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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


▲発狂汚染地域東京〜武彦の誤算〜▼


------<オープニング>--------------------------------------

 事件は満月の照るもとで起きた。賑わいをピークに迎える繁華街で前触れなくOLが発狂したのだ。彼女は着けていたネックレスを引きちぎり、たまたま傍を歩く青年の首を絞めた。被害者は他の通行人が止めに入ったことにより一命を取り留める。
 通り魔――現代ではありふれたものとして処理される事件だ。しかし流れは、止められる際に気絶したOLが病院で目覚めると同時に変化していく。
 事情聴取で彼女は事件について全く知らないと応えた。本人が言うには繁華街を歩いていたところで急に記憶が途絶えているのだという。精神分析の結果、異常も見つからなかった。いったいどういうことなのか、警察が考えあぐねいている頃、事件は再び起きた。
 同じ繁華街、男子高校生が友達と歩いているといきなり豹変して通行人を襲いだした。当然友達が止めに入ったのだが、その友達もまた発狂をする。狂った行動は他の者へも瞬く間に伝染し、繁華街では厳戒態勢が敷かれた。
 ウイルス説、電波説、宇宙人説などの仮説が唱えられたが根拠は一切なく原因不明。事件は夜にしか起こっていないことから、住民は遅い時間での出歩きに注意するしかなかった。被害はいまだに続いていて事態を重くみた政府が近々地域全土を一斉捜査するという噂もある。
「私の父がいなくなったのも、あの事件の日なんです」
 草間・武彦の対面に座る少女――水谷・ヨウコは沈んだ面持ちだった。ただの行方不明者探しだと思って身を乗り出していた武彦はソファーに背を預けてタバコに火を点けた。
「事件に関係してるかもしれないってことか?」
「分かりません。でも偶然に思えないんです。それに事件の数日前から父の様子がおかしかった」
「どんなふうに?」
「初めはなにかに怯えてるふうな挙動不審で、その時はまだ良かったんですけど、日を増すごとになにを言っても上の空になって、碌に食事も摂らないで部屋にこもってました」
 もし彼女の父親が関係しているのならば警察では頼りないだろう。例の事件のおかげで捜索願いを出しても手をつけてくれないに違いない。
 武彦の勘が告げていた。これは普通の通り魔やウイルスなどのせいではない。計り知れないなにかが東京に蔓延し始めている気がした。実際、発狂者の出現は地域を広げている。
 例え得体の知れない者が関与しているのだとしても今回は目をつぶるにつぶれなかった。
 タバコを灰皿に押しつけて肯く。
「分かった、協力者を募って調べてみる」
「本当ですか? ありがとうございます! あの、これ、父の書斎に残されてた書類です。役に立てばいいんですけど」
 ヨウコが差し出したのは何枚かの資料だ。一番上には昆虫であってそうでないような生物の絵が描かれている。彼女の父親はバイオテクノロジーに携わる名の知れた学者だ。仕事で使ったのかもしれない。
「見ておく、他になにか手掛かりがあったら教えてくれ」
 はい、と返事をして少しは表情を柔らかくした少女を見送り、武彦は溜め息をついた。
「厄介なことにならなきゃいいけどな」

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★シュライン・エマSide
 一筋の煙が昇り、興信所内の天井を白く染めていく。行き場のないそれが溜まっていき、あたかも天界を想わせる雲となってあるいは幻想的に見えなくもない。
 電話で応対する草間・武彦の口元でタバコがチリチリと赤い光を強めた。そして生まれる天界の雲。本物の神が彼のように天界を作り上げていたら、と考えてシュライン・エマは微笑する。かなりの確率でヘビースモーカーに違いない。部下の天使が言うのだ、「神様、いったいどれだけ天界を広げれば気が済むのですか」と。神は応える、「私が息絶えるまでさ」。彼らの辞書に"禁煙"という2文字は載っていない。だから興信所内の天界も武彦がいなくならない限りはいつまでも作り続けられるのだ。
「そうか、ああ、そうだな、なにか発見があったら教えてもらえると助かる。それじゃ、よろしく頼んだ」
 受話器が置かれた。最後に大きく煙を吸いこみ、タバコを灰皿へ押しつける。事務机に置いていた地図を持ち、応接用のテーブルで折り畳んでいた部分を伸ばした。所々に赤ペンでチェックがされていて日にちと時刻も添えられている。
 電話の相手は警察だった。武彦も何度か彼らに助太刀しているので発狂事件の情報を得るのは容易だ。代わりに、こちらもなにか分かったら提供するようにぐらいは言われているだろう。現在、興信所内には武彦や零、自分の他に紅茶を優雅に飲む黒榊・魅月姫しかいないが、既に外では数人の協力者が情報収集へ向かっていた。1箇所に集まっていても仕方がない、初めは分散して大雑把にでも手掛かりを掴もうという計算だ。
 シュラインは地図上の正確な時間と場所を眺めた。
「どこも人通りのある街中ね。時間も夜に集中してるわ」
「初めの事件があった場所を中心に広がってきてるから電波のせいっていうのはないな、範囲が広大過ぎる。となると、ニュースでも議論されてるウイルス説は有望になってくるが、夜にのみ発生するってのは説明がつかない」
 武彦の言葉に肯き、依頼者の水谷・ヨウコに渡された資料を改めてめくる。もはや何度も見返していた。得体の知れない虫のラフスケッチが何枚かあり、走り書きされたメモは擦れていて読めない。少なくとも虫の特性や好む場所は書かれていないようだ。
「私にも見せてもらえませんか」
 大事に扱わなくては割れてしまいそうなティーカップが儚い音を立てて置かれる。黒が基調で西洋アンティーク人形のようなドレスの魅月姫に資料を渡した。彼女自身も端整で可愛らしい顔立ちでありながら表情がなく、本物の人形に見えてくる。その唇が微かに笑みをかたどった。
「興味深いですね、せっかくなので私もお手伝いしましょうか」
 今回の事件は範囲が見当もつかなく、調査員が多くいてくれて損はない。もとより武彦は彼女も参加させる気だったのか、そうしてくれ、と即座に受け入れたのだった。
 黒電話がけたたましく鳴る。通話を切ったばかりの警察からではないだろう。傍にいたシュラインが受話器を取った。
 現場の下見に行ったシオン・レ・ハイだ。だいたいの場所を回り終わったらしい。ちょっと待つように言って武彦を振り返る。
「細かい場所なんかも特定できたし、私達も行った方がいいかしら?」
「ああ、ずっとここでくすぶってるのもアレだしな」
 現場の彼に待機を促し、シュライン達は準備を始めた。


