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<東京怪談ノベル(シングル)>


あちこちどーちゅーき 泡沫の宿り

 桐苑敦己は、山道を登り切り、小さく息を吐き出した。
 そこは山の突端で、ちょうど木々の群れが途切れて、はるかな下界が見下ろせるようになっていた。そしてその眼下には、満々と水をたたえるダム湖が広がっていた。
 その景観に、敦己は小さく目を見張る。ダム湖の水は青く澄み、ここからでもその下に、古い家並みが沈んでいるのが見えた。家の数はさほど多くない。ざっと数えて五、六軒ほどの、村とさえいえない小さな集落だ。
 だが、それを目にした敦己の胸には、かすかな痛みにも似たものが広がる。
(ああ……。本当に、みなさんはもうこの世にはいない方たちだったんですね……)
 胸に呟き、彼はそっとポケットから取り出した、小さなガラス細工のうさぎを握りしめた。

 それはちょうど一年前のこと。
 大学卒業後、気ままに全国行脚の旅を続けていた敦己は、信州の山中にいた。その時の目的地は、その山中にある、秘伝の製法でとんでもなく美味いソバを作っている人々が住むという村だった。地図にも載っていないような小さな村で、情報源はネット上のさまざまな噂を取り扱う掲示板と来ては、怪しいことこの上ない。しかし、もともとが祖父の遺言を実行するための旅だ。それなりにサバイバル生活にも自信があるし、そのソバが本当にそんなに美味いのかどうかも、興味がある。それで、その村を目的地としたのだった。
 しかしながら、そんな地図にも載っていないような村に、すんなりとたどり着けるはずもなく、彼は途中で道に迷ってしまった。
 今にして思えば、道無き場所でも現在地の把握ができる彼が、道を見失うこと自体、ずいぶんとおかしなことではあったのだ。しかし彼は、自分の置かれた状況に、なんの疑問も抱かなかった。
 すでにあたりは暗くなり始めており、結局彼は、適当な場所を見つけて野宿することに決めた。山中で暗い中、動き回る方が危険だと考えたのだ。
 そこで、野営地に決めた場所をならして、火を焚く用意などをしていた、その矢先のことだった。小さく木々の揺れる音がして、ふいに目の前に少女が一人、飛び出して来たのである。
「あ……!」
 十七、八歳ぐらいの少女は、驚いたように敦己を見やって、低い声を上げる。むろん、驚いたのは、敦己の方も同じだ。まさか、こんな山中で夜間、少女とでくわすなどとは、思ってもいない。が、ふいに彼は気づいた。もしかしたら、少女はその美味いソバを作る村の人間なのではないかと。
「あの……この近くの方ですか?」
 思い切って声をかけると、少女は更に目を見張った。だが、やがてうなずいて、口を開く。
「そうですけど……あなたは?」
「あ……。俺は、旅行者ですが、道に迷ってしまって……」
 問い返されて敦己が言うと、少女は再び目を見張った。そして、それなら自分の村に来ないかと言う。敦己はむろん、ありがたくそうさせてもらうことにして、少女の後に従った。
 少女の住む村は、山と山に挟まれた小さな谷の中に、ほんの五、六戸の家が連なる本当に小さな集落だった。少女の家はその村の出入り口近くにあって、その両親はどちらも四十半ばぐらいだった。
 場所が場所だけにくらしは貧しいのか、家はどれも古く、彼らの服装もずいぶんと質素だった。いや、質素というよりも時代遅れといってもいいかもしれない。明るいところで見ると、少女は大きな丸い衿のある木綿のブラウスとズボンというなりで、髪はおさげにしていた。そのせいで、少し幼く見える。
 少女の父親は、ガラスで細工物を作る仕事をしているのだという。家の裏手にそのための作業場があるらしい。興味を示した敦己に少女の父は、よければ明日中を見学させてやろうと言ってくれた。
 出された食事も、山菜と里芋の煮物とご飯という、いたって粗末なものだったけれども、どれも作り手の心を示すかのように温かく、敦己はありがたくたいらげた。
 食事の後に通されたのは、家の奥にある小さな三畳ほどの部屋だった。畳が敷かれてはいるが、普段は使われていないらしいことが一目でわかる、ひんやりとしてどこかかび臭い一室だ。とはいえ敦己は、贅沢を言うつもりはない。もともと山中で野宿するつもりだったのだ。それに較べれば、屋根のある所で眠れるのは幸運だと思う。
 部屋におちつき、手帳を開いて今日のことをメモしていると、少女が風呂が沸いたと知らせに来てくれた。
「ありがとうございます。何から何まで世話になってしまって、すみません」
「いいえ……」
