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<東京怪談・PCゲームノベル>


溺れる人魚

 眠りから目覚めていく感覚は、ほの暗い水底から水面を目指して泳ぐのに似ている。
 呼吸の出来ない息苦しさから解放されたいというよりも、ただきらめく水面をもっと間近で見たいという欲求。 
 ああ、もうすぐこの指は水の呪縛を振り切る。
 その期待のまま、私は腕を伸ばし――。


 シュライン・エマは、最近多発するジーンキャリアの暴走の原因を探ろうとIO2を訪れていた。
 快く、とはいかないまでも研究員はシュラインに情報を提供してくれた。
 カフェスペースに取られた場所から、水をたたえた大きなプールが見渡せた。
 シュラインの見下ろす実験棟は大掛かりな水槽施設も備え、水棲妖物から遺伝情報を取り出し研究している。
 ジーンキャリア――IO2エージェントの中でも魔物の遺伝子を身体に組み込み、その能力を得た者達。
 しかし、シュラインの見た所、実際被験者はエージェントに限らないようだ。
 決め手になる治療法がまだ見つからない難病を相殺・抑制するため、非合法ギリギリのラインで被験者になった者もいるらしい。
 あんな小さな子まで……。
 シュラインの目に留まった少女は、強化ガラスの水槽の中、意識も無く水に浮いていた。
 遠目に見える、ワンピースタイプの病衣に包まれた身体は細く頼りない。
 ジーンキャリアに使われる遺伝子は多岐に渡り、飛躍的に身体能力が向上するらしいが、シュラインはそれに不安を覚える。
 人以上の力を得て、代償に失うものは何なのかしら。
 シュラインがカフェスペースから離れようとした時、突然階下から悲鳴やフラスコが割れる音、それに耳障りな金属めいた叫びが聞こえた。
 暴走して混乱の中心にいる被験者は、まだ幼さを残した少女だ。
 その全身は割れた水槽の水に濡れ、腕にあたる部分は大鎌にも似た形に変化していた。
 ――ジーンキャリアが暴走して……!!
 急いで階段を駆け下りたシュラインの前に、白衣の下に対怪異スーツを着込んだ精悍な青年が立っていた。
「手を貸して欲しい」 
 混乱の中でも冷静さを失わない真剣な声が、低くはっきりと響いた。
 

 混乱の中心にいる被験者は、まだ幼さを残した少女だ。
 その呼吸がやけに荒い事に青年――八重垣津々路は気付いた。
 水棲妖物のジーン持ちか? このままじゃあの子も――息ができずに死ぬ。
 水中での呼吸も可能な身体が今は仇となり、今は息をするのも苦しいはずだ。
 このセクションの責任者に確認をとっている時間はない。
「抑制剤は?」
 研究員が指差す場所はブレードを振るう少女の向こうだった。
 迷っている時間はない。そうしているうちにも、少女は自分の意志と無関係に、他人を傷付けていくのだ。
「手を貸して欲しい」
 そう言ったものの、協力してくれる者がいるとは思えなかった。
 ここがIO2の施設とはいえ、研究員ばかりの中で戦闘に長けた者がどれ位いるのか。
 しかし混乱の中、津々路の目に止まった人物は三人いた。
 一人はたった今まで少女が納まっていた水槽の前に座り込んだ青年。
 足が不自由なのかステッキを使って立ち上がろうとしている。
 長い銀髪と仕立ての良いスーツを濡らしながらも、恐怖よりも憐憫の表情を浮かべ少女を見ている。
 その次に目を引いたのは、一見研究員だが明らかに身のこなしが違うサングラスの青年。
 場馴れしてるな、と津々路は思った。
 さり気なく混乱の中目立たないように移動している。 
彼は足早にこの場を立ち去ろうとしていたが、何を思ったのかセクションの出口で立ち止まった。
 最後に現われたのはカフェスペースから駆け下りてきた女性で、気丈にも自分を見失った研究員に喝を入れ、怪我人を手当てしている。
 その三人が津々路の元に集まってきた。
 白衣を脱いだ津々路が薄い色に瞳をそれぞれに向け、声を掛ける。
「俺はあの子を止めたい。
あの子を殺したくないし、これ以上怪我人を増やしたいとも思わない。
あんたらに出来る事を言ってくれ」
 白衣の下の対怪異スーツは筋肉に添うように全身を覆い、津々路の身体で露出しているのは両手だけだった。
 スーツは艶の無い黒一色のいでたちに見えるが、よく見ると表面に細やかな赤銅色のラインが走っている。
 本来霊力の少ない津々路を怪異の影響力から守るものだが、至近距離からの銃弾程度なら受け止められる頑強さも併せ持っていた。
「俺があの子を足止めしている間、抑制剤を取りに行けないか?」
「俺にやらせてくれないか?」
 サングラスをかけた研究員――瀬戸口春香が軽く手を挙げる。
 細身の身体のしなやかな一連の動きは隙が無い。
「戦闘はキミの方が上手だろう?」
 春香の真意を測りかねた津々路は一瞬躊躇したが、残された時間を思い頷く。
「投与は私が。これでも流れる水を支配できますから」
 ステッキを付いた青年――セレスティ・カーニンガムが濡れた指先を軽く振ると、手の平に水滴が集まる。
「私は怪我した人たちを誘導するわ」
 そして切れ長の瞳が印象的な、はきはきした女性――シュライン・エマが救護を申し出た。


