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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


断罪者の肖像


 都会の明かりが届かないこの深い闇の中で、忽然と燃え立ち上る青い炎の柱。
 禍々しくも眩い光に照らされて、彼女はうっとりと笑みを浮かべる。
 音無き断末魔が天を突き抜けていくけれど、まるで意に介することなく胸の前で両の手を組み、
「……さあ、貴方の罪深き魂が浄化される音を聞いて下さい……」
 目蓋を閉ざし、静謐にして透明な祈りをそっと捧げた。
 炎が一層勢いを増す。
 その中で、ヒトガタがくるくると踊る。
 声なき声が焼き尽くされる。
 そうして。
 消し炭になった人間が、糸の切れた操り人形のように脆く地面に崩れ落ちた。

「盟主様……今夜も私は迷える魂をひとつ、アナタ様の示す美しき楽園へと導きました……」



「彼女を止めてください……もう、俺じゃどうすることも出来なくて……」
 興信所のソファに身を沈め、松岡と名乗った青年は頭を抱え、カタカタと震えながらきつく目を瞑り訴える。
 彼女は人を殺めている。
 だが、ソレを行っているのは彼女だけではない。
 盟主と呼ばれる存在を中心に、幾人もの人間が彼女と同じように動いている。
 今、東京を昼夜問わず騒がせている『謎の焼死体』発見のニュース。
 あれらは、間違いなく彼女たちの手によるものだと彼は告げた。
「チカラを持っているんだから、選ばれたんだから、だから……自分は為すべきことをするんだと……」
 おそらく、そう信じて疑わない『彼女』の中には一片の罪悪感も存在していないのだ。
「ソレは、一種の宗教団体なのか?」
 真っ先に草間の頭に浮かんだのは、その単語だった。
 だが、松岡は首を横に振る。
「彼女は違うと言ってます。アイツも……宗教なんかじゃない。そんなあやしいものなんかじゃない。これは善行であり、救済であり、粛清なのだと……人類を理想の楽園へと導く手段なのだと……」
「……粛清」
 彼の言葉に草間は眉根をひそめて、口の中で繰り返す。
 善行。救済。そして、粛清。
 嫌な言葉だ。
 信じることは悪いことじゃない。
 だが、妄信は時に大義名分を振りかざす免罪符となって、誤った方向へと人を加速させる。
「あんなのは……粛清でも救済でもない……アイツがやろうとしてるのは……」
 懇願は呻きに変わり、深い苦悩を滲ませて搾り出される。
「アイツを……止めてください。このまま続けてたら、アイツは、アイツは……本当に人間じゃなくなっちまう……」
 服の袖や襟に隠れてはいるが、彼にはいくつもの酷い火傷の痕が伺えた。
 ソレは彼女を連れ戻す為に負傷したものなのか。
 それとも、アイツと彼が呼ぶ存在との決裂ゆえに負ったものなのか。
 草間は無言のまま青年を見詰め、それからゆっくりと頷いた。
「いいだろう。その依頼、引き受ける」
 この興信所が依頼を受諾するということは、どのようなカタチであれ、事件は一応の終焉を迎えられるということだ。
 松岡は何度も何度も頭を下げて、自身の連絡先を残し、それからふらふらと事務所を後にした。
 草間は彼の背を見送り、彼の足音が聞こえなくなるまでじっとする。
 そうして。
 完全に自分だけがこの場所に存在するのだと確信すると、おもむろに黒電話の受話器を取った。



 遠い遠い昔、一番古い記憶の中で、2人はいつも一緒だった。
 子供の時にはソレが当たり前だった。
 けれど気付くと自分だけが取り残されていた。
 どこで別れてしまったのだろう。
 どこで何を間違えてしまったんだろうか。



 壁面のあちこちにヒビが走り、風雨の跡がこびりついている、かなり古い4階建ての『月森マンション』と銘打たれたアパート。
 その203号室が依頼人である松岡の部屋だった。
 がらんとした部屋にぽつんと置かれた小さなちゃぶ台を挟んで、シュライン・エマは光月羽澄とともに彼と向き合う。
「突然お伺いしてしまってすみません。もう一度詳しいお話を伺いたかったものですから」
 シュラインが頭を下げ、
「こうしてお話をしても大丈夫です?横にならなくて平気ですか?」
 羽澄が幾分不安な色を滲ませて彼を見る。
けれど、2人の女性を前に松岡は僅かに微笑み、そして力なく首を横に振った。
「いえ……俺のことはいいんです。こちらこそ、わざわざこんな場所に来て頂いてすみません……」
 玄関から顔を出し、自分達を迎えてくれた依頼人を前にして、彼女たちは思わず眉をひそめてしまったのだ。
 草間に聞いていた以上に、彼は中も外もぼろぼろだった。まるで今こうして動いていることが何かの奇跡であるかのように。
 リズムの狂った鼓動がシュラインの耳に響いてくる。
 明らかに異常な音。
 更に注意深く耳を澄ませば、彼の心臓に欠陥があることは容易に聞き取れる。
 衰弱の激しいこの青年の一体どこに、こうして動けるだけの余力が残っているのだろうか。
「あの、どうぞ」
 お茶を勧める手にも、火傷の跡が覗いている。
 顔の角度によっては、首筋にも同じものが伺えた。
 一体どれだけの火傷を負っているのか、シュラインにも見当がつかなかった。
「では、早速で申し訳ないのだけど……まず最初に確認させていただきたいのが、彼女……加藤奈緒子さんと、そして貴方がアイツと呼ぶ存在なんですが」
「松岡さんの言うアイツって、いったいどなたを指してるんですか?奈緒子さん……ではないんですよね?」
 羽澄がシュラインの問いに言葉を重ねる。
 関係性の見えない3人の登場人物。
「アイツは……そう、ですね……俺の、幼馴染、と呼んでいいのかもしれません……」
 松岡はどこか遠くを見ながら、頼りない声でゆっくりと語り始めた。
「生まれた時から一緒でした……施設で育って。互いが養子として引き取られてからも、しばらくは連絡を取り合って、うまくやっていたんです」
 やがて高校に進学する頃から引越しとあいまって彼とは疎遠になり、数年後、松岡は大学で同じサークルの先輩として彼女と出会った。
 馴れ初めなんてどこにでもある話だ。
 生まれや育ちやそんなものに捕らわれることもなく、ただ日々が平凡に過ぎていくのを、その幸福を感じていた。
 こんなカタチで壊れるなんて、考えもしなかった。
「奈緒子さんが今のような活動を始められたのはいつ頃かしら?」
「……いつ頃……?」
 シュラインの声で、移ろい定まらない視線が遠い過去からごく身近な過去へと向かい、彷徨う。
「……いつ頃、だったかな……」
 覚えているのは、少なくとも彼女はほんの2ヶ月前までは当たり前によく知る、当たり前の恋人だったということだ。
 彼女は今もその頃とさほど変わってはいないのだ。その両手が罪で赤く染まっていようとも、変わらない。
 もしも奈緒子が犯す罪をその目で目撃したのでなければ、きっと今も自分は何の異変にも気付けずにいたかもしれない。
 だが、
「ひと月前に、奈緒子が俺の目の前で人を殺して見せて……盟主様に導いてもらったのって笑って……そこにアイツもいて……それからは、2人のすることを止める為に何度も何度も……」
 やめろという叫びなど、届かなかった。
「どうやって殺人を犯しているのか、仲間はどんなふうに見つけるのか、そういうことはご存知かしら?」
「……いえ……俺は選ばれてないから…分からないって……」
 両手を組んで、その上に額を乗せて、絶望を滲ませて言葉を吐き出す彼。
 懸命に答えを返すその姿をも、シュラインは黙って観察する。
 もし彼の心の中を覗けたら、そこにはどんな景色が見えるのだろうか。
 自責の念に押し潰されかけている青年の姿を前に、疑うわけではないのに、そんなことをふと考えてしまう。
 そして、彼のこぼした絶望の溜息から、ゆっくりと思考を巡らせる。
 調べなければならないことは、まだ山のように残っているのだ。
 自分達はあまりにも何も知らない。
 急がなければいけないのに、果たして自分達は真相に至る構築と現状の打破に間に合うのだろうか。
「彼女に会うことは出来ますか?」
 思い切って、羽澄が話の転換を図る。
「奈緒子に?」
「はい」
「…………警戒、されてしまっているかもしれません……俺の呼び出しに応じてくれるかは分かりませんが、交渉してみましょう……」
 苦しげな表情で、彼はそう約束した。