★夜崎・刀真Side
 水谷の名が刻まれた表札の掛けられている一軒家は高級住宅街にあった。インターフォンを押すと間もなくしてセミロングの髪を有する少女が出てくる。父親を探してほしいと依頼をしてきた少女だ。ただし事件はそう単純なものではないらしい。
 ちまたを騒がせている発狂事件は自分の周囲にまで及んでいた。先日、夜崎・刀真が働くバイト先の喫茶店を出た客が突如として叫びだしたのだ。噂されていた現象以外になかった。走り去った彼はほどなくして捕まったという。それはいい、世間は大変だな、というぐらいにしか思わない。問題は、店の客足が遠退いたことだ。本来バイトの刀真が心配する必要はないことだが、時給や勤務地などを考えるとこれほど良いところはない。もし潰れでもしたら大事だった。ゆえに刀真は守護龍の龍神・瑠宇と共に調査へ加わっている。
 部屋として使えそうなスペースの玄関を上がった。資料にあった虫、いわゆる生物学はさっぱりだ。初めから新たな資料などの発見は期待していない。肌へ意識を集中させて歪みがないかを探った。ヨウコの父親が霊的ななにかと関わりを持っていれば残り香を感じられるはずだ。いまのところそれらしきものはない。
「こっちが父の使ってた書斎です。家にいる時、父はだいたいこの部屋にこもってました。なので、なにかあるとすればたぶんここだと思います」
 少女が幅のある廊下の途中で立ち止まる。木目調のドアへ案内された。ヨウコは、自由に調べてください、と言ってどこかへ行く。ふむ、と肯いて刀真は中へ入った。
 本棚が壁を埋め尽くさんばかりにあり、手前には堂々とした木造の大きな机が設置されている。1人で探すには手間だ、瑠宇になにか怪しげな物を見つけたら言うようにさせる。がんばるよ〜、と宝探し気分でいるらしい彼女が非実体化をしてあちこち飛び回った。
 さてと、と息をついて机の上を調べる。植物の図鑑がいくつも積まれていた。一番上の本を手にして適当にめくっていく。特になにもない普通の図鑑だ。面倒に思いながら本を全てチェックしていく。
「トーマ、見て見て〜♪」
「どうした? なにかあったか?」
 机を粗方調べ終わる頃、瑠宇が瞳を輝かせて飛んできた。持っている物を見せられる。
 写真立てだった。ヨウコの両側にいるのが両親だろう。家の前で撮ったと思われる写真に写る3人は穏やかな表情をしていて円満であるのが分かる。
「それで、これがどうかしたのか?」
「瑠宇も今度トーマと一緒に写真撮りたいな〜♪」
 拍子抜けさせられる言葉に思わず持っていた本を落としてしまった。彼女の手伝いは実質あまり役に立たないかもしれない、と考え直す。つまり結局は1人で行うのと変わらない。探索を開始してほとんど時間が経っていないのに、広い部屋を見回してドッと疲労感が出た。
 機会があったらな、と言ってやって溜め息をつく。こちらの心境を知らない瑠宇は喜んでピョンピョン跳ねた。
 落胆していても始まらない、引き出しを開ける。名刺が出てきた。自宅の電話番号と研究所の名前、学者という肩書きが記載されていた。気は乗らないが、研究所にも行ってみる必要があるだろう。ただし、いきなり行って入れてくれるかは分からない。
「トーマ、見て見て〜♪」
「今度はどうした。写真はもういいぞ」
 2段目の引き出しを覗きつつ応じる。万年筆や原稿用紙が詰められていた。手掛かりになりそうなものはなにもない。せめて彼の軌跡を感じさせるものがあるといいが、なかなか簡単には見つけられなかった。
「変な本見っけたんだよ〜、すーじが一杯なの〜♪」
 ズイッと目の前になにかが差し出される。手に取り、顔から少し離した。手の平サイズでコンパクトな黒革の手帳だ。大分使いこんでいるようだった。拍子の金字は擦れていて読み取れない。
「それ、アドレス手帳ですよ。私が昔、誕生日の時にあげたんです。父は携帯電話を持ってないんですけど、前に『なんで?』って訊いたらそれを使い続けるためみたいで」
 ドアを抜けてヨウコが入ってくる。お盆に載せたコップを机に置き、懐かしむ瞳で微笑した。アドレス手帳、と呟いて刀真の脳内に光明が射す。パラパラとページをめくっていった。
「瑠宇、お手柄かもしれないぞ」
「ホント〜? やったぁ〜、宝発見だね〜♪」
「ちょっと電話借りるぞ」
 机に置いてある電話の子機を手にする。
 手帳には研究仲間らしき人物らの電話番号が載っていた。日常で接している者ならなにか知っている可能性がある。ついでに研究所入室の許可も得られて一石二鳥だ。
 コール音が何度かしたのち、通話が繋がった。


★シオン・レ・ハイSide
 小さく折り畳んだ地図の真ん中にされた赤い印と周りの景色を見比べる。レストランやラーメン屋をはじめ、様々な飲食店がしのぎを削っていた。人のいないところに店は建てない。マーケティングリサーチにぬかりはないようで、老若男女が雑然と行き交っている。
 現時点で最後に発狂者の出現した場所だった。武彦、シュラインと共に順に見て回ったあとだ。どこも人の特に多い施設が密集していて誰かの意図が窺える。もし資料に描かれている虫が実験で作られ、逃げ出して人を発狂させているのならば、人が多くいる場所に集まる本能を持っているのかもしれない。
 焼き鳥の甘く香ばしい匂いがした。ぎゅるるるるぅ、と腹が鳴る。朝、パン屋に無料でもらったパンの耳を食べてからなにも口にしていなかった。正確な事件現場のポイントへ向けていた足が無意識のうちに左へ逸れていく。徐々に香りが濃厚になって鼻腔を刺激してきた。
 肩をぐわしと掴まれる。
「どこへ行く気?」
 シュラインが苦笑気味な表情をしていた。
 意識が覚醒し、首を振る。昼飯を抜いた程度で朦朧とするなんて情けない、と自分を戒めた。彼女に謝って進路に戻る。そろそろ近いはずだ、ハンバーガーショップとそば屋が目印。前者は割りと知名度のある看板が立てられている。遠くへ目を凝らすとそれらしき物がなんとなく見えた。なにか新発見が現場に残されているといいんですけどねぇ、と思いながら歩く。
 ウナギのタレの匂いがした。焼き鳥のものより上品な甘みの香りだ。自然と向かう方向が右へ折れていった。ウナギを焼く音のごちそうが耳朶を伝って腹の虫を起こさせる。
 肩を掴まれた。今度はさっきよりも少し強めだ。
「言わなくても分かるわよね?」
「はい、すみません、二度としません」
 彼女は笑っていながら怒っているようだった。表情と気迫のギャップが完全に目を覚まさせる。再度、道へ引き返して、あ、と発する。発狂者が出没した場所に到着していた。
 周囲を見渡し、他の現場と同じようだと思った。なにかの証拠となりそうなものはない。ひたすらに人が多く、人が多い。夜は更に増える。
「あの昆虫が関係しているのなら、夜行性ということになりますね。刺して独自の分泌液を注入し、発狂させているのかどうかは分かりませんけど。確かなのは、繁殖するのも早いってことでしょうか」
「あんな生物が存在しているのを前提に考えるとそういうことになるかしら。移動しているのではなく、明らかに範囲を広げてるものね」
 賛同するシュラインが口元に手を当てて考えている。
 意見が一致し、シオンはホッとした。これ以上怒らせたら申し訳なくなる。ふざけた行動や言動をしなければいいのだ。ついでに気がついたことを言う。
「それと、人の集合する場にわざわざ現れるというのは昆虫の習性とも考えられますけど、こうも考えられませんか。裏で操っている者がいる、と」
「だとしたら、依頼者の父親は既に捕まってる可能性も高いな」
 武彦は深刻そうな顔をし、タバコを口に咥えた。
 シュラインが突如として顔を上げる。どうしたんですか、と訊こうとすると、振り向かないで、と言われた。
「興信所を出てからずっと誰かに見張られてるみたいなの。一定の距離を保ってついてきてるわ」
「敵、ですか?」
「分からない。ただ、いまのところ攻撃の意思はないようね」
 全く気がつかなかった。音を聞き分ける彼女の能力なのだろう。シオンは感心をし、自然なふうを装った。誰かに見られていると思うと妙に体が緊張してくる。今回の事件に関係する者だろうか。
 結局、現場にはこれといった収穫はなく、武彦とシュラインの2人は一度興信所へ戻って行動の練り直しをするらしい。追跡者が気になりながらもシオンは研究所へ行ってみることにした。


