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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


Title「One Another」


――ああ、帰ってきた。
沙霧はスッと目を細め、ドアのほうを見やる。

足音も殺さず、あまつさえ血臭さえ払うことなく戻ってきた姉の、あまりに無防備な帰還。死の気配が薄暗い影になって空気を流れてくるような、そんな錯覚を覚えて沙霧は顔をしかめた。

「ただいま」
階段の上がり口に姿を現した沙霧に気づき、久遠は微笑を浮かべて顔を上げる。見えていないはずのその目は、それでいて人の心まで見透かすような強い力を湛えているような気がして、沙霧のほうが視線を逸らした。
「殺したの?」
目を合わせぬまま、階下の姉に向かって低い声で問う。沙霧の声音がわずかに固く強張っていることに気づき、久遠はゆっくりと手にしていた鞘を壁際に置いた。
「憑きものを祓ってきただけよ」
「殺したのね」
いつもと変わらぬ穏やかな口調で答えた久遠に、逆に苛立ったように沙霧は声に棘を含ませる。姉の手指――チェンバロの鍵盤を繊細な動きで滑るように弾きこなし、美しい楽曲を奏でる彼女の白い指先には、今は色濃く滲んだ他人の血が爪の縁まで沁みていた。
「そういうの、私にやらせなさいよ。いつも言ってるでしょ」
「私の任務ですもの」
「我宝ヶ峰久遠はチェンバロ奏者でしょう。人殺しなんて似合わないわよ!」
「私の、任務よ。沙霧ちゃん」
ゆっくりと同じ言葉を繰り返し、久遠はたしなめるように沙霧を見つめる。穏やかではあるが、その言葉と表情には揺るがぬ威圧感と尊厳が潜んでいて、沙霧は小さく唇を噛みしめた。
「それに、妖魔に憑かれた者を成敗しただけ。人殺しなんてしていない」
「同じことでしょ」
「何を苛立ってるの」
静かに階段を上がりながら、久遠が宥めるような口調で問いかける。
他人に死を与えながら、それでいて煌々ときらめくような生命の息吹を発する存在――対極を成すものを備えた超然とした清らかさと、生死の矛盾を両存させる傲慢なまでの美しさ――姉の持つその眩さに、沙霧は目を細めて一歩退いた。
死滅、退廃、消失。自分を取り巻く摂理はすべて闇と無に向かっている。互いに近づけば相容れぬ光と闇が反発し、相手を穢してしまうような気がして、沙霧は姉を前にするといつも気後れし、己の闇を痛感した。
そして、光の中にあらねばならぬはずの姉が、"死"に関わるような任務をこなすことが嫌だった。そういうものを引き受けるためにこそ、闇の摂理を負う自分が存在しているはずなのに。
「久遠は綺麗なままでいたらいいのよ」
ぽつりと、呟くように言う。綺麗なまま、美しいまま、誰もが愛し誰もが慕う光の世界を象徴する存在であればいい。そう望まれて生まれてきたのに、
「なんでわざわざ、こっち側の領域に踏み込むの」
「沙霧ちゃん」
「その手は楽器を弾くためにあるのよ? どうして血で汚すようなことをするの」
そういうことは、してほしくない。

「優しいのね。沙霧ちゃんは」
「――優しくなんかないわ」
こっち側に、入ってこられるのが嫌なのよ。半ば吐き捨てるような声音になると、沙霧はすぐ目の前まで歩み寄ってきた久遠をきつく睨み返した。
綺麗なくせに。輝いてるくせに。
「綺麗? 私が?」
「そうよ。とっても綺麗。私とは違って」
「そうかしら」
やんわりとした声で受け止め、否定も肯定もせぬまま、久遠は静かな眼差しで沙霧を見つめ返す。相変わらず深く澄んだ双眸――沙霧の顔を映しこんだ瞳が、姿かたちではない、人の心を捉えている。
「私たちは似て非なるものだけれど、背負うものは同じでしょう」
片方が綺麗で片方が汚れているとか、一方が光でもう一方が闇というわけではない。

「生きるということは、死ぬことなのよ」
「どういう意味よ」
「本を読んでいる時、人は読み終わりたいわけじゃなくて純粋にお話を楽しんでいるわ。でも、先を知りたい、結末を知りたいと思って読めば読むほど、物語は終わりに近づいていく――それと同じ」
もっと生きたい、生きていたい。そう思って生きれば生きるほど、人は確実に死に近づいていく。そうでしょう。
「観念論ね」
「違うわ。客観論よ」
「でも、死にたいと思って死ぬ人間は少ないわ。死を司る私と、生を司るアナタとの決定的な違いはそこにある」
生きたいという願いを無視して、その人間から生命を毟り取る――それが私。根本的に存在理由が違っているのに、同じなはずないでしょ。
ふいに始まってしまった議論に、引くに引けないまま沙霧は言い返す。

