コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


優しい雨


 小さなピアノソロコンサートの帰り道、綾と瞳子は近くのレストランに立ち寄り、少し遅めの夕食を摂っていた。
 外は雨。しかし、じっとりと湿った空気とは反対に、瞳子の声はひどく明るく弾んでいる。
「オーケストラも壮大で素敵だけれど、ピアノソロもいいものですよね。今日の演奏者は弾き方がとても穏やかで、心にしみるような……ちょうど、今日の雨みたいですね」
 言いながら、瞳子は窓の外に視線を向けた。彼女にかかれば、憂鬱な雨もたちまち優しい音楽へと姿を変えてしまう。
 それを少し嬉しく感じながら、綾は静かに頷いた。
「……なんだか、さっきから私ばかり喋ってしまって、ごめんなさい」
 不意に、バツの悪そうな表情で俯く瞳子。音楽が好きというだけでなく、綾と2人きりという緊張を紛らわす意味も兼ねて、いつもより饒舌になってしまっている自分に気付いたのだ。
 けれども綾は相変わらず笑顔で、ゆっくりと首を振る。
「いいえ、瞳子さんのお話はとても面白いです。できれば、もっと聞いていたいところですけど……」
 残念そうに、ちらりと時計を見る綾。2人が店に入ってから既に1時間半が経っている。それに気付いて、瞳子も名残惜しそうに紅茶のカップを置いた。
「そろそろ出ましょうか」
「ええ」
 会計を済ませて駐車場に向かう2人。
 雨はまだ止む気配がない。


 *  *  *


 車の中での会話も、充実したものだった。コンサートで聴いた曲を流しながら、今日の演奏を振り返ったり、そこからまたさらに別の話に発展したり……
 しかし楽しい時間というのはすぐに過ぎるもの。瞳子の家に到着するのは、あっという間だった。
 車を停めると、綾は後部座席に積んであった傘を手に取り、いち早く降りる。そしてエスコートするように傘を差し出すと、瞳子は真っ赤になって慌てた。
「玄関はすぐそこですから!」
「ええ、すぐそこですからね。送るのだって、大した手間じゃないですよ」
 笑顔で返されてしまい、瞳子はおとなしく従うしかなかった。
 ほんの束の間の相合傘だが、瞳子にとっては一大事。ようやく玄関に辿り着いてほっとするが、でも少し名残惜しい気もする。乙女心は複雑だ。
「今日は本当に楽しかったですよ。良ければ、また一緒に行きましょうね」
「はい、それではおやす……」
 みなさい。そう続けようとした瞳子の言葉は、途中でぴたりと途切れた。
 綾が不思議そうに瞳子に目を向けると、彼女の視線はある一点に注がれている。その先にあるのは……
「ゲコ」
 小さな雨蛙だった。
 ご丁寧に。玄関のまん前に鎮座ましましている。
 ほんの一瞬の間が空いた後、
「きゃああああっ!!」
 ……瞳子の悲鳴が響き渡る。普段は照れ屋な彼女だが、この時ばかりは理性も何も吹っ飛んでしまっていた。恐怖のあまり無我夢中で綾に抱きつき……
「え?」
 突然すぎて支え切れなかった綾は、そのまま体勢を崩し……
「ひゃっ?!」
「痛っ!!」
 ばしゃ―――ん
 2人はそのまま水溜りにダイブする羽目になってしまった。