★ニルグガルSide
 街路樹の枝葉に身を隠し、ニルグガルは3人を監視する。
 現界は師であるネルガルによるものだった。彼が東京で起きている発狂事件に興味を持ったのだ。事件に関わる者を監視、その行動と事件の解決までをスクラップブックに記録し、提出するように命令されている。
 監視対象が移動した。
 枝へ重心をかけ、軽く蹴る。しなりのギリギリまで力を込めて跳んだ。瞬間的に人々の頭上を通過する。次には木の中へ潜りこんでいた。人の眼には留まらぬスピードだ。改めて3人を視界に入れる。
 彼らはなにかを話していた。事件についてだろう。周囲の人間は歩いているのに止まって話す姿は浮いて見える。
 ネルガルは戦争や疫病によって人々を虐殺する神だ。自分に「モト」と戦争の知識と名前を与えてくれた者だった。今回の事件と同じように人々を発狂させることによって人間を殺し合わせ、1つの都市を壊滅させたことがあるという。もしかしたらあの殺し合いの宴を期待しているのだろうか。
 ニルグガルには解らなかった。そして解る必要もない。自分の主に従い、誠実に動くのみだ。
 スクラップブックへ、事件現場で武彦・シュライン・シオンの3名が調査、と記録する。
 シオンが2人と離れた。1度分かれて行動をするようだ。研究所、という単語を聞き逃さない。武彦らは興信所へ帰るらしい。どちらを監視するか考え、ニルグガルはシオンのあとを追った。


★龍神・瑠宇Side
「これについてなにか知らないか?」
 研究所の応接室で、コピーした水谷の書類を刀真が白衣の男へ渡す。彼はメガネを掛け直し、ふーむ、と考えるようにした。刀真は緊張を緩めず、警戒の体勢だ。水谷の同僚であっても味方だとは限らない。あらかじめ瑠宇は霊的加護をするように言われていた。並の攻撃では彼にダメージを与えることさえできないだろう。
 暇だった。完全なる合一ならば彼の方へ全意思をゆだねなければならないが、これぐらいは容易い。刀真のバイト先で流れていたアップテンポのBGMを鼻歌で再現しながらソファーで脚をブラブラと揺らす。
 男がチラッとこちらを見た。瑠宇はニコッと笑う。ぎこちなく笑顔を返す彼はすぐに正面へ目をやった。刀真も横目で見て、対面する男へ視線を戻す。
「気にしないでくれ、オマケみたいなもんだ」
 男は、いや構いませんが、と苦笑いして資料をめくる。
 誰も構ってくれない、やはりつまらなかった。
 室内へグルリと首を巡らせる。至るところに観葉植物があった。ロッカーが2つあり、あとは応接セット以外にこれといった物はない。必要最低限を揃えたシンプルな部屋だ。
「この昆虫についてですが」
「知ってるか?」
「いえ、聞いたこともありませんね。いるとすれば新種ですよ」
 そうか、と息をついて刀真はソファーへ背を寄りかからせる。代わりに瑠宇がテーブルに広げられた資料へ身を乗り出して覗いた。
「カイジュー――じゃないよね、これ」
 6本足で頭部は尖っている。羽もあり、昆虫のようでいて、体は頭部・胸部・腹部に分けられていない。頭部が伏し目なく伸びていて胴体の役割をしている気色悪い構造なのだ。その姿は怪獣に見えなくもない。しかし、刀真らが「虫」と言っているのだから違うのだろう。
「やっぱり悪いうちゅー人のしわざだよ、うん♪」
 宇宙人が円盤型の物体に乗ってきて怪しげなビームを人々に浴びせるのだ。すると頭がグワングワンして凶暴になってしまう。ただしビームを当て続けないと効果は薄れてくるので数時間で治る。腕を組んだ瑠宇はウンウンと肯いて1人納得した。
 沈黙が訪れる。
 男が咳払いをし、それにしてもおかしいですね、と言った。
「水谷は植物専門なんですよ。だから動物は一切扱っていないんです」
「奇妙な話だな。そうなると、秘密裏に実験していたかもしれないのか」
「ええ、そうですね。水谷の個人研究室に行けばなにかあるかもしれません」
 話がどんどん進んでいく。置いてけぼりにされた気分の瑠宇は軽く頬を膨らませた。つまらない。
 目の前に小さな布の包みを出された。刀真の手だ。ほのかに甘い匂いを臭覚が捉える。会話を続ける彼から受け取り、自然に表情がほころんだ。中には彼特製のマドレーヌが入っている。硬すぎず柔らかすぎずのスポンジ生地を1つ持って口へ運んだ。
 甘みが舌の上を転がり、風味が鼻を抜けた。とても美味しく、幸せな気持ちになる。だから刀真は好きなのだ。彼の袖をチョンチョンと引っ張って刀真も食べるかどうかを訊くと、全部食べていいぞ、と言ってくれた。脳内で盛大な花火が上がる。一遍に食べてしまいたいのを1口ずつ味わうようにして食べることにした。鼻歌をする、今度は自分で考えた喜びの歌だ。
「ただ個人研究室は本人以外に勝手に入室することを許されていないんですよ。研究所内のどんな人間であってもダメなんです」
「そうか――ちなみに、その研究室ってのはどこにあるんだ?」
「水谷のは、確か3階の一番奥だったと思います」
 分かった、と刀真は立ち上がり、礼を言う。軽く研究所内を見学して帰るというようなことを告げた。
 応接室を出ると男が去るのを待ち、刀真が階段を上がる。瑠宇もそれについていき、着いたのは3階だった。人気のない廊下を歩いていく。奥のドアの前で止まった。水谷、というプレートが掛かっている。
 刀真がノブを回そうとするが、ドアは開かない。マドレーヌをモグモグと食べる自分を彼は見下ろしてくる。
「お前の出番だな。ちょっと中に入って鍵を開けてくれ」
「りょ〜か〜い♪」
 ゴクリ、と飲みこんで肯く。マドレーヌの入った包みをしっかり握り締めて非実体化した。ドアに触れると指は向こう側へ吸いこまれていく。続いて頭を入れていった。
 男がいた。少しビックリして包みを落としてしまう。体を離れた物は再び実体化して床へ落ちる。男の方も驚いたらしく、軽く飛び退いている。相手にしてみればいきなりマドレーヌが現れたように見えただろう。瑠宇は親切に姿を現した。失敗失敗、と小さくベロを出して包みを拾う。
 男は更に仰け反っていた。彼にペコリと頭を下げて廊下へ戻る。背後で短い叫び声がした。
「鍵は開けたのか?」
「あ、忘れてた〜。もー1回行ってくるね〜♪」
「いや、いい。中に誰かいたんだろ?」
「うん、いたよ〜。シオンって人〜♪」
 興信所で彼とは顔を合わせている。
 刀真は、ふむ、と肯いた。
「それなら俺達が調べる必要もなさそうだな。明日はバイトが控えてるし、ここは任せて休憩するか」
 瑠宇は元気に、うん、と賛同して刀真の横を歩いた。