 礼を言う敦己に、少女は小さくかぶりをふる。それから、彼が傍らに置いてあった携帯電話にふと目を止めた。
「それ、なんですか?」
「これですか? ケータイですけど」
「ケータイ?」
 少女は、まるでそんな言葉は初めて聞くといわんばかりに、首をかしげる。その仕草に、敦己は思わず目をしばたたかせた。いくら山奥に住んでいるからといっても、いまどき携帯電話を知らない人間はいないだろう……と思って、ふと気づく。そういえば、この家にはテレビらしいものがなかったと。彼が食事をもらった茶の間の棚の上には、ずいぶんと年代もののラジオが乗っていたのを見た。けれども。
(そういえば、固定電話らしいものも、見てませんね……)
 胸に呟き、彼は思わず眉をひそめる。この二十一世紀に、テレビと電話のない家庭など、想像もつかない。それでも、一応訊いてみることにした。
「ええっと……電話ってわかりますか?」
「ええ。遠くの人と、話のできるものでしょう? 便利ですよね」
「そうですね。これも、そうなんです」
 少女の返事に、敦己は少しだけホッとして言うと、自分の携帯電話を彼女の方へと差し出した。
「よかったら、見てみますか?」
「あ……。すみません」
 少女はそれを受け取り、しげしげと眺めてからやっと、それが二つ折りになっていることに気づいて広げる。そして、そこに現れたものに目を丸くし、とまどったように敦己を見やった。
「これが、電話ですか? あの……話すところも聞くところもないですけど。それに、ハンドルも」
「ハンドル?」
 今度は、敦己の方が問い返す。
「ええ。だって、それがなければ電話局につながらないでしょう?」
「え?」
 敦己には、どうも少女の言うことが、よく理解できない。どう話せばいいのか、考え込んでいると、少女の方も途方にくれたように彼を見やった。それから、ふと携帯に視線を戻し、ふいに目を輝かせる。
「きれい……!」
 少女が指先にすくい上げたのは、携帯につけたストラップだった。以前に旅先で買った、紫水晶が下がっている。
「私、こんなきれいなもの見たの、初めてです」
 頬を紅潮させて言う少女に、敦己はどうしてだか、胸をつかれるものを覚えた。
 少女のくらしがお世辞にも裕福ではないのは、敦己にもわかった。今の世に信じられないことではあるが、もしかしたらテレビや電話がないのも、そのためかもしれない。そんなくらしの中で生きる少女が、安物の携帯ストラップに目を輝かせるさまは、なんだかたまらない気持ちにさせられるのだ。
「そんなに気に入ったのなら、それあげます」
 気づいた時には、そんな言葉が口からこぼれ出していた。
「え?」
「貸して下さい」
 驚く少女の手から、携帯を取り上げ、ストラップをはずしてそちらへ差し出す。
「そんな……いただけません。私……ほしくて言ったわけじゃ……」
 とまどったように返す少女に、敦己もうろたえた。たしかに少女は、それをくれと言ったわけではない。だのにそんなことを申し出た自分に、驚きと共に軽い嫌悪を覚える。これではまるで、彼女を憐れんでいるかのようだ。かといって、今の申し出を撤回するのは、よけいにバツが悪い。少し考え、やっと彼はいい方法を思いついた。
「それなら、物々交換ではどうですか? 俺は、茶の間に飾ってあった、ガラス細工のうさぎが気に入りました。だから、これとあれを交換していただけますか?」
 この家の茶の間には、少女の父が作ったガラス細工がいくつか並べてあった。客への見本というわけではなく、少女が子供だったころ、玩具がわりに父親が作って与えたものだという。それを、今はもう玩具など必要ない年頃になった少女が、茶の間に飾ってあったのだ。
 敦己の提案に、少女もやっと笑顔になってうなずいた。茶の間から、ガラス細工のうさぎを持って来ると、彼に差し出す。敦己はそれを受け取り、ストラップを差し出した。少女は受け取ると、大事そうにそれを両手で包んで胸元に押し当てる。それから、改めて礼を言うと、「お風呂をどうぞ」と言い足して、はにかんだように立ち去った。
 その後ろ姿を見送って、敦己は奇妙な胸の痛みを覚えながら、風呂へ行く用意をすると、部屋を出た。
 風呂もまたずいぶんと大時代的な、いわゆる五右衛門風呂で、しかもどうやら薪で焚いているようだった。洗い場も狭く、むろんシャワーなどというものはない。
 だが、敦己にとってはそれも、さして苦にはならなかった。
 部屋に戻ると、すでに布団が敷きのべられており、そのことに感謝しつつ彼は床に就いた。
 翌朝は、味噌汁のいい匂いで目が覚めた。