「それじゃ、後は頼んだよ」
 そう言い残して駆け出す津々路をシュラインは見送り、すぐに目の前の研究員の傷口に視線を戻す。
 力強い両足は床を蹴り、まっすぐ少女の元へ。
 その足音の確かさに、シュラインは安堵する。
「どうして……彼女は暴走したのかしらね」
 ふとシュラインは疑問を口にする。
 本来抑制剤の投与は経時的に行われているはずで、少女の中で水棲妖物の因子が劇的に変化するとは考えられなかった。
「完全じゃないんだ……」
 床に横たわった研究員が荒い息で答える。
「一つの因子を押さえても、またどこかの因子が押さえきれず影響する。
ジーンキャリアは常に、自爆の可能性を持っているんだ」
「あなた方が研究している事でしょう! そんな言い方……っ!」
 まるで最初から諦めているような言い方だ。
 あの子だって、望んでその姿になった訳ではないはずなのに。
 苛立ちを抑え、シュラインは他の研究員が持ってきた研究所の見取り図を確認する。
 シュラインが視線を上げると、ガラスや実験器具の破片が散った床を無視して、津々路はいまだに両腕を振るう少女の前にたどり着いていた。
 少女の進行方向には、まだ逃げ遅れた人々が数人怯えた表情で震えている。
「あのお兄さん結構足速いね。じゃ、俺の出番かな?」
 春香が少女を迂回するようにルートを取りながら薬品棚を目指す。
 そう言う春香の脚力も研究員とは思えない速さだった。
 少女のブレードと化した腕が津々路の腕に当たる度、黒いスーツの表面に一瞬輝きが走り、波紋のように拡散されてゆく。
 激しい衝撃を拡散させているのだろうが、津々路も無傷ではいられないらしく、腕を受け止める度にその表情は苦痛に歪んでいた。
 すぐに戻ってくると思われた春香がそのまま棚の前に留まっている。
「どうしたの!?」
 研究員の腕を止血していたシュラインが尋ねた。
 丁寧にピンセットでガラスの破片を腕から取り除き、包帯を巻く。
「アンプルが全部割れてるんだよ!」
「そんな……!」
 棚自体は少女が暴れても無傷だったのだが、そこに並べられた薬品類は衝撃に割れてしまっていた。
「割れていてもかまいません!
私なら……そのまま彼女に抑制剤を与えられます!」
 セレスティの声に春香は頷いて、状態の幾分良さそうな抑制剤のアンプルを手に戻ってくる。
 セレスティは一旦アンプルの中身を手の平に開け、両手で包むようにその滴を球状に集める。
 あとはこれを彼女の身体に届ければ……。
 そう思った全員の耳に大きな水音が響いた。
 津々路と少女はもつれ合ったままプールの底へと沈んでゆく。
 いくらセレスティでも、この大量の水を相手に抑制剤だけを少女に投与するのは難しい。
「早く、ここの水抜けないの!?」
 シュラインの上ずった声が傍にいた研究員に向けられた。
「無理です、水が全部抜けきるまで20分以上かかります!」
 プールの水深は5メートルはあるだろう。
 二人が息を出来る高さまで水が抜けるまででも、10分はかかってしまう。
「……仕方ないな」
 春香の呟きにシュラインが疑問を挟む間も無く、爆発音が重なり水柱が立った。
 プールの側面に巨大な穴が開き、そこから大量の水が流れ出している。
 何があったの?
 一見この青年は人当たりも物腰も柔らかだが、何か不穏な背景をシュラインは感じた。
 こんなに都合良くプールが破壊されるなんてありえない。
 本当にこの青年は研究員なの?
「今は早く抑制剤を届けなきゃね」
 もっともな春香の言葉に、セレスティは頷いている。
「そうですね」