 セレスティ・カーニンガムにとって、これまで起きた一連の『焼死体事件』を遡ることはけして難しい作業ではない。
 自室にいながらにして、ありとあらゆる情報が望めばいつでもこの手に集うように出来ているのだから。
 アンティークテーブルの上にパソコンと膨大な資料を積み上げて、ひたすらその解析に勤しむ。
 ディスプレイにずらりと並ぶデータは、キレイな表となって現れる。
 名前。年齢。職業。遺体発見現場の状況。そして、範囲。可能な限りの情報が視覚化され、対比される。
 表面化している事件の始まりは、丁度半年前だろうか。
 1件目は長塚幸也。30歳。会社員。遺体発見現場は有明海の水が流れ込んでくる河川敷。
 2件目は谷村実。31歳。高野正志28歳、伊藤浩28歳とともに、工事現場の片隅で発見されている。
 間を置いて、3件目は繁華街の路地裏で、29歳の男性。
 初期は男性、しかも同年代ばかりがやけに目に付く。
 だが、やがて件数を重ねていくにつれて被害者の性別も年齢も職業も多様化していくのだ。
「ここで、何か決定的な変化があった、のでしょうね……」
 カーニンガムの形の良い眉が顰められ、僅かに表情が曇る。
 法則性が失われている。
 粛清の対象となった彼らの共通点が、ひどく曖昧になっていく。
 『アイツ』と呼ばれる者の活動範囲が広がったのかもしれない。
 目的を変えたのか。
 あるいは、松岡の言うようにある種の宗教色が強いと言うのなら……
  『信者』を得たか。
 では、信者とはどのようにして得ることが出来たのか。
 例えば松岡の彼女が自らの意思で断罪者となったとして、ソレはどの時点で、どのようなキッカケだったのだろうか。
 事件の様相が変化していく過程の、どこかの分岐点か。それとも、もっとずっと始めからなのか。
 彼女の他にどれだけの人間が、彼に追従しているのだろうか。
 発端を探し出さなければならない。
 もしかするとソレは、1件目とカウントされている事件より更に過去――類似ではないかもしれない。だが、必ずどこかに共通する事項があるはずだ。
 殺人にためらいを感じられない。
 人が人を殺す時、こんなにも平然としていられるのだろうか。
 何がそうさせているのだろうか。
 どれだけ遡れば、全ての始まりに行き着くのか。
「……彼自身の背景も探っておくべきでしょうか……」
 能力者は能力者を呼ぶ。
 だが、どうやって彼は『盟主』と呼ばれるまでになったのだろうか。
「セレスティ様、これを」
 そんな言葉とともにやってきた男が、目の前に差し出す追加資料。
 それを受け取り、そっと文字をなぞっていくしなやかな指先が、ある箇所でぴくんと反応する。
「すみません」
 隣で資料整理を始めた青年に、カーニンガムは振り返って声をかけた。
「これからちょっと出かけますので、至急支度をお願いします。資料は解析が終わり次第、あちらのパソコンに送って下さい。その際に、少々別の調べ物をお願いするかもしれませんから、そのつもりでお願いします」
 突然の変更に『困った人だ』という目で彼が自分を見る。
 その視線を軽く受け流して、カーニンガムは思考の海に再び彷徨いだす。



 草間興信所経由で出発したバンが、つい一昨日報道されたばかりの、いまだ現場検証の跡が生々しく残る公園前に止められる。
 車体には大きく花屋の名前。
 昼日中に誰が乗っていたとしてもただの配達にしか見えないだろうそこから降り立ったのは、40を越えた精悍な顔つきの男と、そして可愛らしく華奢な少年だった。
 藤井雄一郎と水野まりも、彼らの手には白百合の小さな花束がひとつずつ。草間から電話をもらってすぐに、花屋を営む藤井が被害者の為に用意した弔いの花だ。
「ここが、一番最近の現場だな」
「ええと……杉野一郎。25歳。職業はホスト。事件当時は友人との外食後、出勤の予定だった。ところが、時間になってもなかなか店に来ず、気になった店主が彼の携帯に連絡……」
 水野はカーニンガムがパソコンに送ってくれたデータを、舞台上の長台詞のごとく諳んじてみせた。
「彼、その時にはもう、ここであんな姿になってしまってたんですね」
 そうして溜息とともに最後を締める。
「何で殺されちまったんだろうな……」
 彼の溜息を、藤井が引き継ぐ。
 ここで人が死んだ。
 これから紡がれるありとあらゆる時間を、一方的に断絶された。
 救われたいと望むものは居るだろう。この現状をどうにかしたい、ここから逃れたいと、そう願うものもいるだろう。
 それは分かる。
 だが、他者から死を与えられて、黒焦げになってまで浄化されたいなんて思う奴がいるのだろうか。
「何で殺さなきゃいけなかったんだろうな」
 弱々しい呟きがまたこぼれる。
「きっと誰もこんなことは望んでなかったろうに……やりきれないよな、少年……」
「ええ、まったくです」
 藤井と同じように花を置いて両手を合わせ、水野もまた黙祷を捧げる。
 一分間の沈黙。
 そして、
「少し、話を聞かせてもらうか……少年、悪いがちょっとだけひとりにしてしまうからな」
「はい」
 ここには緑がある。
 風が吹く。
 土がある。
 藤井は溜息のように深く息を吐き出して、それから目を閉じ、普段は内側に眠らせている別の感覚を呼び覚ます。
「答えてくれ……」
 藤井のまとう空気が変わるのを、水野はじっと見つめていた。
 今にも具現化しそうなほど強いオーラが、冷たく余所余所しかったこの場所に染み透っていくのが分かる。
 心の内で水野は……いや、彼の内側に潜む『もうひとりの彼』は思う。
 罪とは一体なんなんだろうか。
 粛清というのは何なんだろうか。
 死を持って償えというのなら、とっくに死んでしまった自分は贖罪すら済んだことになる。
 だとしたら、彼女たちは自分にどんなことをしてみせるのだろう。
 どんな楽園に導けるというのだろう。
 『よし』という小さな気合と共に沈黙を破る藤井の声で、水野は現実に引き戻される。
「少年、行き先を変更だ」
 厳しい目が水野をまっすぐ射抜く。
「了解です、藤井さん!」
「はい!」
 ソレまでの表情を一瞬で拭い去り、にっこりと愛想良く笑って頷きを返すと、水野は彼とともにバンへ急ぐ。


 シオン・レ・ハイは、やわらかくふくれた紙袋を抱えて、緑溢れる公園の一角をひとり歩いていた。
 彼女たちに会いたい。
 盟主と呼ばれるものに会いたい。
 他の調査員達からの連絡で、彼女たちの出没するらしい場所はいくつかピックアップされている。
 カフェやショップ。ファッションビル。そして、ライブハウス。
 年頃の女性が好みそうな名前がずらりと並んでいた。
 できれば店内などで待ち伏せたかったが、羽澄とセレスティが情報網を駆使して掻き集めてくれたリストに、ハイが居てもおかしくない場所などほとんどなかった。
 そもそも彼の財政難は深刻であったし、金銭面に問題がなくとも、四十路を過ぎた彼の紳士然とした立ち振る舞いも少々浮いたものとして周囲の目に映ってしまうのだ。
 だが、公園なら。
 編みかけのサマーセーターを抱えて留まることも出来るし、時間さえ許せば一日中でも張り込むことが出来る。
 だから、ハイは歩き回る。
 毛糸玉と編み針とを詰め込んだ袋を抱えて、あてどなく。
 ふと、30歳近く年の離れた友人のことを思い出した。
 以前彼の携帯するゲームを見せてもらったことがあるのだ。随分と古いRPGで、主人公達は延々といつ遭遇するかも分からない敵を求めて、草原や砂漠を歩き回る。
 そんなキャラクターに自分の姿が重なった。
 ひたすら歩けば、行き当たるだろうか。
 彼女に。
 あるいは、盟主に。
「見つけた」
 突然、頭上から声が降って来た。
 見上げると、夢見るようにうっとりと笑う見知らぬ少女がひとり、ふわふわと、まるで蝶が舞うように目の前に下りてきた。
「見つけた、ですか?」
 少しだけ驚いた顔で、ハイは彼女の姿を目でゆっくりと追いかける。
 いつそこに現れたのか、ハイにはまるで分からなかった。
「貴方みたいな人、探していたの」
 依頼人が求める女性ではない。
 けれど、ソバージュの髪が印象的な、どこか共通する雰囲気を持つ女ではあった。
「貴方も炎のチカラを持っているのね」
 少女はハイの頬に触れて、優しく宥めるように問いかける。
「……分かるの、ですか?」
「ええ。同胞のことなら分かるの」
 素敵だわ……とかすかに呟いて、それからしっかりと黒手袋に包まれたハイの手を握る。
「盟主様にお会いしましょう?きっと歓迎してくださるわ」
「私は若い方ではないですし、強いチカラを持っているわけでもないのですが、お役に立てるものでしょうか?」
 それとなく不安そうな顔をしてみる。
 事実は事実だ。
 正直制限下にあるこの能力で人体発火のような真似など出来るはずもない。
 それでも構わないと言うのなら、盟主はもしかすると別の能力を持っているのではないだろうか。
 例えば増幅。例えば付与。たとえば……
「貴方からは強いチカラを感じます。大丈夫。きっと盟主様が導いてくださいますわ」
 少女に手を引かれ、誘われるハイの心にふと、哀しみに近い感情が舞い降りる。
 彼女は自覚しているのだろうか。
 彼女は認識しているのだろうか。
 自分は人を殺しているのだという事実を、ちゃんと受け止めているのだろうか。
 もし何も分かっていないとして、彼女たちの目を覚ましてしまったら、一体その心はどうなってしまうのだろう。
 懸念。不安。疑問。渦を巻く。
 だが、ハイはそれを懸命の頭の外へ振り払う。
 どんな結末が待っていても自分はこの事件を解決すると決めたのだ。
 そして、最悪の事態を避ける為に仲間たちが動いている。
 大丈夫。
 自分は自分のなすべきことを精一杯すればいい。
 覚悟を決めて、ハイは少女の目をまっすぐに見つめる。
「では……私にもお手伝いをさせてください」
 彼女はハイの手を取り、ほんの少しだけ力を込め、そうして厳かに頷いた。



