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hide and hide and hide.
「ああッ、もう!!」
黒鳳が歯軋りして自分の髪を両手でガシガシと引っ掻く。長く赤い髪が指に絡まり解けなくなる、まるで今の自分みたいに思えて癇癪を起こした黒鳳は、力任せに絡まった髪を引き千切り、指に巻きついたままの自分の髪を握り締めた。
「ったく、あの小娘…どこに行ったんだ!?」
苛立ち紛れに叫んでも、誰も答えてはくれない。そりゃそうだ。今、【酔天】の中には、黒鳳とひふみの二人しか居ない筈なのだから。
……多分。
数日前だったか、数週間前だったか、黒鳳が今の根城としている店に、またひとり住人が増えた。
それ自体はよくある話だ。主の気紛れか或いは明らかな策略・謀略により、【酔天】には良く人が増える。だが、それと同じぐらいの頻度で人も減るから、結果的に人数的には然程の変化はない。黒鳳もそれを分かっていて、主が誰を連れてこようがお構い無しだった。…今までは。
が、たまにそれとは明らかに違う人種が紛れ込んでくる事がある。勿論、主の許可なくしてこの店に居付く事など出来はしないのだから、その人物は主がどこかから連れてきた者には違いない。だが、黒鳳の心情としてはまさに『紛れ込んできた』と言うべきものなのだ。主の秘書と言う自負のある黒鳳としては、余り得体の知れない者を引き込んで貰っては、警護もし難くなる、と言うのが大義名分。主に至上の恩義を抱き、唯一と慕う黒鳳としては、主の興味がこれ以上自分以外の何かに分散されるのが許せない、と言うのが本音だった。
ある日、店に出た時、明らかに他の者とは異質の存在が居た。カウンター席にひっそりと座った華奢な姿、どこか浮世離れはしているが、それでも見た目は極々普通の若い少女である。勿論、そんな少女が、一人で酒を嗜みに来る訳などない。しかも、黒鳳の喧嘩相手?でもあるこの店のバーテンダーを保護者と慕っている所を見ると、明らかに主が連れてきた者なのだろう。だが、それで素直に納得できる黒鳳ではない。相手は女だ。しかも若い。そして何より…少女と己には似通った部分がある。…ような気がする。
となれば当然、何かにつけて張り合いたくなるのが、黒鳳の性分と言うものだ。
酔天の店内はシーンと静まり返っている。尤も、開店までにはまだ程遠いこの時間帯では、それも当たり前と言うもの。それにも増して、今日は午前中から主は居ないし、他の従業員も買い出しやら主に言われての役所詣でやらで出払ってしまっていた。昼近く、欠伸交じりに黒鳳が二階から降りてくると、そこに居たのはひふみただ一人だったのだ。
一通り店内を見渡してみたが、人一人が隠れられるような場所はもう他にはない。念の為、と黒鳳は床に四つんばいになり、視線を低くして捜索を始めた。カウンターの足元やテーブルの下、普段は見る事などない場所を、滅多に見ない角度から見詰めていく。這って歩きながら、黒鳳は酔天の店内を、またも隈なく捜した。のだが。
「…どう言う事だ……?」
さすがの黒鳳も眉を潜めて不審げな表情を浮かべる。これ程までに捜しても見つける事が出来ないなど、常識ではあり得ない。ひふみが豆粒ほどの大きさならともかく、華奢とはいえ、標準並みの身長はある人間の少女である。まさか、こんなところに、と首を傾げつつ、黒鳳はカウンター内側の引き出しを開けた。中には、フォークやスプーンなどのカトラリーが入っているだけで、当然の事ながら、ひふみはそこには居なかった。
「…まさか、店の外に……?」
起き上がった黒鳳が腕を組んで胸を反らせ、うーんと唸る。その足元、さっき黒鳳が開けた引き出しのある棚に寄り添うようにして、ひふみが身を縮み込ませていた。
『…こ、怖いです……』
