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<東京怪談ノベル(シングル)>


marvelous smell

 萌えいずる若葉の、輝くような緑が目に眩しい。
 樹下から頭上を覆うように張り出す枝枝の緑濃しに初夏の太陽を見上げ、槻島綾は四季ある国に生まれた幸運をその木々に感謝していた。
 都会を離れ、四方八方を緑に囲まれた山間に身を置くと、人の為に整えられた彼の地の空気の薄さ……というよりも生気の薄さが際立って感じられる。
「……田舎ですねぇ」
ご当地に在住なさる方々が耳にすれば噴飯物の感想かも知れないが、これは綾にとってこの上ない誉め言葉である……人間と自然との共存の場が、利便の波に押されて隅に追いやられていくのは、その文明の利を享受している身ながら心苦しい。
 次のエッセイのテーマは初夏の緑について書こうか。
 思考の流れが自然と仕事に向いてしまうのは、物書きの性である。
 綾は道の左右から張り出す緑の影を踏み、砂利が敷かれた小道に足裏に程よい刺激を感じながらのんびりと歩を進めて行く。
 今回は珍しく、私的に人に会うのが目的の旅である。
 郷里に戻って就職した大学時代の友人に、子供が生まれたという一報が届いたのは先週の事だ。
 葉書に印刷された赤ん坊のイラストと挨拶の文、そして手書きで添えられた「子供の顔を見に来い」の一言に、早速スケジュールを空けてその地を訪れた次第である。
 よほど親しい間柄か、繁く顔を合わせる関係でなければ学舎を共にした者とは疎遠になりがちなのだが、文のみの間柄となっている彼は綾の著作が発表される毎、マメにチェックを入れては簡単な感想の一文を絵葉書に添えて送ってくる……自称「最も気負わないファン」なのだそうだ。
「そのわりに、僕を呼付けるあたりは変わってないな」
彼の曰く自称は謙遜以外の何物でもない。
 学部すら別で、綾と彼とが知り合う機会は皆無に近かった学生時代、綾がアルバイト的に書いた文章……原稿用紙3枚程度のコラムが掲載された雑誌を抱えて現われ、まとまった文があるなら寄越せと不遜に言ってのけた、それが友人との初対面である。
 あの頃を懐かしいと感じるだけの時が過ぎ、人の親となる者もちらほら。彼がこんなにも早くその内に混じるとは意外ではあったが、それは正直嬉しい驚きだ。
 しみじみしながら、綾は葉書に書かれた住所を求めて道なりに進む。
 が、途中、季節の花をつけた植物に足を止め、野放図に枝を伸ばした大樹の姿に気を引かれるうちに、足下は砂利道から山道へと繋がり、踏み分けられた小道に変わり……山の中に綾はしっかりと迷い込んでしまった。
 迷子というものは、自覚した時には遅すぎるものである。
 周囲はひたすらに濃い緑、目印となる物は何もなく、頼りとするのは足下、人の足が作ったと思しき草の道だけだ。
「……獣道じゃ、ないですよね」
可能性を何とはなしに口にした己の、何気ない失言に笑いが乾いて口元に張り付く。
 行くか、戻るか。
 選択肢は二つだけ、単純な事この上ない。
 如かしながら、一度見失った方向を感覚だけで取り戻すは至難、標識を見た覚えすらない道を戻って再び正しい道を行ける自信は皆無である。
 この道が人の通る代物であると信じるなら、文明の営みの場に行き着く可能性の方が高い……其処まで考えてふと、綾は手を叩いた。
 こういう事態にこそ、己の記憶力を活用すべきではないか。
 エッセイストという職業柄……半ば以上は趣味、残りは実益を兼ねる旅行が生き甲斐である綾、原稿に向かう際に旅先の細部をそれは鮮明に思い出す事の出来る己の特技で以て、辿ってきた道筋をなぞれば何処で気を逸らしたのかが掴める。
 安堵の材料を得た綾は早速とばかり、集中出来そうな座り心地の良い場所を求めて周囲を見回した。