 華奢な指先に、触れる体温。
 彼女たちは夢見心地で、差し伸べられた手に身を委ねる。
 なんという恍惚。
 なんという充足。
 理想の楽園へ向けて、一歩、また一歩と、自分達は近付いているのが分かる。
 たまらなく愛しい、誇らしい、素晴らしい、何ものにも代えがたい時間。



 大型連休が明け、ようやくいつもどおりの落ち着きを取り戻したカフェテラスの奥。ボックス席から手を振る青年の前に腰掛けて、シュラインは顔なじみの青年と向かい合う。
「忙しいのにごめんなさい、片山さん」
 捜査一課の刑事をこんな時間に呼び出すのは気が引けたのだが、相手は屈託のない笑顔を返してくる。
「なんのなんの。エマちゃんの為なら、例え火の中水の中。強盗犯が拳銃を振り回す銀行にだって喜んで馳せ参じるよ」
 そういう彼の前にずらりと並ぶ春の新作スイーツは、桜をイメージした淡いピンク色に彩られていた。
 視覚と味覚共に見事な季節感である。
 この甘党の刑事は、情報提供に対する報酬を随分と楽しみにしているらしい。
 時々こんなに安い報酬でいいのだろうかと思うときもあるのだけど。
「相変わらず活躍してるみたいだねぇ。こっちの方にまで興信所の噂が流れてきてるよ。最近じゃ探偵行が本業になってるんじゃない?」
 冗談めかして片目を瞑ってみせる。
「ん〜……私としては、翻訳家が本業のつもりなんだけど」
「もちろん、そっちの評価だって高いだろ?この間の新刊、読ませてもらったよ」
「あら、本当に?」
「うん、本当に。嘘ついてどうするのさ」
 そんな台詞をさらっとした笑みに乗せ、
「さてと、君だって忙しい身だろうからね。ちゃちゃっと本題に入ろっか?」
 軽い調子の台詞を口にしながら分厚い封筒をカバンの中から取り出して、片山は表情を引き締める。
「被害者の身元だけどね……ひとつひとつはすごく短い。でも、量が半端じゃないから頑張って」
「半端じゃない……のね……本当にこれだけの人数が?」
 封筒から取り出した資料に目を走らせ、シュラインは何とも言えない気分に陥る。
 被害者の共通点に関しては現在カーニンガムがデータ化してくれているが、それにしてもこれほどとは思わなかった。
 彼らの死と、それを救済と信じて行った彼女たちに、ザワリと昏い寒気を覚える。
 彼女たちを動かす盟主は、そこに何を見出そうとしているのだろうか。
「嫌になるよね、こんだけ立て続けに起きてさ。しかも、一時期は『流行か?』ってぐらい不審火が続いてね……そっちの放火犯を挙げるのにも一苦労なんだ……」
「放火?」
「何年前だったかな。結構大きな家が一夜にして全焼ってのもあったし。どうも金品目当ての強盗殺人から発展したっぽくてさ……」
 やりきれないよ、と溜息をこぼす。
 だが、そんな彼を見つめながら、シュラインの頭の中では、まったく別の可能性が閃いていた。
 放火。
 火。
 炎による、喪失。
 何かが引っ掛かる。
 『彼』はもしかすると過去に大切なものを失っているのではないか。人類への憎悪と成り代わるようなスイッチが、そこにあるのではないか。
 片山と分かれてすぐに、シュラインはカーニンガムの携帯へと電話をつなげた。



 届かない悲鳴。届かない手。けれど、もう大丈夫。もうけして届かないなんて事はないから。



「あの人に頼まれたのね?もう、びっくりしたでしょう?ごめんなさいね」
 松岡の呼び出しに応じてくれた彼女は、まるで夢の中にいる者のように、あるいは画家の描く天使のようにふわふわと優しく淡く微笑んでいた。
「あの……」
 挨拶を口にしかけ、一瞬、ほんの一瞬だが羽澄は息を止めた。
 血の匂いがする。
 焼けたたんぱく質の、あの何とも言えない異様さを湛えた血の匂いだ。
 彼女の髪に、肌に、仕草に、染み付いているソレは、どんなに洗い流そうときっと消えない、罪の証みたいだと思う。
 なのに本人はそんなことに無頓着で、だからこそ余計に怖い。
 罪悪感などそこにはヒトカケラも存在しない、純然たる善意思の固まりのような笑みが怖い。
「少し、お話を聞かせていただいてもいいですか?」
「ええ、もちろん。ただ、私にお話できることがあればいいんですけど」
 やはりドラッグ使用者特有の高揚感は見受けられない。
 精神に異常をきたしている様にも見えない。
 ならば彼女をこうまで変えてしまったものは一体なんなのだろう。
「多分、お答えいただけると思っています。私が聞きたいのは貴女が行っている活動について、なんですけど……」
「私の活動?」
「はい」
 最も警戒されない場所として、彼女のテリトリーと思しきカフェを選んだが、果たしてソレは正解だったのだろうか。
 いつ発火現象が起こるかわからない。
 何が、誘引となるかも分からない。
 周囲と彼女の両方に感覚を研ぎ澄ませ、神経を注ぎながら、慎重に言葉を選び、僅かな変化も見逃さないよう反応をうかがう。
「理想の楽園ってどういったものなのかしら?」
「ああ……なるほど。そういうことを知りたいなら、アナタもKILの歌を聞くといいわ」
「私も?KIL?」
「あの方は特別なの……あの方が奏でる音色は特別」
 博之さんとデートをしたの。ライブハウスも入ってるバーで。その時お店で流れてたプロモーションビデオ、すごく素敵だったわ。壁一面を埋めるスクリーンに色と光が溢れてて。あの時、私、感じたの。運命よ。ずっと悩んでいたけど、ようやく答えを得られたの。天啓、ってヤツだったのかもしれない。不思議よね。ホント、不思議。
「博之さんはあの方の持つ引力が全然分からないみたいだけど、私には分かる。選ばれた人間だから。アナタも、そうね……行けばきっと分かるわ」
 そんなふうに夢見心地で彼女は語り続ける。
「じゃあ盟主様というのは」
「あの歌を聴いて……KILの歌……そうしたら分かる」
 もっと内側まで踏み込みたいのに、探りをいれようとする度に何故かギリギリのところで羽澄の『音』が弾かれてしまう。
 強力な暗示……それも自分が特異とする分野に関連するチカラが彼女を捕えている。
「そろそろいいかしら?私、これからあの方の……」
「あ」
 すっと、羽澄の指先が立ち上がりかけた彼女の耳元、赤い石のピアスへ延ばされ、触れる。
「え?」
「髪にゴミ、ついていたみたいです。取れましたけど」
「あら……有難う」
 何の疑いも持たず、微笑みを残して奈緒子が立ち去るのを見送りながら、羽澄は確かめるようにほんの少しだけチカラを解放してみる。
 大丈夫。
 一瞬触れたあのピアスは今、羽澄の感覚と繋がっている。
 対抗策を講じなければ。
 彼女が聞く『音』の正体を突き止めれば、そうすれば、きっと何もかもが一気に動き出す。



 ハイの手を引いて、少女は重い扉を軽々と片手で押し開けた。
 いくつものそうした『門』を潜り抜け、ひっそりと隠されているエレベーターに乗り込んだ先。
「あ」
 独特の浮遊感を味わった後に、目の前に広がるもの。
 ハイは思わず驚きの声を上げていた。
 紅い絨毯。重厚な装飾。長い廊下の両脇をずらりと飾るのは、中世を髣髴とさせるアンティークのランプだ。
 橙の光がチラチラと揺れている。
「すごい、です」
 目が眩みそうなほど、豪奢だ。
「ここから先は選ばれたものだけが踏み込むことを許されているの。もちろん盟主様にお目どおりも叶うのよ」
 相変わらず手を引いてくれる少女は、迷路のように入り組んだビル内を恍惚とした声で案内してくれる。
 彼女によれば、もう間もなく、盟主自らが祭壇に立って今日の儀式を執り行うらしい。
 そして、ソレは何物にも代え難い、とても幸福な時間なのだと言う。
 自分の中にあるチカラを再確認できる。
 楽園への想いもより一層募っていく。
 救済へ赴く為に、必要な時間なのだと言葉を加えた。
「あの……ええと、確認したいのですが。その儀式に参加して盟主様にチカラを与えてもらえば、私も『救済』が出来るようになるんですよね?」
「ええ、そうよ。貴方は……ええと、シオンさん、でしたっけ。シオンさんは私たちと同じ『断罪者』となるの」
 ソレはとても重要な仕事。
 盟主から最も目を掛けて貰える、楽園への手引きを可能とする選ばれし者の中から更に選ばれた存在。
「断罪する相手とはどのように決めるのですか?」
「ソレは……あ、始まるわ」
 彼女に合わせて足を止める。
 長い長い廊下を渡り、案内されたのは、最上階に用意された特設ステージの舞台袖だった。
 ヒトの気配に溢れながら、沈黙で満ちた空間。
 ビロードの緞帳に指が触れる。
 照明が落ちる。
 闇の訪れ。
 そして、低く深く緩やかに曲が流れ始めて。
 その場にいた人間たちが歓声と共に総立ちとなった。
 ライトが一斉に点灯する。
 視覚を奪われるほどの光の洪水の中、それまで無人だったステージに、腰に届く長い黒髪と同色の闇色のロングコートをまるで翼のようにひらめかせた男がマイクを握って立っていた。
「歓喜の歌を捧げよう」
 よく響く、脳を心地よく痺れさせるような重低音。
 音がする。
 異様な波動を込めた、奇妙な音。
 耳を塞いでも、脳細胞に浸透していくような。
 眩暈を誘うような心地よい音。
 シオンはただじっと舞台袖から彼を見つめる。
 目を逸らすことも、耳を塞ぐことも、息をすることすら忘れてしまうほど引き付けられ、そこから逃れることが出来なくなっていた。



