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<東京怪談・PCゲームノベル>


緑の鈴 〜移ろうものは世の中の人の心の花なりけり〜

 暫し逡巡した後、綾和泉汐耶はふうと長い息を吐き出した。
「嵯峨野さん、でしたっけ? そう伺っているんですけれど」
 征史朗は「ああ」と微笑を崩さず首肯する。こちらが名を知っていたことに対して驚かないのが気にはなるが──まあいい、きっとこの夢は、この世界は、そういう風に出来ているのだろう。実際にそうなのだから納得するより他がない。
 脳内をきっちり整理した汐耶は改めて征史朗へと向き直った。そして”くい”と眼鏡のブリッジを押し上げる。
「お願いされましたからね、極力花が散る方へ持っていきたいと思います。けれど、こちらの要求を一方的に呑ませる遣り方はあまり好ましくありません。あの少女がどう思っているかはちゃんと聞かないと、ですね」
「それがおまえの遣り方だってのなら俺は文句はねえよ。俺はここで……よっ、と。まあ、見守らせてもらおうか」
 言いながら征史朗は腰を下ろし、悠々と胡坐などをかき始める。好きにしろとは、つまり手を貸す気がないということらしい。人にものを頼む態度としてそれはどうかと思うのだが……いちいちチェックを入れていたら限がないのだと理解した。
 汐耶は緩やかな斜面を登り始める。根に腰掛けていた少女はそれを迎えるようにして立ち上がった。なかなかに礼儀正しく柔らかなる所作。麗麗と陽光が射すその頭上では、溶けることのない雪の如き花が降り頻っている。
「この、桜は」
 踏みしめる若草色の大地は暖かかった。近付く大樹は優しく両手を広げ、微風は漂う様に吹いている。少女が鈴を再び揺せば中空で紛う音と花弁。澄んだ彼方へと霞んでいくのは、まるで水無き空に立つ波の姿。
「その桜は、キミの心そのままじゃないかと、思うの」
 桜の樹下で汐耶は立ち止まり、ゆっくりと膝を折る。少女と視線を合わせたのは話をするため、話を聞くため。そして何より、意思を交わすためだ。
 真っ直ぐ見つめる汐耶に、少女は僅か小首を傾ぐ。離れた場所で見るよりもずっと少女のかんばせはあどけない印象が強い。ほんのり開いた唇に上気した円やかな頬、ぽっかり開いた空洞の様に焦点が動かない瞳はまるで嬰児。赤子の如き少女は不意に破顔し、汐耶に構わず桜を仰ぐ。そして左手の鈴を耳元に寄せると、また涼やかに鳴らした。

 ──── ………… ”林” 。

 鈴は、何か鉱石で出来ているらしい。社などで目にする土鈴や金銀のものではなく、深い緑味を帯びた透明な石が丸く薄く滑らかに研磨されてある。近しいものをあげるならば、そう、翠玉。僅かな仕草からも、少女が殊更それを大切に扱っていることが見て取れる。大事で大事で手放したくない、これを取り上げられたら泣いてしまう、そう無言の内に主張しているかの愛おしみ様。
「花が散り終わらないとそれを譲ってはくれないのね。そしてその花は、キミの心が表出したものじゃないかしら。……だとしたら、総ては、キミの心の持ちようだわ」
 だから話をしましょう。汐耶はじっくりと言葉を重ねる。
「キミは散ることを……変わることを、拒むの?」
 少女は何も答えない。幸せそうに目を細めたまま汐耶を見、また花を見、鈴を愛でてそして、満ち足りた世界を完結させてしまっている。咲き誇った満開の、一番綺麗な時間に留まって、その先へと歩んでいくことを止めてしまった桜。────その、少女。
「難儀だろう」
 後ろから征史朗が投げ掛ける。花見でもしているかの寛ぎ様で彼は続けた。
「満足しきっている心を外側から動かすのは難しいもんだ。自分ひとりで充分だから、誰かの言葉に揺さぶられることがない。それを信念だと尊ぶ奴もいるし、意固地だと哀れむ奴もいる」
 風に運ばれていった花弁が彼の前髪にはらりと落ちる。彼は笑って摘み上げ、ふ、と一息空に飛ばした。それを眺める汐耶の眼前を、同じ薄紅色が三つ二つと斜めに横切っていく。
 実に穏やかな光景。しかし汐耶は柳眉を寄せて、緩く首を横に振る。
「その形容のどちらもこの子には当てはまらないと思います。私の主観ですけれど、変わらないというのは決して強さからくるものじゃない」
「じゃあ、何から?」
「例えば……」
 す、と視線を上げた先には、爛漫のままの花吹雪。風が少し強くなって、散る花が音を立てるほどに数を増して、降り注ぐ花雪華の乱舞に汐耶は自然目を閉じる。
 自分は本当にこの絶景を壊してしまうつもりなのだろうか、と罪悪感を抱かないわけでもない。このままでいいじゃないかと囁く声に耳を傾ける心持ち、無風流ではないから理解は出来る。けれど同時に、そうしなければならないという強い思いをも身の内に感じる。綺麗だからこそ、少女が佇み続けるからこそ、そのまま動こうとしないそんな美しさは────。