 側面に付けられた梯子を伝い、シュラインと春香はプールの底へと降りていった。
 足の不自由なセレスティはそのままプールの淵に立っている。
 プールの底で津々路はしっかり少女を抱えていた。
 爆発の際、咄嗟に少女をかばったのだろう。
 スーツの背中は受け止め切れなかった衝撃で、繊維がぼろぼろになっている。
 確かに身体は鍛えているようだが、その精神力の強さはどこから来るのだろう。
「……抑制剤は?」
 津々路の問いに春香は答える。
「ああ、ちゃんと取って来たぜ。
アンプルが割れてたんで、注射器では投与できないけどな」
 まだ両腕はブレードのまま、少女の身体は意識を失いぐったりと伸ばされている。
 抑制剤が投与されれば、少女の呼吸は人と同じものに戻るに違いない。
 シュラインが少女の胸を押すと、水を吐き出して激しく咳き込んだ。
「少し、待っていて下さい」
 セレスティの精神が集中するに従い、抑制剤の滴は霧のように広がり、少女を包んだ。
 少女の呼吸は静かに規則正しくなり、徐々に両腕も本来彼女が持つ人の物になっていった。
 セレスティはほっと息をつくと同時にその場に座り込んだ。
「何とか助かったみたいだな。ありがとう」
 津々路は起こしていた身体をプールの底に大の字に伸ばし、大きく息を吸い込んだ。
「あなた、背中は大丈夫なの?」
 シュラインが気遣わしげに覗き込むのに、津々路は初めて笑って見せた。
 初めて出会った人間にも笑いかけられるのは、その心が強いからなのかしら。
 そもそも別のセクションの研究員の津々路が、自ら進んで少女の前に身をさらす必要などないのだ。
「青あざくらいはできてるかもな。自分じゃ見えないけど」
 笑い声に少女の身体が身じろぎする。
「ねえ、大丈夫?」
 シュラインの問いかけに開かれた瞳は黒く澄んでいる。
 人の持つ、柔らかな光をたたえて。
「……私、外に出られたの?」
 こほ、と咳き込んで少女の口からまた水が吐き出される。
「お医者さんは……水の中にいれば、病気にならないんだよって言ったけど」
 少女がジーンキャリアになったのは、難病治療の一環だったのだろう。
 シュラインは少女の身体を支えて起こしてあげた。
「水の中は誰もいなくて、寂しかったな……」
 外を歩きたかったの、と少女は続けた。
 人の本来の姿に手を加え、代償に得た物はどれだけの価値があるのかしら。
 きっと少女は自分の意志と無関係に、遺伝子治療の一環として水棲妖物の因子を取り入れたのだろう。
 それで暴走した彼女を責められるはずもない。
 こんな小さな子が、罪の意識に悩まないで生きられればいいのだけれど。
 腕の中の少女を抱きしめ、束の間、シュラインは目を閉じた。


(終)

■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【3968/瀬戸口・春香/男性/19歳/小説家兼異能者専門暗殺者】

■ライター通信
シュライン・エマ様
ご注文ありがとうございます!
納品が大変遅れてしまいまして、申し訳ありませんでした!!
救護要員、という事で少女を思う女性らしさを考えながら書きました。
少しでも楽しんで頂けると嬉しいです。