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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


君が笑ってくれるなら

【T】

 その日、九重蒼が実家に帰ったのは何も特別なことがあったからではない。家を出ているにしても時には顔を出してみるのもいいかもしれない、そんな些細な思いつきがきっかけだった。
 蒼の実家は都内の閑静な高級住宅街にある。周囲に建ち並ぶ家々を見比べては平均的な家であったが、比較する範囲を広げてみればそれが裕福さの象徴であるかのような広さと大きさを持ち合わせていることがわかる。そこかしこに余裕が感じられ、決して窮屈ではない十分な余裕が感じられる家。それが蒼が幼少の頃に引き取られ、育った実家である九重家であった。蒼がそこを出て独り別の暮らしを営むようになってからは、養父母と妹の結珠が生活をしている。他に手伝いとして通ってくる者がいるくらいで、三人で住まうには広すぎる家なのかもしれないと蒼は距離を置いて初めて自身の育った家の広さを自覚した。
 距離を置けば変化は明らかになる。当然のように周囲に置いていたものが、特別な意味や明らかな変化をまとってすぐ傍に戻ってくる。それは何も環境ばかりのことではなかった。玄関を潜り、久しぶりに見た妹の結珠はどこか不調が垣間見える面差しで蒼を出迎え、それでもそうした態度を隠そうと明るく、常と変わらぬ風を装って笑っていた。たとえ血が繋がっていなくとも蒼にとって結珠が大切な妹であることは確か。だから周囲に甘いと云われるほどに大切にしてきた妹のそうした変化を蒼が見落とすわけがなかった。自分の変化に気付かれまいと平素と変わらぬ姿を演じる結珠は痛々しいほど果敢なげに蒼の目には映り、落ち着く間もなく大丈夫かというその言葉を蒼に紡がせていた。
「大丈夫」
 その場での答えはなんとも簡素な一言でしかなかったが、それが明らかな虚勢であることが震える言葉の端からわかる。僅かな発端で脆くほどけてしまうのではないかと思わせる結珠の細い応えは蒼を不安にさせるには十分すぎるもので、何故今ここで虚勢を張らなければならないのかという疑問を生じさせた。だからといって強く追求することができるのかといったらそうではない。蒼が過剰な心配をすることで病弱に幼少の頃を過ごした結珠が今もまだ心配をかけているのかと心を重くするのではないかということを思えばできるわけがない。時間をかけて静かに問いを重ねよう。決して負担にはならないさりげなさで、静かに問いを重ねて、結珠が自ら話したくなった時に話してもらえたらいい。そう思って蒼はその場で問いを重ねることをやめた。

