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■+ コンゲーム(偽) +■
ゆったりと瞼を閉じ、彼は銀糸の流れるままに夢を漂う。
今は伏せられたそこにあるのは、透き通る水を連想させる青だった。
書斎にあるゆったりとした椅子に深く腰を下ろした彼──セレスティ・カーニンガムは、何やら思考を巡らせている。
セレスティ・カーニンガムとは、公的には、アイルランドに本拠を置く、リンスター財閥の創設以来の総帥である。
私的なことを言えば、世に起こる様々な不可思議の追求者と言ったところか。
巡らせている思考は、その彼に起こったホンの二週間前の出来事だ。
彼は二人で歩いていた。
連れ合いは、とても楽しそうに彼を見ている。あちらの店を覗き込んでは、楽しそうに笑みを浮かべ、こちらの店を覗き込んでは、驚いて目を見開く。そんな時、二人の目の前を遮った者は、連れ合いに二枚のチケットを渡した。セレスティはあまりそれに心は引かれなかったが、手にした連れ合いは違った様だ。そんなことが嬉しいのなら、何時でも連れ合いの為に用意出来るのにとは思ったが、敢えて口には出さなかった。
そしてその時貰ったチケットの有効期間は、もうそろそろ終わろうとしている。
『さて。……どうしましょうか』
思考だけが、記憶だけがその部屋を巡っている。
まるで時間が止まったかと錯覚させる程の静謐さ。彼の姿はそんな中にこそ、良く似合う。彫像と化してしまったのかと思う程、セレスティは、身動き一つしなかった。
そんな時間が、どれ程流れたのだろう。
彼の瞼がゆっくりと上がる。
人が踏み入れたことのない塔の中で、人知れず目覚めた王子の様に、セレスティは吐息を一つ。
そして艶冶な笑みを、唇に乗せた。
「たまには、宜しいでしょうねぇ…」
意味深な言葉を呟くと、彼は組んでいた手をゆっくりと解いた。
「今度はセレスティさまですか…」
少し前は、金色の瞳をした元キュレーターが、何やら画策して主に迷惑を掛けていた。その後、更に一悶着あり、漸くそれも落ち着いたと思っていたのに、今度はその主が何かを画策しているのだ。
形の良い眉を悩ましげに顰め、高価な宝石を思い起こさせる緑の瞳がちらと揺れる。
日頃は尻尾の様に一つで纏めている金の髪は、現在降ろしたままにしていた。
彼と向かい合い、こそこそと話をしていたのは、この館の筆頭執事だ。
「そうなのです。セレスティさまは、何やら書斎で調べものをしているご様子。わたくし共がどうしたのかを訪ねようとすると、有無を言わさぬ微笑みを浮かべて遮ってしまうのでございます」
ほとほと困り果てたと言った風である。
それを聞いた、セレスティの庭師であるモーリス・ラジアルは、何やらイヤな予感を覚えたのであった。
常日頃は、また主の気紛れが始まったと思うことはあれ、こう言ったイヤな予感など浮かびはしない。彼は自分の危機回避能力を信頼していたから、筆頭執事の言うことにも耳を貸しているのだ。
「何かを隠している、そんな気がするのですね?」
確認する様にそう聞くと、高齢なのに背筋の伸びた頑固ジイさんは、はっきりきっぱり頷いた。
「セレスティさまのことです。正面切ってお聞きしても、きっとはぐらかしてしまうでしょうね。……解りました。私がそれとなく探ってみましょう」
恐らく、自分の身に降りかかることだし。
心の中で、そう付け加えると、モーリスは筆頭執事に請け合った。
誰もが安心する笑みを、ついでとばかりに浮かべると、沈痛な面持ちであった彼は、漸く安堵したのであった。
古今東西、人と言う存在は欲求を持っているものである。
ストイックな者であれば、想像だけに押さえるだろうが、好奇心旺盛である者なら、それを実行してみたいと言う気になるまでに、大して時間は掛かるまい。
勿論、結果に対処出来る者でなければ、好奇心に殺されてしまうだろうが。
セレスティもまた同じ。どうしても、とあるモノを見たいと言う欲求が、彼の抑制を超えてしまったのだ。
ただ彼は、自分の出す結果に負ける程、弱い存在ではなかったが。
「しかし、なかなか思う様なものが、見つかりませんねぇ……」
つまらない。
そんな風に呟いた。
彼は己を突き動かした欲求を満たす為、ここ数日の間、筆頭執事が不審に思う程、色んな場所に出入りし、そしてネットの海へと足を運び、屋敷内を探索していた。