★黒榊・魅月姫Side
 興信所を出た魅月姫が向かったのは研究所だった。敢えて入り口は通らないで裏へ回る。建物と塀に挟まれた狭い道を歩んでいった。手入れがされているらしく、雑草はあまりない。
 研究所の裏側は来た道よりもやや広くなっている。表と違い、日がほとんど射していなかった。魅月姫はクスリと笑む。予想通りだ。
 影へ手を触れた。壁や地面にではない、大気を切り裂くようにしたのだ。切れ目は漆黒の闇が蠢いている。ずぶずぶと体を侵入させていった。魅月姫の能力である影のゲートだ。どこへでも入ることができる。
 水谷の研究室も容易に入室した。刀真が応接室で話しているのを聞いていて先回りしたのだ。いまは水谷の机の上を調べている。資料や書類が山のように置いてあった。植物に関係するものが多く、昆虫らしき姿は少しもない。彼が植物を専門にしているというのは本当のようだ。
 引き出しを開けていく。1段目、2段目と特になにもなく、3段目は鍵がかかっていた。魅月姫にとってはかかっていないも同然だ。室内は電気を消していて辺り全体が影になっている。引き出しへ指を突っこんでいった。手応えを感じ、取り出す。茶の書類封筒だった。ヒモを解いて中身を机へ滑らせる。
 見覚えのある虫の絵が描かれた紙。ヨウコの父親が生み出してしまった生命体であるのはほぼ確定した。書類には虫の特性なども事細かに書かれている。
 物音がして魅月姫は顔を上げる。刀真達だろうか。それにしては忍びこむような静けさで入ってくる。背の高い棚が壁になっていて見えないが、ドアからではなく窓からの来訪だというのが分かった。
 ひゃっ、と男の短い叫びが起きる。なにかに驚いたようだ。しばらくし、深呼吸する気配がした。歩いてきた男は足音を忍ばせ、そしてまた驚いて大きな音を立てる。失礼な人間だ。
「黒榊さんも来てたんですか、てっきり私は幽霊が出たのかとばっかり」
 心臓の辺りを手で押さえているのはシオンだった。彼も応接室の廊下でこの場所を聞いていたのだろうか。考えることはみんな同じようだ。
「なにか見つかりました?」
「ええ。それより、その手に持っている物はいったい?」
「ああ、これですか。これは虫が出た時の網と殺虫剤で完全武装してるんです。予備も用意してきたので黒榊さんもどうですか?」
 遠慮しておきます、と言って苦笑する。
 得体の知れない虫を相手に一般の網や殺虫剤が効くと思っているのだろうか。
 手元の資料へ視線を落とす。
「いえ、やはり少し待ってください」
 魅月姫は特性の部分を読んでいき、ニヤリと微かに笑む。情報があれば得体の知れないものも普通の虫と変わらない、特に自分には。
 殺虫スプレーの缶を差しだすシオンの携帯が鳴った。慌てて電話に出る。どうやら武彦からのようだ。彼は丁寧に相づちをし、通話を切った。
「更なる調査で新発見があったみたいです。発狂者はマンホール付近に出ていた、と」
「なるほど、そういうことですか」
 少ない情報でも魅月姫の脳は解決への糸口を辿っている。
 次の行動はシオンに言われるまでもなく決めていた。


