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<東京怪談・PCゲームノベル>


溺れる人魚

 眠りから目覚めていく感覚は、ほの暗い水底から水面を目指して泳ぐのに似ている。
 呼吸の出来ない息苦しさから解放されたいというよりも、ただきらめく水面をもっと間近で見たいという欲求。 
 ああ、もうすぐこの指は水の呪縛を振り切る。
 その期待のまま、私は腕を伸ばし――。


「中々興味深いですね。殊にここのジーンキャリアは」
 IO2の研究所でセレスティ・カーニンガムは水をたたえたプールの傍らに佇んでいた。
 大掛かりな水槽施設も備えたそこでは、水棲妖物から遺伝情報を取り出し研究している。
 ステッキで支えたセレスティの身体は、時折バランスを崩しそうになった。
 もともと立ち上がって歩くようにはできていない身体なのだ。
 巧みに人の姿を模してはいるが、セレスティの本来の姿は人魚なのだから。
 水で滑りやすい足元を研究員が気遣ったが、セレスティはそれをにこやかに押しとどめ、水中で夢見るように瞳を閉じた少女の姿に視線を戻す。
 ジーンキャリア――IO2エージェントの中でも魔物の遺伝子を身体に組み込み、その能力を得た者達。
 少女もジーンキャリアの被験者の一人だった。
 この少女からは同じ海に連なる香りがする、とセレスティは思った。
 暗い波濤の狭間、初めて人の街の明かりを遠く見た記憶をたどりながら、少女が瞳を開けて初めて見る物に思いを馳せる。
 ふと、少女の指先が強化ガラスの表面をなぞるように動いた。
 うっすらと開いた唇が何事か呟いたのか、気泡が水面へと立ち上る。
 今、何と?
 セレスティが疑問に思った瞬間、少女の姿は異形の者へと変化していた。
 燐光さえ放つ腕は大鎌にも似た形に変化している。
 それは決して優美な人魚の持つものではない。
 少女の腕から伸びたブレードが突き刺さったガラスの表面から、大量の水が溢れ出る。
 ガラスが割れ水と共に床に伏した少女は、羊水からまろび出た胎児のように頼りない。
 そしてセレスティに向けられた少女の顔に理性の欠片はなく。
 ああ、願わくば海神よ。漆黒の海に連なる同胞である彼女に安息を。
 ガラスの破片が散乱する中、研究員にブレードを向ける少女にセレスティは祈った。
「手を貸して欲しい」
 その時、セレスティの耳に真剣な声が、低くはっきりと響いた。
 白衣の下に対怪異スーツを着込んだ精悍な青年が、混乱の中一人冷静に立っていた。