小動物のようにふるふる身震いしながら、しゃがみ込んだひふみは棚と一体化している。そんなひふみには全く気付かず、そのすぐ横を、荒々しい靴音と共に黒鳳が横切っていった。その風圧で、切り揃えた前髪を揺らされ、危うくひふみはヒッと悲鳴を上げるところだった。
朝、目覚めたひふみが身支度をして店へと降りていこうとした時、階下からは人の気配がしなかった。確かに、開店前の店内はいつも静まり返っていて、ある意味、ひふみにとっては居心地のいい空間なのだが、今日はそれにも増してその気配がない。いつもなら、もう少しは人のざわめきがあるものだが。首を傾げながらひふみが店へと降りていくと、そこには文字通り、誰も居なかったのだ。
「………」
右、左、そしてまた右、と横断歩道の前での模範的な安全確認のように、ひふみが真面目腐った顔で周りを見渡す。やはり誰も居ない。みんなお出掛けなのですね、と半分寂しく半分ほっとしてひふみは息を吐いた。
人と人の隙間で、まるで人よりも少ない呼吸数で生きてきたかのよう、ひふみの存在感は余りに希薄であったが、本人はあまり気にした事もない。寧ろ、そうしてひっそりと生きていられる方が彼女にとっては居心地が良かったのだ。だから、夜には賑わいを見せるこの店が、まるで違う顔を見せるこのひとときがひふみのお気に入りの時間帯でもあった。
さて、とひふみが一歩足を踏み出す。その時、二階で何か物音がしたような気がした。
「………」
ひふみは、踏み出し掛けた足はそのままで、天井を見上げて硬直している。勿論、ひふみに透視能力などはないので、そうしていても二階の様子が見られる訳ではない。だが、そうしているうちに、ひふみにある記憶が戻って来た。ひふみがここに連れて来られた時には既に居た人。同じ女性なのに、その粗暴な言葉遣いや行動が怖くて、まともに顔も見た事のない人。赤くて長い髪、一瞬だけ見た事のある、同じく赤い瞳。何故か私をいつも怖い目で睨んでいる、あの人…
確か、黒鳳さんが、…部屋に居た…んじゃないでしょうか……?
そう思った途端、ひふみは足元から凍り付いていくような気がした。あの人と、この店に2人きり。別に獲って食われる訳ではないとは思うものの、ずっと二人きりかと思うと、いっそ捕らえて食らってくださいと自分を差し出したくなってきそうで。どうしよう、どうしようと一人静かにひふみは動揺する、隠れようとでも思ったか、何故かカウンターの内側に入っていくと、流し台の上に見た事のある文字で何か書かれた紙を見つけた。
それは、新聞の折込チラシらしい。裏の白い部分いっぱいに豪快な文字で書かれていたのは
【昼は適当に食っとけ】
「…………」
これは一体どう言う意味でしょうか…?ひふみが首を傾げているところへ、朝寝坊した黒鳳が階下に降りてきたのだ。
「……誰も居ないのか?」
如何にも不機嫌そうな黒鳳の声。この時点では、黒鳳の不機嫌はただ単に寝起きだったからだが、その声に過剰に怯えたひふみが、思わず一歩後退りをする。その肘が置いてあった空の酒瓶を押し、ガタンと大きな音を立ててそれは横倒しになった。
「……ん?」
黒鳳が音に釣られて視線をそちらに向ける。その途端、眉を顰めて苛立った風な表情が浮かんだ。そこに居たのは勿論ひふみ、いつ見てもおどおどと怯えた風で、そんな奴がどうして主の眼鏡に適ったのか、黒鳳には未だに信じられないであった。
「………」
「………」
暫し無言で見詰め合う二人。とは言え、片一方は苛立ちを隠し切れない厳しい表情、もう片方は怯えきって声も出ない様子ではあったが。やがて、フンと鼻を鳴らして黒鳳がそっぽを向き、この険悪な雰囲気のニラメッコは一応終わりを見た。
「…なんだ、誰も居ないのか。…昼はどうするんだ」