 台所からは離れているものの、周りが静かなせいか、食材を刻む軽い包丁の音がかすかに響いて来る。どこからか、のどかな鶏の鳴き声も聞こえた。
(ああ……。こういうの、いいですね。なんだか、この音とか匂いだけで、生きてるっていいいなあって気がして来ます)
 胸の奥でそんなことを呟いて、敦己は目を開けると、布団の中で腹ばいになった。昨日、少女からもらったガラス細工のうさぎを、枕元から取り上げて、しげしげと眺める。薄青いガラスは、朝の光の中で見るとずいぶんとはかなげで、しかし愛らしく、作り手の愛情が伝わって来るような作品だった。
(彼女、ああ言わなければストラップを受け取らなかっただろうけど……かといって、これをもらって帰るわけにはいかないですよね。だって、彼女のお父さんが、彼女のために作ったものですし)
 胸に呟き、彼は帰る時にでも、そっと茶の間に戻しておこうと決めた。
 やがて、質素だが温かい朝食をもらって食べ、約束どおりに裏手のガラス細工の作業場を見学させてもらった後、敦己は麓に出る道を教えてもらって、その村を後にした。
 そこが、例のソバ作りの村ではないことは、少女の両親に確認済みで、敦己はとりあえず一旦麓まで戻ろうと考えを新たにしたのである。
 すでに村の姿が見えなくなってから初めて、敦己はガラス細工のうさぎを、茶の間に戻すのを忘れて、持って来てしまったことに気づいた。しかし、今から戻ったのでは、こっそり戻すも何もない。
(どうしましょうか……)
 しばらく思案した後、彼はまた日を改めて村を訪ねようと決めた。泊めてもらったお礼に来たと言えば、不自然さはないだろうし、その時には何かあの少女の喜びそうなものを、土産に持って行ってもいい。それならきっと、少女も笑顔で受け取ってくれるに違いない。そしてその時、そっとうさぎを茶の間に戻してくればいい。
 彼はそう決めて、改めて教えられたとおり、麓への道をたどり始めたのだった。

 そうして。
 敦己は一年ぶりに、少女のいる村を訪ねようと信州の山中へと足を向けた。
 村を出た時には、あまり日をおかずに訪ねて来るつもりだったのに、こんなに時間が空いてしまったのは、事実を目の当たりにするのが、怖かったからかもしれない。
 あの時、麓に出て一泊した町で、彼はあの村が何十年も前にダム湖の底に沈んでしまっていることを知ったのだ。
 村のある谷にダムが造られることになった時、彼らは立ち退きを要求されたが、誰もそれに応じようとはしなかったそうだ。そして、村は住人と共に水の底に沈んだという。むろん、そんなことが公式記録にあるはずはなく、それは近隣の人々が伝えて来た噂というか、伝説のようなものにすぎない。しかし、彼にその話を教えてくれた人は、平成になってダム湖の底をどこかの大学の調査隊が調べたところ、人骨がいくつも発見されたのだと付け加えた。
 それが本当か嘘かは、敦己にはわからない。けれど、自分が出会った少女とその両親は、霊の類ではなかった。彼らはごく普通に食べ、眠り、笑い、話す、血肉を備えた人間だった。
 だが今、彼の目の前には、満々と水をたたえたダム湖が広がっている。そしてその下には、見覚えのある家屋が沈んでいるのが見える。
(あれは、どう考えても霊ではありませんでした。……そう、もしかしたら、俺の方があの時、彼女たちが生きていた時代に、紛れ込んでいたのかもしれませんね)
 ダム湖を見下ろしながら、ふと彼は思った。
 それならば、あの家にテレビも電話もなかったのも理解できる。少女が携帯電話の存在を、まったく知らないようだったことも。
 固定電話は山間の村落などでは、昭和四十年代の終わり近くまで、ダイヤル式よりももっと前のが使われていた所があるようだ。そうした電話は、ハンドルを回して電話局を呼び出し、相手方の電話番号を告げた後、一旦電話を切って電話局から「相手につながった」という知らせが来るのを待つという手順を踏んで初めて、離れた所にいる相手と会話ができたらしい。
 きっとあの少女が知っていた「電話」というのは、そういう形式のもののことだったのだろう。
 敦己は、バックパックの中から、小さな紙袋に入ったものを取り出した。中身は、口紅だった。むろん、あの少女への土産に買ったものだ。
(こんなのしか思いつかなくて、すみません。でも、あの時俺を助けてくれたお礼です。……それから、ガラス細工のうさぎは、やっぱりもらっておきます。みなさんのこと、忘れないように。俺たちが出会えた記念に)
 胸の中で、そっと話し掛けると、敦己は口紅の入った紙袋をダム湖に向かって投げる。
 それは、大きく弧を描くと、小さな飛沫を上げてダム湖の中に落ち、そのまますぐに見えなくなった――。