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<東京怪談ノベル(シングル)>


Title 桜染め

あ、今日もいる。

優名は、遠目に校庭を眺めた。
校庭の隅に植えられた桜の大樹。咲き誇る桜花の薄紅が、空に彩を添えている。
それを楽しみつつ眺める景色の中、ぽつりと佇む人影に気づいた。
何をするでもなく、ただじっと桜の木を見上げて立つ姿。
確か昨日も、同じ場所にいた。
「誰だろ」
大勢の生徒の中、知らない学生がいても不思議はなく、うち1人が2日間ずっと飽きもせず桜を眺めていたとして、それも殊更珍しいことではない。
それなのに、なぜか気になるのだ。

どこかおぼつかない、儚さのようなものを感じさせるあの背中が――…



「桜、好きなんですか」
思い切って尋ねてみると、彼はやや驚いたように振り向く。その胸のバッジで、同学年であることに気づいた。
「ごめんなさい、急に」
一昨日も昨日もここで桜を見ていたでしょう。そう言って、校舎の窓の1つを指差した。あそこからよく見えるんだ、ここ。
「見られてたんだ」
「なんだか気になって」
失礼だったらごめんなさい。小さく詫びると、彼は穏やかに笑んで、別に構わないと首を振った。
「桜が好きなんだ。特に、あの色が」
「色?」
「そう」
静かに頷いて、彼は再びゆっくりと顔を上げて桜と空とを仰ぎ見る。
けぶるように咲く桜の花が、風に乗って漂うように流れて落ちていく――その中に立ち、桜を見つめる眼差しは、美しく幻想的で、そしてどこか悲しかった。

バッジに記された苗字は、優名の記憶にはない。クラスは2つ隣であることがわかったが、そんな名前の生徒がいただろうか。
こんなに印象的な青年なら知っていてよさそうなのに――思案していた優名は、逆に声をかけられ、慌てて顔を上げた。

「桜染めって知ってるかい」

「……え?」
唐突な問いに、やや面食らう。
「布を染めたりする類のこと?」
「そう。草木染の一種で、生地を桜で染めることなんだけど、」
いったん言葉を区切り、青年は散り落ちてくる花弁をそっと1枚、手の平で受け止める。その肌は、桜より遥かに薄い色。
「その色、何から採ると思う?」
「花びらでしょう」
「いや、違う」
彼は手の平の花びらを再びふわりと風に運ばせた。宙に舞い上がり流れていく薄紅色の欠片を目で追うと、手を桜の幹に押し当てる。
「樹皮から採るんだよ」
「樹皮?」
「花が咲く前の時期、この木の皮から桜色の染料が採れる」
不思議だよね。こんなにごつごつしたものから、あんなに鮮やかで淡い色が出せるなんて。
「嘘……」
驚いて思わず桜の木を見つめた優名に、青年は柔らかな微笑を投げかけた。
「そのことを知ってから桜が好きになった。以前は、ただ咲いてあっけなく散るだけの花だと思ってたけど」
本当はそうじゃないって知って、見方が変わったんだ。

桜は、花がつく前から既に全身で咲いているんだ。
そう知ってから、愛しい花だと思うようになった。

彼の言葉に惹かれるように頷き、優名は桜の下に歩み寄る。樹皮に触れ、無骨でごつごつとした表面をすっと指先で撫でた。
直後、ちくりとした痛みを感じて、あっと声を上げて手を引っ込める。
「どうしたの」
「ううん、なんでもない。ちょっとひっかけちゃったみたい」
「見せて」
急いで近づいた青年が手を差し出すので、遠慮がちに右手を見せた。手の平の端に、薄っすらと血の滲む小さな傷痕。
「痛そうだ」
「大したことない。平気平気」
平気だと言っているのに彼は優名の手を掴んだまま離さず、ポケットからハンカチを取り出し、細く折り畳むと器用に右手をくるりと包むように巻いた。
「ばい菌が入るとよくないから」
「何だか申し訳ないことしちゃった。ごめんなさい」
小さく頭を下げると、彼は、別に大したことはしていない、と首を振る。
「ハンカチ、明日洗濯して返すね」
「明日? ……うん、わかった」
「じゃあ、そろそろ行くね」
素敵な話を聞かせてくれてありがとう。優名の言葉に、青年は静かに目を細めた。
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
風に揺れて流れる花弁が、包むように彼の周囲を舞う。穏やかな午後の斜陽に照らされ、青年の色白の肌や薄褐色の髪が透けるように輝いた。
それは、美しくて儚い、刹那の輝き。
そのまま、輪郭がぼやけて桜の花と共に消えてしまいそうな――。