しかし、上手くことを運ぶ方法が、なかなか見つからないでいる。
シチュエーションなら、いくらでも浮かぶのだ。
クルーザーやヨットで、海を眺めながらであるとか、ジェット機や飛行船で、優雅に空の散歩を行いながらだとか。
そんなことならいくらでも思いつくし、用意も出来る。
しかし、そこからが問題だ。
どうすれば目的を遂行することが出来るのか。
素直に『これを…』と言われて、解りましたと言ってくれる程、彼の部下は簡単ではない。勿論、仕事上の命令とあらば、その限りでないのだが、これは完全にセレスティの私事である。いや、私事とも呼べないかもしれない。
だからまあ、下世話に言えば『填めよう』としていたのだが、その手段がなかなかどうして、見つからないのだ。
どうせなら派手に、そして完璧に、徹底的にと思っていたのだが、下手をすればセレスティが足下を掬われる事になってしまうかもしれない。
彼の部下は、可成り目敏い上に勘も良いし度胸も良い。
舌の滑らかさだって、絶品だ。
「無難に、カードでしょうか」
勝負事なら、負けないと思っている。
一年三六五日が絶好調と言うツキ具合ではないが、ここぞと言う時には負けたことがないのだ。だからこそ、財閥をここまで大きくすることが出来たのだとも言える。
取り敢えず、同じテーブルに乗せることから始めなければならない。
セレスティは、内線へと手を伸ばした。
「お呼びでしょうか。セレスティさま」
何時もの様な落ち着いた笑みを浮かべたモーリスの内心は、『警戒心チャージMAX』と言ったところだ。
何故なら部屋に入り、セレスティの機嫌が頗る良いことを知ったからである。
久々に呼ばれたと思ったら、何やら企んでいるかの様な上機嫌である。日頃から彼の下について、その人となりを良く知る者であるなら、そうなるのも当然のことだと言えた。
「急の呼び出しで、申し訳ありませんね。少し時間はありますか?」
下手に出るところが、なお胡散臭い。いや、何時でも彼は、丁寧すぎる程に丁寧なのだが。
「勿論ですとも。私の時間は、何時でもセレスティさまの為に存在致します」
人生には、いくつもの分岐点が存在する。
あの日あの時、別の答えを返していたら、きっと違った未来が開けていたに違いない。そう思うことは、多々あるだろう。
そして今回もまた、その分岐点の一つであることは、間違いがなかった。
「では、少しゲームをしてみませんか?」
「ゲーム…ですか?」
可成り唐突な話だ。
「ええ、ゲームです。負けた者が、勝った者のお願いを聞くと言うことで如何でしょう?」
ゲームと言えば、先日某食欲魔神を巻き込んで行った時のことを思い出す。
あの時は『食欲の限界を知る』ことが目的であった。
今回は一体何が目的なのだろう。
「私には、特にセレスティさまへのお願い事は、ありませんけれどねぇ…」
迂闊にはいとは言えない。
普通のことなら、それこそモーリスに命じれば言い話である。けれど、敢えてそれをしないと言うことが可笑しいのだ。
「おや、モーリスは、この私に勝つ気なのですね?」
穏やかな笑みを浮かべているも、徐々に挑発に入っていることが解る。勿論ながら、セレスティにも、モーリスがそのことを察しているのが解っているだろう。
「それは勝負事ですし、最初から負ける気でいる人は、あまりいないでしょうねぇ」
そんなことはないと答えれば、次ぎに掛けられる言葉は『そんなに自信がないのですか』であろう。すると自分の答えは二つ。またもや『そんなことはない』か、遠回しに主に勝つ訳にはいかないと言う答えだ。けれど……。
次々と先読みしてはいるものの、セレスティがやる気満々である限り、結果はどうしてもゲームをすることになるのだろう。ならば、不毛な思考は断つべきだと判断した。時間の無駄だし。
モーリスは、内心溜息を吐きつつ覚悟を決めた。
「解りました。やりましょう。それで、一体どんなゲームをお望みですか?」
セレスティが提案したのは、極々普通のポーカーであった。
ポーカーには、様々な種類がある。
ドローポーカー、ホールデムポーカー、スタッドポーカー、パイガオポーカー、カリビアンスタッド、レットイットライド、3カードポーカー、チャイニーズポーカーなどで、これからも更に細かく分類される。