 混乱の中心にいる被験者は、まだ幼さを残した少女だ。
 その呼吸がやけに荒い事に青年――八重垣津々路は気付いた。
 水棲妖物のジーン持ちか? このままじゃあの子も――息ができずに死ぬ。
 水中での呼吸も可能な身体が今は仇となり、今は息をするのも苦しいはずだ。
 このセクションの責任者に確認をとっている時間はない。
「抑制剤は?」
 研究員が指差す場所はブレードを振るう少女の向こうだった。
 迷っている時間はない。そうしているうちにも、少女は自分の意志と無関係に、他人を傷付けていくのだ。
「手を貸して欲しい」
 そう言ったものの、協力してくれる者がいるとは思えなかった。
 ここがIO2の施設とはいえ、研究員ばかりの中で戦闘に長けた者がどれ位いるのか。
 しかし混乱の中、津々路の目に止まった人物は三人いた。
 一人はたった今まで少女が納まっていた水槽の前に座り込んだ青年。
 足が不自由なのかステッキを使って立ち上がろうとしている。
 長い銀髪と仕立ての良いスーツを濡らしながらも、恐怖よりも憐憫の表情を浮かべ少女を見ている。
 その次に目を引いたのは、一見研究員だが明らかに身のこなしが違うサングラスの青年。
 場馴れしてるな、と津々路は思った。
 さり気なく混乱の中目立たないように移動している。 
 彼は足早にこの場を立ち去ろうとしていたが、何を思ったのかセクションの出口で立ち止まった。
 最後に現われたのはカフェスペースから駆け下りてきた女性で、気丈にも自分を見失った研究員に喝を入れ、怪我人を手当てしている。
 その三人が津々路の元に集まってきた。
 白衣を脱いだ津々路が薄い色に瞳をそれぞれに向け、声を掛ける。
「俺はあの子を止めたい。
あの子を殺したくないし、これ以上怪我人を増やしたいとも思わない。
あんたらに出来る事を言ってくれ」
 白衣の下の対怪異スーツは筋肉に添うように全身を覆い、津々路の身体で露出しているのは両手だけだった。
 スーツは艶の無い黒一色のいでたちに見えるが、よく見ると表面に細やかな赤銅色のラインが走っている。
 本来霊力の少ない津々路を怪異の影響力から守るものだが、至近距離からの銃弾程度なら受け止められる頑強さも併せ持っていた。
「俺があの子を足止めしている間、抑制剤を取りに行けないか?」
「俺にやらせてくれないか?」
 サングラスをかけた研究員――瀬戸口春香が軽く手を挙げる。
 細身の身体のしなやかな一連の動きは隙が無い。
「戦闘はキミの方が上手だろう?」
 春香の真意を測りかねた津々路は一瞬躊躇したが、残された時間を思い頷く。
「投与は私が。これでも流れる水を支配できますから」
 ステッキを付いた青年――セレスティ・カーニンガムが濡れた指先を軽く振ると、手の平に水滴が集まる。
「私は怪我した人たちを誘導するわ」
 そして切れ長の瞳が印象的な、はきはきした女性――シュライン・エマが救護を申し出た。


「それじゃ、後は頼んだよ」
 そう言い残して駆け出す津々路をセレスティは見送った。
 力強い両足は床を蹴り、まっすぐ少女の元へ。
 私に彼のような両足が備わっていれば、ここでもどかしさに胸を焼きながら待つ事もなかったのだろうか。
 ――助けてあげてあの子を。
   あの子は本当は優しい子だから。
 セレスティの耳に遠く水霊たちの囁きが聞こえる。
 そう、私は彼女を解放するためにここに残ったのではなかったか?
 ガラスや実験器具の破片が散った床を無視して、津々路はいまだに両腕を振るう少女の前にたどり着いていた。
「あのお兄さん結構足速いね。じゃ、俺の出番かな?」
 春香が少女を迂回するようにルートを取りながら薬品棚を目指す。
 そう言う春香の脚力も研究員とは思えない速さだった。
 少女のブレードと化した腕が津々路の腕に当たる度、黒いスーツの表面に一瞬輝きが走り、波紋のように拡散されてゆく。
 激しい衝撃を拡散させているのだろうが、津々路も無傷ではいられないらしく、腕を受け止める度にその表情は苦痛に歪んでいた。
 すぐに戻ってくると思われた春香がそのまま棚の前に留まっている。
「どうしたの!?」
 研究員の腕を止血していたシュラインが尋ねた。
 彼女は丁寧にピンセットでガラスの破片を腕から取り除き、包帯を巻きながら不安げに春香と少女、津々路を見ている。
「アンプルが全部割れてるんだよ!」
「そんな……!」
 棚自体は少女が暴れても無傷だったのだが、そこに並べられた薬品類は衝撃に割れてしまっていた。
「割れていてもかまいません!
私なら……そのまま彼女に抑制剤を与えられます!」
 祈るべきは我が海原の父神。
 恐怖に打ち勝つ心の強さを、どうか私に。
 セレスティの声に春香は頷いて、状態の幾分良さそうな抑制剤のアンプルを手に戻ってくる。
 セレスティは一旦アンプルの中身を手の平に開け、両手で包むようにその滴を球状に集める。
 あとはこれを彼女の身体に届ければ……。
 そう思った全員の耳に大きな水音が響いた。
 津々路と少女はもつれ合ったままプールの底へと沈んでゆく。
 いくらセレスティでも、この大量の水を相手に抑制剤だけを少女に投与するのは難しい。
 ――あの子は苦しんでるよ。
   自分じゃ止められないって、泣いてるよ。
 水霊たちの囁きは先程よりもより強く、多くなっている。
「早く、ここの水抜けないの!?」
 シュラインの上ずった声が傍にいた研究員に向けられた。
「無理です、水が全部抜けきるまで20分以上かかります!」
 プールの水深は5メートルはあるだろう。
 二人が息を出来る高さまで水が抜けるまででも、10分はかかってしまう。
「……仕方ないな」
 春香の呟きにセレスティが疑問を挟む間も無く、爆発音が重なり水柱が立った。
 プールの側面に巨大な穴が開き、そこから大量の水が流れ出している。
「これは、どうして……」
「まあ、それはいいから二人を引き上げてあげよう」
 春香のサングラスの奥にある瞳がすっと細まった。
 一見この青年は人当たりも物腰も柔らかだが、何か不穏な背景をセレスティは感じた。
 こんなに都合良くプールが破壊されるなんてありえない。
 本当にこの青年は研究員なのか?
「今は早く抑制剤を届けなきゃね」
 もっともな春香の言葉に、セレスティは頷いた。
「そうですね」