「また、明日ね」
まるで消えてしまいそうな青年の佇まいになぜか不安を覚え、優名は今一度、次に会う約束をする。零れ落ちる陽光の中、彼は静かに頷いた。

小走りに校舎に戻りながら、途中、ふと振り向いた時、既に青年の姿は無かった。



翌日、彼は現れなかった。
昨日と同じ時間を過ぎても待ち続け、やがて優名は小さく溜息をつく。今日は来ないのだろうか。
「あ、そうか。教室に行けばいいんだ」
同じ学校なのだ、彼も授業に出ているはず。そんなことに気づかずにいた自分に、優名は苦笑した。


「え?」
2つ隣の教室を覗いた優名は、そのクラスの友人の言葉に我が耳を疑う。
「その子、去年の春からずっと入院してたんだけど、」
亡くなったんだって。昨日、病院で。

入院……亡くなった?

立ち尽くした優名に、友人は少し声を潜めて会話を続ける。
「難しい病気だったみたい。最後は起き上がることもできなくなって、ずっと病院のベッドで寝たきりだったんだって」
「だって昨日、あたし彼と会ったのに……」
「昨日? そんなわけないでしょ優名」
だいたい丸1年間、登校もしてないんだよ。同じクラスの私だって1度も見たことないんだし。


ぼんやり廊下を歩きながら、優名は昨日の青年の姿、そして友人に言われたことを思い返す。
どういうことだろう。昨日会ったのは彼の幽霊かしら? いや、そもそも昨日は少なくとも彼は生きていた。生きている人の幽霊なんて聞いたこともない。

――その時。


桜は、花がつく前から既に全身で咲いているんだ
そう知ってから、愛しい花だと思うようになった


彼の言葉が脳裏をよぎる。

あれは、自分のことを言っていたのだろうか。

彼は知っていたのではないか。もうすぐ命尽きることを。
だから最後に、通いたくとも通うことのできなかった学校で、大好きな桜を見に来た。
――魂だけになって。

病気で起き上がることもできない自分を嘆くより、彼は、花をつける前の桜の木に自身を重ね、精一杯、死の間際まで思いをこめて咲こうとしていたのかもしれない。

ただ散るだけではない、本当は花をつける前から全身全霊で美しく色づき咲こうとする桜。蕾のまま花開くことはなくとも、懸命に色づき、必死になって生きた自分――それを確かめたかったのではないか。



再び、桜の木の下へ向かった。
昨日と同じく、穏やかな春の陽光が美しい光彩を描いている。その中に佇んで桜を見つめている彼の姿が、おぼろげに思い浮かんだ。
「ハンカチ、返すね」
昨日はどうもありがとう。今はなき面影に微笑み、優名はそっとハンカチを取り出す。薄いブルーのハンカチは、彼が見上げていた青空のようだ。
ふわりと舞い落ちてきた花弁が1枚、袖に引っかかった。しばし見つめた後、優名はそれを静かにハンカチの間に挟む。

桜の根元の土を浅く掘り、そこにハンカチを埋めた。
これなら寂しくはないだろう。

目尻に滲んだ涙をそっと拭い、優名はゆっくりと立ち上がる。
相変わらず、桜は美しく色づいた花弁を惜しげもなく風に攫わせていた。
精一杯に咲いた。だからもう後悔はないのだと、散りゆく桜がそう言っているような気がする。

「よかったら、いつでも会いに来てね」
また、桜の話をしましょう。

微笑して見上げた先、陽光がきらきらと桜の木を縁取る。吹いてきた風に混じる柔らかな1枚の花弁が、まるで優名の頬を撫でるように肌の上をそっと滑ると、音もなく流れていった。