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ぬくもりの情景
都心から、車と電車、バスを乗り継ぎ約二時間。
新幹線なら東北まで、飛行機なら海外まで行けるこのご時世に、そこはまだ東京だった。
「静かですわね‥‥。まだ東京にこのような場所があったとは‥‥」
黒い着物の袂を静かに返して、歩く姉の後を、小さなカバンを持った制服姿の妹が続く。
海原みそのと、海原みなも。
「本当に‥‥。喧騒とは無縁の別世界ですね」
みなもも頷きながら周囲の花に、風に、目を送る。
誰も、自分達を知らない。誰も、知っている人のいない。静かな空間。
桜はもう新緑に染まっているが、今はツツジが美しく花を咲かせている。
まるで日本画のような静謐な空気の中を、二人は静かに歩いていた。
「みなも。このGWは何か予定はおありですか?」
そう聞いてきた姉の言葉に、みなもは少し考えて首を横に振った。
「特にはありません。部活動の方もひと段落着きましたし、アルバイトはGWは入れるかって聞かれてますけど‥‥」
「そう、なら良かった」
家の中でよく着ているずるずるの長衣の胸元から、何かを取り出すと妹に向けてはい、と差し出した。
「‥‥これは、温泉の宿泊チケット?」
ええ、とニッコリ姉、みそのは頷いた。チケットは二枚ある。差し出された二枚は素直に妹の手に移った。
「お父様から頂きましたの。良かったら、一緒に行きませんこと?」
「でも、二枚しかありませんよ。お母様やみ‥‥」
「それぞれ、ご予定がおありだそうですの。だから、二人で。お嫌ですか?」
質問の答えを先取った後、伺うような表情を姉が向ける。
もう、長い付き合いだ。この表情の持つ意味をみなももなんとなく解っている。
それに、イヤではなかった。
「じゃあ、行きます」
「それは、良かった。楽しい旅行になりそうですわね」
ルン♪ そんな擬音語が付きそうなほど楽しそうな顔を見せる姉の様子を見て、少し嫌な予感を感じながらもみなももそれ以上の楽しみな気分を、胸の中に抱きしめていた。
その宿は、純和風。築数十年という歴史ある旅館だった。
木造ながらも丁寧に作られた館が古さよりも美しさを感じさせて、二人を出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ、ようこそおこしくださいました」
自分の娘、ひょっとしたら孫ほどの娘二人を、旅館の女将は丁寧な挨拶で出迎えた。
「よろしくお願いしますわ」
「お願いします」
まったく物怖じもしないみそのの後ろでみなもが小さく頭を下げる。
こちらは可愛らしい仲居の案内で通された部屋は十畳の和室に、八畳の部屋。内風呂に中庭の石庭を望むベランダもついていて二人で遣うには惜しいほど広い。
お茶を入れ、部屋の説明をした後、仲居は定番の質問をした。
「お食事を先になさいますか? それともご入浴されますか?」
「お風呂を先に頂きますわ」
みなもが言うより先にみそのが答え、仲居ははいと頭を下げた。
「では、どうぞごゆっくり‥‥」
目が殆ど見えていないとは思えないほど素早さでみなもはタンスを開け、浴衣とタオルと、バスタオルを二人分出して整えた。
もちろん、みなもに一つ渡す。
「さあ、行きましょう。みなもさん。ここは美肌の湯で有名なのですよ」
フフフ。
微妙な笑みに少し嫌な予感を感じながらも、みなももそれ以上の楽しみで浴衣とタオルと、バスタオルを胸元にしっかりと抱えたのだった。
「うわ〜〜〜♪」
広く広がる露天風呂に、みなもは思わず声を上げた。
透明なお湯、薄く色づいたお湯、そして純白の湯。3種の湯がここの名物なのだと、姉が語るのも良く聞こえないほど。
「広いお風呂って、何だかワクワクしますね。さあ、どこから入ろうかしら?」
「白いお湯がお勧めですわ」
そう言われて、みなもは白いお湯に手を伸ばす。手を伸ばしいれると、もう手が見えなくなるほど真っ白な湯。
「カルシウムに、ナトリウム。塩化物泉高張性ー弱アルカリ性温泉。ミネラルも豊富で疲労回復は元より、肌が美しくなると有名ですのよ」
「へえ、そうなんですか?」
みなもとて、勿論年頃の女性である。美肌と聞いて興味が沸かないはずも無い。
「じゃあ、早速‥‥」
軽くかけ湯をして、足をぴちゃ‥‥とお湯に沈めようとした時だ。
「お待ちなさい!」
「えっ?」
言霊の如き厳しい声に、みなもは足を止め、振り返った。そこには生まれたままの姿でどうどうと仁王立つある意味男らしいまでに男らしい、みそのの姿があった。
「その格好で入るおつもりですか?」
「その格好って、何か?」
前に垂らしたタオル。それ以外に何も身に纏ってはいないのに?