『……貴女も、そう、仰るんですね』

 知らぬ声が聴こえてはっと目を開けた。向かい合う少女の背後に、何時の間にやら一人の女性が立っていた。
 汐耶は立ち上がり、少女と女性とを見比べる。同じ桜色の振袖を着す二人は姉妹と判断しても良さそうなほどに面立ちが似通っていたが、その表情は明と暗がくっきりと分かれる幸いと憂い。悲しみすら漂わせる女性が、少女を見つめながら静かに口を開いた。
『この子は、私が花に託した心そのもの。この花は、私が願った想いそのもの』
 そしてその鈴は。言い差した女性が口を噤む。
 鈴は? 汐耶が促す。頭上の大樹がざああと風に鳴いた。
『その鈴は……私の愛した思い出、そのもの』

  好いたお方がおりました。
  固く手を握り合い、天に地に星に野花に想いを誓い。
  終世、いえ来世までも共に蓮の台に生まれましょうと。
  互いに互いの真心を信じ、かけがえのない人よと抱きあったお方が。

『……けれど、時間が一切を変えてしまった。まるで花が、色を失っていく様に』
「相手が、心変わりでもしたということ?」
 女性は哀しそうに嘲笑った。
『いいえ。変わってしまったのは、移ろってしまったのは……私』

  好いたお方がおりました。
  その方は流行り病に倒れ、臥せられ、私の名を呼びながら逝ってしまった。
  一人遺された片割れ月の私は、二度と心が真円へ満ちることはないと思いました。
  たった独りで生き永らえ、尼にでもなってあの方への想いに殉じようと涙を流しました。
  ────なのに。それなのに、私は。

『私を誠実に慰めてくれる方がいて、私は何時しかその方のことを想うようになっていた。生き続けるとは酷なこと、時間が経つとは恐ろしいこと。今はいないあの方への気持ちが薄れ、心が色を変えていくことに私は、恐れをなした』

