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<東京怪談ノベル(シングル)>


 □とある春の日朝昼晩□


 ちりりん。
 ベルが鳴る音に顔を上げれば、揚羽の前に自転車が止まったところだった。

「おはようございます、深山さん。これ、今日の朝刊です」

 掃き掃除を終えて水撒きをしていた揚羽は柄杓を桶へと戻すと、インクの匂いが濃いできたての新聞の匂いに朝を実感しながら朝刊を受け取った。

「いつもご苦労様」

 そう言って笑う揚羽の顔を見た新聞配達の少年は、少し頬を赤く染めながら「それじゃ」と再びペダルを踏んで坂を上っていった。
 微笑ましげにその後ろ姿を見送ると、揚羽は新聞を棚に置いて改めて柄杓を持つ。
 水を撒かれ清められた店の入り口に立ち、その清々しさにすうと息を吸った。春の太陽は機嫌が良さそうに東から顔を出しており、揚羽は快晴の予感に頬を緩ませながら桶をしまいにかかった。これから暖簾出しや商品の整理など、やる事はたくさんある。
 着物姿であちらこちらへと忙しげに動き回る姿は、さながらその名の通り蝶のようだった。鮮やかな着物の裾がひらひらと舞い、薄暗い店内に色彩の残像を残す。
 と、不意に着物を掴まれる感触に揚羽は足を止め、振り返った。

「揚羽様ぁ、揚羽様っ。もう、ごはんの用意ができましたって言っているのに、どうして来てくれないの?」

 漆黒の髪に大きなリボンを可愛らしく結んだ少女が、ぷうと頬を膨らませて足元に立っていた。いつのまにか結構な時間が経ってしまっていたらしい。
 揚羽は苦笑しながら少女の頭を「ごめんなさいね」と撫で、共に奥へと向かった。畳敷きの部屋の真ん中にある古びた木のテーブルの上には、既に湯気をたてた朝食が並んでいる。卵焼きにおひたし、干物をこんがりとあぶったものなどを見て、揚羽は微笑んだ。

「いい匂いね、またお料理上手になったのかしら?」
「えへへ、今日の卵焼きはすっごくおいしくできたんですよ。この前おにいちゃんからおいしく焼くコツ、教えてもらったんだから」
「ふふ、食べるのが楽しみだわ。それじゃあご飯盛るけど、今日はどのくらい?」
「うーんと、ちいさいお山ぐらいがいいです。はい揚羽様、お味噌汁」
「ありがとう。それじゃ」

 湯気をたてた白飯と味噌汁を共によそい、向かい合うように席に着くと、両手を合わせて一言。

『いただきます』





 午前中、香屋「帰蝶」には主に老人たちがちらほらと訪れる。
 売り物が理路整然と並べられた埃ひとつない木造の店内は、外の喧騒が嘘であるかのように静けさに包まれていた。そんな中を老人たちはしずしずと歩きながら、香木や香道具を眺めていく。
 揚羽の店はただ売り物を並べているだけの空間ではなかった。店には小さな上がり口があり、一通り見て回った老人たちが時たまそこに腰かけると、揚羽の手から暖かな茶が差し出される。掠れた、けれど温かみのある声をした老人たちから香りにまつわる昔話を聞いたりしていると、午前はあっという間に過ぎていくのだ。
 そんな時、
 
「揚羽さんよ、これ、包んでくれないかね」

 いつもは妻とやってくる老人が、緊張した面持ちで梅花の香の小箱を手にしてやってきた。揚羽はにこやかにそれを受け取ると、机の引き出しから春らしい薄い色の紙を取り出し、花が舞う愛らしい模様のものを一枚選んで包みはじめる。
 待っている間に茶を啜っていた老人は、ぽつりと呟いた。

「……今日なあ、婆さんとの結婚記念日なんだわ。貯金もある事だし、一念発起して温泉やら海外やらに連れて行ってやろうと思っていたんだ」
「ええ」
「なのにあの婆ときたら、そんなのよりも香買って欲しいとぬかしおってな。だからわしゃ言ってやったのよ。香ならいつも買ってるだろうが、せっかくなんだからもっと高いものにしろって」
「あら。でも、これを買いにきたという事は……」
「お察しの通りってやつだなあ。そうよ、わしが折れたってわけだ。だって『結婚する前にもらったのと同じ香が欲しい』なんて言われちゃあな。何も言えんよ」

 微笑みながら茶で喉を潤し、老人は皺の奥にある目を懐かしげに細める。

「……あいつは覚えてたんだなあ」

 包み終えた小箱を揚羽が手提げ袋の中に入れると、老人は礼を言って去っていった。その背中にお辞儀をしていた揚羽が顔を上げると、常連客の一人である老婆が話しかけてくる。

「珍しいわね揚羽ちゃん、手持ち無沙汰?」
「あら、何故そう思います?」
「さっき折り紙していたみたいだったからねえ、だから珍しいなって思ったのよ。もし暇だったらちょっとお話しない? この前娘から面白い話、仕入れてきたのよ」
「そういう事なら、喜んでお相手させて頂きますわ」

