コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


 あちこちどーちゅーき  〜空腹〜
 何処まで、続くのだろう。
 午後の優しい日差しに揺れて、青い空がそよりと小さく笑った。
 それは、何処までも続く。
 春。梅雨をマ間近に控え、さらには夏の白を予感させる雲がゆっくりと流れていく。
 五月。その色は、薄い青だ。


 ♪


 道が何処までも続くように、日差しも絶える事なく降り注いでいた。
 今は五月。初夏には速いが、季節としては春の終わる頃。彼の肌をじりじりと焼き付けるこの日差しの強さも、まんざら季節外れという訳ではない。
 そして、彼、桐苑 敦己もこの日差しがまんざら嫌いとい訳ではなかった。
 長い旅の過程で少し焼けた肌だけではなく茶色の髪も少し日に焼けて少しだけ薄い色になっているが、黒い瞳は旅を始めた頃より変わらずに、のんびりとした雰囲気を虹彩の奥に秘めている。
 慣れているのかもしれない。
 慣れてしまっているのかもしれない。
 どちらにせよ、敦己は丁度昼時の峠道を一人でゆっくりと、しかし、普通の人から見ればありえない程の歩速で進んでいく。
 もちろん、慣れているとはいっても、できるだけ影の中を進みながら。
 この強い日差しはどちらかと言うと、より影の中の涼しさを際立てる為にあるのだと彼は思っている。暑いのも嫌いじゃない。けれど、やっぱり涼しい方がいいのだ。
「……それにしても、腹へっちゃったな………」
 ぽつりと彼は言葉を漏らして、ゆっくりと瞼を閉じる。
「……食料尽きたし………食べ物でも探そうかな?」
 探すというのは、もちろん峠道の横に広がる森の中で食べれる物を探すという事だ。サバイバル技術に長け、方向感覚にも絶対の自信がある彼にならそう難しい事ではない。密かに、富士の樹海の中からだってこの手にキノコなりなんなりの食料を持って生還してみせるという自信があったりする。
「……そんな事はできないんだろうけどね」
 閉じた瞼はそのまま、ぽつりと雨粒のように小さな声を乾いた土に落とし、彼は青空を見上げた。
 青く、澄み切っているそれ。強く、けれど柳のように柔らかで、何よりも自然な薄い青。なのに、黒にも赤にも、白にも灰色にもなるもの。
 今日の風は、空から下へと吹き付けるような強い風だった。
 つまりは向かい風だ。
 風に煽られて少しだけ、敦己は体が重くなった気がした。
 ざあっと、靴底が乾いた地肌を擦る音が響き、砂埃が立つ。

 何にしても、敦己の胃袋は食物を求めている。 


 ♪


 木々というの案外曲がっていたりする。
 木の幹自体がそうでもあるのだが、その性格もだ。
「……キノコもないんだ……」
 結局、彼は峠道から一端はなれ、森の中へ食料を探しに行ったのだが、かれこれ三十分、今だ一つもキノコや木の実を見つけていない。正確に言えば、食べられる物は見つかっていない。
「…………」
 僅かにげんなりとした色を滲ませて、次の朽木へとその脚を進める。
 毒のあるキノコは、今の胃袋が考えるにただの毒だ。キノコではない。キノコであれば、毒という付加物があっても、今の胃袋はそれを欲してしまいそうだから、キノコではないとあえて考えさせる。
 何故、ここまで毒キノコばかりなのだろう。
 サバイバル技術、特にキノコに関係する知識をちゃんと身につけていなかったら、今頃腹痛を起こしていたかもしれない。
「というよりも、食中毒………だね」
 ぽつり零して、木の枝を見上げるが……それは、杉の木だった。
 真っ直ぐな幹を持っている癖、食べられる実を生らさない木。
「……………………」
 黙して次の朽木を持ち上げて調べたが、今度のはそれ自体が新しいものらしく、キノコ一つ生えていなかった。
「………………………………」
 さらに長くなった自分の三点リーダーをあえて無視して、がたんっと朽木から手を離す。
 応えのある筈もない問いを、彼は言葉にして空気へと問いかけた。
「…………食べものはありませんか〜……?」
 答えてくれる人間などありはしない。森の静寂へと、消えて喰われているだけ。
 