静まり返った店内の、食べ物の気配のしない様子に憤慨したよう、黒鳳の刺々しい声が響く。それは決してひふみに対しての言葉ではなかったが、当然と言うべきか、ひふみは飛び上がらんばかりにびっくりして怯え、びくびくと手にしていた紙で自分の顔半分を隠す。ふと、そこに書かれたメッセージを思い出し、暫し無言で思案した後、黒鳳に伝えるべきだと言う結論に達した。
が。
…どうやって伝えたらいいのでしょうか。
この紙を差し出し、こんなのが置いてありました。と言えばいい。それだけの事だと、ひふみも分かってはいる。分かっているが、分かっているからと言ってそれが即座に出来るようなら、彼女もこんな苦労はしてないだろう。元より激しい人見知りをするたちのうえ、今の黒鳳は(今の、でなくとも黒鳳相手ならいつもそうだが)不機嫌丸出しでその気迫に押されてひふみなどミクロン単位で真っ平らに熨されそうだ。何か食うもの、とそこらじゅうの棚を漁っている様子はまさに飢えた野獣状態で、不用意に声を掛けようものなら即座に狩られて、頭からばりばり食われてしまいそうだ。くそッ!と黒鳳が腹立ち紛れに椅子の脚を蹴る。ひふみは両手で両の頬を抑え、溢れそうになる涙を堪えるのに必死だった。
そうして、暫しの時が過ぎ。空腹が堪えるようになったのか、黒鳳はテーブル席の一つに腰を下ろし、ぐったりと突っ伏している。ひふみは相変わらずカウンターの内側に居たのだが、やっぱり例の書置きを手にしたまま、ずっと棒のように立ち尽くしていた。
改めて、手にした書き置きを見る。握り緊めていた所為でそれはくしゃくしゃになってしまっていたが、判別できない程ではない。黒鳳の傍まで行き、勇気を出してこれを差し出す。たったこれだけの事ですよね…と己に言い聞かせてひふみがようやく一歩を踏み出すと、
「何故今まで黙ってた!」
不意に黒鳳の怒声が響き、ひーっ!とひふみはしゃがみ込んで頭を抱えた。
実際には、黒鳳は変わらずテーブルに突っ伏しており、さっきの怒鳴り声はひふみの幻想だったのだが、今更言えば、さっきのように怒鳴られる事は必須だ。だが、無言で突っ伏している黒鳳からは、相変らず不機嫌のオーラが放たれており、それは時間が経つごとに濃くなっていくようだ。このままの状態で、誰かが戻るまで待ってもいいが、その前にひふみの神経が焼き切れるだろう。意を決し、ひふみが胸の前で両手を握り締めながら、か細い声を出した。
「あ、あの……」
「………」
黒鳳が、無言で顔だけ上げる。赤い瞳は半分眇められ、目だけで威圧しながら何の用だとひふみに尋ね返した。
「え、ええと…その……な、何か作りましょうか……?」
「………」
ここで、子供を?とかツッコミ返せるような甲斐性が黒鳳にある訳はなく。
「毒でも盛る気か」
「そ、そんな、めめ、滅相もありませんッ!」
ぶんぶんと激しく首を振って必死に否定するひふみを、黒鳳は初めて見るような目で見詰めている。実際、ひふみがそんな激しい動きをするのは、ここに来て以来初めてだったのだが。
「…まぁいい。だがな、食えない物を作った時には只では済まさないぞ」
「………」
余りの恐ろしさに、ふー…とひふみの意識が遠退き掛ける。が、ここで気絶しては今度は足からムシャムシャ食べられてしまうわ、と何とか足を踏ん張って思い留まる。頷き、そのまま厨房へと消えていった。
そして数十分後。
黒鳳はいつの間にやら、テーブルからカウンター席へと移動してきている。厨房の方から流れてくる、いい匂いについ惹かれてだ。何を作っているのかは分からないが、ひふみが厨房に消えて暫くしてから、何かを炒める香ばしい匂いと音がしてきたのだ。それは、例え腹が減っていなくとも、ついごくりと生唾を飲み込んでしまいたくなるぐらい、食欲をそそる匂いで、ましてや空腹で不機嫌極まりない黒鳳にとっては、待ち遠しいばかりの匂いだったのだ。
