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<東京怪談・PCゲームノベル>


非科学事件 ♯6


 星間信人の自宅は、一見何の変哲もない一軒家だった。星間信人その人と同じように、家までもが、巧みにその真の姿を隠しているのである。
 信人が司書としての仕事を終えて帰宅したとき、玄関に一通の封書が落ちていた。ドアに鍵はかかっていたし、ポストは外だ。信人は「おや」と眉を跳ね上げたあと、笑みを浮かべて封書を拾い上げた。
 毒々しい山吹色の封筒に、捻じ曲がった紋様の蝋の封印。
 オカルトの知識がない者でも(ともすれば知識がないからこそ)、この封書とそれを見る信人の笑みが『歪み』であることに気がつくだろう。
 この手紙は、何も知らない者が知ってはならない世界の『住人』から、同じ世界に息づく者に宛てられた、危険なものだ。その危険を、信人は祝福だととらえている。信人は微笑のままで、封書を開けた。




 さて、どうしたものか。
 得体の知れないアイテムを前にして、彼は眼鏡を直し、窓を閉めて、溜息をついた。
 東京の、知る人ぞ知るだけの小さな研究所がある――帝都非科学研究所だ。物見鷲悟は、その研究所の所長であり、唯一の所員であった。
 東京の薄闇を蹂躙する非科学事件(またの名を怪奇事件)を調査し、傍観し、記録に残すのが、彼の道楽であった。彼はある種の才能に恵まれていた。物事を見つめるためだけの力になら、彼はまったく不自由しなかった。ただ、非力で、問題を解決させるだけの働きは出来ない。彼はそれを嘆かない。そういう星のもとに生まれたということを、52歳になった今ではすっかり認めてしまっているからだ。
 今日の彼が見つめているのは、昨日研究所に届いた手紙と物体である。
 小包で届いたのだが、送り主はなんとすでに死亡していた。この荷物を物見に送り届けた直後に、おそらく不幸な事故に遭ったか、殺されたのである。遺体は警察ではなく、IO2という組織が回収した。人々が触れるべきではない非科学的な事象を韜晦し続けている組織だ。遺体の状態ははっきり見て取れるほど『異常』だったのだろう。

 『 あなたは決して死なないと聞いた
   だからこれはあなたが持っていてほしい
                            わたしは恐ろしい 』

 震える文字は好事家の最期の叫び声。
 物見は手紙をたたみ、まるで夕食の残り物のようにジッパーバッグに入れられたものを見つめた。彼の瞳は、オニキスを思わせる黒だ。瞳孔と虹彩の境目を見極めることも難しいほどの黒だ。
「私は不死身ではないのだよ……残念ながら……」
 そう、彼は52歳にふさわしい一見を持っている。彼はちゃんと歳を取っているのだ。死に向かって歩いているのである。

 物見を死へいざなおうとしているのは、ぼろぼろの布きれだった。
 黄のような、カーキのような、砂漠色のような――なめした人皮のようでもある。ジッパーバッグごしに見る限りでは、表面には何の紋様も文字も描かれていなかった。これが人の命を奪ったか。

 物見は臆することもなく、ジッパーバッグの口を開けた。開けた途端に、部屋の中を生温かい乾いた風が吹きぬけた。そして、ミイラが放っているような悪臭が物見の鼻をついたのだ。物見は無言で顔を上げる。
 窓が――開いている。
 不吉な風はここからやってきている。
 ――私は、窓を閉めたはずだ。
 一抹の不安を抱きながらも、物見は窓を閉め、ジッパーバッグからぼろを取り出した。平時から冷静な物見が、はっと息を呑んで、目を白銀に光らせ(そう、確かに光ったのだ!)、得体の知れない布から手を離す。黄の布は、デスクの上にぺたりと落ちた。
 落ちたあと、布はのたうちまわっていた。奇怪な声をも上げている。
 布を掴んだあとの自らの指を、物見は見つめた。彼の指には何の異状もない。
 ――これは、生きているのか。
 物見がじっと見つめる中、のたうつ布の動きは次第に大人しくなり、やがて単なるぼろに戻った。
 物見はうごめく布の中に景色を見た気がする。布があたかも銀幕であるかのように、もがく映像がそのうえに浮かび上がっていたのだ。

 それはどことも知れぬ星空。
 見知らぬ星の並び、星雲、衛星。
 確かにそこに見えたのだ!