【U】

「最近、十字架の夢を見るの。よく覚えていないけど、何故だかそれが怖いの……」
 ぽつり呟くようにして結珠が云ったのは家族がそれぞれ夕食の席に着き始めた時刻。多くを語ることを拒んでその時刻を選んだのか、それとも話す決意を固めたのがたまたまその時間だったのかは定かではない。それでも結珠は何か不吉なことを口にするような重たい口調で向かいの席に腰を落ち着けた蒼にそうぽつりと告げたのだった。
 しかし蒼に応えられる多くの言葉があったのかといったらそうではなく、ただ心配ないとそう短く応えることしかできなかった。ただ結珠の口調の影響のみならず不吉な気配を消し去ることはできない。今日実家を訪れたのはもしかすると虫の知らせのようなものが働いた結果だったのかもしれない。そんな風に考えてしまうほどに、不吉だとは思いながらもこれから何かが起こるのではないかという予感は振り払うことができない。思えば思うだけそうしたものを呼んでしまうかもしれないと思いながらも、結珠の話した言葉やそれを音にした声が耳の奥に焼きついて離れなかった。
 ――最近、十字架の夢を見るの。よく覚えていないけど、何故だかそれが怖いの……。
 何度か胸の内で結珠の言葉を繰り返して蒼は今日は泊まっていこうと思った。泊まっていかなければならないと。もし本当に何かが起こるのだとしたら傍にいたほうがいい。できるだけ早く対処できるように。それは使命感のようなものによく似ていた。
 電話のベルが叫び声をあげたように響いたのはその時だ。最初の一音が鼓膜をつんざくようで、結珠の言葉がなければきっとそんな風に聞こえることはなかったと思えどもその音は常のそれとは明らかに違った響きをまとって室内に響き渡った。養母が軽い足取りで電話に近づき、受話器を取る。そんな何気ない動作にも蒼には何か不吉なものがつきまとっているような気がした。それは結珠も同じだったようで、受話器を取る背を見る目はどこか怯えたものだった。
 受話器の向こうで紡がれた言葉がなんであるのかはすぐには判然とはしない。それでも受話器に向かう養母の口調、向けられた背から感じられる雰囲気が決して穏やかな知らせではないことを蒼に教えた。
「事故が……」
 振り返り云った養母の言葉が室内の空気を凍てつかせる。そして刹那の間を置いて、養母はすぐに病院に向かわなければならないと呟くと早足にその場を離れた。その姿は明らかに取り乱したもので、結珠の隣で静かに新聞を広げていた養父も養母の後を追って席を離れる。
 そして響く鈍い、大きな音。蒼がはたとそちらに視線を向けると確かに目の前に腰を落ち着けていた結珠の姿がなかった。咄嗟に席を離れ、長い髪を床に広げて横たわる結珠に駆け寄ると触れたその躰は高い熱を帯びて、苦しげに零れる声は掠れていた。両の腕に抱えた華奢な躰はただ痛々しく、大丈夫かと問うことさえもできない。部屋に運ぼう。思い抱き上げると不意に結珠の唇から不明瞭ながらもかろうじて聞き取ることができる言葉が零れた。
「……蒼い…十字架が……」
 細く消える声を追いかけるようにして唇に耳を寄せても、言葉はそれ以上紡がれることはない。それでもつい先ほど結珠が云っていた十字架の夢を見るという言葉がひどく重たい意味を持って蒼の胸の内に腰を落ち着けるのがわかった。

【V】

 結珠を部屋に運び、落ち着くのを待つようにしばらく傍に付き添っていると出かける準備を整えた養父母が蒼を呼んだ。不安げな養母とは裏腹に養父は努めてそうしているのが明らかなほどにひどく落ち着いて、最近蒼い宝石で出来た十字架のネックレスを買ってから親戚宅では不幸続きだったのだと告げた。偶然だとは思うがひどくショックを受けていて、一時も家に置いておきたくないと云うので仕方なく預かっているのだとも。何故今ここで自分にそんなことを云うのかと思いながら、蒼はふと結珠の口から紡がれた十字架という言葉を思い出す。
「特に何があるわけでもないとは思うが……」
 云いながら養父は手にしていた十字架のネックレスを蒼の掌にのせた。
「用心するに越したことはないだろう」
 その言葉に養父が何を云わんとしていることがわかった。何もせずに置いておくよりも誰かの傍に置いておいたほうが安心だと思っているのだ。蒼の掌にのせられた銀と蒼色の宝石でできた十字架はとても奇麗なものであったが、奇麗だというそればかりではない冷たさをまとっていた。伝わってくるものは何もない。絶対的な沈黙だけが明らかで、本当にこんなものが人間に影響を与えることができるのだろうかと思わせる。呪いなどのようなものでもあるのか。否、そもそも呪いなどというものが存在するのかなど定かではない。確かにものが人に何がしかの影響を与えるような話を聞くことはあったが、そうしたものにどれだけの根拠があって確かなものかなど誰にもわからないことだ。
 出かけていく養父母に気をつけてと言葉を送って、蒼は結珠の部屋へと戻る。慎ましくありながらも女の子らしい愛らしさの香るその部屋にはまだどこか苦しげな呼吸の音だけが響いている。何が結珠にこんな苦しみを与えているというのだろうか。考えながら傍らに腰を落ち着けると切れ切れに細い声が紡がれているのがわかった。
「蒼い……十字架が燃える……大丈夫……お兄ちゃん」
 うわごとのように繰り返される苦しげな言葉のなかにもまだやさしさが滲むのかと思うとやるせない。自身の手に視線を落とせば十字架がある。呪いなどあるわけがない。思いながらも疑念を振り払うことができないのは、結珠の唇から零れるうわごとの影響だろう。今手にしている十字架がもし結珠の夢に出てくるものであったとしたら、そう思うと放っておくことができない。ここにあるというそれだけで結珠を苦しめるのだとしたら、元凶になっているのだとしたら、蒼がそれを放置しておくことなどできるわけがなかった。
 そう思うと自ずと言葉が音になる。
「お前が何を求めているかは知らないが、結珠ではなく俺にしろ。俺ならお前をこの身に封じ込めてやる」
 それは揺らぐことのない決意を秘めた言葉だった。どんなことがあろうとも守り抜きたい。そんな固い決意が滲む。傍で苦しげな呼吸を繰り返す結珠が痛々しくてならない。こんな苦痛など知らずに、穏やかに生きていくことができたならと願うからこそ自分にどんな不利益が生じたとしても守りたいと思う。結珠には平穏な日常を送ってもらいたい。ただ笑っていてくれるというのなら、そのために払う犠牲など安いものだった。

