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何れ芽吹く恋の花
【壱】
温かさを降り注ぐ日差しが密やかに山際に消えゆき、辺りが鮮やかな橙に染まる頃、千住瞳子と槻島綾の二人はとある寺院の境内で行われる薪能を観覧するために車中にあった。行く道は夕刻であるというにも拘わらず休日ということもあって常よりも閑散としている無機質なエンジン音を包み込むように流れる音楽は沈黙がもたらす気まずさを回避するための綾の気遣いであるのだろうかと考えながら、瞳子は僅かに緊張した面持ちで助手席に腰を落ち着けている。
こうして二人きりで出かけるのは何も今回が初めてだというわけではない。以前にも何度かあったことだ。それでもまだどこかでこうした関係になれたことが瞳子には不思議なことで、嬉しさのあまり生じる緊張を何事もなかったかのように拭い去ることはできないものだった。今こうして二人で同じ場所へ向かっているのだということさえも未だに現実味がない。それはきっと常なら綾に誘われるばかりの瞳子が自ら誘いをかけたことにあるのだろう。正しくは二人同時に今日の約束を口にしたのであったが、誘っていいものか、誘ったところで受け入れてもらえるのかと一週間も悩み続けた瞳子にとってはたとえ同時であったとしても自ら誘いを口にしたということは意味のあることだった。
これまで瞳子が男性と出かけることに自ら誘うようなことは一度としてなかった。それ故の緊張と不安えあったというのに、同時に誘いの言葉を口にした綾のほうはといえば誘いなれているのか、それとも瞳子に対して特別な感情など何もないからなのかひどくさらりと誘いの言葉を口にしたのだった。羞恥を感じなかったといったら嘘になる。それでも共に同じ所へ赴く約束を同時に口にしたことは少なからず瞳子に嬉しさのようなものを抱かせるには十分すぎるもので、頬が紅潮するのを感じながらもすぐに笑顔で頷くことができたのだった。
ふとハンドルを握る綾に視線を向けると、瞳子の視線に気付いた綾は何気ないながらも温かな視線で応えてくれる。その視線の温かさに以前はこんなにも近くにその存在を感じることができるようになるとは思ってみなかったと瞳子は思う。
事の発端はとあるコンサート会場でのことだった。あの日はまさかその場で綾に会うことになるとは思ってもみず、チケットを取ることができなかったというのにコンサートを諦めきれずに足を運ばずにはいられなかったという気持ちのほうが大きかった。会場に入ることができなくても、その場にいられればいいのだとそんな風に自分に云い聞かせて瞳子はその場に足を運んだ。
そして綾と出逢ったのだった。
明らかな偶然だった。
どこか手持ち無沙汰な風で出入り口付近に佇んでいた瞳子に綾は今日の約束を交わしたその時と同じさりげなさで、しかしそれでいてどこか控えめな口調で声をかけてきた。一緒に来る筈だった友人が急用で凝れなくなったからチケットが一枚余っている。もしよかったらどうだろうかという思いがけない提案は、諦めきれずにいた瞳子にとってとても魅力的なものだった。だから初対面であるのに申し訳ないと思いつつもありがたくその提案を受け入れることにしたのだ。会場に入り、開演までの短い間に簡単な自己紹介を兼ねた会話を交わすうちに綾がエッセイストなのだということを知った。それを発端に瞳子が愛読している雑誌に連載しているエッセイがとても好きなのだという話に発展したのだったが、そこでまた瞳子を驚かせることを綾が口にした。それを書いているのは自分なのだとどこか照れたような口調で云った綾の顔を今でも瞳子は鮮明に覚えている。
あの日の出逢いが偶然のもたらしたものであったとしても、それを嬉しいと思う気持ちに偽りはない。あの日があったから今日があるのだと思うとたとえいつ起こるとも知れない偶然にも感謝したいと思う。
「着きましたよ」
綾の柔和な声音を聞いて瞳子ははたと我に返る。気付けば車は目的の場所に到着を果たし、駐車場の一角に停止していた。
【弐】
駐車場から境内へ向かう道すがら、それは決して長い距離ではなかったが二人は肩を並べてぽつりぽつりと言葉を交わす。二人と同じ方向へ向かう人々は多いようで少ない。はぐれることもない人の数にどこか遠慮がちな距離が二人の間に生じていた。それでも居心地の悪さを感じないのはひとえに綾のさりげない気遣いがあるからだった。途切れそうになる言葉をやさしく掬い上げ、続けていく話術は抱く緊張に会話を見失いがちな瞳子にとってひどく救われるものだった。