 があん、と大音響が炸裂した。物見の身体にガラスの破片が衝突する。

 二度閉めた窓が、今度は割れたのだ。倒れこみながらも物見はすばやくデスクの上の謎めいた布を掴みとっていた。
 帝都非科学研究所に侵入してきたものは、人間でも物体でもなかった。蜂のような、鳥のような、乾いた死体のような――有翼の生物だ。長身な物見よりも上背があった。翼があるために、余計に大きく見えるのか。
 がちがちぎちぎちと顎を鳴らしつつ、かのものは何ごとかわめき続けている。やかましい怪異だ。声はそして、耳障りだった。そのうつろな目に物見の姿をとらえると、怪物は叫び声を上げて跳躍した。

 風に、笛の音がのっている。聞いたこともない、低い音色だ。

 しかし、物見の黒の瞳はまたしてもしろがね色に輝いた。
 怪物は見たか。
 割れたガラスを浴びても、自らの鉤爪の一撃を浴びても、蚯蚓腫れひとつ負っていない物見の姿を。
「これが目的なのか」
 物見は眉をひそめて、怪物の強靭な爪を素手で掴んだ。しかし彼の力は、52歳の男性にふさわしいものだった――怪物を投げとばすことも、押しのけることもできない。
「これは、何だ!」
 物見の問いに、化物は地球のものではないことばを返した。それが答えだったのか、単なる罵詈雑言であったのか、物見にはわからない。
 ともかく次の瞬間、物見は枕のように投げとばされていた。物見の身体は金属製の古い棚に叩きつけられた。が、壊れたのは棚のほうだった。

「これは、面白い。反能力……とも、言い難いものですねえ。様々な能力を目にしてきましたが、正真正銘の『アンブレイカブル』とは珍しい。お目にかかれて光栄です」

 風にのって、そんな、人を食ったような声が新たに現れた。
 物見は棚の残骸と資料の山からなんとか抜け出し、眼鏡をかけ直す。
 彼が見たのは、眼鏡をかけた、小柄な男だった。薄闇の中、男が着ている上着が、物見の目に一瞬山吹色をしているようにうつった。
 しかし、何のことはない――小柄な男は、ごく普通の、どこにでも売っていそうな、くすんだ色合いのジャンパーを着ていた。

 ぎぃっ、と怪物が甲高い叫び声を上げて、ガラスがなくなった窓から飛び立っていった。
「お怪我は……やはり、無いようですね」
「ああ。……きみは?」
「名乗れたものではありませんよ」
 男は喉の奥で笑うと、眼鏡を直し、床に落ちていた便箋を拾い上げた。小包に入っていたものだ。
「『あなたは決して死なないと聞いた。だからこれはあなたが持っていてほしい。わたしは恐ろしい』。何か、大変なものを押しつけられたようですね?」
「そうだな。驚いた。かなりの効き目だ」
「バクアクヘー、またはビヤーキーという言葉に聞き覚えは?」
 異様な言葉だ。物見はわずかに目を細めた。今は亡き知人に押しつけられた『大変なもの』は、物見のスーツのポケットの中だった。
「私はあまり聞く機会がない言葉だ。……アトラス編集部の応接室では、日常会話の中に含まれているのだろうがね」
「ふふ、その通り。アトラスにも行かれるのですか」
「この道楽にうつつを抜かしている以上、月刊アトラスの存在を無視することは出来ない」
「死ぬことはない傍観者、ですか。……実にうらやましい。人間でありながら星のものをも見ることが出来る。或いはその正気を保ったままに。まるであなたは神の目そのもののようです」
「私は死ぬことが出来る。私は神ではない」
 物見は男に向かって呟いた。
「私の知識はきみにも劣る。きみは私の名を知り、私はきみが誰であるのか見当もつかない」
「神にとって、人間ひとりひとりの名前など、些細な違いでしかないのですよ」
「……きみの目的は?」
「あなたに親切をはたらくことです」
「どういうことだね」
「なに、その――」
 男は何もかもを見透かしている、教師や親の視線と笑みで、物見のジャケットのポケットを指し示した。
「『大変なもの』を僕が引き取ろうというのです」
 物見は固唾を呑んで、厳しい顔をした。
 自分が持っているものが、このポケットの中でうごめき続けているものが、一体何であるのか見当もつかない。男が言うとおり、これは『大変なもの』だ。さきの怪物はビヤーキー、またはバイアクヘーにちがいない。物見には怪物の知識が多くあった――実際に見たのは初めてだったが、あの怪異は、ビヤーキーというものを描写した一文のとおりの姿を持っていた気がする。
 ビヤーキー……風の従者。
 この地球ではない、まったく別の次元の風を統べる神の下僕だ。
 その旧い神は、太古に罪を犯し、今は遠い銀河の果ての惑星に幽閉されているという。ハリという名の湖の中に囚われ、眠る神の名は――
「黄衣……」
 物見はポケットから取り出した布を見つめて、思わず後ろによろめいた。
「これがあの風の黄衣だというのか……」
「あなたには荷が重すぎるでしょう」
 小柄な男は微笑んで、一歩前に歩み出た。
 蛍光灯の明かりの中、物見はそこで、気がついてしまった。この謎めいた男は、自分が今手にしている黄の布きれと同じくらい危険な存在なのだということに。
 彼の表情は、どこか不自然な笑みのまま。
 風船に貼りつけられた面のよう。
 彼は笑ってはいないのだ。
 笑っている彼の心は、どこか遠くに行ってしまっている。風にのって宇宙を旅しているのだ。この男は狂っている!
「それは聖衣であり、主の血肉そのものでもあるのです。さあ!」
「……これはきみに渡せない。私が見るべき世界が滅んでしまう気がする」
「傍観者が、真理に干渉するというのですか!」
「ふりかかる火の粉を払ってはならないのか。たとえその火の粉が私を焼くことはなくても、おそらく私をのぞいたすべてのものが燃え尽きてしまう。すべてが失われた世界では、私は何も見ることが出来ない。私が見るのをやめるのは、私が死ぬまさにそのときだ!」
 物見が抵抗らしい抵抗をしたのは、それが初めてだったかもしれない。
 彼は決して、殺されることはない。だからこそ、彼はいつでも慌てることはないし、恐れることもなかった。だが今このときは、目の前の眼鏡をかけた男を心底恐れた。死と狂気の恐怖を感じた。傍観者はそのとき、ただの人間となった。
 ――ところできみは、なぜ私のことを知っているのだ。