 現場に留まる緑の目撃者たちは、藤井に声を揃えて『炎』の恐怖を訴える。
 ふわふわふわふわおりてきたの。
 こわかった。
 まぶしかった。
 あつくて、こわくて、でもすごくきれいなこころで。
 きれいすぎて。
 やっぱりこわくて。
 精霊たちは血の穢れに震えている。
 凄絶な念波に吹き飛ばされて、清浄な意識を半分持っていかれたものも居る。
 だが目撃者たちはなおも藤井に囁く。
 炎を操る者たちに、悪意はない。邪気もない。植物たちは口を揃えて、純真だったと、綺麗な心だったと。
 そして、彼女たちがいつも微かな音楽をまとって現れると言う。
 遠く遠く微かな歌がずっとずっと向こうから流れてきて、その音楽に還って行くのだと。
「なあ、少年」
 水野を横に乗せてバンを運転しながら、ずっと無言だった藤井は、ようやく口を開いた。
「え?あ、はい」
 資料を手に、同じく沈黙を守っていた彼が、ほんの少し驚いたように顔を上げる。
「そういえば少年は、アイドルとして盟主に売り込みたいって言っていたな?」
「ええ。もし彼女たちの拠点が分かったら、営業しようって思ってます。信者のフリをして潜り込んで、広告塔にもなりますよってアピールしようかなとか」
「演技に自信はあるか?」
「僕って演技派なんですよ?」
 今もこうして58歳のオヤジが15歳のアイドル……まったくの別人を延々と演じているじゃないかと続ける心の声を、藤井は聞けない。
 だから、彼の表出した言葉だけを全面的に信頼し、ひとつの提案を口にした。
「じゃあ、な。頼みがあるんだが、いいか?」
「はい」
「俺も一緒に連れていってくれ。どうしても彼女たちを止めたい。だが、上手く取り入る方法が浮かばん。だから、お前のマネージャーとか適当に役割をでっち上げてくれないか?」
「場所、分かったんですか?」
「ああ。だが、俺ひとりじゃどうしても浮いてしまう場所だ」
「分かりました。任せてください」
「よし。任せたぞ、少年」
 シュラインは今、焼死事件の背景を追いかけつつ、同時に被害者宅を回っている。
 カーニンガムと羽澄の両名は、アイツと呼ばれる存在、そして罪を重ね続ける彼女に接触を図っている。
 ハイからの連絡がないのは気になるところだが、とにかく彼女たちの能力を持ってすれば、真実は必ずその姿を現すだろう。
 だがその時、突きつけられた現実に、彼女たちは耐えることが出来るだろうか。
 彼女たちの行為を認めるわけにはいかない。例えどれほど崇高な理想を掲げていようと、殺人は所詮殺人なのだ。
 その事実はけして変わらない。
 アクセルを踏み込んで、車は加速する。
 彼らが向かう場所は―――



「多分、一番問題なのはこの場所だって思うんです」
 カーニンガムに街中で拾われた羽澄は、彼のリムジンに乗り込み、広いシートにパソコン機器を広げさせてもらった。
 モニターに表示された情報は、松岡が最後に彼と邂逅した場所、そして、彼女が『彼』に出会った場所――
「From Butter-Fly……ですか……」
 それは、この一年以内に新築されたビルのワンフロアに収まっている、ライブハウスを兼ねたバーだった。
「宗教じゃないから信者というのもおかしいし、そこを教会とか礼拝堂とかそんなふうに呼ぶのもおかしいとは分かっているんですけど」
 羽澄がパスワード制のチャットに繋いだノートパソコンには、表には出てこない仲間達のネットの海に張り巡らされている情報網が的確な指示をいくつも上げてくれる。
 打ち込んだ文字の数十倍の情報量がどっと押し寄せてくるのを正確に目でトレースしながら、羽澄はソレを整理していく。
「10階建ての建物の各フロアにお店がひとつずつ。上階には特設ステージもそこに組み込まれて入るみたい。そこで歌っているのが」
 彼女がしきりに聞けば分かるといっていた存在が、
「KIL……コアなファンに支えられた彼は」
「本名を結城隼人……松岡さんの言うアイツ、というわけですか……」
 羽澄の言葉を引き継ぐ形で、カーニンガムは手にした資料をめくる。
「なるほど。そこが彼らの本拠地と考えて良いかもしれませんね」
「はい」
 彼女たちはここで出会い、ここに集い、ここから断罪者へと変貌したのだと、データは饒舌に語ってみせる。
「ただ」
「ただ、なんでしょう?」
「ただ、通常はスクリーンに映し出されるだけみたいで、直接ステージを見られるのは会員だけって感じなんです」
 別の画面を開いて、スクロール。
 ずらりと並ぶ掲示板の中では、カフェなどを紹介するブログサイトがリンクされている。
「ソレもかなり厳重な審査を行う類のもので……多分、それが奈緒子さんの言う『選ばれし者だから』ってなんだと思うんですけど」
 膨大な情報を所有する提供者ですら、5階以上に踏み込めたものは一人もいないらしい。彼等は『厳正なる審査』に合格することは叶わなかったということだ。
 逆に言えば、その審査を潜り抜けたものはけして内部を口外しない、口外出来ない状態になるということに繋がるのではないだろうか。
「彼は今、『KIL』として断罪者の衣を纏っています。ですが、その内側ではおそらく……」
 カーニンガムは、克明な記録を残すモニターへと視線を落とす。
 彼の中ではおそらく、哀しく昏い想いが渦を巻いている。
「あの子たち、本当に仲がよかったんですよ」
 そんなふうに切り出した孤児院の院長の台詞が頭の中に浮かび上がってきた。
 松岡と結城の関係。
 やがて彼らがそれぞれ進んでいった道。
 そして。
 辿り着いたのはシュラインから聞かされた推測の通り、7年前に、ある民家を見舞った放火殺人だった。
 この事件の犯人はいまだ捕まっていない。
 進学を契機に一人暮らしを始め、才能を認められた音楽に必死に打ち込んでいたその家の息子は、養父母の事件を境にそのまま学校から姿を消してしまっていた。
 長い長い沈黙。
 そして。
 復讐という名の情念が、大義名分にすりかえられている。
「あ」
「どうしました」
 羽澄の声で思考を引き戻され、怪訝そうに問いかける。
「多分彼のライブが始まったと思うんですけど……すごく、何というか、揺さぶられて……」
 奈緒子のピアスが拾い上げる途方もない理想論の発信源に、羽澄は思わず鳥肌を立てた。
 曲が聞こえる。
 緩やかに、ひそやかに、まるで細胞の奥底にまで浸透するような、奇妙な波動を持つ音楽。
 ふつりと、怒りがこみ上げる。
 羽澄は歌を愛している。音楽を愛している。例え表立って人々の前で歌うことは出来なくても、母親から受け継いだこの才能を介して見える景色を愛しいと思っている。
 だから許せないのかもしれない。
 理想の楽園を求めること事態を否定したりはしない。けれど、その方法もその思考過程もどうしても受け入れられない。
 こんな脳髄を侵すような音を、純粋な音楽とは認めない。
「彼の波動を打ち消すだけの、強いチカラを発する『音』を手に入れなくちゃ」
 決意をひらめかす彼女の目を、カーニンガムは穏やかに受け止める。
「よろしければ、羽澄さんのためにスタジオをお借りしましょうか?」
「え?」
「音を分析し、なおかつそれに対抗できるものを生み出すとなれば、そんな設備を兼ね備えた場所を探すほうが手間でしょう。ですから、私が早急にご用意いたします」
 リンスター財閥の総帥は、そうしてこともなげに言ってのけた。
「失礼します」
 何かを言いかけた羽澄の言葉を嫣然とした微笑で押し止め、彼は携帯を手にする。
 いずこかへと繋がり、短いやり取りが行われ。
「スタジオに向かいましょう。大丈夫。機密性の保持という面において、これほど信頼できる場所は他にそうそう見当たりませんから」
 何かを知っているかのような意味深な笑みを浮かべる紳士を、羽澄は何とも言えない心境で見守っていた。



