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非科学事件 ♯5
3時近くまでゴーストネットOFFの定期チャット会でおしゃべりをしてから、冴波はベッドに入った。
明日は休日だ。でなくば、こんな遅くまでパソコンに向かっていない。しかし、もう少し、顔も見えない知人たちと話をしていたかった気もする。ゴーストネットOFFの常連たちは、みな、『濃い』のだ。話していればいつの間にか時間が経っている。
さすがに明け方まで、お開きの音頭を聞くまで、冴波は付き合うつもりはなかったし、自制心もあった。まだまだ語ろうという知人たちの息継ぎの合間を見出し、冴波はチャットルームを離れたのだ。
しかし、夢を見た。
三雲冴波はよく見る夢の中で、風に乗り、東京の空を飛んでいた。
みどりの風が背中を押し、体内のなにものかが楽しげに笑っている。
これが夢であるということを認識できずに、冴波はひとつの明かりを目指していた。
風が導いていたのだ。
寝静まった商店街の中の、ぼんやりとにじむ灯。
古びた雑居ビル。
看板も掲げていない、何かの事務所だ。
白髪の男がひとり居て、古いパソコンの前を離れ、窓を開けた。
「おや、今夜は、遅くまでご苦労だったな」
彼は窓の外の冴波を見て、そう言った。
翌日――とは言っても、ベッドに入った時点で日付は変わっていたのだが――昼近くに目覚めた冴波は、手早く化粧を済ませ、動きやすい服を着て、独り暮らしのアパートを出た。
とくに予定はなかった。しかし、眠りについたのは遅かったというのに、気分は奇妙なほど晴れ晴れとしていて、外に出かけない理由もないように思えたのだ。
草間興信所やアトラス編集部に行って、今日の予定をつくるのも悪くない。または、ゴーストネットOFFの管理人が出入りしているネットカフェに行こうか。人と仲良くするのは少々苦手だが、怪奇事件で困っている人の力になるというのは気分が良いものであったし、怪奇との遭遇はなかなか面白いものだった。
「……あれ?」
だが、
冴波がいま、居るところは?
見知らぬ――いや、見たことがあるような気がする――商店街だ。一度も来たことがない――いや、一度だけ来たことがある――商店街ではないか。興信所、編集所、ネットカフェのいずれもこの近場ではない。
見上げると古びた雑居ビルが寂しげにたたずみ、冴波を手招きしているようであった。
さすがに戸惑う冴波だったが、結局彼女はビルの中に足を踏み入れていた。1階フロアには何のテナントも入っていなかった――冴波は、2階へのぼった。
「あっ!」
2階フロアへの入口に、初めて看板らしきものが現れた。
『帝都非科学研究所』、とのこと。
そのあやしげな看板よりも、冴波が目を奪われたのは、中にいた男の姿だった。
ウィッグのように白い髪、黒縁眼鏡、50代と思しき年の頃、黒スーツに包んだすらりとした長躯――名前も知らない男であるのに、冴波は彼を知っていたような気がしたのだ。
「……何か?」
ティーカップを手にした男は、きょとんとした面持ちでそう言った。
「……私と会ったこと、ある?」
「これが初めてだな」
「……そう。失礼したわ」
「ああ、待ってくれ」
立ち去ろうとした冴波を、男は落ち着いた語調で呼び止めた。
「ここに偶然迷いこんでくる人間はいないと言っていい。何か縁があるはずだ」
「そう?」
「帝都非科学研究所……の名前は、知らないか」
「初めて知った」
「ゴーストネットOFFは?」
「!」
振り返って男の目をまじまじと見つめる冴波に、彼は、ゆっくりと微笑んだ。
「やはりそうか。私はザ・タワーだよ」
「同時に、物見鷲悟でもある」
紅茶を飲んで話をしているうちに、冴波は何度も前髪をかき上げた。しかし冴波以上に前髪が鬱陶しいであろう物見は、一度も髪を払ったりはしなかった。
冴波のハンドルネームを、物見はしっかり記憶しているようだった。それもそのはず、昨晩の定例会にはザ・タワーも居たのである。
「昨夜の話しぶりからみて、きみも瀬名君や草間君の手伝いをしたことがあるようだが」
「まあね。オカルトが……非科学的な事件が好きなのよ」
髪をかき上げて、冴波は苦笑した。それを受けて、物見がふむと軽く頷き、手元の書類を冴波に渡してきた。
「ちょうど今私が興味を持っている事件がある」
「これ?」
「報酬は出せないのだが、よければ調査について来てもらえないだろうか」
「ふうん」
冴波は書類の内容を斜め読みして、何度か頷いた。
「いいよ。予定ないんだし、いつも好きでやってることだから」
「私と同じだな。……有り難う。よろしく頼む」
