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<東京怪談ノベル(シングル)>



― 春を連れてくる梅 ―







その梅の木は静かに其処に在った。
枯れているわけではない。
蕾がないわけでもない。
だが其れは硬くとざしたまま
花の色を見せてはいなかった。





岐阜橋矢文はその梅の木を見上げる。
しみじみと全ての枝の先まで見る。
だがいくら目を凝らしても、
この木が咲かぬ原因はさっぱりだった。


冬が去り周囲の木々が待ちわびた様にその芽を綻ばせても、
この古い梅の木は綻ばせる事をしなかった。
春が来て桜の花々が待ちわびた様にその花弁をひらいても、
この古い梅の木は蕾の状態で時を止めていた。


今年になり一切その活動を止めたかの様な梅の古木。
このまま咲かぬのであれば伐採も止む無し、という事で
その下請けに矢文は雇われた。
見積もりの為訪問した庭先に見た其れは、
妙に矢文を惹きつける。
少し考え、依頼主に“面会”を所望した。
その内容に樹木医と勘違いした依頼主は其れを承諾。



そして矢文は今、梅の木の前に座っている。



改めて訪問し、その際持参した酒を己と梅の木に注ぎ、
見上げながら時折握り飯を口に運ぶ。
お花見ならぬお木見。
矢文は木を見上げ、木は矢文を見下ろす。
だが矢張り原因はわからない。

(東昭舘に出入りするあいつらや、あの猫なら何かわかるのかもしれんが……すまんな、)

何か感じるものの、それが何かまではわからない。
けして広いとは言えないが、狭いともいえぬこの庭は
梅の古木の他にも沈丁花、花水木、小手毯、花蘇芳と春に咲く低木が多く、
これらが一斉に咲けばさぞや美しい景色となるだろうと矢文は思う。
だが梅に遠慮するが如く、彼らもまた咲きを潜めている。

(枯れていない梅が咲かない理由……“咲きたくない”か“咲けない”か、)

溜息をひとつついて悩む。
そうして矢文は酒を飲んでいる。





手にした碗が落ち、矢文は自分が転寝していた事に気がついた。
酒に酔ったのか、悩みすぎて落ちたのかわからない。
だがそうは長い時間ではないようだ。
その大きな身体を起し、転がった碗に手を伸ばす。
と、その手がはたと止まる。

矢文の視線の先、梅の古木の為に置いた碗の傍に
小さな人らしき者がいた。
碗を抱え、中の酒を飲んでは舞を一指し。
また酒を飲んでは一指し。
袖なしの羽織を着た好々爺然としたその姿は、
大きさを除けばまさに人のそれだった。
矢文の視線を感じたのかふり返り、よおと手をあげる。

「おまえ、名はなんと言う。」
「……矢文、」
「そうか、矢文か、この酒美味いのう、」

巧みに碗を扱い、飲み干す姿の見事さに
思わず矢文も不思議を忘れ唸ってしまう。
扇をひらり、ひらりと廻せつつ、その翁が言う。

「美味い酒はあれど、なにとはなくちと淋しいのう。
 そうは思わぬか、矢文よ。」

問われてちらと梅を見遣り頷く。

「……梅が咲いていないからだ、」

翁の動きが止まる。
止まった動きのまま矢文を見上げ、
次いで梅の古木を見上げる。
そのまま扇を閉じ、溜息をついて近くの石に座り込む。

「矢文よ、」
「……何だ、」
「花もな、生きておる、」
「…………、」
「花もな、感じるのだ、」

翁は視線を宙に向ける。
その先には少し先の桜の木が見えている。
やわらかに風に吹かれて揺れている様は、
まさに春の象徴と言うが如く。

「桜は咲くと人が集り、見られてそして愛でられる。」
「……うむ、」
「梅もな、同じよ、」

翁が再び舞の足を踏む。
その動きは力強く、そして可憐。
扇が閃くたびに矢文の心に像が残る。


ひらり、ひらり


「花は愛でられてこそ花、
 愛でるとは目でるであり、見てこその命。」


ひらり、ひらり


やわらかくなった風の中で扇が舞う。
矢文の脳裏に手を合わせる人々の姿が浮かぶ。
人の慈しみと信じる心が温もりとなってその身に受けたあの日々。

「おまえがそう在るのも其れが為ではないのかの、」
「……そうだな、」

無骨な笑みが零れると翁は果々と笑った。

「全てこの世は因果律の中にある。
 其れが壊れた時が滅びの時。
 花は愛でられてこそ花、
 愛でられねば咲く意味がない。」

矢文はその言葉を頭で繰返す、と
何かに思い当たった様に梅の木を見上げる。
けして大きくはない木だが、枝が程よく伸び
良い剪定がされていることが伺える。
だが今年はされていないようだ、と気づく。