 側面に付けられた梯子を伝い、シュラインと春香はプールの底へと降りていった。
 足の不自由なセレスティはそのままプールの淵に立っている。
 プールの底で津々路はしっかり少女を抱えていた。
 爆発の際、咄嗟に少女をかばったのだろう。
 スーツの背中は受け止め切れなかった衝撃で、繊維がぼろぼろになっている。
「……抑制剤は?」
 津々路の問いに春香が答える。
「ああ、ちゃんと取って来たぜ。
アンプルが割れてたんで、注射器では投与できないけどな」
 まだ両腕はブレードのまま、少女の身体は意識を失いぐったりと伸ばされている。
 シュラインが少女の胸を押すと、水を吐き出して激しく咳き込んだ。
「少し、待っていて下さい」
 セレスティの精神が集中するに従い、抑制剤の滴は霧のように広がり、少女を包んだ。
 少女の呼吸は静かに規則正しくなり、徐々に両腕も本来彼女が持つ人の物になっていった。
 セレスティはほっと息をつくと同時にその場に座り込んだ。
 あれ程騒がしかった水霊の声も今は遠い。
「何とか助かったみたいだな。ありがとう」
 津々路は起こしていた身体をプールの底に大の字に伸ばし、大きく息を吸い込んだ。
「あなた、背中は大丈夫なの?」
 シュラインが気遣わしげに覗き込むのに、津々路は初めて笑って見せた。
「青あざくらいはできてるかもな。自分じゃ見えないけど」
 笑い声に少女の身体が身じろぎする。
「ねえ、大丈夫?」
 シュラインの問いかけに開かれた瞳は黒く澄んでいる。
「……私、外に出られたの?」
 こほ、と咳き込んで少女の口からまた水が吐き出される。
「お医者さんは……水の中にいれば、病気にならないんだよって言ったけど」
 少女がジーンキャリアになったのは、難病治療の一環だったのだろう。
 シュラインに支えられて少女は身体を起こした。
「水の中は誰もいなくて、寂しかったな……」
 外を歩きたかったの、と少女は続けた。
 セレスティは、初めて人の足で砂浜を歩いた記憶を思い出していた。
 憧れの地は、決して甘い幻想だけでできてはいなかったけれど。
 それでも人魚たちは人の世界を夢見る。
 時代がどんなに変わろうとも。
 セレスティの耳を、再び水霊の声が掠めていく。
 ――大丈夫。
   私たちはいつでも、あの子の傍にいるから。
 そう、私もここにいる。
 セレスティは、再びこの研究所を訪れるのはいつにしようかと考えながら、立ち上がった。
 

(終)

■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【3968/瀬戸口・春香/男性/19歳/小説家兼異能者専門暗殺者】

■ライター通信
セレスティ・カーニンガム様
ご注文ありがとうございます!
納品が大変遅れてしまいまして、申し訳ありませんでした!!
人魚ゆえの人の地への憧れをこめて書きましたが、いかがでしたでしょうか。
ともあれ、少しでも楽しんで頂けると嬉しいです。