段はある。
 できれば可能な限り怪我をさせずに保護したいとシュラインは考えていた。
「外にはいる気配はありませんね」
 魅月姫に言われ、シュラインは北庭苑で見た幼稚園の見取り図を思い出す。
 東西に長い形の建物は四つの教室と東端に職員室があり、それをつなぐ廊下が北側にあるだけの単純な造りだ。
 教室は全て南側に大きなテラス窓があるが、雨戸が閉められていて中の様子を伺うことはできない。
 二人は足音を忍ばせ、裏口のある職員室へ向かった。
 ほどなくして裏口へ着き、シュラインは外壁に耳をつけて中の音をうかがった。
 裏の道路を走る車の音、病院から聞こえる機械類の音などにまぎれて、かすかに物音がする。
 軽いものが床を移動するわずかな音と、たまに小さな唸り声。
 しかし問題は、それが複数聞こえることだ。
 足音の種類で判断しただけでも、十種類は越すだけの存在がある。
「いるようだけど、どうやら一匹じゃないようだわ」
 シュラインが小声で言うと、魅月姫が一歩踏み出す。
「私が先に行きましょう。何か聞こえたら教えてください」
 その手には、いつの間にか小さな鍵が握られている。
 幼稚園や病院関係の鍵は昼間のうちに黒晶が手配を済ませていて、病院内への立ち入り許可も得ているという話だった。
 魅月姫が預かっていた鍵で開錠し、静かに裏口のドアを押し開ける。
 外からの明かりに、埃の積もったマットや下駄箱が浮き上がる。
 その床に、無数の小さな足跡があるのをシュラインは見た。
(野良猫の溜まり場になってるという情報はなかったけど……)
 よく見れば、どの足跡も埃をかぶっていない。
 恐らく、ごく最近のものばかりなのだろう。
(今日になって急に猫が増えたということかしら。危険を感じて呼び集めた、とか?)
 考えながら、シュラインは先行する魅月姫の後に続いた。
 なるべく静かに移動しているものの、厚く積もった埃はすぐに舞い上がる。
 くしゃみが出そうになって、シュラインは開いている手で口元を覆った。
(虫、は出ないわよね、多分)
 シュラインは苦手な生物の姿を想像しそうになり、思考を振り払う。
 調理室へ行くのでなくてよかった、と思っていたことは秘密だ。
 そうして裏口から進むと、東西に伸びる廊下に突き当たった。
 正面は教室だったのか、引き戸に模造紙で作ったものが貼ってあったようだが、色あせ破れて何の形だったのかわからない。
 突き当たりの手前で魅月姫が止まり、軽く左右を伺った。
 と、右手の廊下で何かが動いた。
 見ると、茶色っぽいの猫が一匹、威嚇の気配を見せながらこちらへ近付いてくる。
「気付かれているみたいですね」
 魅月姫が静かに言い、シュラインへ下がっているようにと軽く手を振る。
 その間にも続々と、猫たちが姿を現し始めた。
 トラ縞の猫、三毛の猫、そして黒い猫も、様々な毛色と大きさの猫たちが、シュラインと魅月姫のほうへ集まってくる。
 ざっと見たところ二十匹はいるだろうか。さすがにこれだけ集まると威圧感がある。
 それぞれにシュラインたちを見ながら全身と尾に力を入れて、警戒の様相を見せている。
 シュラインは軽い緊張で手に持ったレコーダーを意識しながら、猫たちを見た。
 黒猫も何匹かいるが、どれが目的のEASM0508なのか、判別し難い。
「どれが本物かしら……」
 言うと、魅月姫が背を向けたままで答えた。
「いえ、額にユニットがある猫はいないようです」
 夜目が効く彼女の言葉をシュラインは信用する。
「なら、囮か何かかしら」
「そうかもしれないですね。とりあえず対象は違いますけど、打ち合わせの通りに足止めをしましょうか」
「ええ、お願いするわ」
 頷くと同時に、猫たちの足下が揺らいだ。
 外からの明かりで伸びていた影が生き物のように体を起こし、次の瞬間には縦横無尽に猫たちに絡みついた。
 一斉に上がる混乱と驚愕の猫の鳴き声。
 すかさずシュラインは、魅月姫の影が封じた上からマタタビスプレーを思い切り噴射した。
 すると鳴き喚いていた猫たちの声が一転、喉を鳴らした間延びする鳴き声に変わる。
 二十数匹の猫がマタタビに酔って転がっているのはあまり見られない光景で、シュラインは知らず小さく笑みを浮かべた。
「これでしばらくは大丈夫ね。一度出て、作戦を立て直しましょうか」
「そうしましょうか」
 頷く魅月姫は無表情だが、ごくかすかに笑みを浮かべているような、そんな気がシュラインはした。
 改めて辺りを見ても、影に絡み取られながらも喉を鳴らして気持ちよさそうな猫たちは、やはり自然と笑みを誘ってしまう。
(怪我がなくてよかったわ)
 そう思い、しかしまだ本当の目的である黒猫を見つけられていないことを忘れたわけではない。
 シュラインは短く息をついて、気持ちを切り替えた。