毎日、と翁は言う。

「この家に来てから毎日見上げての、話しをしていくのだ。
 花の色のことだの、蕾の数だの、葉の大きさだの。
 子供のことや孫のこと、毎日、毎日、な……、」
「楽しみだったのか、」

答えは翁の笑みだった。
それで矢文には充分なものとなる。
自分を含め、森羅万象とは不思議で愛しいものだ、と思う。
其れが為、個々は存在し、個々は干渉しあって生きていく。

飲むか、と矢文は酒を差し出す。
おお、と翁は答える。
矢文が注いだ碗を抱え、翁が矢文を見上げる。

「矢文よ、今日ずっと梅を見ていただろう。」
「ああ、」
「何故咲かないのかと考えていただろう。」
「ああ、」

酒を美味そうに飲み干すと翁は再び舞い始める。


ひらり、ひらり


矢文も其れを見ながら杯を干す。
楽の音もない舞ではあったが、
矢文の耳には其れが聞こえてきていた。


ひらり、ひらり


胡坐をかいた足に肘をつき、
小さな梅の精の舞を堪能する。
彼にはもう翁が何者かがわかっていた。


ひらり、ひらり


梅の精が矢文を呼ぶ。
肘をついたまま答える矢文。
彼の目の前には翁の笑みが其処に在る。

「嬉しかったぞ、」

扇がきらりと光を残した。





手にした碗が落ち、矢文は自分が転寝していた事に気がついた。
酒に酔って落ちたのかわからない。
だがそうは長い時間ではないようだ。
その大きな身体を起し、転がった碗に手を伸ばす。
と、その手がはたと止まる。

梅の古木の下には翁の姿はなく、
あの碗も酒があるままに置かれている。
だがあれが夢ではなかったことは、矢文にはわかっていた。
傍らに在る古い梅の木を見上げると
果々と笑う声が聞こえたような気がした。





矢文がこの家に老女の存在を問うと、
依頼主は驚愕の表情を見せた。
そして何故それがわかるのか疑問する。
まさか梅の精から聞きました、とも言えず
頭をがしがしとやりながら矢文は言葉を濁す。

「長年こういう仕事をしていれば、庭の様子を見ればわかる、」
「……はぁ、そういうものですか。」

そして依頼主は母がいることを語る。
昨年脳梗塞で倒れ、意識はあるものの身動きがかなわない状態なのだと。

「母は植物が好きでしたから、毎日庭に出ては花々の世話をしていました。
 とりわけ梅の花が気に入っていて、話しかけていましたね。」
「入院?」
「いいえ、家で看護を続けています。
 家族でほとんどつきっきりで世話をしています。」

よく見れば、看護をする者特有の目をしている、と矢文は思った。
だが疲れてはいるものの、家族を大事にしている良い目だ、とも。

「うちの庭は木が多いので、少々陽が入りにくいのです。
 それで咲かない木であれば伐採すれば母の部屋にも陽射しが入ると思いまして。」
「……そうだったのか、」
「母が好きな梅の木だという事は承知してますが、でも……、」

庭を顧みる事のできない日々。
ふと気がついた変事。
選んだ答えは母を思うがゆえの苦渋の決断だったのだろう。

「もう一度、梅を見せてやるといい、」
「え?」
「伐採はいつでも出来る、でもその前に一度見せてあげた方がいい。
 その上で改めて連絡貰えれば、その時に道具を持ってくる。」
「ではまだあの梅は枯れてない、と?」
「“枯れた”と決めるのは俺じゃない。
 そちらが“枯れたのだ”と思ったときが、本当に枯れた時になる。」

思いの詰った木なら尚更だ。
そう言って矢文は依頼人の家を後にした。






矢文の元に一通の手紙が届いたのは、
あの家を辞してからほどなく経った穏やかな日だった。
差出人は依頼主。
中身は招待状であった。

あれから老女を庭に抱えて行くと、彼女に反応が見られ
梅の木の傍らに行くと震える手を差し伸ばしたのだという。
それから先は医師も奇跡が起きたという目覚しい回復力で、
今では車椅子ながら起き上がれる様にまでなったらしい。

梅の古木も花をつけ、
それまで咲き渋っていた庭の木々も一斉に花を開き
まるで梅の花が一気に春を開放したかの様子だとある。
そこで矢文に梅の花見に感謝の意をこめて招待をしてきたのだった。
無論、矢文に断る理由はない。


桜は春を待って咲き誇る、だが

「春を連れてくる梅、か」

待つというゆかしさでなく、連れてくる強さ。
厳しい冬の中、訪れ渋る春をその身で以って引き寄せる。
そしてその魁を誇る梅。


梅は紅梅だろうか、白梅だろうか。
矢文の心に翁の扇が舞っていた。












―了―