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<東京怪談・PCゲームノベル>


溺れる人魚

 眠りから目覚めていく感覚は、ほの暗い水底から水面を目指して泳ぐのに似ている。
 呼吸の出来ない息苦しさから解放されたいというよりも、ただきらめく水面をもっと間近で見たいという欲求。 
 ああ、もうすぐこの指は水の呪縛を振り切る。
 その期待のまま、私は腕を伸ばし――。


 瀬戸口春香が依頼主から受けた内容は、シンプルに『異能者のデータ奪取と施設破壊』だった。
 数日の潜入であらかたのデータを得た春香は既にC4爆弾を仕掛け、あとは爆発の騒ぎに紛れて外に出るだけだった。
 データを抜き取った後のパソコンには自壊プログラムも忍ばせてある。
 証拠と呼べる物は残らないはずだ。
 研究員を装って着慣れない白衣を身に付けた日々も終る。
 赤い瞳を隠す薄い色のサングラスを押さえながら、春香は小さく息を吐いた。
 春香はここがどんな場所でも、どんな研究をしていてもどうでも良かった。
 大掛かりな水槽施設も備えたそこは、水棲妖物から遺伝情報を取り出し研究している。
 ジーンキャリア――IO2エージェントの中でも魔物の遺伝子を身体に組み込み、その能力を得た者達。
 IO2ではそう呼称しているが、実際被験者たちはエージェントに限らず、難病を異能力で相殺・克服する為にジーンキャリアとなった者も多い。
 可哀想に。
 そう思いながらもどこか冷めた感覚で、春香は強化ガラスの中、水に包まれた少女の姿を見ていた。
 少女もジーンキャリアの被験者の一人だった。
 ワンピースタイプの病衣に包まれた身体は細く、同じ年頃の少女よりも骨ばって見える。
 固く閉じられた瞳の間、眉間には苦悩するようにかすかな皺が寄り、時折唇が動いては小さな気泡を吐く。
 もうすぐ楽になるから、そのまま夢を見ているといいさ。
 苦しい夢なら解放される。それも良いよな?
 春香が少女の前から離れ、研究セクションから出ようとした時。
 背後で突然悲鳴やフラスコが割れる音、それに耳障りな金属めいた叫びが重なる。
 たった今まで見ていた被験者の少女が割れたガラスの破片の中、よろめきながら立ち上がっている。
 彼女は今理性を無くし、ブレードと化した両腕で次々と研究員を襲っていた。
「手を貸して欲しい」
 その時、春香の耳に真剣な声が、低くはっきりと響いた。
 白衣の下に対怪異スーツを着込んだ精悍な青年が、混乱の中一人冷静に立っていた。