■■■

 薄暗い病院の廊下を、希はセレスティと静かに進んでいた。
 地階は病室がなく職員の出入りも深夜はないということで、照明が消されている。
 非常灯の弱い明かりだけを頼りに、希はなるべく音を立てないように歩いた。
 しかし性格上あまり隠密行動に向いていないために、こうして息を詰めて行動していると妙に落ち着かないような気分になる。
(うーん、なんかそわそわする……でも我慢っ)
 ちらりと後ろを確認すると、セレスティはステッキを使いながらも足音一つ立てずに移動している。
 突発的なことがないかぎり大丈夫だろうと思いながらも、希は念のため周囲を警戒しながら更に進んだ。
 そして、片手に下げたジップアップのポリ袋を持ち直す。
 二十センチ角ほどのそれにはマタタビの実が一杯に詰まっていた。
 病院で合流した後、セレスティから預かったものだ。
 今回の依頼を受けた四人とも、なるべく対象を傷つけずに保護したいという思いで一致していた。
 そのため北庭苑で前もって打ち合わせたときも、なるべく争いを避ける選択をした。
 希も自身の能力である炎を直接は使いたくなかった。
 それならとセレスティに提案されたのが、この大量のマタタビだった。
(生きてるんだもの、できるだけ大切に扱ってあげたいよね)
 うん、と胸中で頷き、希は気を引き締める。
 そうして進んでいくと廊下はL字に折れ曲がり、その突き当たりに目的のドアがあった。
 窓の無い鉄製の開き戸に、栄養管理室≠ニ書かれたプレートが貼られてある。
 希は北庭苑で見た、病院地下の見取り図を思いだす。
 このドアの向こうに手洗い場と下駄箱があり、その奥に引き戸で仕切られて調理室がある。
 希は足を止め、後ろから来たセレスティに場所を譲った。
 セレスティが取り出した鍵を差し込み、音を立てずに開錠する。
 その間希はドアに耳をつけて向こうの音を伺った。
 しかし意外と密閉性が高いらしく、向こうの音は全く聞こえてこない。
 逆に言えばこちらの音も聞こえないということで、
(それはそれで、都合いいかも)
 セレスティが鍵を抜いて頷いて見せ、希はゆっくりとドアを開けた。
 こちらも廊下と同じく非常灯の明かりのみで照らされている。
 希は顔だけを覗かせたまま少し待って、動くものが無いことを確認してから中に踏み込んだ。
 難なく調理室の引き戸の前までたどり着き、取っ手側に身を寄せる。
 少し遅れてセレスティが来るのを待ちながら、希は手にしていた袋の中からマタタビの実を掴み採った。多少周囲に実がに落ちたが、気にしない。
 両手一杯に実を乗せ、希は手のひらに意識を集中した。
 ややおいて、マタタビの小山から白い煙が立ち始める。
(うん、ちゃんとできた)
 瞬間的に燃やすのではなく、いぶす程度の火力を出すには少し集中が必要だったが、なんとかできた。
 量があるからか、漢方薬にも似た匂いが辺りに立ち込める。
 煙が立ったのを確認して、セレスティが戸を数センチ引きあけた。
 希は両手を隙間に近付けて大きく息を吸い、強く吹きつける。
 煙が調理室に流れ込む。
 およそ一呼吸する間そうしていると、かすかに中から物音がした。
(いた!)
 希はマタタビを持った両手で戸を引き開け、駆け込んだ。
 もう息を潜める必要はない。
 セレスティがスイッチをいれ、調理室の明かりが点く。
 まぶしさに目を細めて確認すると、業務用冷蔵庫の前に黒い猫がいた。
 黒猫は倒れてこそいないものの、足下がおぼつかない様子でよろめいた。
 希は猫から目を離さずに、マタタビの山を片手に掴める分だけ残して床に置く。
 薄明かりの中で、黒猫の額に透明な粒のようなものがついているのがわかる。
「あれが、例のにゃんこかな?」
「額にユニットがあるようですから、恐らくそうでしょう」
 セレスティが背後から答える。
 希は警戒しながら、黒猫に近付いた。
 猫はすでにまっすぐには立てない様子で、冷蔵庫にもたれかかっている。
「よしよーし。怖くないよー」
 白い煙を上げるマタタビを前に出しながら、希は黒猫EASM0508の前に膝をついた。
 そのまま首筋を掴もうとした瞬間、猫はバネ仕掛けのように高く飛び上がった。
「えっ」
 動けないと思い込んでいた希は、反応が遅れた。
 頭上を越す猫の体を目で追うのが精一杯で、後ろを振り向いた時には黒猫は調理室のドアを抜けていた。
 セレスティが通路を塞ごうとしたようだったが、もとより足の良くない彼にそんなことをさせるつもりはなく、ただ自分の迂闊さに歯噛みする。
(油断した!)
 マタタビを投げ捨て、希は立ち上がるのももどかしく駆け出した。
「後から来て!」
 セレスティに叫んで廊下へ出ると、希たちが来た昇降口の方へ黒い小さな影が走るのが見えた。
 しかしさすがに大量のマタタビが効いているのか、追いつけない速さではない。
 希が階段を登りきると黒猫は、幼稚園へと続く裏庭の中ほどまで駆け抜けていた。
(逃がさないんだから!)
 全力で走りながら、希は両掌から真紅の炎を生み出し、猫に向かって投げつける。
 薄暗がりに、紅蓮の炎が舞った。