 シュラインはひとり、住所録を手に被害者宅を訪ね歩いていた。
 だが、頭の中では、先ほど送信されてきたカーニンガムと羽澄が手にした情報がぐるぐると渦を巻いている。
 炎。焼死体。能力者。そして、粛清。
 それが何を意味するのか、ずっと考えていた。
 盟主と呼ばれる青年に果たして何が起きたのか。
 それを知ることで、何かとても重要で根本的なことが掴める気がしていた。
 これはある種の勘。
「……すっかり怪奇探偵の一員よね……このままじゃ翻訳家どころか事務員っていうのもあやしくなっちゃうわ」
 今更ながらに片山の言葉がふと浮かぶ。
 彼はこの事件を追っている。
 時々ふっと、自分たちの手には負えない事が多すぎると、本音交じりの溜息をこぼしていた。
 多様化する犯罪。
 昔ながらの捜査だけではどうしようもない所まで自分達は来てしまったのだろうか。
 盟主と呼ばれる男は、間違いなく『喪失』を味わっている。
 そして、音に関する能力、あるいは炎に関する能力を開花させてしまった。
「彼が自分の能力に気付いたのは、多分、あのとき……」
 資料の中で、ひとつだけぽつんと浮いている事件がある。
 深夜の児童公園――日が暮れた後は不良の溜まり場と化すらしいその場所で、身元不明の焼死体が3名分、出火元がまったく分からない状態で消し炭になり、転がっていたという。
 人体発火現象。捜査陣の間でそんな言葉がまことしやかに囁かれたのも事実である。
 そこから間をおかずに続く小さな放火事件。小火騒ぎ程度のものから、物置小屋がまるまる焼け落ちたものまで多種多様だ。
 彼は試したはずだ。
 自分の能力がどれほどなのか。
 そして、自分の能力の限界とはどこなのか。
 初めは人目のない所で、小さく小さく。やがて場所を移して、対象を広げて、範囲を確認して。
 思考を巡らせる。
 カーニンガムが辿り着いたように、シュラインもまた、ひとりの男の物語を再構築し、限りなく正解に近付いていく。
 そして、結城の身に起きた悲劇を思い、同時に、彼の暴走によって不幸を背負うこととなった罪のない者たちの悲劇を思う。
 自分の元に募っていく、父を、息子を、娘を、妻を、恋人を失ったモノたちの、深い嘆き。
 何故こんなことになってしまったのかと、何故いきなりあんな目になったのかと。何も悪いことをしていなかったとは言わない。誰も傷つけていないとは言わない。だが、それでも、あの子が、あの人が、こんな目に遭う理由なんてどこにもない。
 哀しみだけがどこまでも果てしなく増殖する。
「こんな想いの先に、楽園も救済もあるわけないじゃない」
 呟いて、顔を上げる。
 結城の、奈緒子の、そして追従する者たちに、もう一度考えてもらう為に。
 彼らが思い描く『理想の楽園』が生み出しているものの本当の姿を、きちんと見つめてもらう為に。
 きっと大丈夫。
 きっと間に合う。間に合わせてみせる。
 シュラインは気合を入れて鞄を抱えなおし、その歩調を速めた。



 どうしてこんなチカラを持ってしまったのか。
 どうして『普通』ではいられなかったのか。
 楽園を目指そう。
 このチカラの与えられた意味を知るために。
 楽園に導こう。
 罪深きモノたちの魂を、この炎で浄化して。



 日の暮れかけた街中で藤井が車を止めた場所は、羽澄が辿り着いたものと同じ――ゴシックと現代アートを織り交ぜた10階建てのビルだった。
 駐車場にバンを入れて、水野は藤井を先導する形でその内側へ踏み込む。
 ざわめきがワッと押し寄せてくる。
 だが、それには構わず、自信をもってずんずんと上階を目指していく。
「少年、どうするつもりだ?」
「多分そのうち内側の人が出てくると思うんで、そしたら交渉開始しようかなって」
 さりげなく交わす短い台詞。
 その間も延々と開かれては閉ざされていく扉。扉。扉。
 だが、
「ここから先は会員制となっております。申し訳ございませんが、一般のお客様のご入店は固くお断りさせていただいております」
 彼らの行く手を阻む存在がいきなり目の前に現れる。
 黒い服の、礼儀正しそうな青年。強い光を放つ瞳には、何故かふわふわとした夢の欠片が見て取れる。
 音と光と映像に溢れた周囲を水野はぐるりと見回し、そして、首を傾げる。
「僕も、盟主様のお力になれませんか?」
「え?」
「何かをしなくちゃいけない。そういう思いに駆られてここまで来たんです。お願いします」
 どこか頼りなげで、儚げで、けれど純粋な信仰を胸に抱いていると確かに思わせる、そんな真摯な少年を演じてみせる。
「僕も楽園に行くお手伝いがしたいんです」
 言葉の魔力。
 表情の魔力。
 演技を通して相手に与えるのは、絶対的命令にも似ている。
 演技力とはすなわち、相手を自分のフィールドに引き込むチカラ。
 水野の……正確には水野の身体に入り込んでいる『布市玄十郎』の望んだ印象、望んだ解釈を相手は無意識に受けとってしまうらしい。物語の構築と呼んでもいいのかもしれない。
 そういうものだと――そして、ソレがいわゆる役者が持てる能力の範囲から逸脱しているのだと気付いたのは随分あとになってからだ。
 だが、この効果の使い方は充分心得ている。
「アナタ……もしかしてアイドルの?」
「はい、水野まりもです」
「では後ろの方は?」
「僕のマネージャー。彼もね、どうしてもここに引かれてやまないからって」
 演技に自身のない藤井は、ただ黙って頷くだけだ。
 交渉は全て水野が引き受ける。小さな矛盾も生じない、徹底した印象を植え付けるように。
 大手事務所所属のトップアイドル。それが水野まりもの顔だ。そんな彼がどうしてこの場所に。そう思い、いぶかしむ相手の反応は充分に予測の範囲内である。
 だからこそ、効果的に言葉を重ねる。
「僕は僕に出来ることをしたくて。ずっとずっと考えていたんです。どうすれば皆を幸せに出来るのかなって。いろんな哀しい事件がありますよね。ひどいことたくさん起きてますよね。でも僕、そういうの、少しでもなくして行きたくて……僕のチカラを、役立てたくて」
 相手の目をまっすぐに捉えて訴えかけるその言葉には、チカラが乗せられている。
 爪先まで神経を行き届かせた仕草、眼を引きつける唇の動き、そして、目に宿す光すらも調節して魅了する。
 仮面の下にはひっそりと嫌悪に歪められた表情があることを、彼は知らない。気付かない。
 暗示にかけられたかのように、ついに青年は彼の為にその扉を開いた。
「どうぞ。私たちの同士として、貴方をお迎えします」
 そんな2人のやり取りを眺めていた藤井は、思わず唸っていた。
 水野という少年は稀代のペテン師になれるんじゃないかと、そんなことをこっそり考えてしまったが、口にしない方が良さそうだ。
 そして。
 重い扉の内側へ一歩踏み込んで、彼等は呆然とする。
 そこは、藤井はもちろん、トップアイドルとして方々のスタジオに出向く水野の目から見ても、驚くほど音響設備の整った建物だった。
 自分が所属するあのむやみに大きく広く高い構造を持つ芸能プロダクションを除けば、ほぼ初めて目にする規模だ。
 概観からは分からないけれど、おそらく壁にも内臓スピーカーを始めとした様々な機材が配置されているのだろう。
「ようこそいらっしゃいました」
 青年から引継ぎをされた少女は、ニコニコと笑いながら、いずこともしれない部屋へと彼らを導く。
「さあ、こちらへどうぞ。盟主様はまだステージに立っていらっしゃいますから、私がお2人をご案内しますわ」
 選ばれしものだけが立ち入ることを許された、完全会員制の秘密の楽園。
 遠くで鮮やかな音色が響いていた。



 儀式ともライブともつかない音と光の洪水から解放されたハイは、今度は少女によって楽屋と思しき場所へ向かわされた。
「シオン・レ・ハイ……わが同胞……」
 入出することを許された自分に、彼は緩慢な動作で手を差し伸べる。
「あの……」
「どうした?」
「あの、いくつかお伺いしたことがあるんですが……」
 深い絶望を滲ませる静かな瞳に、ハイはほんの僅か戸惑いを覚える。
 あんなにも美しく情熱的な曲を奏でながら、彼はどうしてこんなにも苦しげなのだろうか。
 まるで殉教者のように、憂いを湛えている。
 彼は、人を殺している。人を殺させている。けれど、もしかするとソレは、やむにやまれぬ事情がそうさせているのではないか。彼自身も辛くて哀しいけれど、でも、痛みに耐えて人類を楽園へ導こうと、真剣に考えているのではないか。
 いつのまにかハイの中に、彼の想いが浸透していた。
「あの……理想の楽園を目指してるとお聞きしたんですが、粛清と救済の対象ってどうやって決めているんでしょう?私にもそれが分かるのでしょうか?」
 松岡。今回の依頼人。彼女を救って欲しいと願って興信所を訪れた青年。彼の思いに同調して調査に乗り出したのに、自分は今、揺れている。
「シオン……お前はいつ能力に目覚めた?」
「私ですか?……生まれつき、でしょうか」
 この身体を構成しているものは人ならざる存在だ。種族の違う両親の間に生を受けた瞬間から、ハイは異能者であり、異端者である。
「そうか……」
 だが、彼がそれを知ることはない。
 ただ、ゆっくりと頷くだけだ。
「辛くはなかったか?この世界で、そのチカラを宿して、苦しいことばかりだったのではないか?」
 後悔に苛まれるものの声だ。
「俺がチカラを得たのはつい数年前だ。大切なものを護れず、間に合わなかった代償に、このチカラを神より授かった……」
「代償」
「神によって与えられたこのチカラで、俺は罪深きモノの魂を浄化した……神がそれを望んだのだ」
 目には見えない傷口が開いている。彼はボロボロなのだ。心が引き裂かれてしまって、そこからいつまでも血を流している。
「心なき迫害者たちを粛清し、我々は崇高なる世界を築く……罪を犯し、人を欺き、偏見に満ちた暴力を振るう者たちを、諭し導くのが使命となった……」
 自分の中で何かが揺れているのをシオンは自覚している。
 彼の歌を聴いて、彼の嘆きが自分の細胞へ染み透っているのだ。
 そうして、粛清はいけないことだと、命を絶つことは許されないことだと思う意思に、そんなことはないと囁きかける。
 迷いを生じさせる。
 振り払ってしまいたいのに、ソレが出来ない。
「もうひとつ、伺ってもいいでしょうか?」
 声が震える。
 身体が震える。
「……理想の、楽園とは一体なんですか?」
「いずれ分かる」
 ふぅっと、彼は笑った。
「さあ、まもなく今宵最後の幕が上がる。お前も俺とともに来い」
 差し出されたその手を取って、ハイは静かに頷いた。