  大事なものがいつか大事でなくなってしまうのが怖くて。
  花は、私の心は、移ることを拒んだのです。

 少女が両掌で鈴を包む。その中に一切閉じ込めてしまう。
 すると、やおら風が動きを止めた。散った名残の花弁が一片、向き合ったままの汐耶と女性の間をはららと落ちる。
 世界は陽光に満ちて暖かく、彼女が咲かせた心の花は美しく、少女が手放さない鈴の音は確かに澄んで心地良いものだった。綺麗なものを綺麗なまま、きっと彼女は愛した人のために心を守っているのだろう。大事な思い出の息の根を止めないために自分の時間を封じた。そんないたいけな恋心を、実感を伴わないにしても愛おしむことは出来る。
 ────けれど。
「そんな美しさは、私は、勿体無いと思う」
 言葉を選びながらも汐耶は明確りと言った。女性は諦観さえ滲ませて「ええ」と返す。
『私の近しい人たちも、そうやって私を案じてくれました。生きているのだから、それが自然なのだからと、誰も心変わりを責めなかった』
「それでも散ることを拒むのですね?」
『……他の誰でもなく、ただ私が私を、許せないから』
 女性が少女に近付いて、その小さな身体を後ろからぎゅうと抱き締める。首元に鼻先を埋める女性、いや自身を気にもせず、少女は花と鈴を──思い出と、その中に封じた心だけを見つめている。
 難儀だろう。征史朗がそう言ったのを汐耶は背中で聞いた。先刻と同じ台詞、なれど些か意味合いの違う言葉だ。
 汐耶は否定もせず肯定もせず、振り向かないままで彼へとこう問うた。
「……質問させてください。貴方は、どうしてこの鈴が必要なんですか?」
「返答次第じゃ協力してくれない、ってやつか?」
「無駄な先を読まないで。私は今、彼女の考えを聞きました。だから、同じ様に、貴方の考えを確かめたいだけです」
「正論だな。いいだろう、簡潔で明確だぜ」
 にやり、と彼が笑ったのが見ないでも解る。
「他の何かを犠牲にしてでも叶えたい願いが俺にはある。そしてその大願を果たすためには、どうしてもその鈴が必要なんだ。それ以上でもそれ以下でもない。どうだ、これでは不足か?」
「いいえ。本当に……簡潔で明確、ですね」
 人一人が願うことなんて、いつだって我が侭で身勝手で傍若無人で誠がない。征史朗には征史朗の願いが、桜の彼女には彼女の願いがそれぞれあって、その平行線に挟まれた場所に今、自分は立っている。自分は何時だって正しい判断を尊びそれを選択してきたと思う。けれど、所詮この身は人の身で、目隠しに天秤を持つ公正なる女神でありはしない。だから。
「私は貴方に協力するのではなく、自分が正しいと思う考えを、貫きます」
「ああ。いいんじゃないか?」
 ひとつ、頷く。そして唇を引き締めると、少女の手に自分のそれを重ねた。
「私は、貴女の封じてしまった時間や心を、解くべきだと思います」
 少女が向ける無垢な眼差し。女性の身体が強張り、少女を抱く手に力が入る。どうして、と問う声の弱弱しさ。守りたいと思う心。綺麗な桜。大事な思い出。愛する者を得て、失って、それでも自分だけが息をしている悲しみ。傍に居て欲しい温もり。手放したくない、いつまでも。忘れるなんて自分が許せない。しがみついていたい。変わりたくない。彼女を封じる諸々が手を伝わって流れ込んでくる様な錯覚。その扉を開かせまいと抗うあえらかな力。強く儚い想い。
 汐耶は少女の手を握り締めながら、ある人の存在を胸に灯した。温かさを抱いた。
 だからこそ、言った。

「貴女の心までが死んでしまったら、誰が、貴女の思い出を生かしていくんですか」
『…………』
「貴女は、生きています。生きていかなくては、いけません。……違いますか?」

 汐耶の温もりが少女の手に移る。力を込める。少女がゆっくりと瞬く。凪いだはずの黒い水面がゆるゆる揺れる。丸い雫が零れて落ちる。桜色の愛らしい姿が霞みだし、空気に溶けて掻き消える。
『……嗚呼』
 緑の鈴が地に落ちて、残された女性が咽んで泣いた。涙は雨に声は風に、晴天の麗かな日はみるみる内に薄墨色へと曇りゆく。風雨はやがて枝を揺らして花を散らして、散らし散らして何時の間にか。────何時の間にか。