 広くはない研究所の中を、物見は走る。
 その背を、男が吹いた奇怪な笛の音が――ああ、これは、先ほど聞いた音色ではないか――追った。
 ばばばばば、と翼が空気を打つ音がした。破れた窓から、1匹といわず、5匹も6匹も、有翼の使者たちが研究所内に飛びこんできたのだ。
「どちらへ逃げるというのです!」
 風の従者たちのやかましいわめき声の合間を縫って、名もなき男のするどい質問が、物見のうなじに突き刺さった。
 そうとも、どこへ逃げ、どこへ布きれを持っていこうというのだ。
 打つ手はない、
 どうしようもない、
 それこそ取りつく島もない!

 ――私は傍観に徹せよと! そういうのか! きみは! きみたちは!

 翼持つものどもは、物見の背中に飛びつき、腕に組みつき、げらげらと嘲笑った。あの男が近づいてくる。ああ、笑みを浮かべながら。
「やめてくれ」
 痛みも圧迫感も、物見が感じることはないのだが――彼は苦鳴じみた声を上げた。
「あの風を目覚めさせないでくれ。人類と地球と宇宙が滅びて消えるまで、あの神を眠らせておけ」
「これはまた、面白いことを仰る」
 身動きが取れない物見の手から、容易く男は黄衣を奪い取った。その手には、白い手袋がはまっていた。
 何ということだ、恐るべきものは恐るべきものの手に。
 ともすれば、あの手中こそが、あのぼろの在るべき場所なのかもしれない。

「主はすでにお目覚めですよ」

 ああ、と物見は溜息をついた。
 そうだとも。神の体のそばで大騒ぎをして、ましてやそれを奪い合い、神の眠りが醒めぬはずもないだろう。
 嗤う山吹の男の手の中で、神の衣は、風もないというのにぶうわりと広がった。神がその皮膚たる黄衣を広げたのだ。物見の視界が、黄のような、カーキのような、砂漠色のような色彩に染め上げられた。
 何もかもがさえぎられ、物見が見るべき世界には、何もなくなってしまった。




 星間信人は、聖衣を丁寧に山吹の封筒に詰める。そして、蝋で封印をした。




<了>


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                物見鷲悟の手記
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 某月某日

 私はこうして生きているが、どうにも、何も見えなくなってしまった気がしてならない。視界の何もかもが山吹色のヴェールに覆われている。風が窓から入ってくる。窓を修理しなくては。
 あの男をアトラス編集部で見かけた。誰かあの編集部で、彼と接触している者がいるかもしれない。彼はいったい何者だろうか。私にすら見えないものなのだろうか。

 窓を