「もう間もなく、断罪者が盟主様とともにここを通りますわ」
 屋上へと続く長い階段。その直前の部屋が、今夜救済へと向かう者たちがひと時を過ごす場所なのだという。
 ずらりと並ぶ選ばれしものたちに混じり、藤井もまた水野と一緒に彼らを出迎えるべく廊下に並ぶ。
 ここでは何もかもが儀式として神聖化されている。
 炎を使う能力者だけが盟主とともに断罪を行えるらしいという説明も受けた。奈緒子もそこにいるのだろうか。自分達ではその列に加わることが出来ない。
 誰かその手の能力を持っていなかったか。
 そんなことを考えていた藤井の思考を遮るように、重厚な扉が押し開かれた。
 歓声を上げるでもなく、羨望と憧憬と信仰とを混ぜた視線の中で厳かに迎えられる盟主。
 どんな男かしっかり顔を見ようと前のめりになり。
 そして、そのすぐ隣に立つ男に藤井の目が見開かれる。
「シオン……?」
 連絡の途絶えていた仲間が、そこにいる。
「……藤井さん?」
 思わずこぼれた声に、水野がちらりと視線を寄越す。
「……ヤバイ、かもしれんぞ、少年」
 ふらふらと夢見心地で移ろうハイの目に自分達は映っていない。彼の意思で行う潜入捜査ならいい。ぴたりと盟主に張り付いて、彼を止める隙をうかがっているなら。
 だが、そうでない可能性が高すぎるのだ。
「ええと?」
 水野の耳に、その音色はただの音楽としてしか響かない。
 だが、藤井にも、そして盟主の傍に控えるシオンにも、彼の声は奇妙なチカラをもって迫ってくるらしい。
 自分が致命的な音痴であるという事実は多分関係ないはずだ。
 2人と自分の違いはなんだろうか。
 そして、藤井とハイの違いは。
「やっぱり、直接曲を聴いたらまずいのかな……催眠効果?」
「おそらく、な」
 能力者だけが反応する音。
 そして意のままに操る音。
「シオンがヤバイな」
「もしこのまま彼の傍に居たら?」
「あいつまで粛清とやらに手を貸してしまうかもしれん……」
 揺れる。振れる。奇妙な感覚。万能感をもたらすような、高揚感と恍惚とをないまぜにした音たち。
 飲まれてしまったら、後戻りできなくなる。
「外に居るメンバーに、早いとこ連絡取らないといかんな」
 ここには緩やかな音楽がずっとずっと奏でられている。早くこの音を止めなくては、自分もいつハイのようになるのか分からない。
「行動を起こすなら、今夜しかない。でなけりゃ、また彼女たちは罪を重ねちまう」
「じゃあ、この内部の図面を手に入れて、一時間後に駐車場集合でどうですか?」
「よし、いいな。それでいこう。ミイラ取りがミイラになる前に、なんとしても止めるぞ、少年」
 藤井の切羽詰った言葉が、ネットと携帯電話を介して調査員たちへと瞬時に広がった。

 そして。

 曲調が緩やかに変化して夜の闇に流れ始める頃、ハイを除いた調査員達は藤井のバンが止まる駐車場に集った。
 調査状況を求める松岡へ連絡を済ませ、揃えるべきカードを全て揃えて。
 藤井はシュラインが集めた被害者の遺族の思いを受け取り、カーニンガムの提示したリストを元にもう一度推理の組み立てを行い、水野は図面を元に羽澄が作り上げたものをどこにもって行くのが最適かを提案する。
 間もなく断罪者たちは闇の世界に解き放たれるだろう。
 おそらくハイもそこにいる。
 奈緒子も。
 時間はあまり残されていなかった。
 盟主と呼ばれる男の過去。次々と起こる殺人。炎。放火。そして、おそらくは能力者たちが受けてきた迫害――彼らが望む理想は、あまりにも痛々しい。
 それでも、自分達は止めなくてはならない。
 最後の儀式を止める為にどうするか、綿密な打ち合わせを行う彼らの前に、突然松岡が姿を現した。
「ひとつ、お願いがあってきました」
 驚く彼らの前で、彼は深く頭を下げる。
「俺を連れていってください。もう一度アイツを、奈緒子を、取り戻す為に行動させてください。お願いします」
「でも、松岡さんの身体は」
 羽澄の顔が曇る。
「火傷だけではすまないかもしれませんよ?」
 カーニンガムが諭すように声を掛け、
「無理しなくたって、ちゃんと僕たち、奈緒子さんを連れ戻しますよ?」
 水野がそう告げて結ぶ。
 だが、彼は首を横に振る。それでも構わないから連れていって欲しいと、必死に言葉を重ねる。
「……どうしても行きたいのか?」
 藤井はそんな彼の肩に手を置き、その目を覗き込む。
「どうしても?」
「どうしても、です」
 松岡の願いが届くと同時に、全員の眼がシュラインに集った。まるで彼女の決定に全てを委ねるかのように。
 ほんの少しだけ沈黙は続き、
「………分かったわ」
 彼女は敗北を告げるように頷いた。
 終わりにしなければならない。
 今夜、全ての物語に終止符を打たなくては、何もかもが手遅れになってしまう。
 全てが、水の泡となってしまう。
「それじゃあ、行動開始といきしましょ」



 これは復讐ではない。
 これは、粛清であり救済であり、選ばれし者に神より与えられた使命なのだ。
 お前には分からないだろう。
 一生、分からないだろう。
 これは粛清だ。そして、警告だ。
 なあ、チカラを持たないお前には、きっと一生辿り着けないだろう。
 この、地獄のような絶望の深淵になんて、近付くことも出来ないだろう……