ふたりは紅茶を飲み干すと、大した準備もすることなく、研究所らしくない研究所を出たのだった。
それは東京のみならず世界中で毎日起きている行方不明事件のひとつ。
いまこうしてふたりが電車に揺られている間にも、どこかで誰かがさらわれ、殺され、埋められている。
ただ物見と冴波が興味を引かれたのは、この事件が間違いなく『奇妙』であるからだ。
マンションの一室から、主婦がひとり消えてしまった。
見晴らしのいい16階の部屋だ。夫が仕事から帰ってきたときには、玄関ドアに鍵がかかっていた――が、部屋の中には風が吹きこんでいた。窓が、開いていたのである。そして、彼の妻の姿はなかった。居間には、きちんとたたまれた洗濯物が置かれていた。シンクはきれいに磨かれていて、食器は片付けてあった。夕食は用意されておらず、明かりもついておらず、テレビも沈黙したままだったのだ。
「買い出しに出かけたんじゃないの?」
「それはない」
「どうして」
「消えた彼女は、パニック症候群の治療中だった。2年前から1歩も家の外に出ていない――出ることが出来ない状態だったのだよ」
「今で言う『引き篭もり』?」
「そうだな。理解ある夫だったようだ。治療に協力的だったらしい」
「窓が開いてたんでしょ。ひょっとして……」
「窓の下は芝生が植わった中庭だが、彼女の姿はなかった」
外界を恐れた女性が忽然と消えた。家の中には争った形跡も残されていない。
しかし、奇妙な点はそれだけで終わらなかった。主婦が失踪したのは1週間前。……それから毎日、夫が帰宅する頃には、食卓のうえに野菜や果物、何故か猫や鼠の屍骸が置かれているのだった。閉めきっていた窓は、破られていた。
そして、やはり、誰もいないのである。
「さすがに屍骸には参ったようだな。夫は昨日部屋を出て、両親のところに行ったようだ」
「食べ物置いてくなんて……そんな童話、あったわね」
「かの狐は誤解されて殺された。……あまり楽しくない結末だ」
「部屋の中、入れるの?」
冴波の問いに、物見は鍵で答えた。
何かをどうにかして合鍵を手に入れたのだろう。冴波はその方法までは聞かなかった。
高層マンションの16階は、柵だらけのバルコニーからの見晴らしもいい。
風が通り抜けていく。
灰色だが、ベッドタウンを統べる安らぎの風にはちがいない。暖かな春の風でもある。冴波は身震いした。東京の風でも、時折気分が高揚することがある。
物見が問題の部屋の鍵を開けた。
中は、持ち主がほとんど着の身着のままで出て行った様相をかもし出していた。部屋の中にも風がある。窓は直してもすぐに割られ、段ボールなりベニヤ板なりで仮に塞いでも、やはり毎日破られたという。
そして、テーブルの上には――
「昨日の分ね」
果物と野菜に囲まれた犬の頭と腿がある。血は乾ききっていた。白目を剥いて舌をだらりと垂らした犬は、毛並みのいいゴールデン・レトリーバーだ。どこかの家で飼われていたものに違いはあるまい。
「……旦那はいつも何時に帰ってきてた?」
「7時ごろだというな」
「お早い帰宅。……待ってみる?」
まるい、どこにでもある普通の壁掛け時計を見て、冴波は物見に確認した。物見の答えはわかっていたのだ。だから、『訊いた』のではない――けっして。
時計は午後5時を指していた。そろそろ、味噌汁とご飯の匂いが風に乗るだろう。
「物見さん、私ね」
「ん」
「しょっちゅう空を飛ぶ夢をみるの。高いところにのぼったら、空を飛びたくなるときもある。飛べる、なんて思うこともあるのよ。これってどういうことかな」
「ん……」
「16階の景色なんて見たら、きっと飛びたくなる。……ひょっとしたら、奥さんも……」
「しかし、人間は飛べない生き物だ。夜の夢や白昼夢で出来ないことを望むのは、現状に満足できていない証だというが」
「奥さんは、満足なんかしてなかったと思う。病気を治そうとしてたんでしょ」
「きみは?」
「私は……」
前髪をかき上げて、冴波はうつむき、苦笑した。
――その夢の中で、あんたを一度見たのかもしれない。
「世の中も風も私も、べつに嫌いじゃないのよ」
かちり、と時計が5時45分を指す。
ふわり、と風に豚肉が焼ける匂いが混じる。
そして、ふたりは目を見張った。
開きっぱなしの窓から、風が吹き込み――あまりにも巨大な蝶が飛び込んできたのである。蝶の大きさは、ほとんど人と同じくらいあった。その羽根が羽ばたけば、きらめく鱗粉が辺りに舞った。蝶の姿は風が吹くたびに揺らいだ。まるでまぼろしのようだ。東京の空を飛んでも、人はきっとこの蝶をまともに視認は出来まい。風が蝶の姿を覆い隠している――風が常に吹いているこの世の中では、この蝶は「見えぬもの」なのだ。