 老婆の話に耳を傾けながら、揚羽はおっとりと微笑み、思う。
 袋にこっそりと忍ばせた春色の鶴と亀の折り紙が、梅花の香りと共にあの老夫婦のもとへ長寿の祝福を運んでくれるようにと。





 昼時になり、店番を一時手伝いの少女と交代していた揚羽は昼食も終わり、空になった茶碗を洗っていた。
 家事や料理全般が苦手な揚羽の代わりに、同居人の少女が家事全般を担当してはいるのだが、さすがに家主として何もしないというのははばかられるので、こうした小さな家事は揚羽が進んでやっているのである。
 少女の分の茶碗なども洗い終え、割烹着を脱いで一息つくと、廊下を渡り改めて店へと顔を出す。昼食時、食べ物屋ではないこの店にはほとんど客が来ない為、落ち着いて調香ができるのだ。
 案の定、店頭には少女以外誰もいなかった。

「ご苦労様、何か変わったことはある?」
「いいえ、なんにもないです。それじゃあ揚羽様、今日とってもお天気いいからお洗濯してきますー」
「ありがとう。でもこの前みたいに洗濯物一気に運ぼうとして、廊下でべちゃっ、ってならないように気をつけてね。またお膝が痛い痛いになっちゃうわよ」
「はーい、今日はちょっとずつわけてはこびますっ」

 とてとて、と可愛らしい足が廊下の向こうへと去っていくのを見届けると、揚羽はさて、とばかりに先日練って熟成させておいた練香を壷から取り出しにかかった。春先によく作る練香で常連も多いものだ。状態を見てひとつ頷き、保存庫へと壷を運んでいく。この分ならもう少し熟成させればいいだろう。
 そう思いながら店へと戻ると、揚羽は木箱の中から色とりどりの小袋を取り出し、せっせと中身を詰め始めた。
 三時を過ぎて、下校する小学生たちの笑い声が響く頃。ようやく最後の一つの紐を締めた揚羽が満足そうに頷いていると、引き戸が開く音と共に賑やかな気配が訪れる。

「ねえねえ揚羽さん、この前買ったあのお香すっごくいい匂いしたよー! 本当はちょっと高いかな? って思ってたんだけど、家に帰って焚いてみたらもう値段なんかどうでもよくなっちゃった。それでね、今日友達つれてきたんだ。ここの事話したら興味持ったみたいでさ」
「……こ、今日は……」

 息巻いて喋る制服姿の少女に引っ張られるようにして、後から入ってきた少女がぺこりと頭を下げる。

「今日は、そう固くならないで楽にして下さいな。お茶でもいかが?」
「あ、ありがとうございます……ええと」
「自己紹介がまだだったわね、私は深山 揚羽。揚羽でいいわよ、皆そう呼んでいるし。さて、そちらのお嬢さんは今日は何をご所望かしら?」
「えっと、この前と同じやつを一つと……あとは何がいいかなあ。揚羽さん、何かオススメってあります?」

 大人しい少女に茶を振舞いながら、揚羽は「そうねぇ」と小首を傾げる。

「この前買ってくれたのと同じような華やかな香りが良いなら、やっぱり梅系の薫物かしら。ふわりとして、けれど落ち着きのある桜の香りも季節に合っていていいと思うけれど」
「桜かあ。それってどんな香りですか?」
「ああ、それならちょうどここにあるわよ、見本が」

 と、揚羽は先程まで作っていた匂い袋を取り出し、少女の手のひらにすっぽりとおさまる大きさのそれを二人へと手渡した。
 少女たちはしげしげと袋を見つめていたが、やがてそっと袋へと顔を近づける。

「…………うわあ……」

 大人しい方の少女がもらした溜め息混じりの声に、揚羽はそっと微笑む。見ると、もう一人の少女も目を丸くして手のひらの袋を見つめていた。

「どう? さっき作ったばかり、できたての匂い袋よ」
「すごいです……。こう、ふわって花が広がったような、そんな感じ……」
「うん、何かこうしているとすっごく気分がいいっていうか……。揚羽さんっ、これいくら?!」
「そうねぇ」

 少女が買うと言っていた品物を包むと揚羽は少女二人に手を広げ、一度袋を返すように求めた。
 そうして。

「――――え?」
「揚羽さん、これ……」

 少女たちの手には、それぞれ小さな紙袋がひとつずつあった。
 揚羽は片方の少女が買うと言っていた品を別の手提げに入れて渡すと、指先を唇の前へと立てる。

「ふふ、他の皆には内緒よ」
「え、でもそんな……悪いです。ちゃんとお金、払います」
「いいのよ。あなたたちみたいに若い人たちが少しでも香りを気に入ってくれるのなら、こんなに嬉しいことはないのだから。それにこれは一回こっきりのサービスだし、ね。あなたにはいつもお世話になっております、そしてあなたには初めてご来店下さりありがとうございますの感謝を込めて、贈らせてちょうだい」
「揚羽さん……」

 顔を見合わせて破顔すると、少女たちは何度も何度も礼を言いながら、小さな紙袋を大事そうに抱えて店をあとにしていった。
 揚羽は紺色の制服に包まれたその後ろ姿を、いつまでも眩しそうに見つめていた。