■■■

 魅月姫がシュラインと幼稚園の表に回ると、踏み固められた地面に炎が円を描いて燃え上がっていた。
 赤い炎の中心には、一匹の黒猫。
 希の能力であろう炎は消える気配もなく、かといって燃え過ぎることもなく一定の高さで保たれている。
 その中央にいる黒猫の足取りがふらついているのは、おそらくマタタビが効いているのだろう。
 そしてその向こうには希が猫と向かい合い、後ろからセレスティが歩いてくる。
 魅月姫たちに気付いたのか、黒猫がこちらを向いた。
 炎に照らされたその額に小さなクリスタルに似た輝きがあるのを、魅月姫は確認した。
(どうやら、本物のようですね)
 魅月姫は炎を挟んで、希たちと相対する方向に立った。
 シュラインも横に並び、向かいの二人に声をかける。
「二人とも怪我はない?」
「ないよー。そっちは大丈夫?」
 希の明るい声を聞きながら、魅月姫は猫を見つめた。
 黒猫は魅月姫たち四人を見比べるように頭を動かし、そして最終敵に魅月姫の方を向いて低く構え、警戒の唸りを上げた。
(戦闘能力を見極めた、ということでしょうか?)
 四人の中では確かに、魅月姫が一番戦闘に関する能力が高い。
 希も炎に関する能力を持つが、危害を加える気が無いというのを読み取ったのかもしれない。
 魅月姫は少し考えてから、三人へ声をかけた。
「少し話をしてみます」
 北庭苑での打ち合わせで、魅月姫の能力の一つである念話で話を聞いてみようと決めてあった。
 意志の疎通が可能であれば事情を聞いてみたいと、そう言い出したのは魅月姫本人でもある。
「ええ、お願いするわ」
「うん、よろしく!」
「お願いします」
 三人がそれぞれに頷くのを確認して、魅月姫は黒猫EASM0508へ念話を送った。
『私と話をしませんか。危害を加える気はありませんから』
 思念を感じたのか、黒猫が小さく首を跳ね上げた。
 魅月姫は更に思念を送る。
『貴方は会話が可能だと思いますので、私に向けて思考していただければ、こちらにわかります』
 黒猫は、半歩下がった。
 魅月姫はその金色のめを見つめて、返事が来るのを待った。
 二呼吸ほど間をおいて、静かな思考が魅月姫に向けられる。
『危害を加えないなら、なぜ私を追う?』
『貴方を捕獲するように依頼を受けましたから。ですが、乱暴なことはしたくありません。貴方の事情も聞いて、判断したいと思います』
 魅月姫の思念にひとまず攻撃はないと判断したのか、黒猫は尾を下げた。
 だが全身の警戒は解いていない。
 と、黒猫から若い男の声が響いた。
「依頼ならば遂行しなければならないだろう。私と話をすることに利益があるのか?」
 一瞬顔を見合わせる四人。
「うそ、喋れるの?」
 希が驚きの声を上げる。
 魅月姫は猫を見ていたが、その口が動いた様子はない。
 シュラインが首を傾ける。
「精巧だけれど、電子音ね。何かの出力装置があるのかしら?」
 黒猫が頷くような動きをして、青年の声が答える。
「一応、外部出力のスピーカーがあるのでね。改めて言うと、私は君たちの目の前にいる、猫と呼ばれる動物の形をしたものだ。ところで、私の質問に答えてもらえないか?」
 魅月姫はほんのわずかに、表情を柔らかくしてみせる。
 傍から見ればほとんど無表情と変わらないだろうが、それでもこの黒猫には通じるかもしれない、と頭の片隅で思う。
「私は人間とは違います。一般的な損得、利益では動きません。単純に貴方に興味があるのではいけませんか?」
「興味か。確かに、君は普通の人間とは違う気配がする。しかし、依頼のほうはどうする。不履行では君らに損害が発生するだろう」
 言う黒猫へ、セレスティが語りかける。
「単純に不履行ではそうなりますが、私たちは何種類かの状況を想定してこちらに来ました。よければ事情を話していただけませんか?」
 黒猫が逡巡するように黙った。
 魅月姫たちも静かに答えを待つ。
 少しして、ようやく青年の声が答えた。
「全を話すことはできないが、しかし、私はあの場所に戻るわけにはいかないのだ。どうしても守りたいものがあり、研究所に戻ればそれは失われてしまう。それだけは、私は命に代えても阻止すると決めている」
 黒猫は、再び尾を緊張させる。
「君たちが私を連れ帰るというのであれば、私は全力で抵抗する。現に、私を捕獲しようとした研究所の人間には重傷者も出ているだろう。例え君たち全員には敵わずとも、道連れの一人は得て逝くつもりだ」
 臨戦の構えを見せる黒猫に緊張感が高まり、希が表情を引き締めるのが見えた。
 魅月姫は、大丈夫だと彼女に頷いてみせながら、依頼の時に聞いていた情報を思い出していた。。
(危害を加える可能性、とはそういうことだったのですね)
 守るもののために戦う、その心意気を魅月姫は評価した。
 最初は、黒猫に共に来ないかと誘うつもりだった。
 しかし話を聞く限りでは、この黒猫はその「守りたいもの」から離れるようには思えない。
(それもいいでしょう)
「なら、こういう策はどうですか?」
 続けて話す魅月姫の提案を最後まで聞いてから、黒猫は首を傾げた。
「君は、いや君たちは変わっているな。私が今まで接した人間たちとは何かが違うようだ――この世は茨の道ばかりではないのだな」