温かな日差しが去った今は密やかに空気が冷えていく。寒いというほどではないものの、肌寒いことは確かだった。温み緩む空気とは違うどこか張り詰めていく夜の訪れの気配のなかに、次第に忍び込む音は爆ぜる薪の音。橙もその色彩を次第に失い暗い夜闇が忍び込む風景に周囲に焚かれた篝火は良く映えた。晩夏の夜はどこか物哀しく、密やかな淋しさをまとっている。席につき、その空気をひしひしと感じながら二人の会話は静かに失われていく。けれどそれは不快なものではなく、これから始まる演目を心待ちにする期待が互いの間に生じる沈黙のなかにあることにどちらからともなく気付く。
今日この場に誘ったことは間違いではなかった。それは二人が言葉にすることもなく共有していた思いだ。興味もないものに連れて来てしまったのではないだろうかという拭い去れずにいた不安が消えていく。きっと総てが終わった後にも一つのものを共有して言葉を綴ることができるだろう。それは一つの演目をただ一人で楽しむよりも数倍楽しいことだった。
やがて始まる演目に周囲にある総ては引き込まれていく。演じられるは「花月」。我が子と生き別れた男が僧となり、京の清水寺を訪れる。都の面白いものをと所望する僧の前に天狗にとられたと自称する少年芸者の花月が呼び出される。花月は小唄を唄い、弓矢を手に鶯を射ようとし、そして清水寺の縁起の舞を舞う。そこで僧は眼前に在る少年が生き別れた我が子であることに気付き、親子の再会となる。そして最後に花月は父と連れ立って仏道修業の旅へと出るのである。
そのなかでひどく瞳子の胸に残る小唄があった。恋は曲者、貴方を思うと夜も眠れず、それはまさに今の自分なのではないだろうかと人知れず胸の内で思う。隣に腰を落ち着け、時折癇症な気配で眼鏡を押し上げる綾に対する憧れという感情は恋心によく似ている。決して激しいものではないけれど、できるだけで長く傍に、誰よりも近くにいられたらと願う気持ちが憧れに伴う何気ない好意ではないことは瞳子にもよくわかっていた。恋は曲者、それは本当だと思う。そして同時にいつの日か焦がれるあまり眠れぬ夜を過ごすことになるのかもしれないとも。
そして幽玄を醸し語られた一つの物語が終わる。静寂を忘れ、ざわめきだす周囲。席立つ人々に遅れること暫し、瞳子と綾もまたゆっくりと席を立つ。
「良かったですね」
云って笑いかけてくれる綾に瞳子は改めて今日、この場に誘って良かったと思った。それは綾も同じこと。どうだったかと問われることよりも、良かったですねと一言、同意を求めてもらえることがとても嬉しかった。
【参】
どこか余韻を引きずる人々に紛れて駐車場に向かいながら二人が交わす言葉は観てきたばかりの花月についてのものばかり。美しかったとか良かったという上辺だけの言葉ではなく、細やかなところまでを把握した言葉は二人をひどく幸福な気持ちにさせる。ただ一つ、今二人で見てきたものを共有して語る言葉が二人を同じ種類の温かさで包んでいた。
半ば我を忘れた心地で言葉を紡ぐ瞳子の手を不意に肌に触れる温かさが包む。それにはたと傍らを歩く綾に視線を向けると、眼鏡のその向こうにある穏やかな双眸はひどくやさしげで、それでいてどこか悪戯をする子供のような無邪気さが香った。
「天狗に連れ去られては困りますから」
冗談めかして云う綾の言葉は戸惑う瞳子の心をひどく穏やかなものに変える。握られた手を軽く握り返し、頷き笑うことができたのは綾の言葉のおかげだった。
歩数が数えられるほどの距離を手を繋いだまま歩き、再度乗り込んだ車のなかで続く会話はやはり花月についてのそれで、もう車中に沈黙を埋め合わせるために音楽を響かせる必要はどこにもなかった。
時折落ちる沈黙にも気まずさはなく、それが途切れればまた鮮やかな会話が花開く。沈黙と会話を何度か繰り返して、話し疲れどちらからともなく沈黙が落ちる頃には落ちる沈黙それ自体がひどく心地よいものに姿を変えていた。エンジン音だけが静かに響く。そのなかで一つの空間を共有する。ただそれだけのことで言葉などいらないのではないかというような気持ちになれる。
ふと瞳子は助手席の窓硝子に視線を向け、そこに映る綾の横顔を捉えて微かに笑んだ。何気なく伸ばした指でそこに映る綾の輪郭を人知れずなぞり、ぽつりと呟く。
「今日は、ありがとうございました」
どういたしまして、というなんでもない綾の応えが特別なものに聞こえたような気がしたのはきっと今日があまりにも幸福な一日だったからだろうと瞳子は思った。
「また機会があったらお付き合い願えますか?」
思いがけない言葉に視線を窓硝子から綾のほうへ返すと正面に集中していながらも瞳子の存在を確かに受け止めて綾が笑う。眼鏡の向こうにある双眸はただ純粋に瞳子の素直な答えを待っているようだった。だからこそ瞳子は素直に頷くことができたのだった。
次に会う時もきっと幸せな時間を過ごすことができる。
そんな予感が確信に近い強さで二人の胸の内にあった。
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