 香屋「帰蝶」の閉店は早い。
 が、揚羽の別の商いの時間は、ここからが始まりだった。
 引き戸へと『本日閉店』の札をぶら下げれば人間の客は来ないが、魑魅魍魎、果ては霊魂の類であるならば話は別である。
 彼らにとって帰蝶の閉店の札とは、自分たちの時間が来た事を告げる時計のようなものだった。
 ぴしゃりと隙間なくたてきった戸を難なく通り抜けてきた小さな鬼が、今日の一番の客だった。小鬼はしばらく所在無げにちょこちょこと動き回っていたが、何かを確認したかと思うと戸の方へと手招きをし、律儀にも外で待っていたらしい親分格の鬼を呼び寄せる。

「あにさんあにさん、ここでっせ。ここの香を焚き染めりゃあ、どんな恋でも思いのままさ!」
「お、おうっ」
「そう言ってくれるのはありがたいけれど、ちょっと違うわ。うちはそんな媚薬まがいの香は置いていないもの。どこかとお間違えではないの?」
「ちがわいちがわい、絶対ここだってわざわざ聞いてきたんだわい。それにあいつはここの香をくんとかいだら鬼のむすめと結ばれた。ほらなやっぱりそうなんだ、ここのお香は結びの香だ!」
「あのねぇ、小鬼さん。それがもし私の知っている鬼さんだったならの話だけれど、あの鬼さんはたまたまここへ来て、いい香りだからってお香を買っていってくれたのよ。それだけ」
「で、でもよぉ、深山のお嬢さん。あいつこの店で香を買って以来、見違えるような仕事っぷりでよぉ……。それがいいってあの娘っこもなびいたみたいなんだぁ。だからよ」
「もしかしたらお香に何か秘密があるんじゃないかって踏んだわけね? 残念ながら、それは違うわ」

 揚羽は気の弱そうな鬼に茶を振舞いながら、ころころと笑う。

「ここでお香を手に入れて以来、仕事振りが良くなったというのなら、いつも側に香りがあったのも少しは関係しているかもね。いい香りが常に側にあるということは、どんな時でも――――そう、たとえ失敗してしまった時でも多少は心が慰められるし、香りによっては次また頑張ろうっていう気持ちにさせてくれるから。
 香りというのはそういうものよ。側にある人の手助けをしてくれるけれど、受け止め方は全部その人次第。件の鬼さんは香りの恩恵を色々授かったかもしれないけれど、それだけ。きっと女の子が惚れたのは、その鬼さんが頑張る姿を見ていたからだと私は思うわ」
「そ……そうか……。ここの香を使えばもしかしたらって思ったけど、あんたの話を聞く限りじゃあそれじゃ駄目なんだなぁ。だったらおれはどうすりゃいいんだろう……こんな顔してっから、娘っこどもは目もくれねぇし」

 頭を抱えてううう、と唸る鬼の荒れた背中を優しく叩いて、揚羽はそっと昼間に作った匂い袋を差し出した。

「? こりゃあ、なんだぁ」
「いいから、ちょっと鼻に近づけてごらんなさいな」
「……おぉお、こりゃいい匂いだなあ!! こう、胸がふうってする感じがするなぁ!! いい匂いだぁ」
「少しは気分が良くなった?」
「おう、こりゃあいいなぁ。な、なあ、深山のお嬢さんよ。これ、ふたつでいくらだぁ?」
「鬼さんたちの感覚でいったら小判一枚かしら。もっとも、お釣りはこっちのお金になってしまうけれど」
「一枚でいいんだな? いんや、つりはいらねぇから売ってくれ。ふたつな」
「はい、ありがとうございます。……ところで、どうして二つもいるの?」

 揚羽の疑問に、小鬼がぴょんぴょん飛び跳ねながら声高にわめいて答える。

「そりゃそりゃもちろん、恋焦がれるむすめのために……いてっ!」
「余計な事言うんじゃねぇ、まだ下っ端のくせして!!」

 そのやり取りに笑いながら、揚羽はひとつを普通の袋に、もうひとつを小花の散った可愛らしい袋へと包んで、鬼へと手渡す。

「はい、こっちの可愛い方を好きな女の子に渡しておあげなさいな。媚薬の効果はないけれど、香りは人の心を柔らかにするわ。それに一緒の匂い袋を持っているのなら、それをきっかけにしてお話もできるだろうしね。頑張りなさい」
「お、おうっ! そんじゃあ、代金はここに置いとくぞぉ。よし、ちび。帰るぞ」
「あいさー」

 言うやいなや、小鬼はさっさと戸をすり抜けて出て行った。
 気の弱そうな鬼もまたそれに続くように店を出て、ひと時の静寂が訪れるが、すぐに別の客が戸をすり抜けてくる。
 さあ、今度はどんなお客が来たのか。
 揚羽は楽しげににんまりと笑うと、ふらふらと現れた霊魂に向き直る。


「いらっしゃいませ。どんなものをお探しかしら?」





 そうして少しだけ賑やかに過ぎていく、「帰蝶」のいつもと変わらない夜。








 END.