■■■

 北庭苑店内には、昼間と同じ四人が集まっていた。
 深夜のため営業時間は過ぎているが、依頼遂行の報告にと*
「では、確かに」
 黒猫の入ったケージを受け取り、黒晶が頷いた。
 ケージ内の猫はうずくまり、時折耳を小さく動かす。
 その様子を見た黒晶が何気ない世間話かのように口を開いた。
「ところで、彼は結局どうしました?」
 シュライン、希、セレスティ、魅月姫は互いの顔を見る。
 シュラインが微笑を浮かべる。
「守りたいものがあるからと、そう言って立ち去ったわ。幸せになれればいいのだけど」
 希も、嬉しそうな笑顔で頷く。
「でもすごいよね、魅月姫の力。本当にそっくりな黒猫創れる――っと、今のなし、内緒っ」
 セレスティがそっと魅月姫へ問いかける。
「よかったのですか?」
 魅月姫は静かに頷く。
「あれ≠ヘいつでも回収できますから。それに、彼には私の探し物の情報を得た場合、必ず提供してくれるという約束もしました。問題はありません」
 四人の言葉を聞き終えて黒晶が柔らかい笑みを浮かべる。
「皆さまお疲れさまでした。宜しかったら暖かいお茶を煎れますので、お掛けになって下さい」
 じきに中国緑茶の果物のような甘い香りが、店内に広がり始めた。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086 / シュライン・エマ(しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2734 / 赤羽根・希(あかばね・のぞみ) / 女性 / 21歳 / 大学生/仕置き人】
【1883 / セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ) / 男性 / 725歳 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【4682 / 黒榊・魅月姫(くろさかき・みづき) / 女性 / 999歳 / 吸血鬼(真祖)/深淵の魔女小学生】

*受注順 

NPC
【典・黒晶(でぃあん・へいしぁん) / 女性 / 26歳 / 「北庭苑」店主&仲介屋】


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■         ライター通信          ■
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四度目のご参加ありがとうございます。
こんにちは、ライターの南屋しゅう です。

今回は皆様共通の描写となっております。
場所をご存知の方がいらっしゃいましたので、案内役の出番はありませんでした。
また当初は戦闘ありの予定でしたが、
皆様なるべく穏便な対応をとのことでしたので、このような結果となりました。
いかがだったでしょうか。
至らぬところも多々あると思いますが、楽しんでいただけましたら幸いです。

尚、第二話となる「Tals of EA 2」は、日を置きまして草間興信所にて募集の予定です。
ご参加、お待ちしております。