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目の前に現れた光の如き〜瞳の色彩
…息が上がってしまいました。
うちは宿屋ですから、日が暮れてすぐになる今は、ちょうど一番忙しい時間帯になってしまうのです。ですから――母様にお知らせはしましたが、簡単にその手をお借りする訳にも行かない訳で。ですからわたくしはここまで連れてきたそのまま――傷付いた彼を空いていた部屋へと何とか運び込み、そこのベッドに寝かせるだけは寝かせました。…そこまでは、何とかなりました。
けれど。
――手当てをしなければどうしようもありません。
ですが――どうしたら。落ち着け。そう自分に言い聞かせながらも思い通りになりません。纏まらない頭の中で考えを巡らせます。…出血が酷いですからまずそれを止めないと。それくらいはわかります。止血。包帯――救急箱、何処に。部屋を見渡します。…何処に仕舞ってありましたっけ。どうしてこんな時にわたくしは忘れてしまっているのでしょう。…いえ、確か、救急箱が置いてあるのは部屋それぞれではなく――。
遅れながらもそこまで思い至ったところで、わたくしは部屋を飛び出しました。
途端。
母様にぶつかりそうになります。忙しい中ですが、心配になって見に来て下さったようです。今のひとの様子はどうかと訊かれましたが――それよりも。
わたくしは言葉で答えるより先に母様を部屋に引き摺り込み、まず直接彼の怪我を看てもらいました。必死です。どうしましょうどうしましょうと母様に壊れたように縋っている自分が居ます。そんな動揺して確りした行動が取れなくなっているわたくしを尻目に、母様は――もうわたくしから答えを得ようと思わずに、何も言わないでてきぱきと応急手当を始めました。枕元に放られる開かれた救急箱。出血している――怪我の場所を直接、もしくは怪我の部位に寄ってはその患部から一番近い脈の場所へと手早く包帯を巻き、締めています。
思わず、感心して見ていてしまいました。…さすが、母様。わたくしも…ひとを助ける為なのですもの、咄嗟にこのくらい出来るようにならなければ…なりませんわよね。
と、自分に言い聞かせながらも、彼を手当てする母様の手をじーっと見ていると。
手当ての最中である当の母様から、御医者さんを呼んできておくれ、と淡々と言われます。
…そうでした。感心して見ている場合では――それどころでは無いのでした!
母様から言われ、またわたくしは慌てて部屋から飛び出しました。御医者様を呼ばなければ。…当然でした。何故そう思わなかったのでしょう。電話は。電話があるのは玄関前。…今度は間違っていませんわよね。
と。
掛けようと受話器を取ったそこで、そう言えば葡萄酒は? と部屋の方から母様の声。ごめんなさい何処かに置き忘れて来てしまいました、と咄嗟に返答。…これも大事なおつかいものでしたのに母様に言い忘れていました。これから探しに言って参ります、とわたくしは続けます。少し慌ててしまっていたかもしれません。そんなわたくしに、母様は――もういいから明日買い直して来てと僅かに溜息混じりの仕方なさそうな声で返して来ます。
…本当にごめんなさい。思いながらも――今度こそ電話を掛ける為番号を押します。…間違えていませんわよね。ひとつひとつ番号を確認しながら掛けました。呼び出し音が鳴ります。繋がる先にいつも御世話になっている御医者様の声がして、良かったとやっと落ち着きました。――と、思います。ともあれ怪我人が居るのですぐ来て欲しい旨を伝えました。ですが確り伝えられたのかどうか――要点が伝えられたのかどうか。通話を切ったところで、わたくしは今度はそちらが心配になってしまいました。
少々不安に思いながらも、部屋に戻ろうと振り返ったそこで――母様が部屋から出てくるのが見えました。駆け寄ります。と、母様は…大丈夫よ。あんたの方がそんなに動揺しててどうするの、と宥めてくれました。
その通りです。わたくしが動揺していてどうするのでしょう。傷付いているのは、辛いのは、大変なのは彼自身の方であるのに。
わたくしは、母様のその言葉を胸に、再び彼の眠る部屋へとそっと足を踏み入れました。
…まだ、意識は戻らないようです。
ベッドの脇に椅子を置き、わたくしはそこで彼の様子を見守っている事にしました。母様は御仕事があります。御医者様も…すぐに来て下さるとは言え、それまで、放っておく訳にも参りません。だからと言って何が出来ると言う訳でもないですが――見守る事くらいは。
そう思い、わたくしはずっとその場に居りました。
………………彼と出逢ったあの場でも、思いましたが。
この怪我のせいだけでは無く、何だか…衰弱してしまっているようにも、見えます。
もし…彼の目が醒めましたら、シチューでも…お持ちした方が良いかもしれません。
わたくしに出来る事。小さな事でも何でもいい。考えながら、わたくしはそこに居て、彼を見守っている事にしました。
その顔を、改めて、見て。
こんな事を思っている場合ではないのですが――美しい方です。
何故、あんなところで…喧嘩なんて。
思いながら、わたくしは彼の顔を見ています。
…暫くの間、そうしてしまっていた…んでしょうか。
不意に、彼の瞼がぴくりと揺れました。
そして。
予感した通り、微かに開く瞼。
その奥に覗く青い瞳。
美しい色。
…こんな綺麗な青色は、滅多に表れませんのに。
それはほんの、一瞬の事。
力無く、すぐに閉じられてしまったけれど。
…けれど。
確かに、今。
…彼は――わたくしを、見た?
■
混濁する意識の中。
…ぬくもりを感じたのは、気のせい――だろう。
こんな私の事を、心底、慮ってくれる。気遣ってくれる。想ってくれる。
そんな、ぬくもりを。
今の私の側に、そんなあたたかなものが在る訳が無いのに。
そう、まるで『あの方』が、今、そこに居るような――?
思ってしまったが最後、どうしても今、正体を確かめたくなった。
このまま息絶えると言うのなら、せめて最期にもう一度。
その願いあってか――酷く重い瞼、僅かながら開ける事が叶う。
そこには。
泣かせてしまった『赤い』瞳。
…幻覚と知りながらも、そう見えた。
■
本当だったのかどうかわからないくらい僅かな反応。わたくしの茶の瞳とは全然違う、色。驚いて、ぼうっとしてしまっていたのかもしれません。
暫くして、御医者様が漸く到着します。…時計を見ればそれ程経った訳では無いとわかるのですが…それでも、随分と遅く感じてしまっていました。
御医者様を見たわたくしの視線は――縋るような視線だったのでしょうか。宜しく御願いします、と必死の思いで御医者様に彼の事を頼みます。
…大丈夫と安心させるよう微笑まれ、御医者様は部屋へと入りました。
そしてわたくしは――部屋から出されます。
ぱたん、と扉が閉ざされました。
わたくしはその場で、ゆるやかに閉じられた扉を――ただ、ずっと見ていました。
…御医者様が来て下さった。それはいいのですがそれでも――扉のその向こうのベッドで横たわっているひとの事が、ただ気になって――仕方が無くて。
【了】
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