首を傾げたみなもにみそのは近づき、胸元を隠すタオルを取り上げぽいっ! と放った。
「お、お姉さま? 何を?」
顔を赤らめ胸元を隠すみなもの額をめっ、と注意するようにみそのは突いた。
「湯船の中にタオルを入れるなど言語道断。温泉のマナー違反ですわよ」
「あっ‥‥」
言われてみなもの顔は赤くなった。
半分は自分のマナー違反への反省。残り半分は‥羞恥心と呼ばれるものだ。
幸い今は、女湯にお客は自分と姉の二人だけ。
(「お湯に、入ってしまえば見えませんものね‥‥」)
胸元を押えながら、みなもはちゃぽんと静かに完全な素肌を湯に沈めた。
満足そうにみそのも白い身体を湯に隠す。
見た目より入ってみると湯はネットリとしていて身体に絡みつくような感じがする。
それでいてべたつかずさらさら、ぬるぬる。お湯の温度も低いせいかまるで人肌に抱きしめられているようだ‥‥。
「きゃっ!」
突然みなもは声を上げた。細い指がつつ、とみなも白い背中のラインをなぞる。突き抜けたもどかしい様な感覚を慌てて払って、みなもはキッ! と背後を見た。
「お姉さま!」
諌めるような口調だったが、みそのは気にする様子は無く平然としている。それどころか‥‥
「な、なんです。ちょ、ちょっとやめて。止めてください‥‥ン、キャハハ、く、くすぐったいです!」
触れていた指は一本だけから、二本、三本。やがて手のひらへ、そして両手へと変わってみなもの肩をゆっくりと、揉み解し始めた。
「ど、どうしたって言うんですか? お、お願い。は、放して‥‥」
抵抗は、声だけで、段々と甘やかなものへと変わっていく。身体全体を、最初の突き抜けるような感覚とは違う、柔らかな快感が支配していくのをみなもは感じていた。
「マッサージして差し上げますわ。血行が良くなって新陳代謝が活発になります。お肌もより一層、綺麗になりましてよ」
最初は、断ろうと思っていた。だが、今、みそのの顔に浮かんでいるのは心からの楽しげな笑顔。
みなもの身体に広がっていくのは柔らかな快感。
抵抗は、優しい指先と暖かな毛布よりも柔らかなお湯に、吸い込まれて、消えていく。
「‥‥ん‥‥あ‥‥あ‥‥っ‥‥‥‥」
カクン、首が前に微かに動き、そのまま岩風呂の端に突っ伏した。
どうやら、堕ち‥‥基、眠ってしまったようだ。
「疲れておいでですのね‥‥‥‥フフフ‥‥フフフフフ‥‥」
マッサージを続ける指と、その主は静かに震え‥‥そして‥‥眠る純白の白いうなじにそっと指と‥‥唇を這わせたのだった。
かすかな、身体を走る感覚で、目が覚めた。
「う‥‥ん。あ‥‥寝ちゃってたんでしょうか‥‥」
そうやら、そのようだ。風呂にやってきた時にはまだオレンジ色だった空気が、もう紫色になっている。
漆黒の闇に包まれるまで、もう少しだろう。
「頭が‥‥くらくら‥‥そろそろ出まし‥‥あれ?」
湯船に手をつけて立ち上がるつもりだったのに、動かない身体。みなもは驚いた。
足先、指先、身体の先まで‥‥動かない。
「ど、どうして‥‥?」
なんとか動く首をかすかに下に折って自分の身体を見る。
底には白褐色の泥に包まれた、まるで彫像のような自分の身体が‥‥。
「これは‥‥! お姉さま!!」
くすっ、甘い微笑みを浮かべた姉は丁度自分の正面、石風呂の縁に腰を下ろし、足だけ湯に付け手で髪を漉いていた。
その姿はまる人魚姫のよう。‥‥一瞬、見呆けた自分に気が付いたのだろう。
みそのは、ゆっくりと立ち上がり、湯の中を歩いて、自分の方へとやってきた。
「どう? 気持ちがいいでしょう? ここはね、泥湯でも有名なんですの。だから、泥パックをして差し上げましたのよ。カルシウムで身体を覆って美肌効果を高めて‥‥その泥を落としたら、きっとスベスベピカピカのお肌になりますわ」
抵抗できないみなもの顎を持ち上げて笑う様子は勿論それだけではない、と言っている。嬉しい、楽しいとみそのの目が言っている。
一年前の温泉でのことを思い出した。顔が恥ずかしさで上気する。
「あら、顔が赤いですわね。湯冷めしたら大変。そろそろ‥‥上がりましょうか?」
頬に軽くキスをすると石膏像状態のみなもを置いて、みそのは湯船から身体を上げた。スタスタと脱衣所へと向かう。