★シュライン・エマSide
 ハシゴを下りきる前に刺激臭がする。鼻が曲がる、とはよくいったものだ。ドブとヘドロを融合させて濃縮したような臭いがした。通路の中央を流れるのは川ではなく下水だ。武彦、シオン、魅月姫が下水道に集合していた。刀真と瑠宇には万が一の時のために地上で待機してもらっている。
「武彦さん、分かる?」
「ああ、ぷんぷん臭うな」
 武彦が言っているのは香りについてではない。下水道の奇妙さが臭うのだ。なぜか照明設備がしっかりしていて下水道内は明るかった。誰かが通り道として使っている証拠だ。持ってきていたライト類は必要なさそうだった。推測が真実と重なり始める。
 興信所に戻ったシュラインは撮っていた現場の写真を注視していて気づいた。共通点は人の多く集まる場所だけではなく、必ずマンホールがあるということを。目撃者の証言でもマンホールを通過したあたりで発狂していたとあった。
 諸悪の根源はここにある、と確信して通路を行く。下水道は迷路のようになっていて複雑だ。汚水の流れる音に混ざり聞こえる微かな異音を頼りに歩いていく。徐々にそれはボリュームを上げていった。絶えることのない音。
 角を曲がると黒い霧が立ちこめていた。霧はテレビの砂嵐の如くざわめいている。その1粒が飛んできた。音を素材に距離と進行方向を予測し、シュラインは手を伸ばす。誤差は微々たるもので手中になにかが収まったのを感じた。ゆっくりと指を開いていく。
「これって、資料に描いてあった昆虫よね」
 指先ほどの小さな虫だった。頭部が尖って長く、羽が生えている。刺されぬように羽を持ち、前方へ目を向けた。あれは霧などではない、この虫の大群だ。異音は彼らの羽音だった。通路は1本で続いている、ここを通らなければ先には行けない。
「エマさん、これを使ってください」
 シオンが腰に提げていたスプレー缶を手渡してくる。市販の殺虫剤のようだ。冗談、というわけでもなさそうだから本気なのだろう。効果があるという根拠があるのだろうか。
「研究所で虫の特生が載っている書類を見つけたのです。中身は彼らの弱点、私が魔法で擬似生成した液体ですよ。くれぐれもご自分で吸わぬように注意してくださいね」
 怪しく微笑する魅月姫が水風船を出した。そしてこれは、と言って近くの壁に投げつけて破裂させる。中に入っていた液が弾け飛ぶ。虫の群れが瞬く間にその1箇所へ集まっていった。
「彼らは霊力をエサにしています。あれは私の力を具現化させた物。虫を誘うフェロモンといったところでしょうか」
「でもそうすると私達の方へも向かってくるってことよね」
「ご明答」
 魅月姫がふわりと黒いドレスをひるがえして向こう岸へ渡る。一直線に数百匹とも思える虫が突進していく。彼女はスプレー缶を持っていなかった。
「私には必要ありません」
 手の平をかざす。闇が広がった。大皿ほどの穴に虫が吸いこまれていく。不思議なことにしばらくすると虫が抜け出てきた。デタラメに飛んでいた彼らは統制がとれていて魅月姫の背後で綺麗に整列する。
「闇の牢獄――躾け直しました。彼らはもう私の言いなりです。さぁ皆さんも気をつけてください」
 羽音へ敏感に反応し、シュラインは身を屈める。頭上を通り過ぎた虫へ向けてスプレーを発射させた。効き目は抜群で真っ逆さまに急降下し、下水の川へ沈んでいく。
 向かってくるのは大した数ではなく、撃退するのにあまり苦労しなかった。世間を騒がせているわりに生命力自体は弱い。やろうと思えば指で摘み潰すだけで退治できる。最後は3人で水風船フェロモンに集う虫へ殺虫剤を一斉掃射する。面白いぐらいに地面へ落下していき、黒い霧は影となった。
「本当にこんな虫が人々を発狂させるのかしら」
「ええ、おそらく間違いありません。この虫は耳から入って鼓膜へ微細な長い針を刺し、脳へ特殊な分泌液を注入するのです。物は試し、見ていてください」
 通路の傍らを走るネズミへ向けて魅月姫が虫を飛ばす。あっという間に追いついてネズミの耳へ入りこんだ。小さな体が痙攣し、動きが止まる。黒かった瞳がぼんやりとした曖昧な色になった。脇を通り過ぎようとしたネズミに食らいつく。高音の鳴き声を互いに発し、丸まるようにして転げ回った。2匹は噛みつき合ったまま下水へ落ちる。
 これで事件を起こした原因は分かった。しかし彼らを生み出したであろう学者がいない。行方をくらまして数日間、生死も確かではなかった。
「あとは依頼主の父親を探すだけね。ここのどこかにいるかしら」
「それなら問題ありません。彼らが教えてくれます」
 魅月姫が示したのは背後で整列する虫達だった。


★ゼハールSide
 ニルグガルから武彦らの情報が入ったのは彼らが下水道へ下りてくる前のことだった。先回りをしたゼハールはニルグガルと声だけでなく実際に会って接したい気持ちを抑制して立っている。堕天使として自分を作り直してくれたゼパルの命令だ、逆らうわけにはいかなかった。ニルグガルはきっと近くで武彦を監視しているに違いない。そう思って暴れ出しそうな欲求を鎮めた。
 ゼパルは強欲、物惜しみ、臆病を司る地獄の魔王だ。魔王の中では1番の変わり者で殺人鬼マニア。彼は東京で起きている事件に興味を持ったらしい。命じられたのは武彦の調査を妨害すること。
 歩く気配がする。ライトに照らされた影が壁に伸びて映った。1人、2人、3人、4人。もてなすのは4人のようだ。先頭を歩いていた黒いドレスの少女――魅月姫が歩を止めた。
 メイド服のスカートを両手で軽く持ち上げたゼハールはにこやかにお辞儀をする。
「こんばんは、ようこそいらっしゃいました。私はゼハールと言います。少々妨害させていただきますね」
 大鎌ミッドガルドを細腕で振り上げ、跳ぶ。数メートルの距離を軽快に縮めた。魅月姫の脳天へ刃を下ろす。
 先端が破砕音を立てて地面を穿った。少女の姿はそこにない。背中に殺気を感じる。足元、自分の影から彼女が半身を出していた。ゼハールは跳躍し、壁を蹴って回避する。脚のあった場所を鋭い爪が薙いだ。
 着地後は留まらないでバックステップをする。武彦の拳が放たれた。鼻先で腕が伸び切るのが見える。彼の拳が引かれるのに比例して突進した。ミッドガルドの柄で腹部を叩きつける。呻く武彦が吹き飛んだ。
 背中に衝撃が走ってよろけてしまう。前転で受け身をして振り返ると魅月姫が肉薄するところだった。素早い拳をミッドガルドで受ける。彼女が身を回転させた。斜め下から伸び上がったのはハイキックだ。予測を遥かに超えるスピードで的確に顔面を捉えてくる。ミッドガルドでは遅すぎた。頭と彼女の爪先との間に腕を入れる。
 小柄とは思えない重量が攻撃にかかっていた。下水を越えて反対の岸まで強制的に飛ばされる。激突する間際、ゼハールは身を捻って足裏が壁へ面するように体勢を整えた。膝にバネを溜め、そして脚力を解放させた。
 ミッドガルドを構えて飛行し、攻撃モーションのまま止まる魅月姫へ向けて斬撃を振るう。
 下水道の壁が派手に崩れて粉塵を舞い上げた。
 しばらくするとホコリも落ち着いてくる。ミッドガルドの切っ先は半ばまで壁へ刺さっていた。真横に魅月姫が微動だにしないで立っている。白い首に細い1筋の血液が垂れていった。彼女はそれを指ですくい、赤く小さな舌で舐めたかと思うと微笑する。
「アナタ、私のモノになりませんか?」
「せっかくですが遠慮させていただきます。私には愛すべき者がいるので」
 大鎌を抜き、ゼハールは後退する。自分に与えられた命令はあくまで妨害だ。死人は出すなとゼパルに言われていた。ひとまずはこれぐらいで十分だろう。
 先程と同じようにお辞儀する。
「それでは、失礼致します」