違う、こんなことが言いたかったわけじゃない。
姉には、人を殺める刃ではなく、人を喜ばせ心豊かにする楽器を手にしていてほしい。それが自分の願いのはずなのに。
妬みや嫉みではなく、純粋に、綺麗なものは綺麗なまま、輝くものは輝くまま、それに相応しい世界にいてくれればいいと願っていたはずなのに――。

沙霧の内心にある葛藤は、いつだってうまく言葉にはならないのだ。
姉を大事に思う気持ち。姉を誇りに思う気持ち。それらを彼女に伝えようとすればするほど、自分を卑下する言葉にすり替わり、いつしか昏く深い嫉妬の炎が顔を出す。
「嫌なのよ。久遠がそうやって、私を変に気遣ったりするのが」
そういうの、強者のエゴだわ。言い放ちながら、それでも沙霧は前に踏み出せない。さらに近づき、自分に向かって手を伸ばす久遠の姿に、応じることもかわすこともできないまま、ただ必死になって叫んでいる。

好き、だけど嫌い。
大嫌い、でも誰よりも好き。

「死は、人を真に生かすためにある終着点だと思うの」
伸ばした手で、久遠は妹の髪にそっと触れた。細くて柔らかな、きっと美しい漆黒の艶を持っているのだろうと思う髪。さらさらと指先で穏やかに梳いて、沙霧に向かって微笑してみせる。
「死に直面した時、人は必死になって生きようとする。そういう瞬間の人の生き様は、とても美しいわ」
だから、ほんの一瞬だとしても、沙霧ちゃんは人を生かすために死をもたらす存在なのよ。
「――そんな、」
「だから同じだわ。生きる権利を与えることができる私と、生きる意味を与えることのできるアナタは、根っこの部分が一緒。そうでしょう、沙霧ちゃん」
だからアナタは穢れてなんかいない。
あるいは――アナタも私も、二人とも穢れている。

「違う。穢れてるのは私だけよ……」
「いいえ。事実、私は平気で人の命を奪うわ」
与えておいて容赦なく奪う――ある意味、沙霧ちゃんよりも残酷で汚いわ。
「さっき、人殺しなんかしてないって言ったじゃない」
「ええ、殺してはいない。命を返してもらっただけだもの」
やんわりとした穏やかな口調で、久遠は沙霧の言葉ひとつひとつを包むように受け止め、そして確実に否定していく。宥めているだけかもしれない、慰めに過ぎないのかもしれない――それでも、どうしてこの心はこんなにも安寧を求めてしまうのだろう。
伸ばされた白い両腕が、沙霧の肩を引き寄せる。
自分よりも華奢で小さな姉――それなのに、こんなにも強い引力を持っている。抗うことができないまま、沙霧は小さくうつむいた。

来ないで。来ないで来ないで。
来て、来ないで。来ないで来て、来て――誰よりも近くに来て。

「穢れるなら、どこまでも一緒に穢れてしまいましょう」
私たちは、世の中でたった二人だけの姉妹なんだから。

遠く呟くような久遠の言葉に、やるせない切なさと、深く捕われるような安堵を感じて、いつしか沙霧は目を閉じる。両腕に包まれ、抱きしめられると、ほんのりと甘く柔らかな香水の匂い、そして、命奪われた者の血の匂いとが、混じり合いながら沙霧の鼻腔をかすめるように漂った。

「姉さん」

久方ぶりに、彼女を"姉"と呼ぶ。
何? 静かに応じた久遠に、沙霧はおずおずと伸ばした手を彼女の背に回して抱き返しながら、やがてゆっくりと目を閉じた。
「私たち……二人じゃなくて、一人だったらよかったのにね」
ひとつになれたら、いいのにね。

何も言わず、無言のまま久遠の手が沙霧の背を穏やかに撫でた。
その感触にほだされるように、沙霧は小さな吐息をつく。
いったいいつまで、こうやって互いを許し合いながら生きていくのだろう。
寄り添えば寄り添うほど、お互いは別の存在なのだと気づきながらも、今こうして引き合うことのできる互いの体温に安堵する――それが、嬉しくて、そして悲しかった。

このまま、溶けてひとつになってしまいたい。