 ソレは出ることの叶わない、永遠の廃迷宮だ―――



 盟主は黒衣を纏い、蝋燭のごとく揺らめく光の通路から屋上へと、同胞を引き連れ、向かう。
「さあ、選ばれし断罪者たちよ。今宵も楽園を目指し、聖なる調べを奏でよう」
 凶鳥のごとく、彼は美しく彩られた『理想』を目指し、大きく開いた天空に向けて両手を掲げる。
 淀んだ東京の空に、崇高なる夢を描く。
「我らが同胞達よ――」
「悪いが、それはさせられん」
 だが、彼の言葉を遮るように激しい音を立てて扉が開け放たれた。
 視線が一斉に背後へ集まる。
「粛清は今宵限りとさせていただきます」
 暗い光を背負い、断罪者たちの前にゆっくりと歩み出る翠の眼の男、そして銀の髪の紳士。
「藤ユウさん……セレスティさん……」
 ハイは彼らをどこか遠い感覚で眺め、呟く。
「本当にこんなことが救済に繋がるとでも思っているの?」
「やめてくれ!頼むから、もうやめてくれ……」
 黒い髪の女に支えられて、悲痛な訴えを口にする青年。
「シュラインさんに……松岡さん……」
 彼らは来た。ここに、来てしまった。
 ということは、たぶん他の調査員も別行動でここに侵入している。
 だとしたら、この儀式はきっと今夜限りで終わるのだろう。
「博之……手加減してやっているうちに、どうして逃げなかった?どうして諦めなかった?……こんな者たちまで呼び寄せて……」
 ざっ、と両脇に避けた断罪者たちの群れが作る道の中心で、彼は夜の海のような闇色の瞳を向け、低く、静かに、問いかける。
「俺はもう逃げない。お前を止めて、奈緒子も連れ戻す。奈緒子はどうした?ここにいるんじゃないのか?」
 見回すどこにも、彼女の姿はない。
 シュラインは目を凝らし、耳を済ませる。けれど、奈緒子の気配はどこにもなかった。断罪者全員がここに集うわけではないのか。
 では、彼女は今このビルのどこにいるのだろう。
「何故、止める?我々は如何わしい宗教団体などではない。ただ、罪深きこの世界を浄化し、魂の救済に向けて己のチカラを役立てようと集まった同士というだけだ」
 盟主は、彼にとっての真実を口にする。
「お前たちには分からないのか?」
 嘆きの色が瞳に宿る。
「能力を持つものと持たないもの。それは激しい軋轢を生む。決定的な断絶を生む。抗いきれないチカラで引き裂かれるのだ」
 彼の瞳が揺れる。
 過去の映像がフラッシュバックを起こす。
「人は人を平気で傷付け、絶望の種を植えつける。だが、穢れた魂を浄化すれば、彼らもまた救われるだろう」
「本当に!?本当にそう思っているのか?お前達は、平気なのか?」
 上の娘とそう変わらない若い女性へ、藤井が大声を張り上げる。届いて欲しいと願いながら。
「人を殺して、ソレが救済だっていえるのか?」
「救済以外のなにものでもないわ」
「だって選ばれたんだもの」
「選んでもらえたから、私たちはこの世界を楽園に導いていくのよ」
 口々にそう答える彼女たちに、いつのまにか娘の影が重なる。
 やるせない。
 やるせない。やるせない。やりきれない。
 言いたいことがあった。
 言ってやりたいことがあった。
「魂に救いを。罪深き者達に贖罪を。我々こそが選ばれしものだ」
 彼が発するのは狂気の光ではけしてない。
 むしろソレが恐ろしいのだと、藤井は思った。
 いっそ心のどこかが壊れてしまったのなら、その行為は許諾できないとしても『納得』はいくだろう。
 だが、彼はおそらく正常だ。正常でありながら罪を重ねる。殺人を救済だと信じて決行する。
 何を見て、何を考え、何を為そうとしているのだろう。
 本当にこれが人類の救済だなんて思っているんだろうか。
 藤井は妙な吐き気に襲われていた。
 精霊たちが苦しそうにしているのが見える。
 血の穢れが充満していて、臭気が瘴気となり、そこらじゅうに染み込んでいる。
「粛清と救済と理想の楽園のために」
 両手を広げて歓迎の意思を表明してみせる。
「粛清と救済と理想の楽園のために!」
 歓喜に満ちた彼女たちの目が一斉に調査員達へ向けられる。
「理想の楽園へ行きましょう?」
「私たちが手伝うわ」
「罪深きものに」
「制裁を」
 煉獄の炎が立ち上がる。
 いっそ鮮やかに、何の躊躇いもなく弾けた閃光。
 けして多くはない断罪者たちの、情け容赦のない攻撃。
 カーニンガムの手が振り上げられる。
「ですが、貴方がたの行いもまた罪なのですよ!」
 水の壁が、炎を一瞬で蒸発させた。



 盟主が断罪者たちを送り出す、その儀式によってビル内にほとんど人はいない。
「羽澄さん、こっちです」
 水野は小さな鞄を抱える羽澄を連れて、ある場所へ向かってひたすらに駆け抜ける。
 目指すべき場所。
 音響管理室。
 だが、このビル全ての音を支配下に置く部屋の前には、それでも天使たちが数人、守護するように立っていた。
「羽澄さん、行きますよ」
「了解」
 深呼吸。気持ちの切り替え。イメージをして。
「た、大変なことが起きました!」
「危険なの!」
 息せき切った、切羽詰った表情で、水野と羽澄は彼女たちに縋りつく。
「盟主様にお願いされたんだ。まずいことになった。侵入者が儀式の邪魔をしようとして。急いで強化しなくてはいけないんです」
「音を破壊しようとするモノたちを止めなくちゃいけないの!」
「急いで!」
「お願い、そこを開けて」
「え?あの」
 戸惑いながら、それでも緊張と切迫した空気はあっという間に彼女たちの間に伝染する。
「水野様、その方は?」
「盟主様よりじきじきに音楽を賜ったものです」
「あの、罪深きモノたちを浄化する為に、盟主様が用意してくださったんです」
 水野に追従するカタチで、羽澄が言葉を重ねる。
「ですから、さあ!早くそこを開けてください。一刻を争う事態なんです」
 必死に懸命に切羽詰ったものを演じる水野の言葉に、疑いを持てるものなどひとりも居なかった。
 普通ならおかしいと思えるだろう。
 微妙な齟齬から懸念を生じることだって可能だったはずだ。
 しかし、彼女たちは彼の演技に引き込まれ、故に錯覚する。
「では水野様、お願いします。私たちは盟主様の元へ参りましょう」
 管理室にたった2人きりで取り残され、彼女たちの足音が遠くに消えるのを待って、羽澄はそっとCDのプレイボタンを押した。


 『lirva』の歌声が流れ出す。
 ネット上のどこにも流れていない、完全なるオリジナルにして未発表の旋律。
 あの男が奏でる音に対抗するように、むしろより強い思いのチカラを乗せて、空気を振るわせる。


「声を聞いてちょうだい……貴方たちが救済だといい、そして断罪した人たち……でも、その人を失って嘆き悲しむ人はこんなにも深い傷を負っているわ」
 シュラインの声は、これまで集めてきた人々の嘆きを写す。
 哀しい。苦しい。許せない。どうして。どうしてこんなことになってしまったの。置いていかないで。嫌だ。嘘よ。どうしてあんなひどい。ヒドイ酷いヒドイひどい―――
「ねえ……これは本当に尊いことなのかしら?」
 そして、少女の歌声に自分の声を重ね、問いかける。
 裁きの天使めいた笑みを湛えた彼女たちから少しずつ笑みが消え、代わりにほんの僅かな戸惑いが顔をのぞかせる。
 別の音が浸透していくように、彼女たちの心も変化する。
「大切なものを奪われたり、踏み躙られたり……その苦しみを誰よりも分かっているアナタたちが、自分と同じ人間を作り出しているのよ?」
「私……私たち……」
「どうしたというのだ?この音は?」
「結城隼人さん……貴方だって喪失の痛みを知っている……では何故、こんなことを?」
 カーニンガムは静かに彼を見つめる。
「俺は選ばれたから」
「選ばれたから私……私たち……は……人を……」
 瞳が揺れる。
「本当に、そんな権利があるの?」
 シュラインは問いかける。
 その問いに、彼女たちは懸命に応えようとする。
 まるで悪い夢から醒めるように、殉教者たちの群れは少しずつ少しずつ現実感を取り戻していく。
 罪は罪だ。
 けれど、本当に?
 本当に罪だと言うのなら、自分達は?
 悲鳴が上がる。
 あちこちから一斉に、罪悪感に押し潰されそうになる悲鳴が、迸る。
 爆発的なエネルギー。
「死なせないぞ!そんな、そんな真似、絶対にさせん!」
 必死の形相で、藤井は長女の姿を彼女たちに重ね、そして手を差し伸べる。
「自決なんて、そんなことは絶対にさせんぞ!」
 ソレは悲痛な叫びとなって空を貫く。
 植物が一斉にチカラを得て急成長し、網の目のように張り巡らされる。
 裁きのチカラを持つ炎の魔女達を、彼は彼の力で押し止めるのだ。
「聞こえるか?あんたを待ってる人間が外に居るんだぞ?」
 藤井はここに来る前にたくさんの思いを聞いた。彼女たちの帰りを待つモノたちの声を。そして、奈緒子への松岡の声を。
 想いの強さをチカラに変えて。
 lirvaの歌に重ね、『彼女たち』を懸命に求める者の声を藤井は目に見えない楽器で持って奏でる。
 そして。
「少し、眠りましょう……」
 カーニンガムの指先がまるで指揮者のように滑らかに動き、水の揺らぎが音の揺らぎとともに彼女たちを捉え、暴走しそうな身体を緑が優しく束縛していった。



「この声……これ、どこで手に入れたの?」
 この曲を歌うのが『lirva』だと気付いたらしい水野は、不思議そうに羽澄を見た。
「彼女、ネットでしか活動していないはず、だよね?」
「ん?うん。セレスティさんのコネ、と言ったところかしらね」
 更に何か言いたげな彼に笑いかけ、
「そろそろ誰か来そうよ。私たちも屋上へ向かいましょ」
 そうして後ろ手にぱたりと扉を閉ざした。
 だが次の瞬間、
「そこで一体何をしているの!?」
 突然の楽曲の変更に、まだ数名残っていた者たちが音響管理室へと飛び込んできた。
「この音は何!?あの方の歌をどうしたの?止めて!早く!」
 だが、
「誰も、もう入れないわ」
 中枢部の扉は、羽澄の操る波動によって硬く結界がなされ、彼女たちがどれほど爪を立て、能力をもって抉じ開けようと試みても、開かれることはなかった。
「何故?」
 扉に群がるものの間から、彼女は振り返り、そしてゆっくりと羽澄と水野の前に立つ。
「奈緒子、さん」
「……何故、私たちは来るべき未来の為に、不浄な魂を昇華しているだけなのに……アナタたちはそれを否定するのかしら?」
 口元に手を添えて、心底不思議そうに、そして深い哀しみを湛えて首を傾げる。
「罪は罪なの」
 羽澄は揺らぎのない深い緑の瞳をひたと据えて、一言一言を区切り、理解を示そうとしない彼女たちへ言い聞かせるように言葉を紡いでいく。
「どんな理想を掲げても、どんなに他とは違うチカラを持っていても、他者の命を奪う権利を私たちは持ってないわ」
「そんなこと、ないわ」
「あるんです……」
 音の波が緩やかに広がっていく。
 彼女たちの表情も、まるで長い夢から醒めるかのように穏やかに、静かに、変わっていく。
 天使のように純粋な光が消え。
 人としての意思が宿る。
「……松岡さん、待っていますよ……屋上で、あなたを」
 水野がそっと奈緒子の手を取る。
 彼女の歌声に合わせて、藤井が掻き集めた想いがいつのまにかゆっくりとこのビルに浸透している。
 帰っておいでと、もうやめようと、そう願う松岡の声もまた、届く。
「博之、さん……」
「行きましょう?」
 羽澄がもう片方の手を取る。
 彼女は、コクリと小さく頷いた。