★シオン・レ・ハイSide
 通路を行くとドアがあった。錆びついているようでもなく、最近に取り付けられたものと分かる。武彦が目配せをし、ノブを回す。
 意外にも広大な敷地で、ハイテクそうな機械が設けられていた。研究施設、と言っても過言ではない。昼過ぎに忍びこんだ研究所に勝るとも劣らない設備の数だ。
「水谷博士! シュライン、介抱を」
 武彦の指示でリノリウムの床に倒れていた白衣の男へシュラインが駆け寄る。「水谷」と書かれたネームプレートを白衣に付けていた。白髪混じりの髪でメガネを掛けている。シュラインは彼の脈を取り、大丈夫、と言った。外傷などもないようだ。行方不明者の無事が一同を安堵させる。
 それも束の間、短い悲鳴が上がった。一瞬の隙に水谷が起き上がってシュラインの腕を取り、首筋にナイフを当てている。彼の異常な行動に事態の理解が遅れた。
 武彦が苦渋の表情をする。
「考えになかったわけじゃないが、まさか、な」
「その、まさか、さ。おとなしく発狂者の仲間入りをしていればいいものを、のこのこと来るとは。何者だ?」
 鼻で笑い、水谷はこちらを見回してくる。
 あまり想像したくないシナリオだった。依頼主の父親が事件の元凶だったと誰が思うだろう。彼女になんと報告をすればいいのか、思い浮かべるだけでシオンは心苦しくなった。
「バイオテクノロジーの権威であるアナタが、いったいどうしてこんなことをしたんですか?」
「いい質問だね。君、名前は?」
「シオン・レ・ハイです」
「お教えしよう、シオン君。この私の壮大なる計画を」
 彼はシュラインを捕らえたまま移動をし、機械のボタンを押す。壁一面に備えられたモニターに例の虫が映った。
「君らもここに来るまでに見たであろう虫、私は『魔虫(まちゅう)』と呼んでいる。生物としては非常に脆弱だ。しかもエサである霊力を断てば死に絶える。ただし、エサを与え続けて人間の中に棲まわせば思うがままにできる。無能ゆえ、操作も簡単だ。分かるかね? 全ての者を我が手中にできるのさ。素晴らしいだろう、私の力は。学者? 博士? 権威? ノーベル賞? 笑わせてくれる、私は世界の王となるのだ。世界征服、などと言うと陳腐に聞こえるがね」
「つまり、自分の力を誇示するために行ったということですか」
 そうとも言うかね、と言って水谷は至極おかしそうに笑う。また彼が機械に触れるとモニターの画面が切り替わった。見覚えのある図形、東京の地図だ。大部分が赤く点滅している。だいたいの察しはついた。予想以上に広い範囲に及んでいて目を見開く。
「魔虫の繁殖は着々と進んでいる。地下に身を潜め、いまかいまかと私の命令を待っているのさ。そうだ、君らにいいものを見せてやろう。ちょうどここの上にあたる街中の風景だ」
 下水道へ行くために通った道が映る。会社帰りのサラリーマンやOL、遊びに出ている若者が数え切れぬほど歩いていた。嫌な予感がする。そしてそれは的中してしまった。
「感動したまえ、私が世界を支配する第一歩の瞬間だ」
「やめっ――!」
 止めようとしたシオンの目に入ったのは赤いボタンを押す水谷の姿だった。モニターに黒い霧が噴き上がっている。ノイズではない、魔虫だ。マンホールを飛び出て人々を襲う。パニックを起こした彼らはやがて発狂を始め、互いに食らいついた。
 このままでは東京――否、世界に被害が拡大するのも時間の問題だ。一刻も早く、なにがなんでも彼を止めなければならない。しかしシュラインを人質に取られていては安易な行動はできなかった。
 動くに動けない状況を打破したのは魅月姫だ。後ろにいたはずの彼女が水谷の背後に現れる。シオンの影を利用し、人知れず移動したのだ。彼が気づくよりも早く手刀で首を打った。呆気ないほど簡単に気絶させる。
 場の緊張が緩和されていく。シュラインが魅月姫に礼を言った。
 それで一件落着かに思えた。
「待て、安心するのは早い」
 モニターを見た武彦は施設内を駆ける。街中の魔虫は一向に去る様子がなかった。それどころか感染する者が増えていっている。水谷が倒れればそれで終わりではないのだろうか。
「おかしい、霊力を供給する装置らしい物が一切ない。要となる物を他の場所に置いてるとも考えられないだろう。なにかがズレてるぞ、この事件。もしかしたら俺はとんでもない勘違いを――」
 考えていた武彦がハッと息を呑んで顔を上げた。視線を倒れ伏す水谷へ向けている。
 シオンにも見えた、彼の耳を這い出る魔虫が。それはつまり――
「時は満ちた。世界を我が物にするための手始めに東京へ狂気の夜を落としてやろう」
 勝手にモニターが切り替わった。肌は赤く、背に醜い翼を生やし、口に牙を生やした妖魔だ。
 ――それはつまり、水谷は操られていたに過ぎないということを意味していた。