――がうっ

 
 の筈だったのだが、応えは普通に近くから返って来た。
「へ………?」
「がう」
 どくん。
 何処か拍子抜けした声に、唸り声のようなものが続いていた。後ろからだ。がうっという声自体は軽いものなのだが、唸り声は非常に重くて鈍い。
―――後ろを振り返るべきか、その間々逃げるべきか。
 敦己は一瞬だけ悩む。悩めばそれだけ危険が増すというのは判っている。けれど、決断するのに躊躇した。
 後ろを見ずに全速力で逃げればなんとかなるかもしれないが、生憎こちらには重い荷物がある。野宿の為のテントや寝袋だ。それらの入っている背負い袋の中に食料でもあれば、それで後ろにいる者の気を紛らせるかもしれないが、生憎入っていない。入っていれば、こんな所に来はしないのだから、後ろにいるそれとは合わずにすんだ。
「…………」
「がう」
 …………。
 ………………。
 ………………………まさか、振り向けって事?
「がう」
 肯定するかのように、重い一声。
 文字にすれば可愛らしく見えるのだが、実際にはひどく重くてごつい声だったりする。
 森の中、で始る唄が一瞬敦己の脳裏に掠める。
「で、でもなっ。あの時はお逃げなさいだっしな〜って。それに今後ろにいるのがあれと確定された訳じゃないし」
「がう」
「…………振り向け、ですか?」
「がう」
 ある意味、敦己は意を決した。
 相手が唄に出て来る生き物ならこの間に後ろから襲われているだろうし、逃げるのは確か危険だったはずだ。死んだふりも効かない。その間々貪り食われるのが落ち。だからこそ、振り返って対峙すべきなのだ。
 四肢を地に付いている状態では人間の方が大きい為、凶暴なものであってもそうは襲ってこない。第一、危惧している存在ではなくて猪とかその辺りかもしれない。
―――狐か狸が化かしていますように。
 一瞬だけ変な事を願いつつ、敦己は振り返る。
 最初は地面に付いた踝をゆっくりと返しながらも、最後は一気に。
 視界にまず入ったのは、黒い毛だった。
 毛むくじゃらといってもいい位、黒い体毛で覆われた巨体。二本の前足と後ろ足は異様なまでに筋肉質でごつく、そこからは鈍色の爪が微かに覗く
 それは悪い予想通りだった。
「えーーーーー、えーーーー……やっぱり、熊………?」
 自分に対して鋭い眼光を向けている熊に弁解するように、敦己は手を右へ左へと持っていき、奇妙な形を指で作る。
 そういえば、峠の最初の方で熊出没注意とかいう看板を見たような気がする。
 緊張と混乱のせいで喉に絡みついた空気を振りほどいて、ようやく言葉を作ったが、それも恐怖でかすれていた。
「あのさ。さっきの応えだけど………もしかして。俺が食べ物?」
「がう」
 それは小さく応えると、のそりと二本の後ろ足に体重を掛けて立つ。
 声も動作も落ち着いていて熊とは思えない程に静かだが、その双眸は研磨されたての白刃のように鋭い。今にも独りでに火花が散り始めそうな感じだ。
 ちなみに、二本脚で熊が立つというのは交戦状態という事だ。
 巨体が撓む。
 喉の下辺りに黒い体に刻まれるようにして白い三日月状の体毛が、一瞬ちらりと敦己に見えた。
 ツキノワグマ。確か、温厚な性格の熊であるのだが、それは結局、種族としてでそうではない固体もあるのだろう。
 立てば、身長百八十代の敦己よりもさらに大きい熊。
 しかも、背後から襲わなかった所を見ると、正式なファイトをご希望の様子。
「…………」
 背負い袋が、ぽとりと寂しい音を立てて落ちた。
 瞬間、ツキノワグマの右腕が敦己に向けて伸びる。いや、あの黒い体と共に突き進む。
「………っ……!」
 思わず、反射的に身を捩り避けた敦己。しかし、右の拳の風圧で髪が強く靡き、避けた敦己の代わりに熊の右ストレートをマトモに受けた杉の木がズドンと重い響で大気を揺らす。
 ぱららと、敦己の背中に当る軽い何か。それを理解するより早く、彼は身を横に投げ出した。
 そうさせたのは、外したと思うや否や熊が繰り出した左腕。横になぎ払うように出されたそれも、先んじて動いたお陰で敦己は避け切れた。
 だが。
 ばぁぅんっ。
「……っ」
 またもや、激しい破砕音が響いた。爪が木の幹に当り、削られるようにして壊された破片と木屑を当りに撒き散らす。
一撃でも当れば危険。
 回避行動から即座に構え――習得している合気道のそれ――を取り、敦己は無理矢理息を呑む。
 少しばかり、こちらの論外の範囲だ。合気道は相手の力を利用してのカウンター。この熊ような力任せの相手には有効なのだが、あれだけの膂力だと敦己では捌ききれない。相手の勢いを逆手にとって腕の骨を折ろうにも、相手の一撃は掠っただけで骨に皹が入ってしまいそうな程に強烈。
 それに、あれ程に大きな体をしているというのに速い。
 打つ手は、ほぼ無い。けれど、皆無という訳ではなかった。
「……さて、どうするかな……」
 立ち位置は、こちらに有利だ。木々の密集している地点に敦己は移動し、熊の巨体による一撃というのを木々で逆手に取っている。大振りな攻撃では、木々に当って敦己には届きにくく、また、そうならない為の攻撃軌道も限られて来るので次の手が読みやすい。
 しかし、相手の熊はそれを気にせずに叫び、ラリアットでもかますかのように突撃してきた。
 やはりその動きは早く、同時に引き下げられた右腕は霞む。
 勿論、敦己は受ける訳にはいかない。こちらのガードの上から決定打を打つだけのパワーが相手にはあるのだ、避ける、もしくは捌くだけ。もとより、実戦格闘では避けるのは容易ではなく、捌くのが基本となる。 
 熊の放つ右の腕は、木々ですら打ち震えてしまうそうな豪打。
 その速度と合いまえば、まさに、黒い轟風。
 だだし、狙ってる場所と軌道さえ読めれば、防ぐのは不可能ではなかった。
 あの熊の視線と先程の二打は共に敦己の頭部を狙っていた。なら、今度の一撃も同様であるのは必然。
 敦己は右へと体重を掛けつつ予測される拳の軌道上へと左手を伸ばし、その間々突き進んできた熊の腕に添え、僅かな力を加えて軌道を修正させる。
 合気道の基本中の基本。剣術でも使われる、真っ直ぐに進む攻撃を横手から力を加えて弾く、もしくは軌道を変えさせて外させる技だ。タイミングやセンスといったものが要求される、基礎ながらかなり難しいものだが、合気道を習得している敦己にはできる。ましてや、狙ってくる場所すらわかっているのであればなおさらだ。
 軌道のずれたツキノワグマの一撃は敦己の耳ぎりぎりの所をずれて木々にぶつかる。
 だが、今度のは勢いと体重が十二分にかかっていたせいだろう。その爪と拳は木に当っても止まる事なく幹を破砕して、すぐに引き戻される。幹の中心ではなく横際に当ったせいでもあるが、やはり熊の腕力は凄まじい。
 しかし、結局は当らなかったのだ。
 そして敦己は引き戻されてきれていない熊の右側へ一気に踏み込む。
 狙うは、その顎下。
 素早くアッパーを掛けるようにして叩き込んだ敦己の一撃に、熊が一瞬よろめいた。
 けれど、敦己は二打目は放たない。その間々素早く後ろに下がり、また位置を木々に囲まれた場所に変える。
 一撃だ。
 一撃で、こちらは終る。
 相手が身で受けて、そのカウンターを行ってきたのなら、それだけで自分は終る。
 それに、相手の一打を捌いた筈の左手が異様な熱を帯びて、震えている。
 勢い、衝撃。それに少し触れたそれだけで、骨の奥まで響いたのだ。
 熊が叫んだ。
 大気が揺れる。
 黒い陽炎のように熊自体が、震える。