 いつのまにか、少女の歌声だけが空気を満たしていた。
 誰の心にもゆっくりと浸透する、慈しみの声。


「崇高なこの思いを理解出来ないとは……実に残念だよ……楽園はすぐそこにあるというのに」
 彼を盟主と呼び、その理想を実現するべく集ったはずの彼女たちは、既に緑の揺籠の中でまどろんでいる。
 そして。
 音が近付く。
 強いチカラをもって。
 壁を抜け。
 空気を震わせ。
 階段を昇り。
 扉を開いて。
「いつまでも夢の中に浸ってなんかいさせないわ」
「誰も望んでなんかいないって、そろそろ気付かないと」
 目覚めた女性を連れた少女と少年の言葉が、透明な調べに乗せられて放たれる。
 波動が更なる共鳴を起こす。
 月が見下ろす病んだ世界で彼は――じっと闇を見据えていた。
 たったひとりでそこに立っていた。
 圧倒的な孤独。
 押し潰されそうなほど脆い心を炎によって護る、そんな哀しい存在として、ハイには彼の姿が映る。
 ハイの心は揺れる。藤井の言葉も、カーニンガムの言葉も理解できるのに、感情がソレに追いつかない。
 身体が動かない。迷い、惑う。
 だが、思う。本当に、本当に彼の目指す楽園は、彼をも幸せにするんだろうか。
「あの、盟主様……」
 それまで彼の傍に付き従い、沈黙を続けていたが、ハイはようやくゆっくりと距離を取って向き合った。
「貴方の思い描く楽園について、私なりに一生懸命考えてみたんですけど」
 揺れる。ずっと揺れていた。
 彼の魂から流れる鮮血が痛くて、彼の望む世界は甘美で、彼の音楽に導かれるなら、理想の楽園を目指す手伝いをしたいと本当に思ってしまった。
 でも、違う。
 違うのだ。
「私はいつもお腹が減っていて、お金もなくて、時々本気で途方に暮れたりもしますけど、でも、素敵な方に出会って、いろんな出来事の中で過ごして、辛かったり哀しかった切なかったりしますけど、でも、毎日がすごく楽しくて、すごく愛おしいです」
 ハイにとって世界は、日々の営みは、輝かしいものではない代わりに優しく常にそこにあるものだ。
「だからどう頑張っても、理想の楽園なんてものは思いつくことが出来ないんです」
「楽園なんて、誰かに導いてもらうものじゃないと私思うわ」
 羽澄がそっと言葉を紡ぎ、
「それに……松岡さんだって、彼女さんにも貴方にも優しかったと思うんですけど……」
 隣に立つ奈緒子へ視線を向けながら、水野がソレに続く。
「そう、優しかった……博之さん、優しかった……」
「奈緒子……」
 誰かに支えてもらえなければ立っていることすらままならない、そんな彼に、彼女は羽澄と水野の手を離れ、近付く。
「こんなにボロボロにしてしまって、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
 縋るように許しを請う彼女の頬に伝う涙は、確かにヒトの熱を持ったもの。
「おかえり、奈緒子……」
 愛しそうに、松岡は彼女を抱きしめる。
 そして、結城へと視線を向ける。
「なあ、俺たち、確かに友達、だったよな?結城……」
 シュラインに肩を借りながら、松岡はまっすぐに彼を見つめる。
 何度こうして対峙したか分からない。何度も何度も弾かれて、それでもこうして立っている。
「俺、お前に遭ったこと、何も知らなくて……辛かった時、何もしてやれなくて……助けて、やれなくて……」
「何を、言っている」
 それはお前のせいではないと、そう続くはずの言葉を飲み込んで、
「……人間、か」
 彼の視線が痛みを湛えながらゆっくりと移動する。
「苦しくはないのか?」
 問いかける。
 人間と同じ姿を取りながら、人間ではない本性を持つものに。
「憎くはないのか」
 人間でありながら人間以上のチカラを持つものに。
「怖くはないのか?」
 けれど、誰の答えも待たず、彼はシュラインに最後の問いを向ける。
「お前は怖くないのか?」
「それは、どういう意味かしら?」
「お前は人間だ。おそらくここに居る誰よりも力なき弱き存在だ。ここにいる能力者のひとりとて自分では倒せない。逃げられない。抗う術もなく命を奪われ、内側に踏み込まれ、無残に散る定めが待っているだろう」
 盟主と呼ばれた男の青白い顔が、シュラインを虚ろに見つめる。
「それでもお前は」
「特別な能力を持っていなくたって、人は人を傷つけるわ。逆に言えば、特別な能力を持っていたって、誰も傷つけようとしない人だっているってこと」
 目的と手段が逆転する者だっているかもしれない。
 だが、能力者であるということだけが誘引とは思えない。
 現に――そう、現に今この日本で溢れ返っている犯罪者たちの中には、ごく普通の顔をしてごく普通に社会に馴染んでいたはずの一般人が着実に増えてきているのだ。
 そして特殊な能力を持ったものが、その事件解決に一役買っているということも事実なのだ。
 だから。
 だから思う。
「少なくとも私は」
 シュラインは今ここに居る仲間たち、そしてこれまで出会ってきた友人たちを意識しながら、ゆっくりと言葉を選んでいく。
「少なくとも私は、能力者か否かで相手の人間性を判断してきたつもりはないし、これからもする予定はないわ」
 迷いなどどこにもないまっすぐな答え。
 それが、長く草間のもとで様々な調査員達と接し、様々な事件に遭遇し、辿り着いた結論だった。
 相手を理解する上で『スタンス』を知ることは必要かもしれない。けれど、一個人として付き合う中で、相手がどのような種に属しているのかを基準に考える重要性を感じてはいない。
「帰ろう?」
 奈緒子に身体を支えられ、辛うじてそこに留まることの出来た松岡が、後悔を滲ませながら彼に手を差し伸べる。
 帰ろう。
 何の憂いも隔たりもなく、ただ互いを信頼しきっていたあの頃に帰ろう。
 どこまでもどこまでも積み上げられた罪の塔。
 贖罪の方法ならばいくらでも残されているはずだ。
「待っているから……俺、ずっと待っているから……」
「……博之……」
 ようやく、松岡の手が彼に届く。彼の心に届く。
 結城の手が、彼の手を握り返す。
 彼等はどのような刑罰を受けるのか、今はまだ分からない。
 それでも、彼らは調査員達とともに夢の城を出る決意を固めた。
「終わった……」
 呟いたのは、誰だったのか。

「帰ろう」

 断罪者たちの城が崩壊していく。
 清浄な空気が辺りを満たし、長い長い夜が終わる。
 後にはただどこまでも透明な『lirva』の歌声だけが、楽園を夢見たモノたちの終焉に、余韻となってそこに留まり続けた―――



END

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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1282/光月・羽澄(こうづき・はずみ)/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員 】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2072/藤井・雄一郎(ふじい・ゆういちろう)/男/48/フラワーショップ店長】
【3356/シオン・レ・ハイ/男/42/びんぼーにん(食住)+α】
【4691/水野(仮)・まりも(みずの?・まりも)/男/15/ MASAP所属アイドル】

【NPC/松岡・博之(まつおか・ひろゆき)/男/27/会社員】

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          ライター通信          
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 はじめましてのこんにちは。最近、観劇の機会に恵まれ、ローカルからメジャーまで様々な劇団の様々な情熱に触れて舞台熱が上がってしまっているライター、高槻ひかるです。
 この度は当依頼にご参加くださり、誠に有難うございます。
 前回から4ヶ月以上も開いての公開となった19タイトル目の今回は、割とストレートに『能力者』の物語です。でも相変わらず地味に重いです。
 また、ラストに至るまで、ほぼ単独行動による個別描写で展開するつくりとなっております。
 そして、すみません。プレイングにて数名の方から『捏造しちゃっていいですよ(意訳)』のお言葉を賜りまして、今回、かなり詳細や設定に拡大解釈が加えられております。
 過去最長になってしまったこのノベル、少しでも楽しんでいただければ幸いです。

<シュライン・エマPL様
 16度目のご参加、有難うございます。先日はシチュノベのご指名まで頂きまして、力の限りお世話になっております。
 彼女たちの目を覚まさせる手段、そして、盟主の洞察に関してのプレイングを拝見し、その深さに今回もしみじみと感嘆の溜息をついてしまいました。
 そしてラスト、いわゆる能力者ではないシュラインさんにはひとつの役割を振らせて頂いてます。
 このスタンスが解釈違いでないことをひたすら祈っております。

 それではまた、別の事件でお会い出来ますように。