★夜崎・刀真Side
「外で待機している方が楽できると思ったんだがなぁ、つきのない日だ」
 一振りした腕の袖から青龍刀を出して構える。発狂し、もはや人間とは思えない者達の群れを見て刀真は溜め息をついた。こういう光景を地獄絵図と言うのだろう。若者、年寄り問わず、殴り蹴り噛みつき踏みつけている。
 武彦の通信が入ったのはつい先程だ。数ブロック先が騒がしいと感づき、既に近くまで来ていた。
 女子高生らしきセーラー服の少女が雄叫びを上げて駆けてくる。それを躊躇いなく斬った。
 倒れる彼女を見下ろす。出血はしていない。彼女の耳から真っ二つになった魔虫が落ちた。斬った、とはいっても少女を操る「歪み」をだ。肉体を傷つけずに斬りつける芸当ぐらいできなくては尸解仙とは言えないだろう、雑作もないことだ。
 再び溜め息をつき、暴れる群衆を見て気が遠くなる。雑作はないが、あまりにも数が多過ぎた。
「トーマ、ふぁいと〜♪」
「言っとくが、お前も他人事じゃないんだぞ」
 宙に浮いていた瑠宇の足を掴もうとするOLを斬る。
 前方からサラリーマン風の男が跳びかかってきた。横一文字に斬りつける。右の老婆を袈裟斬りにし、その後ろを走ってきた青年を斬り上げる。
「くそっ、きりがないな」
 いちいち相手にしていてはジリ貧だ。いくら体力があってももちはしない。全員の歪みを斬っていくのは良策と言えなかった。腹巻をした中年を蹴り倒し、駆けていく。
 小さな歪みを無視し、公園の方を目指した。普段、夜になると恋人同士の集う場所だ。木々の植えられた道を走り抜けていく。出たのは噴水のある広場。昼は子供が駆け回る空間だった。
「早々に決着をつけるぞ。明日も朝からバイトがあるんでな」
 噴水の噴出口に腕を組んで立つ影があった。月に照らされ、ほくそえむ妖魔だ。通信で聞いた情報通りの姿形をしている。
「バイトだと? お前はまだ生きていられる気でいるのか? 魔虫に寄生された人間を蹴散らしたぐらいで調子に――」
 光の刃が噴水を薙ぎ、切断した。断面が一瞬でき、また崩壊して噴射の形になる。妖魔は夜空へ高く飛び上がっていた。
 刀に込めた力を気功波として放ったのだが外れてしまった。やはり一筋縄ではいかない敵のようだ。妖魔は口元を歪めて唸る。
「礼儀というものを知らないようだな」
「あやかしに言われる筋合いはない」
「ほざくなっ!」
 滑空して急降下してくる、と思った時には目の前にいる。横へ跳んで躱した。頬に爪が掠め、血が垂れる。
 着地する敵へ刀真は斬撃を繰り出した。そこにいたのは残像だ。鋭い気配が背筋に走り、大きく跳躍する。空を切る音がした。スピードに自信があるようだ。
「言うだけのことはあるようだ。なまじ力がある分、一思いには死ねんぞ」
「…………」
 クツクツと喉で笑う彼に沈黙を返す。
 ゆっくりと得物を構え、笑ってやった。訝しげにする妖魔。
 刀真は軽く跳ねた。見えていた相手の顔は後頭部へ変わる。
「スピードを超えたことはあるか?」
「何者だ、貴様」
「しがないフリーターだ」
 空間を縮めて2点を繋ぎ移動する縮地により妖魔の背後に立っていた。どんな俊敏さでもこの距離では回避は不可能だ。遠退こうとする妖魔の背を斬りつける。浅い。
 翼を羽ばたかせて飛ぶ彼を見上げる。紫の血液が地面を濡らした。
「少々甘く見ていたようだ。特別に本気を出してやろう」
 強がり、というわけではなさそうだった。気合いとも唸りともとれる声を発する。大気が震え、木々がざわめいた。噴水が異常なほど放出される。妖魔の体型が全体的に膨れ上がった。筋肉が盛り上がり、翼も流線型になる。
「楽しませてくれよ」
 呟きと衝撃はほとんど同時だった。抉られる痛みを腹に感じながら後方に殴り飛ばされる。視界に妖魔の姿がない。宙で体勢を立て直す刀真を待ち受けていたのは彼だった。成す術もなく背中を殴りつけられる。技もなにもないが、単純にスピードとパワーが大幅にアップしていた。前のめりに倒れつつ前転をして受け身をする。
 たったの2発でダメージが脚にきていた。
 縮地。妖魔の横へ移動し、低い姿勢から刀を振るう。手応えはなかった。
「同じ手は2度と食わない。死ね」
 後ろに出現した敵の鋭利な爪に心臓を貫かれる。
「なっ!?」
 刀真の姿は掻き消え、代わりに現れたのは丸太だ。妖魔の腕はそれを突き刺していた。
「なるほど、楽しませてくれるじゃないか。しかし、そろそろ終わりにしよう」
「勝手に終わらせるな」
 大分離れた位置にある噴水の縁に腰かけ、刀真は荒く呼吸をしていた。左肩を押さえる手に感じるのは血液のぬめりと熱さだ。こんなにも苦戦を強いられるのならば初めから瑠宇との完全な合一をしておけば良かったと後悔する。この状態でするとなると体にかかる負担も倍増だ。
 明日のバイトは欠勤しなければならなくなりそうだった。得られるはずだったバイト代を生活費から削って計算する。苦しい1ヶ月が待っていそうだ。菓子の数が減ると知ったら瑠宇はなんと言ってわめくだろうか。
 やれやれ、と息を吐いて瑠宇を呼び寄せようとする刀真の視界に青い炎が映った。
 轟音。
 妖魔を瞬く間に包みこむ。攻撃の放たれた方角を辿ると電灯の下に手袋を取って腕を突き出す男――シオンが立っていた。傍には武彦とシュラインが駆けつけている。
 ニヤリと笑って刀真は腰を上げ、炎を振り払う妖魔へ刃を向けた。
「どうやら、バイトには行けそうだ」


★黒榊・魅月姫Side
 影を渡って路地裏を作るビルの壁から出てきた魅月姫は真下のゼハールへ蹴りを打つ。金色の髪を掠る感触が爪先に伝わった。前転した彼は後ろも見ずに足払いをしてくる。地に着こうとしていた足が横へ持っていかれ、大きくバランスを崩した。迫る地面へ手をつき、腕力を活用して跳ね上がる。空中で体勢を戻したところへ大鎌を振りかぶった少年が跳んできた。
「なかなかの腕前ですね」
「アナタこそ。どうしても私のモノにはなりませんか?」
「応えは変わりませんよ。私には愛すべき者がいます」
 大鎌を素手で掴んだ魅月姫は、そう、と言って後ろへ跳躍し、間合いを取った。愛すべき者、それが誰であるかは興味がない。彼を自分のモノ、下僕にする。相手が嫌だというのなら強引にでも手に入れなくては気が済まない衝動が膨れあがった。
 要は自身の思い通りにできれば良い。手段は色々あるが、うってつけのものがあった。視線の横に小さな闇を生む。どこまでも深い底なしの空間で響く無数の雑音にゼハールが身構えた。
「つい先程、私のペットになった生物です。遊んであげてくださいね」
 微笑む魅月姫の言葉を合図に穴を魔虫が飛び出た。数え切れぬ彼らは耳を塞ぎたくなる羽音を立てて少年へ向かう。得物を振るって隊列を分断された。魔虫は小さく弱い。しかし通常の武器で殺せるものではなかった。手で潰してしまった方が早いが、全てを退治するのは至難の技だ。結論――彼は逃げられない。
 現にメイド服の少年は逃げる一方で反撃をしてこなかった。いずれは疲労困憊するだろう。その時はじっくりと下僕になってもらう。ポリバケツを踏み越えて引っくり返し、路地裏の広場を駆け回るゼハールを眺めて魅月姫は微笑んだ。
 変化が訪れたのは数分後だ。彼はなにもしていないのに魔虫の数が徐々に減ってきている。完全に消滅させられるのに10分もかからなかった。ゼハールが歩の速度を緩めて止まる。深呼吸をし、目の前を飛ぶ最後の1匹をパンと手を鳴らして潰した。
 笑みを消し、魅月姫は歩み寄る。
「なにか、しましたね」
「この鎌――ミッドガルドの瘴気が充満してきているのです。あらゆるものを腐らせ、分解します。東京中の空気を汚染するのも不可能ではありませんよ。ラグナロクの再生をするのもいいかもしれませんね」
 満面の笑みをするゼハールが大鎌を構え直した。油断できない手強い相手だ。だからこそ欲する、仕えさせたい。
 数メートルの距離をまばたきの一瞬で詰め、肩を蹴りつける。流れる動きで、よろめくゼハールへ回し蹴りをした。更に1歩踏みこみ、腹部へ掌底をする。壁際にいた彼は背を打ちつけて跳ね返ってきた。魅月姫は容赦なく腰で溜めていた拳を放つ。
 ゼハールが消えた。上だ。攻撃を受けつつ隙を窺っていたらしい。硬直状態にあるこちらへミッドガルドの切っ先を振り下ろしてくる。月明かりを反射した閃きが低い風切り音を発して弧を描いた。当たる。
 少年は驚いた表情をした。明らかに直撃するはずだったのだから当然だ。物理的には確かに命中していた。
 魅月姫には世の法則は無意味に等しい。大鎌の刃を頭上に作った闇に吸いこんでいた。一般の人間には柄の部分のみが出ている光景が奇妙に映るだろう。
 躱された渾身の一撃をゼハールへ叩きこむ。少年の体は軽々と飛び、受け身もなく地面に激突して横たわった。少々てこずったものの、これで我が物にできる。子供が新しい玩具を入手する時の浮き足立つ気分で寄っていった。あと少し、あと少しで――。
 自分とゼハールとの間で硬質なる響きが鳴る。コンクリートの地を穿たれ、破片が飛んできた。赤い瞳を守るように腕で顔を庇う。
 目を開けると少年が1人増えていた。銀髪でメイド服を着た少年だ。槍を手にした彼はゼハールを抱き起こす。
 ゼハールが双眸を少年に向けた。
「ニルグガル、どうかしましたか。今回、アナタは戦闘に参加しないはずでは?」
「仕事は終わりました。魔界へ戻りましょう」
 そうですか、とゼハールは納得し、彼に肩を借りて立った。そしてこちらを振り返ってニコリと笑う。大鎌を肩にかけ、お辞儀をした。
「それでは私達は失礼させていただきます。またご縁がありましたらお会いしましょう」
 2人は背を向けて路地裏の奥へ消えていく。
 仲が良さそうに肩を寄せた彼らを魅月姫は無心で見送った。
「愛すべき者、ですか」
 なんとなく呟いて夜空を仰ぐ。
 役目を終えたと気づき、魅月姫も闇へと溶けていった。