日本で一般的に知られているそれは、ドローポーカーであろう。ただ、最近オンラインで主流を占めているのは、ホールデムポーカーの一つ、テキサスホールデムである為、そちらの方を知っている者が増えているのも確かだが。
そして彼ら二人が行っているのは、ポーカーの元祖と言われるドローポーカーのルールを基本としたものである。
現在、セレスティの手持ちのカードは、スペードの7と10、クラブのAと7、ダイヤの3と言う、はっきり言ってしまえば、悲しくなるくらいにお粗末な内容だ。
7のワンペアなど、役と言うものおこがましい。
だがこれ以上カードが増えることはない。違うカードが見たければ、チェンジするしかなかった。
「どうされますか? セレスティさま」
配り終えた直後だ。当たり前ながら、モーリスの手の内は解らない。
どんなカードが来ているのかは、今現在解らないが、彼は涼しい顔でセレスティにそう告げた。当然のことだが、セレスティの顔色が変わっている訳でもない。
「さて……。どういたしましょうかねぇ…」
拘る程に素晴らしいワンペアでもない。それにチェンジしてまで、新たな役が狙える可能性は、可成り低いだろう。
「モーリスはどうしますか?」
ちなみに細かいことは、二人で取り決めたオリジナルルールだ。
賭け金はリアルマネーではなく、ポイント制。勝てば、場に出された二人分のベットが加算され、フォールドすれば、マイナス100ポイント。引き分ければベットはポットに変わる。
役が付けば、ペアなら一つでも二つでも三つであっても×1.5、ストレートなら×2、フラッシュなら×3、フルハウスなら×4、フォーカードなら×5、ストレートフラッシュなら×7、ロイヤルストレートフラッシュなら×10と言った具合に計算される。ジョーカーは使用しないから、ファイブカードはなしだ。先に一万ポイント取った方が勝ちである。
初期で手元にあるのは千ポイント。
ちまちまと、けれど確実にポイントを取るか、大きく賭けて勝つか負けるかのどちらかである。
現時点では、セレスティが6300、モーリスが6500と、あまりポイントに開きはない。ちなみに区切りが良いのは、互いがペアなら捨ててきたからだとも言えるのだが。
『フォールドするか、ベットするか』
『ベットするならチェンジをかけるかそのままか』
ベットした場合、モーリスはどうでるだろう。コールで対抗するだろうか。そのコールはブラフだろうか。
通常ならセレスティの場合、現在の手持ちを考え、フォールドするのがセオリーだろう。けれど敢えて、ブラフをかけると言う手もある。
こうして相手の出方を色々と考えるのは、なかなかに楽しい。
セレスティは、決断する。
「では、私は……」
今回のゲームで、互いのポイントが、セレスティが13200、モーリスが8800へと変わった。
モーリスが大きく溜息を吐くと、その真逆の顔で、セレスティが口を開く。
「私の勝ち……ですね」
何故かとても嬉しそうな顔をしているのは、モーリスの気の所為ではないだろう。
いやまあ、勝負に勝ったのだから、嬉しいのは当たり前なのだが。
「……そうですねぇ」
結局、筆頭執事に言われたものの、モーリスはセレスティの真意を確かめることが、今日の今まで適わなかった。一体何をさせるつもりなのだろう。
「では、約束です。私の望みを聞いてもらえますか?」
確かにそう言うお約束だったのだから、聞くことはやぶさかではない。
それに繰り返す様だが、セレスティの言うことなら、モーリスは絶対服従である。
それをわざわざこんな他愛のない勝負までして切り出すと言うことに、大層不審…と言うか、イヤな予感を覚えるのだ。
「ええ、勿論ですとも」
そう言いつつ、可成り顔は神妙になる。
「では……」
セレスティがステッキを付いて立ち上がり、執務机の引き出しをごそごそとやっている。何かを見つけたかと思うと、口元をそれで隠しつつくすりと笑う。
「………」
「この前、二人で食事をした帰りに、あの方がウィンドショッピングをしたいと申されましてね。一緒にお店を見ながら道を歩いていましたら、黒いスーツを着た男性からこれを頂いたのです」
セレスティの言う、『二人でウィンドショッピングをしたがるあの方』とは一人しかいないだろう。それは察する事が出来る。