【W】

 その夜、蒼は夢を見た。
 冷たい光をまとう十字架が胸に入ってくる夢だ。僅かな痛みと神経の総てが凍てつくような冷たさを伴って、それは静かに蒼の胸の奥に沈んだ。抗うこともできず、ただ無抵抗に受け止める以外には何もできない。意識という最後の砦さえも侵食されるかと思うほどにそれが持つ何かは強く、暗く冷たい何かだけが総てだった。けれど総てを明け渡すことなどできやしない。結珠を守らなければならないというその思いが侵食してくるそれを蒼に享受することを拒ませる。今ここで総ての意識を失うわけにはいかないのだと、抗わなければならないのだという思いを強くさせる。抗おうとすればするほどに痛みは強さを増したけれど、それに屈服するわけにはいかないのだという思いが痛みさえも無意味なものにしようと抗う。負けてはいられない。結珠のためにここで屈服することなどできやしない。
 それだけを思い続けて一夜が過ぎたことに気付いたのは、閉ざした瞼の表を朝日がまぶしい光で照らし出した時だった。気付けば蒼は結珠の手を握り締めたまま、ベッドの端に突っ伏すような格好で眠っていた。不意に左の胸の辺りに鋭い痛みが走って、はたと確認するとそこには十字架の痕。朝日を浴びてそれはゆるゆると姿を消していったが、見た夢がもたらしたものの鮮明さが蒼の脳裏に不気味な影を焼き付けた。
 しかしそれが長く続くことはない。
 目の前の結珠はもう苦しげな呼吸を響かせてはいなかった。穏やかな呼吸のリズムはその眠りがとても安らかなものであることを告げている。
 総ては偶然であったのだろうか。親戚の事故も夢も総ては偶然が重なっただけで、そこに関連するものなど何もなかったのかもしれない。判然としない事象の関連は違和感だけを強くしたが、蒼は目の前にある結珠の穏やかな寝顔に総てを忘れようと思った。
 ただ、結珠がそこで穏やかに生きていかれるのであればそれ以上に望むことなど何もない。結珠が無事でいてくれるというのなら、蒼にとってそれ以上の幸福も平穏もない。自分が盾になることで結珠が笑っていてくれるというのなら、痛みさえも厭わない。もし本当に呪いなどというものが存在したとしても、結珠のためにそれがもたらすならどんなものにも耐えて封じ込めておこう。
 蒼の願いはただ結珠が無事で、いつも笑ってくれていればいい、というただそれだけだった。