 混乱の中心にいる被験者は、まだ幼さを残した少女だ。
 その呼吸がやけに荒い事に青年――八重垣津々路は気付いた。
 水棲妖物のジーン持ちか? このままじゃあの子も――息ができずに死ぬ。
 水中での呼吸も可能な身体が今は仇となり、今は息をするのも苦しいはずだ。
 このセクションの責任者に確認をとっている時間はない。
「抑制剤は?」
 研究員が指差す場所はブレードを振るう少女の向こうだった。
 迷っている時間はない。そうしているうちにも、少女は自分の意志と無関係に、他人を傷付けていくのだ。
「手を貸して欲しい」
 そう言ったものの、協力してくれる者がいるとは思えなかった。
 ここがIO2の施設とはいえ、研究員ばかりの中で戦闘に長けた者がどれ位いるのか。
 しかし混乱の中、津々路の目に止まった人物は三人いた。
 一人はたった今まで少女が納まっていた水槽の前に座り込んだ青年。
 足が不自由なのかステッキを使って立ち上がろうとしている。
 長い銀髪と仕立ての良いスーツを濡らしながらも、恐怖よりも憐憫の表情を浮かべ少女を見ている。
 その次に目を引いたのは、一見研究員だが明らかに身のこなしが違うサングラスの青年。
 場馴れしてるな、と津々路は思った。
 さり気なく混乱の中目立たないように移動している。 
 彼は足早にこの場を立ち去ろうとしていたが、何を思ったのかセクションの出口で立ち止まった。
 最後に現われたのはカフェスペースから駆け下りてきた女性で、気丈にも自分を見失った研究員に喝を入れ、怪我人を手当てしている。
 その三人が津々路の元に集まってきた。
 白衣を脱いだ津々路が薄い色に瞳をそれぞれに向け、声を掛ける。
「俺はあの子を止めたい。
あの子を殺したくないし、これ以上怪我人を増やしたいとも思わない。
あんたらに出来る事を言ってくれ」
 白衣の下の対怪異スーツは筋肉に添うように全身を覆い、津々路の身体で露出しているのは両手だけだった。
 スーツは艶の無い黒一色のいでたちに見えるが、よく見ると表面に細やかな赤銅色のラインが走っている。
 本来霊力の少ない津々路を怪異の影響力から守るものだが、至近距離からの銃弾程度なら受け止められる頑強さも併せ持っていた。
「俺があの子を足止めしている間、抑制剤を取りに行けないか?」
「俺にやらせてくれないか?」
 サングラスをかけた研究員――瀬戸口春香が軽く手を挙げる。
 細身の身体のしなやかな一連の動きは隙が無い。
「戦闘はキミの方が上手だろう?」
 春香の真意を測りかねた津々路は一瞬躊躇したが、残された時間を思い頷く。
「投与は私が。これでも流れる水を支配できますから」
 ステッキを付いた青年――セレスティ・カーニンガムが濡れた指先を軽く振ると、手の平に水滴が集まる。
「私は怪我した人たちを誘導するわ」
そして切れ長の瞳が印象的な、はきはきした女性――シュライン・エマが救護を申し出た。


「それじゃ、後は頼んだよ」
 そう言い残して駆け出す津々路を春香は見送った。
 力強い両足は床を蹴り、まっすぐ少女の元へ。
 柄にもない、と春香は思った。
 何故そのままこの場を立ち去らなかったのだろう。
 殺したくない、と言ったあの男の言葉が気にかかったからか?
 ガラスや実験器具の破片が散った床を無視して、津々路はいまだに両腕を振るう少女の前にたどり着いていた。
「あのお兄さん結構足速いね。じゃ、俺の出番かな?」
 傍らに立つセレスティにそう言うと、春香は少女を迂回するようにルートを取りながら薬品棚を目指した。
 そう言う春香の脚力も研究員とは思えない速さだった。
 横目で確認した津々路と少女の戦闘はかなり激しい。
 この男の方が、よっぽど研究員じゃないみたいじゃないか。
 春香の知識にある対怪異スーツと津々路の物は、レベルからして違っている。
 怪異からの呪殺攻撃や影響力を最低限に抑える為の装備のはずだが、まるでIO2エージェントの着用しているもののようだ。
 IO2? まさか……。
 少女のブレードと化した腕が津々路の腕に当たる度、黒いスーツの表面に一瞬輝きが走り、波紋のように拡散されてゆく。
 激しい衝撃を拡散させているのだろうが、津々路も無傷ではいられないらしく、腕を受け止める度にその表情は苦痛に歪んでいた。
 ガラスの破片が散乱した床を駆け抜け、試薬瓶が並んだ棚の前に立った春香は、眉をひそめた。
「どうしたの!?」
 研究員の腕を止血していたシュラインが背後で尋ねた。
 彼女は丁寧にピンセットでガラスの破片を腕から取り除き、包帯を巻きながら不安げに春香と少女、津々路を見ている。
「アンプルが全部割れてるんだよ!」
「そんな……!」
 棚自体は少女が暴れても無傷だったのだが、そこに並べられた薬品類は衝撃に割れてしまっていた。
「割れていてもかまいません!
私なら……そのまま彼女に抑制剤を与えられます!」
 セレスティの声に春香は頷いて、状態の幾分良さそうな抑制剤のアンプルを手に戻った。
 セレスティは一旦アンプルの中身を手の平に開け、両手で包むようにその滴を球状に集める。
 あとはこれを彼女の身体に届ければ……。
 そう思った全員の耳に大きな水音が響いた。
 津々路と少女はもつれ合ったままプールの底へと沈んでゆく。
 いくらセレスティでも、この大量の水を相手に抑制剤だけを少女に投与するのは難しい。
「早く、ここの水抜けないの!?」
 シュラインの上ずった声が傍にいた研究員に向けられた。
「無理です、水が全部抜けきるまで20分以上かかります!」
 プールの水深は5メートルはあるだろう。
 二人が息を出来る高さまで水が抜けるまででも、10分はかかってしまう。
「……仕方ないな」
 ああ、ここまで干渉してしまったなら、最後まで付き合おう。
 春香の呟きにセレスティが疑問を挟む間も無く、爆発音が重なり水柱が立った。
 プールの側面に巨大な穴が開き、そこから大量の水が流れ出している。
「これは、どうして……」
「まあ、それはいいから二人を引き上げてあげよう」
 元々は施設を爆破する為にあらかじめ仕掛けておいた爆弾だった。
 多少なりとも混乱が起こった隙に、この場を逃れる計画を春香は立てていたのだ。
 春香のサングラスの奥にある瞳がすっと細まる。
 セレスティは春香に不穏な空気を感じて眉をひそめたが、
「今は早く抑制剤を届けなきゃね」
 もっともな言葉に頷いた。
「そうですね」