けれど、カードを翻す様な仕草で出されたものを見て、モーリスは最初、意味が解らなかった。
彼の手には『最新の技術で、貴方も生まれ変わってみませんか?』との文字が躍るチケットがある。
「彼女はここに行くことにとても乗り気だったのです。やはり私としては、興味はありましたけれど、なかなかこう言うところに行く勇気がなくて…。どうしようかと思っていましたら、どうやら仕事が忙しくて一緒に行けないと思ってくれたのですよ」
何となく、先が見えて来た気がする。
「けれども、行った時の感想を、是非とも聞かせて欲しいとお願いされましてねぇ……。そこでモーリス。代わりに君に行ってもらいたいのです。その感想を、私に聞かせてもらえませんか?」
『あのクソアマ…』と言う下品な言葉を口にすることは勿論、そんな思考すら、モーリスの脳裏には浮かばない。
ただ彼に浮かんだのは『……やはり相性は最悪ですね』と言う言葉だった。
確かに、興味がないとは言わない。
女性の美に対する思いを、これでもかと見ることの出来る場所である。
その執念を見るのは、なかなかに面白いだろうことは解るのだ。
けれど。
黒服も一体何を考えて、セレスティに──正確には連れ合いに二枚だが──こんなものを渡したのだろう。
こんなところ、はっきり言って、セレスティが行く必要性は全くない。
勿論モーリスも、だ。
セレスティが手にしているのは、何を隠そう、エステの割引チケットであった。
「……セレスティさま。本気で仰ってますか?」
「勿論ですよ。私が冗談を言っている様に見えますか?」
満面の笑みだ。
当たり前だが、セレスティなら感想云々を問われて、上手く誤魔化すことはバカみたいに簡単だ。更に付け加えれば、エステなら屋敷にエステティシャンを呼んで、この世の極楽と言う気分を味わうことも出来るのだから、感想も人に聞く必要はない。
だから『感想を聞かせて欲しい』と言うのは、モーリスをエステに行かせる為の、ただ単なる口実である。
間違いなく、面白がっているのだろう。
モーリスは大きく溜息を吐いた。
負けた自分が悪いのだ。
……多分。
「解りました。この『お肌つるつるコース』と言うものを、体験して来ます」
他にも『美白コース』だの『むくみ冷え性対策コース』だの『筋肉強化コース(メンズ専用)』だの『すね毛脱毛コース(メンズ専用)』だの……数種類のコースがあった。
『お肌つるつるコース』と言うのが、一番マシに思えたのだ。
「おや、そうですか。この『全身マッサージコース』と言うのも、良いかと思うのですけれどねぇ…」
完全に目が笑っている。
確かにモーリスも、ざっとコース名に目を通した時には、これが良いかと思ったのだ。けれど内容を見て、即座に却下したのである。
「マッサージだけならともかく、カッピングやお灸なんか、イヤですよ」
自分が気持ち良くなることは大歓迎だが、痛くなることは大却下だ。
それでなくとも、『割引チケット』で行くなど、モーリスの美意識に大いに反しているのに。
「そうですか。残念ですねぇ……」
本当に残念がっているのは、その表情を見れば一発で解る。しかし何と言われようと、『全身マッサージコース』は却下である。出来れば『お肌つるつるコース』どころか、割引チケットでエステ体験も却下したい。
「残念がってもらわなくても宜しいですよ」
そう言いつつ、何だか更なる不安が、モーリスの胸の内にわき上がって来る。
そしてその不安は、気の所為ではなかった様だ。
セレスティが、何時もの典雅な笑みを浮かべて彼に言った。
「今回は、勝敗をカードゲームと言うありきたりなもので付けると言う形に落ち着きましたけれど、次回はもっと凝ったものに致しましょうね。楽しみに待っていて下さい」
「……勝敗の期し方だけでなく、その後にあるものも、もっと凝った形になるのでしょうねぇ」
そう言って苦笑いしたモーリスに、セレスティは当然とばかりに頷いた。
「ええ、今度はゆっくり時間を掛けて、長く楽しめるものにしたいと思っておりますよ。期待していて下さいね」
これにイヤですとは言えないモーリスは、引きつった笑みを浮かべたのであった。
Ende
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