がちゃがちゃ言っていた物音も止み、厨房からひふみがひょこりと顔を出す。黒鳳がカウンターの向こう側から凝視(今はもうひふみを睨んではいなかったのだが、逆に料理を待ち侘びる余り、先程よりも熱の篭った視線であった事は確かだった)している黒鳳に気付き、またヒッと悲鳴を上げかける。遠退いていく意識を必死で引き止め、黒鳳の前にこんもりと炒飯を持った皿を恐る恐る差し出した。
「………」
「………」
どうぞ召し上がれ、とかお粗末ですが、とか、そんな気の効いた台詞がひふみに言える筈もなく。ただ、恐る恐る差し出す蓮華が、食べてくださいとの必死の意思表示だった。それを受け取り、黒鳳は美味しそうな湯気の立つそれを掬い、口へと運ぶ。好い加減の塩加減、ぱらぱらとほぐれて落ちる絶妙な炒め具合、それは、空腹時でなくとも確実に美味いと思える類の料理だった。
ここで、今までのかっとうを全部振り切って『美味い』と言えたのなら、それは黒鳳の偽者だろう。
本物は本物らしく、美味いとの言葉は全部炒飯と一緒に噛み砕いて飲み込み、ただ一言、「まぁまぁだな」とだけ……
「……あれ?」
黒鳳が辺りを見渡す。さっきまでそこに居た筈のひふみの姿がない。ぐるっと回って厨房の中を覗き込んでみたが、そこにもやはり姿はなかった。
「…まさか、誰かに拉致…な訳ないか」
ひふみが攫われたとしても、誰が困る訳でなし。尤も、例え本当に誰も困らなくとも、主の懐にある者を攫っていこうなど、そんな無謀な度胸を持った奴がこの街にいるとは到底思えない。だが、ひふみがいない事は事実だ。この辺りは、店の中にいればまだしも、一歩外に出て裏路地にでも迷い込めば、事情の知らない奴なら身包み剥がされて当然、と言う治安の悪さだ。ひふみなど、カモにしてくださいと言わんばかりの様相だし、なんと言ってもまだ十代の少女だ。最悪な事に巻き込まれる可能性だってある。
「……ったく、…手間掛けさせやがって……!」
そうして、黒鳳のひふみ大捜索が始まり、先の店内探索に至るのであった。
そして、どれだけの時が経っただろうか。黒鳳は、半ば呆然として、店の真ん中で床の上に座り込んでいた。
そろそろ誰か戻ってくるだろう時刻な筈なのに、未だに誰も帰って来ない。まるで、皆が示し合わせてひふみと黒鳳を二人きりにさせたようにも思える程だが、実際のところは単なる偶然の一致で皆がそれぞれの事情で帰宅が遅くなっているだけだった。いつもなら帰りが遅いと文句垂れまくるのだが、今回に限っては黒鳳はその偶然に感謝している。自分しかいない時にひふみが行方不明になった等、他の者に知られたら何を言われる事か。まして、ひふみは主が連れてきた少女。何か遭っては恩人に対し申し訳が立たない。何としてでも、見つけなければ。
「…まさか、外に……?」
黒鳳は眉を潜め、店の扉を開く。誰かがここを開けて出入りしたのなら、黒鳳なら気付く筈。だが、あれだけ念入りに店内を捜してもいなかったと言う事は、後は外に出て行ったとしか考えられない。
黒鳳は、呪蛾を呼び出すと、指先から空へと飛ばしてひふみの行方を捜させる。赤と黒の毒々しい色合いの蛾は、ひらりひらりと夕暮れの空へと舞い上がり、やがてどこかへ消えていった。
が。
「ったく、あの小娘…まじでどこに行ったんだー!?」
黒鳳が叫んだ言葉は、当初と何ら変わりがなかった。黒鳳は、疲れ果てて飛ぶ事も儘ならなくなった呪蛾を肩に乗せ、ビルの屋上でまた髪を掻き毟り、空に向かって吼えた。
その頃、当のひふみはどうしていたのかと言うと。
当然、店の外に出た訳でもなく、黒鳳の目を掻い潜って逃げ回っていた訳でもなく。
最初に隠れた、棚の影でただただ、じっとしていただけなのであった。
これはもう、特技と言うより、異能の部類に入る才能であった。
『…へ、黒鳳さん……こ、怖いです〜〜………(涙)』
おわり。
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