蝶はふわりふわりと食卓のうえを舞い、ぼとりぼとりと抱えていたものを落とした。
それは赤いウサギの屍骸、リンゴ、レタス。ウサギはきっと、白ウサギだったのだろう。
蝶はぱたぱたとダイニングを飛びまわった。飛ぶたびに風が生まれ、蝶の姿は揺らめいた。
息を呑んでその光景を見守っていた冴波が、ダイニングに飛びこんだ。
「……奥さん! 奥さんなんでしょ?!」
蝶がびくりと震えて、テーブルの上に降りた。
蝶は冴波を――人を恐れている。隠れていた物見もダイニングに入ってきた。蝶は、いろいろな食物が積まれたテーブルの上を後ずさりをした。
後ずさりが出来るのは、高等な脳を持った生物、哺乳類だけだという。昆虫に出来るはずがないのだ。この蝶は、けして、蝶ではない。蟲では、ない。
(あのひとはどこにいっちゃったの)
風に乗って、想いは冴波に届いた。
(ごはんをちゃんとよういしてるのに、あのひとはたべてくれてない)
(れいぞうこのなかがからっぽ、そとにいかなくちゃ)
(かいものにいかなくちゃ)
(でも……でも、こわいよ、こわいよ、こわいよ、あるくのこわいよ)
(みられてるよこわいよみんなみてるよ)
(でもいかなくちゃいかなくちゃ、あのひとすごくくいしんぼう)
(おにくがないと、あのひとふきげんになる。でもおにくだけたべちゃからだにわるいよ)
(ぜんぶもってこなくちゃ、ぜんぶ。おにくもやさいもくだものも)
(だからせめてせめて、せめて、)
「透明になって飛んでいってすぐに帰ってこられたらいいのに、って、思ったのね」
(こわいよ、あなただれ、あなただれ、あなただれ)
(にげなくちゃ……)
「……待って!」
蝶は慌てたように飛び立った。風が蟲の姿を覆い隠しはじめる。日が暮れてしまった空に、蝶は逃げようとしていた。冴波は慌てて身をひるがえす。傍観を決めこむ物見が、さっと身を引いて冴波に道を譲った。
「だめ! 行っちゃだめよ! 現実逃避よ、それは!」
冴波は胸の奥で何かが躍動するのを感じた。
それと同時に、風が止んだ。冴波の望むままに。
蝶を包んでいた風が剥がれていく。逃げ出していた現実がもどってきて、風にごまかされていた本当のものがあらわになった。
外に出ることが出来ないばかりに、肌がすっかり青白くなってしまった、エプロン姿の女性だ――。
「……なにも、焦ることなんかないじゃない。大丈夫よ。外なんかに飛んでいかなくたって、あんたの旦那はあんたが好きだし、ちょっと不便だけど、生きてはいけるんだから。外だけが、世界じゃないんだよ」
窓辺で座りこむ女性に、冴波は少しぎこちなく微笑みかけた。前髪は風がかき上げた。
「それに、もう、あんたは外に出られたじゃない」
物見がこっそり、ダイニングで犬の頭と赤ウサギをゴミ袋に突っ込んでいた。
「きみは風使いか何かかね」
駅までは、物見と一緒だった。冴波の自宅は物見の研究所とは逆方向にある。
帰り道に、物見は天気でも聞くような口振りで冴波に尋ねてきた。冴波は苦笑するしかなかった。
「よくわからない。ただ、風と気が合うだけだと思うけど」
「だが、人を救える力だな」
「……」
「なるほど、確かにきみが現状に不満を抱くこともない」
「……そう、幸せよ」
「またその力を貸してもらえるだろうか?」
物見はひどく静かに微笑んで、冴波に名刺を渡してきた。
名刺を受け取りながら、冴波は風と目配せをした。
<了>
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非科学事件調査協力者
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【4424/三雲・冴波/女/27/事務員】
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物見鷲悟より
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やあ、今夜の定例会には来るのかな? 三雲君。きみの活躍ぶりを皆に話して聞かせたいのだがね。……ともあれ、お見事だった。私はただ見守るだけしか能がない男だ、きみがいなければ蝶は蝶のままで、奥さんは戻らなかっただろう。事件の大団円を見届けるたびに、私はほっとする。
その後、夢見はどうだね?
まあ、空を飛ぶ夢はきみにとって不快なものではないのだろうが。
また夢の話でも聞かせてくれると嬉しい。
それでは、また。
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