★草間・武彦Side
 刀真の青龍刀を離れて飛んだ光の刃が傷ついた翼で飛ぶ妖魔に迫る。羽ばたきを停止し、回避された。落下するところへシオンの炎が覆い被さる。振り払おうとしているところへ刀真が斬りかかった。燃えかけていた片方の翼が落ちる。妖魔が苦痛の叫びを上げた。
 たまらずといったように裏拳を放ってくる。刀真はいない。上に跳び、切っ先を下へ向けて降下している。前方へステップして避ける妖魔の顔面をシオンが鷲掴みにした。灼熱の炎で熱した鉄板を押し当てているような香ばしさと煙が大気に混ざる。
「私は、この街が好きです。人はもちろん、植物や動物、そしてウサギさんが大好きです。自分のわがままでそれを壊そうとする者を私は決して許しません」
 いつもは温和な彼が珍しく怒りを露わにしていた。青い炎が妖魔の顔面に着火する。
 シオンの名を刀真が呼ぶ。意を汲んで身をどけるシオンに代わって悶え苦しむ妖魔へ真正面から斬撃を食らわせた。肩口に刃が入り、反対の脇腹へ刀が抜ける。静寂のあと、紫の血液が滝の如く勢いで溢れ出た。
 妖魔は嗚咽を漏らし、ただ腕を伸ばすだけだ。胴体が斜めにズレていき、万有引力に従って落下した。追って下半身も倒れる。
 追い討ちをかけようとする刀真の腕をシオンが止めた。彼が首を振る。
 蒸発の音を立てて妖魔の肉体が霧消していった。残ったのは紫色の液体だ。それは戦いの終わりを告げていた。
「終わったのか」
「ええ、終わったわ。長い夜だった」
 武彦の傍でシュラインが呟く。噴水の弾ける音が静かに漂った。
 刀真が大きく息をついて崩れるように地面に座りこむ。そこへ瑠宇に飛び乗られた。彼は、ケガが痛むやめてくれ、と逃れようとするも少女は嬉しそうにはしゃいでいる。シオンがどうしたものかオロオロしていた。
 シュラインと顔を見合わせ、武彦は笑った。日常が戻ってきている。今回の事件は間一髪と言ってもいいだろう。放っておいたら取り返しのつかないことになっていた。
 妖魔の消滅と共に街の人々は正気に戻った。魔虫の栄養源は妖魔から与えられていたらしい。凶暴化して殴り合いの途中にあった者達などで多少のケンカが発生したが、事件の規模に比べればなんてことはない。あと数時間もすれば東京に朝が来る。そうしていつものようにいつもの如くそれぞれの生活が始まるのだ。
 よーし、と体を伸ばす。
「今回は依頼料ふんだくるぞー。警察からも金一封だ」
「だといいわね、武彦さん。でもなにか忘れてるような気がしない?」
「なに言ってんだ。こうやって妖魔も倒した、万事オッケーだろ」
 ――30分後、ヨウコへ依頼解決を伝えた武彦は水谷を置き去りにしていたことに気づき、急いで下水道へ戻ったのだった。しかも施設はもぬけの殻になっていて焦った。目を覚まして迷路のような下水道を彷徨う水谷捜索のための調査隊を改めて募ったのは言うまでもない。


<了>


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【4425/夜崎・刀真(やざき・とうま)/男性/180歳/尸解仙(フリーター?)】

【4431/龍神・瑠宇(りゅうじん・るう)/女性/320歳/守護龍(居候?)】

【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】

【5054/ニルグガル・―(にるぐがる・ー)/男性/15歳/堕天使】

【4563/ゼハール・―(ぜはーる・ー)/男性/15歳/堕天使】

【3356/シオン・レ・ハイ(しおん・れ・はい)/男性/42歳/びんぼーにん(食住)+α】

【4682/黒榊・魅月姫(くろさかき・みづき)/女性/999歳/吸血鬼(真祖)/深淵の魔女】


<※発注順>

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■         ライター通信          ■
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「発狂汚染地域東京〜武彦の誤算〜」へのご参加、ありがとうございます!

というわけで、相変わらず刀真の周りをちょこまかしてる感じで^^

活躍らしい活躍はあまりありませんでしたが、

瑠宇らしさは出せたんじゃないかな、と思います。

機嫌を損ねても食べ物で直るという(w

さて、いかがでしたでしょうか〜。

少しでも楽しんでいただけたら幸いです☆

また機会がありましたら、ぜひよろしくお願い致します♪