 そしてふと、ある方向に顔を向ければ、鼻先を擽って甘い空気の流れがある事に気付く。
 綾の気を引く香りはさほど高くはない位置、笹の茂みの向こうの緑が少々白っぽいあたりから漂って来るようで、遠い場所にある物の細部までを確認するのは難の近眼の身に、ジャケットの胸ポケットから眼鏡を取り出す。
 ぼんやりとした景色の輪郭が、硝子を通して途端、鮮明になる。
「ムベか」
鈴なりに花をつけた、花木の様に綾は頬を緩ませた。
 白に僅か淡い紅紫を帯びた筒状に小さな花、下を向いて鈴のように咲く花の芳香は甘く瑞々しく、その香に誘われた羽虫がせっせと蜜を求めて周囲を飛び回っている……そしてその傍らにたった幼い女の子が、こちらをきょとんと見ているのにも気付いた綾は、随分と久しぶりに人の姿を見たような気持ちで、思わず諸手を挙げてしまう所だった。


「ごめんね、驚かせて」
山道で遭遇した少女は、友人の家までの案内を申し出てくれた。
 怯えさせない気遣いにまず遠い位置から声をかけた綾だったが、彼女が地元の子供であると判明した折りに思わず万歳、と喜んでしまい、かなりの不審人物としか言いようがない。
「大丈夫、誰か来るのは気付いてたから」
けれどそんな大人を物とせず、こちらの窮状を汲んでくれた相手に、綾は幼いながら大物の器を見る。
 真っ直ぐに黒い髪と瞳、固い葉で切らない配慮からか、生地の厚い長袖とジーンズを身に着けているあたり、綾より余程山に慣れていそうだ。
「ぐるっと反対側を回ってたら車の通れる大きな道があったのに、槻島先生は逆を来ちゃったのね」
流石、地元民。したり顔の説明に、駅から出た最初の一歩の誤ちを指摘されるのに、ひたすら恐縮するしかない。
 そして、ん?と首を傾げた。
「僕はもう名乗ってたかな?」
その割りに彼女の名前を聞いた覚えがないな、と記憶を探ろうとする綾を見上げ、少女が笑いかける。
「ううん。うちのお父さんが槻島先生の御本沢山持ってるから、私が勝手に知ってただけ」
確かに、著者紹介の写真を掲載した本もある……その際は旅先で撮った写真を使うを旨とし、度々に印象の違う背景にその被写体の印象も左右されそうなものだが。
「キミは随分と目がいいんだね」
よく見ているな、と綾は少女の観察眼に素直に感心する。
「でも、槻島先生がうちの裏山で遭難してるなんて」
紛う方なき真実だけに、くすくすと笑いを零す少女に恥じ入って頭を掻くしかない綾に、うちの裏山、と気軽に称するだけ山に慣れた少女は、道なりに彼女の名所を説明してくれる。
 裏山で一番古く、一番実の多い栗の木、新春に福寿草の咲く日当たりのいい傾斜、岩の間に小さな流れを作る湧水は飲む事が出来るというので、ご相伴に与る。
 彼女は自分の話の合間に、綾にも旅の話を強請る……それも彼の著作から行間に紛れてしまった想いや風景など、読んで初めて疑念を抱く、そんなを問いを向けてくれる小さな読者に作家冥利に尽きる次第だ。
 そんな楽しい道行きの最中に、少女は一つ溜息を吐いた。
「いいなぁ、槻島先生は」
羨望に軽い嘆きを混ぜた声の響きに問う眼差しを向ければ、少女はまた綾を見上げて笑う。
「色んな所に行けて。私も早く大きくなりたい」
綾個人を、というよりも大人全般を羨んでの発言、その感覚……両親から与えられる選択肢以上のものを自ら選び取る事自体が稀であり、それが力の無さの象徴のように思えたもどかしさは、彼にも覚えがある。
「ここって随分と田舎だし……都会には面白そうなモノが沢山あるでしょう?」
口を尖らせて、少女はけん、と足下の石を蹴り飛ばす。
「ここにはないだろうものが多いのは、確かかも知れません」
少女の不満に一旦同意し、綾は頷いて続けた。
「でも都会になくて、此処にしかないモノこそが一番面白いと僕は思いますよ」