 側面に付けられた梯子を伝い、シュラインと春香はプールの底へと降りていった。
 足の不自由なセレスティはそのままプールの淵に立っている。
 プールの底で津々路はしっかり少女を抱えていた。
 爆発の際、咄嗟に少女をかばったのだろう。
 スーツの背中は受け止め切れなかった衝撃で、繊維がぼろぼろになっている。
 確かに身体は鍛えているようだが、その精神力の強さはどこから来るのだろう。
「……抑制剤は?」
 津々路の問いに春香は答える。
「ああ、ちゃんと取って来たぜ。
アンプルが割れてたんで、注射器では投与できないけどな」
 まだ両腕はブレードのまま、少女の身体は意識を失いぐったりと伸ばされている。
 シュラインが少女の胸を押すと、水を吐き出して激しく咳き込んだ。
「少し、待っていて下さい」
 セレスティの精神が集中するに従い、抑制剤の滴は霧のように広がり、少女を包んだ。
 少女の呼吸は静かに規則正しくなり、徐々に両腕も本来彼女が持つ人の物になっていった。
 セレスティはほっと息をつくと同時にその場に座り込んだ。
「何とか助かったみたいだな。ありがとう」
 津々路は起こしていた身体をプールの底に大の字に伸ばし、大きく息を吸い込んだ。
「あなた、背中は大丈夫なの?」
 シュラインが気遣わしげに覗き込むのに、津々路は初めて笑って見せた。
「青あざくらいはできてるかもな。自分じゃ見えないけど」
 笑い声に少女の身体が身じろぎする。
「ねえ、大丈夫?」
 シュラインの問いかけに開かれた瞳は黒く澄んでいる。
「……私、外に出られたの?」
 こほ、と咳き込んで少女の口からまた水が吐き出される。
「お医者さんは……水の中にいれば、病気にならないんだよって言ったけど」
 少女がジーンキャリアになったのは、難病治療の一環だったのだろう。
 シュラインに支えられて少女は身体を起こした。
「水の中は誰もいなくて、寂しかったな……」
 外を歩きたかったの、と少女は続けた。
 春香は何も言わず少女を見つめていた。
 無意識に白衣のポケットに両手を入れ、異形の姿から解放された少女に静かに視線を向け続ける。
 孤独を代償に、この子が得るものはなんだろう。
 そして得たものにどれだけの価値があるんだろう。
 プールの淵に、怪我をしていない研究員が集まってきている。
 ようやく他のセクションから救護班や応援が来たのだ。
 春香は二度と訪れないこの場所と少女の姿をもう一度目に焼きつけ、梯子を上ろうと手すりに手をかけた。


(終)

■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【3968/瀬戸口・春香/男性/19歳/小説家兼異能者専門暗殺者】

■ライター通信
瀬戸口春香様
ご注文ありがとうございます!
納品が大変遅れてしまいまして、申し訳ありませんでした!!
プレイングにあった爆弾を、こういった形で使ってしまいました。
後天的に異能者になった少女を春香はどう思うのか、考えながら書きました。
ともあれ、少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。