「……はぁ……はぁ……はぁ……」
 とりあえず、終った。
 どうやって終ったのか、また、どうやって生き残ったのかは敦己自身は覚えていない。いや、思い出したくないのだ。
 捌き続け、殴り続けた両の手の皮はひどく破れて、血がどろりと紅く染めている。
「……がう」
「まだ、やるって……訳じゃ、なさそうだな………ぁ…っ……」
 これ以上やれば本当にヤバイと敦己は感じていた。それは、相手の熊も同じようで、ぜえぜえと肩で息をしながら、晴れ上がった瞼のせいで一つしか開けられた瞳を彼に向けている。
 修羅場、だった。
 何度か死ぬとさえ覚悟した。
 一打も受けずに済んだの奇跡だ。どうやって、一打も受けずにすんだのかは、やはり思い出したくない。
 もう、空はオレンジ色に染まってた。
 綺麗な、黄昏色。
 ふう、と、敦己は身を崩しながら木に寄りそうように座り込む。すでに、熊もそんな感じで寝そべっていた。
「いやさ、お前何がしたかったの? タイマン張りたかったとか?」
「……がう……」
「そっか、まあ、そんな感じだろうな……」
「がう」
「………はぁー……」
 何か、疲れていた。
相手も相当疲れているらしく、もう敦己を襲おうとしない。実力は拮抗していたのだろう。勝負は中々つかず、どちらも疲労困憊で休戦となった。
先に動いて、逃げなければなにないのだが、今は歩けそうも無い。
とりあえず、生死を書けた戦いの後だというのに、緊張感が完全に切れていた。
恐らく、数時間も戦い続けて、精神力も尽きているのだろう。
ふう、と、さらに溜息。旅の途中で長くなった前髪が、少しだけ視界に写る。
空はまるで金色の海のように静か。雲はまるでその細波のよう。
「…ああ、腹減ったな……」
「がう……」
 二人、いや、一人と一匹して同じような息を吐き、同時にぐるるると腹がなる。
「………食べ物、どっかにあるか知っているか」
「がう」
「……聞いた俺が馬鹿だったよ」
 勿論、敦己が熊語を理解した訳ではない。けれど、一つになった眼が敦己を見つめたのだ。
 お前が食い物だと言わんばかりに。
「………」
 どうやら、まだ戦いは続くらしい。
 多分、捕まったら食べられるという鬼ごっことして続くのだろう。
 ゆっくりと敦己は立ち、今の彼にできる最大速度でその場から離れ始めた。
 まだあの熊は動けない。
 今の所アドバンテージは敦己にある。このまま、熊に追いつかれる前に峠道に戻り、できれば民宿辺りに泊まりたい気分だった。
 敦己は歩いていく。何処までも続く空から、地平線へと沈もうとする太陽のように、ゆっくりと。
 でもそれは、今できるぎりぎりの事だったり、する。
 薄青の空が枯れた代わりに生まれた黄昏の空は、何処までも続く。
 不安もまた、然り―――。

       End