 *  *  *


「本当に、ごめんなさい……」
 タオルを差し出しながらひたすら謝る瞳子。もはや何度目かも分からない謝罪に、かえって綾のほうが申し訳ない気分になってしまう。
「そんなに気にしないで下さい。あれは事故ですよ、ね?」
 そもそも自分がちゃんと受け止めることができていれば、こんなことにはならなかったはず。さすがに気恥ずかしいので、その言葉は口には出さなかったが。
 瞳子は尚もすまなさそうにしていたが、これ以上繰り返しては綾を困らせるだけだと悟り、仕方なく口をつぐむ。
 急に静かになった部屋の中、お茶を注ぐコポコポという音がやけに大きく響く。
「……お茶を注ぐ音って、良い音ですよね」
 不意に綾がこぼした言葉に、瞳子は一瞬きょとんとするが、すぐに微笑んで頷く。
「なんだか、ほっとしますよね。寒い日に外から帰ってきた時なんか、特に」
「こたつとみかんがあれば、さらに最高です」
 半纏を着込んでこたつに潜り、お茶とみかんを目の前にぬくぬくしている綾の姿を想像し、瞳子は思わず吹き出してしまった。それを見て綾もくすくすと笑い、ようやく2人の間に和やかな空気が戻る。
 両手で湯呑みを包み込み、その温かさを感じながら、綾は呟いた。
「寒い冬があるからこそ、こたつとみかんの幸せを味わえるんですよね」
「暑い夏には、よく冷えた麦茶の幸せ……ですか?」
「はい、スイカも欠かせませんね」
 こんな他愛もないやり取りが、とても優しく温かな気分にさせてくれる。
 そんなことを思いながら、綾は窓の外を見た。
「美味しいお茶を飲んで、楽しい会話ができる……これも雨のおかげなのだと思えば、悪くないかもしれません」
 湯呑みを手に取ろうとしていた瞳子だが、綾の言葉に、ぴたりと動きが止まる。しかしそれには気付かず、綾は続けた。
「雨って、嫌われがちですけど……でも今日は雨のおかげでこうしていられるわけですしね。それに、雨音の音楽も綺麗だし。そんなふうに思えるのも、瞳子さんの影響かもしれませんね」
「え……?!」
 にっこりと微笑んで見つめられ、瞳子はさらに固まってしまった。
 果たして分かっていないのか、それとも分かった上でわざとやっているのか。残念ながら、今の瞳子には冷静に分析する余裕などなかった。
 きっと他意はないんだ……そう自分に言い聞かせてみるも、効果はない。
「また一緒にコンサートに行きましょうね。2人でもっともっと色々な音楽に触れられたらいいなと思いますよ」
「は、はい! 私もそう思います」
 思わずピンと背筋を伸ばして、勢いよく答える瞳子。
 嬉しそうに頷く綾。
 2人の視線がまっすぐぶつかり合い、そして綾が何か言おうと口を開きかけたその時……


 閃光が瞬いて、いきなり周囲が真っ暗になった。


「て、停電……?」
 瞳子は慌ててきょろきょろと辺りを見回すが、あいにく懐中電灯は手の届くところにはない。
 下手に動き回るよりは、おとなしく待ったほうがいい……そう思った瞬間、また突然ぱっと明かりが戻った。
「…………」
「…………」
 改めて顔を見合わせる2人。
 なんとなく気まずい雰囲気だったが、どちらからともなく笑いをこぼし始め、その笑いはしばらく止まることはなかった。
「とりあえず、すぐに復旧して良かった」
「ですね」
 笑い合いながら、綾は立ち上がる。服は完全に乾いたわけではなかったが、それでも少しはマシになっている。
「服もだいぶ乾いてきたし、そろそろお暇しますね」
「あ、はい。大丈夫ですか?」
「ええ、何とか」
 少し名残惜しいような気もしつつ、このまま引き留めるのは色々と問題がある。
 本当は外まで出ようとしたのだが、それではここまで送ってきた意味がないと綾に止められ、瞳子は玄関で綾を見送った。
 外は相変わらず雨。
 けれども、それを憂える気持ちはない。
(綾さんは私のおかげだと言ったけれど……それはこちらも同じなんだってこと、気付いていますか?)
 心の中での問い掛け。もちろん、返事があるはずもなく。
 でも今はまだ、それで充分だと思えた。
 ささやかな、それでいて満ち足りた時間を与えてくれた雨に感謝しつつ、瞳子は静かに玄関のドアを閉める。


 綾もまた、穏やかな気持ちで雨の中を歩いていた。
 2人でもっともっと色々な音楽に触れられたらいい……先ほどそう言ったが、それはさほど難しいことではないと思える。
 少し前まで気にもならなかった雨音が、今では優しい旋律に聞こえるのだ。
 風や木々のざわめき、時を刻む時計の音、通りすぎてゆく車の音さえも――きっと楽しむことができる。
 ちらりと後ろを振り返りながら、綾は微笑んだ。
「約束、ですからね?」


 優しい雨に包まれて、綾は家路に就いたのだった。











−終−