「お、お姉さま‥‥」
みなもは顔をさらに紅に染めた。それが、お湯に当たったせいでは決して無い事をみなもは、良く知っていた。
薄紅色の浴衣に着替えた二人には温泉旅館の名物の懐石料理が待っていた。
ここは、料理でも有名なのだと、みそのはみなもに微笑む。
「春の御膳でございます」
先付、前菜、椀、刺身‥‥。
「焼き物は鰆で、鍋は白魚‥‥旬の素材を生かした良い料理ですわね」
「ありがとうございます」
「本当に、美味しそうですね‥‥」
「お待ちなさい」
きゃら蕗ご飯に手を伸ばそうとした、みなもに小さく目配せをしてみそのはそれを制止した。
今度はさっきほど、厳しくは無い声だ。
「なんですか? お姉さま?」
「折角ですから、乾杯いたしましょう。ね?」
差し出された桃色のグラスには、月光色の雫が呼吸するように揺れている。
みなもはそれを手にとって、親指と、人差し指でそっと掲げる。
「何に、乾杯するんですか? みんなの健康と、幸せ?」
「そうですわね‥‥それと‥‥」
「それと?」
留まった言葉は、促す愛しい妹の瞳にさらりと流れ出した。
「この、一時に‥‥乾杯」
「‥‥乾杯」
二人きりの部屋での、二人きりの食事。
軽く立てたグラスの音も、楽しげな笑顔も、ふつふつと音を立てる鍋の音も、他に聞く者は今は、誰もいなかった。
たかだか、グラス一杯のワインで酔ったのかどうか解らないが、スースーと早々な寝息を立てる妹をみそのはそっと、布団へと運んだ。
腕に伝わるぬくもり、柔らかな感覚。無防備に閉じられた双眸。
布団に横たえ、掛け布団をそっとかけるとき、ふとみそのはその額に軽く口付けた。
そして、グラスとワインをテーブルに、みそのはそっと中庭に面した障子を開いた。
夜の石庭はまるで眠る海の底のようで、複雑な思いをそっとみそのに送る。
彼女がそこに、何を思ったのか。妹の寝顔に何を思ったのか。
見つめていたのは新月の星と、竹林のさざめきだけ。
知っているのは‥‥ただ、本人のみ‥‥。
「お姉さま!!」
翌朝、目が覚めて、開口一番にみなもが叫んだ言葉はそれだった。
自分の胸元に差し込まれた純白の手を、そっと外して下に降ろす。
確かに横並びに布団が二つ並んでいるのに、いつの間にかみそのが自分の布団の中にもぐりこんでいたようだ。
しかも、浴衣の前をはだけさせて‥‥。
「あら‥‥みなもさん。おはようございます‥‥」
寝惚けているのだろうか? ふにゃふにゃと、蕩けるような眼差しを向けるとみそのの目はまた閉じた。
小さくため息をついて、みなもはみそのの浴衣の襟をそっと戻して微笑む。
「もう! お姉さまったら‥‥」
時々、困りすぎるほど困るあからさまなまでの姉の愛。
だが‥‥布団を掛けなおしながらみなもは思う。
(「ほんの少し、嬉しいですね」)
もちろん、これは起きている時には決して口に出すことは出来ない言葉だけれども‥‥。
二人は店の売店に足を止めた。
家で待つ、家族の為のお土産探し。
「これなんか、お母さんにどうでしょうか?」
真鍮細工のバラのブローチをみなもは手に取った。
「お父様には‥‥これ。あ、こっちもいいですわね」
父用の陶器のビールジョッキ、妹用の手作りの人形。温泉饅頭。陶器の置物。キーホルダー。ペナント(?)
何時の間にやら山のようになったお土産が、籠に積み重なった。
「喜んで、くれるでしょうか?」
会計を済ませ、チェックアウトを済ませ、来た時よりも遥かに大きな荷物を下げてみなもは呟く。
「勿論ですわ」
自信満々に、みそのは頷いた。どこからその根拠が生まれるのか、解らないほどに‥‥。
歩き出す二人の顔に、爽やかに吹き付ける春の風。
柔らかい温もりは温泉のお湯のように二人を抱きしめて去っていく。
「楽しかったですわね」
みそのはみなもに振り向いた。
「ええ、楽しかったです」
みなもは頷いた。
「今度は、皆と来ましょう。ね・お姉さま?」
クスクスクス‥‥その返事は笑い声と共に風に溶けた。
優しい春の日差しの中、二人の少女の微笑みは花のように小さな温泉郷に響いて、消えていった。
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