 恋に殉じようとしていた女性が、消えていた。
 花が残らず、地に降り眠りについていた。


 すっかり濡れてしまった髪を振り払いながら汐耶は足元の鈴を拾い上げた。漸く収まった嵐に安堵して空を見上げれば、ちょうど太陽が雲間から顔を出すところ。掲げ透かした緑の鈴が芳醇な翠色の光を通して輝いた。
「ご苦労さん。見事だったぜ」
 座したまま労う態度を咎めるのも馬鹿馬鹿しくて、汐耶はやれやれと自ら歩み寄ってやる。彼の黒髪はしっとりと水を孕み、藍色だった着流しは雨で青黒く変色してしまっている。この分では自分も酷い格好をしているのだろうと、想像するのも億劫で汐耶ははあと溜息を漏らした。
 上向けられた彼の掌に鈴を載せる。彼は矯めつ眇めつした後それを強く握り、開かれたそれを見て「おや」と僅か瞠目した。汐耶も同様驚きの声を上げ、征史朗の手の中、二つに増えた鈴の一つをそっと摘み上げた。
「どういうことですか?」
「さあなあ。もしかすると、あの女がおまえ……えっと、名前聞いてなかったな」
「綾和泉汐耶です。呼び方はご自由に」
「じゃあ汐耶。おまえにこの鈴を貰ってほしいって、そう言ってるのかもしれねえな」
「私に?」
「まあ折角だ、持っていけよ。俺はこっちの一つで充分だからさ」
 鈴を袂に仕舞い征史朗が腰を上げた。いや正確には上げかけた。
 伸び上がるはずの身体が不意によろめく。自分の足に躓いたかの崩れ方で彼の重心は傾き、傍らの汐耶は咄嗟に彼を抱きとめる。男一人分の体重を支えた自分の肩口に凭れて、彼はひとつ深くて荒い息を吐き出した。
「大丈夫ですか?」
「ん、ああ。何でもない、大方立ち眩みでもしたんだろうよ。それより、悪いな妙齢の女性に」
 今度はしかと両足で立った征史朗が悪戯っぽく笑う。汐耶はまともに取り合わず、「お気遣いなく」とだけ答えておいた。
「それにしても、実はさ、ちょっと意外だった。ああいう話を聞いた場合、女はそのまま散らせないでやるもんじゃあないのか?」
「……別に」
「別に?」
 汐耶は手の中の鈴を、そして背後に聳える桜の──今は花を失い、緑を湛える大樹となった彼女の桜を眺め遣る。時が経つからこそ芽吹き、続いていくために萌え出でた新緑の若葉は、まるで全身で光を求めるべく枝を天に差し伸ばしているかの様で。
 ────汐耶は口許を綻ばせる。高みを見据える凛々しさに、前髪の水滴がきらりと煌いた。
「ただ、思っただけです。満開の桜も好きですけれど、咲き始め、散り終わり、葉桜となる様も……そうやって移っていく姿も、綺麗なんだって」


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「……戻ったか」
 気が付くと、自分は再びあの夜の岸辺にいた。
 声をかけてきたのはこの闇の中の唯一の白。別れた時そのままの位置そのままの姿で、名無花はそこに佇んでいた。
「礼を献じよう、まろうど。よくぞ、あれを助けてくれた」
「どういたしまして。大したことをした覚えは、ないですけれど」
 汐耶は肩を竦めて答える。急に戻ってきたことを訝しむつもりは最早ない。この場所もあの桜の場所も、やはり、夢なのだろうから。
「夢、か。なればまろうどが泣かせた女もまた夢の女。夢に生き、生という目覚めを恐れた女の封印を、まろうどは解いたのだな」
「じゃあこの鈴も、夢が終わったら消えるんでしょうか?」
 自分の口をついた質問に自分で驚く。これではまるで鈴を惜しんでいる様だ、と思って逆に納得の苦笑を漏らす。そうか自分は、この鈴に愛着を持ち始めているらしい。
 名無花は相変わらず遠くを眺める半眼のまま。こちらを見ているのではなくこちらを向いているだけの茫洋とした表情で、それでも一瞬、僅かに幽かに、微笑んだ様な気がした。
「……まろうどが消えぬようにと願えば、消えぬ。夢は夢、しかし夢を生きる心は……夢ではない」
 どういうことですか? 問い返す視界が急に狭まる。眩暈に似た暗闇が意識を遠退かせ、ふらり、よろめく体が宙に浮いた気がした。
 最後に聴こえたのは手の内の鈴の音。”林”と柔らかな緑の音が、霞む脳裏に響いていた。

 ────そんな、夢を見た。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1449 / 綾和泉・汐耶 (あやいずみ・せきや) / 女性 / 23歳 / 都立図書館司書】


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■         ライター通信          ■
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綾和泉汐耶様
こんにちは、汐耶さんご自身には随分とお久しぶりになります。ライターの辻内弥里です。
この度は当ゲームノベル「名無花の世界 〜緑の鈴〜」にご参加くださいまして誠に有難うございました。少しでも楽しんでいただけますよう努めましたが…如何だったでしょうか。
「変わらないのは勿体無い」プレイングにありましたこのお言葉が、汐耶さんの指針・理性・客観的で冷静な判断を表していらっしゃるのだと私、解釈させていただきました。現実主義というのは、目の前に起こる事象に対して私情に振り回され過ぎずに対処が出来ることだと思います。
そんな汐耶さんのかっこよさというか凛としたところ、きちんと書けていると…いいんですけど…。
それでは、今回はどうも、有難うございました。宜しければまた、征史朗に会いにきてやってくださいませ。