気楽な物言い少女が目を瞬かせるのに、綾は指を立てて数え始める。
 ウロにフクロウが巣を作る栗の木、春の香りのする山菜の天ぷら……。
「あの湧き水もとてもおいしかった。忘れかけていたムベの香りを、思い出せたのも嬉しいです」
にっこりと笑って綾の心からの羨望に、抱く不満が快い誇りに変わってか、少女は満面の笑みを浮かべた。
「良かった!」
喜びを堪えきれないのか、その場で大きく跳ねた少女に、自分が来たのと遠からぬ道を、今、若い世代が歩いているという事を、驚きと共に微笑ましく思う……木々が季節に繁り、散り。また新しい緑を萌え上がらせる鮮やかさ。人の生を季節に準えて青春と称した的を得た道理に古人の言は真に深い。
 そして成る程、大人になるという事はこういう事か、と朱夏にある身で些か早い気もするが、一人得心した綾はふと、覚えた違和感に歩みを遅めた。
「……でも、やっぱり早く大人にはなりたいなぁ」
速度を変えぬままで先行して呟く少女の髪が……先までは肩にかかる位であった筈が、今は肩胛骨の当たりまである。その背丈も伸びたように思えて、綾は目を擦った。
「槻島先生?」
綾の遅れに気付いた少女が振り返る。
 その姿は年頃の丸みを帯び始め、香るような、否、実際に濃く瑞々しい芳香が、鼻腔に甘い。
 この香りは先にも嗅いだ。
「君は……?」
訝しく問おうとする間にも、彼女は若木が伸びるように少女から女性へと姿を変え、微笑んだ。
「今大人だったら、槻島先生のお嫁さんにして欲しかったのに」
にっこりと表情ばかりは子供のまま、少女……否、花の香りを纏ったその女性はその白い指で木々の合間に覗く人家を示した。
「あそこが、槻島先生の探してた家」
示された先に気を取られか綾が、視線を再び女性に戻した時には忽然と、その姿は影も形もなく消え失せていた。
 その不思議に、先まで彼女の立っていた位置に歩を進めれば、一際濃く甘さが香る。
「……ありがとう」
ふわりと過ぎった一陣の風がその香を散らすを止め立てる術はなく、綾は謝意もまた同じ風に乗せた。


 どうにか行き着いた旧友の家、彼を待ち構えてか門前で腕を組み仁王立ちになる懐かしい姿を認めて、綾は軽く片手を挙げて挨拶した。
「田舎だね」
「田舎だろう」
開口一番、人によっては侮りと取り、しばき倒されかねない率直な綾の感想に、しかし相手は誇らしげに胸を張る。
「変わってないようで安心したよ」
郷里をこの上なく誇りとしていた友人の変わらぬ反応に、綾は肩を力を抜いて誘われるまま、友人の家に遠慮なくお邪魔する。
 旅の目的である、友人の子供は縁側に置かれたベビーベッドの中ですやすやと寝息を立てていた。
 その寝具の色から容易に女の子であるを判別して、綾はベッドを覗き込んだ……まだ半分以上の生を夢に生きる、赤子の健やかな眠りに自然と目元が緩めて、綾はその片方の掌が緩く開かれているのに気付く。
 ミルクの匂いに混じって先の、甘い香りが漂うのにその掌をそっと開けば、握られたのは小さなムベの花。
「可愛いだろう。名前は顔を見てから決めようと思って苦労したんだ」
第一子が女の子という事もあり、男親バカを地で行くだろう未来を確信させる友人の言を、綾はその手を取って制した。
「待って。この子の名前を当ててみせるよ」
そして友の掌に、二文字の漢字を指で記す。
「――ちゃんだろう」
「……なんで解った?」
虚を突かれた表情で、綾の推測が当たっていると証明した友人の問いに、軽く肩を竦めて見せる。
「最近、手相に凝ってるんだ」
勿論、嘘である。
 嘯いた綾は、再び視線をベビーベッドに戻すと、力強く断言した。
「きっと可愛くて元気で良い子に育つよ」
赤子の掌に握られていたムベに、漢字をあてれば『郁子』と書く……眠る彼女の頭を撫でつつ、綾は道に迷った自分を助けてくれた礼を改めて述べた。