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<東京怪談ノベル(シングル)>


何れ咲く幸いの花


 その日の約束が一方的なものではなく、どちらからともなくお互いの口から紡がれたものであったことに槻島綾は何よりも安堵していた。そんな風に綾が安堵していたことも、安堵の理由もきっと彼女は知らずにいることだろう。誘う言葉を口にした時の彼女の僅かに緊張した面持ちや滑らかには紡がれない言葉の一つ一つは、その時の綾の気持ちによく似ていた。そんなささやかなことさえも共有できるということがひどく綾を嬉しくさせたけれど、俯き加減で小さく頷いてくれた彼女がそれに気付いていたとは到底思うことができなかった。
 まだ総てを言葉にすることはできないから、今は静かにそうした一つ一つを大切にしていくことができたらいいと綾は思う。そのためのあの日の約束だった。薪能へ誘おうと思ったのは彼女ならその楽しみ方をよくわかっていると思ったからで、きっと彼女となら常とは違う楽しみ方をできる筈だと思ったからだった。誘いを受け入れてくれた彼女がそのように思ってくれたのかどうかは定かではないけれど、少なくともあの日の彼女はとても楽しそうだったと綾は思う。
 男性と出かけることには慣れていないのか、彼女は迎えに行ったその時からどこか緊張している様子ではあったがそれでもその日が訪れることを楽しみにしていてくれたことを確信できる笑顔を見せてくれた。どちらからともなく黙り込み、車中に落ちる気まずい沈黙を予め回避するために流していた音楽が意味を失うほどに、彼女のそうした態度は綾を落ち着かせてくれた。
 彼女との出会いは偶然。しかしそれを発端に機会があれば共に出かけることができるようになれたことは幸いだと思う。たとえ今の関係が恋人同士というようなものではないにしても、誘いに応じてくれるというそれが僅かな望みを繋いでくれる。そして同じ時間を共有する時に目にすることができる笑顔や楽しげな様子が綾を穏やかな気持ちにさせた。
 薪能を観るために訪れた人々は決して多くはなかった。駐車場から境内へ向かう決して長くはない道すがら、同じ方向へ向かう人々はまばらで人波に呑まれるというようなことはなかったのがその証拠だ。そうした状況が綾と彼女の間に自ずと距離を生じさせたけれど、遠慮がちでありながらもそれが気まずいものではなかったのは偏に彼女が綾の紡ぐ言葉に不器用ながらもきちんと応えてくれたからだった。
 他愛もない会話を繰り返して、たどり着いた客席で二人肩を並べて観た演目は「花月」。生き別れた親子の再会の物語であったが、それとは少し違った感情を綾の胸の内に芽生えさせた。幽玄を醸し語られた一つの物語が終われば自ずと周囲はざわめき出し、目の前で演じられたものに満足したことを伝えるには十分の笑顔を見せてくれた彼女は今すぐにでも何か語りたいのだといっているようであった。それは綾も同じことではあったが、それ以上のものが胸を占める。できることなら次の機会もこうして共にありたいと思う気持ちは、手放したくないのだというそれと同じだった。ずっと一緒にいられるとは思ってはいない。今はまだそうなるには足りなすぎるものばかりが鮮明で、どちらかが言葉に頼った約束を取り付けなければこうして二人で出かけることもままならないのだ。
 それでもできることなら次の機会などというものを待たずとも、いつまでも傍にいてくれたならと思う気持ちは矢張り恋と呼ぶに相応しいなどと人知れず胸の内で密かに思いながら席を離れ、駐車場に向かう道すがらどこか興奮気味に、それでいてまだ緊張を忘れきることのできない彼女の言葉を聞きながら綾は本当に一緒に一つのものを観ることができて良かったと改めて思った。
 誰かを何かに誘う時、その人が本当にそれを楽しんでくれたことがわかることほど幸せなことはない。その相手が最もそれを共有したいと思う相手であれば尚更に幸せだと思う気持ちは強くなる。彼女の満足そうな笑顔や言葉を綴る興奮気味な口調は綾を辟易させるどころか、何よりも幸福な気持ちにさせるものだった。当然のように一日が終わり、何事もなかったように想い出になってしまうことが哀しく思えるくらいにいつまでもすぐ傍でその笑顔を見て、言葉を聴いていたかった。
 少しでも長く彼女の笑顔を傍に置くことができる方法は何かと真剣に考え出してしまうほどに、終わりゆく一日の時間の流れを止めてしまいたいと思ったのはその時が初めてだった。誰かが彼女をさらわずとも、時間が自ずと彼女とさらっていく。時間が生み出す距離があればきっと自ずと不安を感じることもある。そうであるならば少しでも長く、すぐ傍にいたいと思うことは必然だと綾は思った。すぐ傍にある声をいつまでも聴いていたかった。それに応えられる自分でありたかった。
 だから手を伸ばしていた。
「天狗に連れ去られては困りますから」
 笑い、云った言葉が観てきたばかりの演目の内容を借りてその場を取り繕うものであったことを彼女は気付いていただろう。それでも綾はその時、手を繋がずにはいられなかった。華奢な手を自身の掌のなかに感じながら、壊れてしまうのではないかという思いが決して強く握ることを許さない。自分の年齢を思えばなんて幼いことだろうと思いながらも、繋いだ手を離そうとは思うことができない。手を繋ぐというそれだけで埋まる距離が何よりも穏やかな気持ちを連れてくる。すぐ傍にある彼女のやさしい横顔が嬉しかった。
 自宅へ送り届けるために乗り込んだ車中での会話は観てきたばかりの花月についてのことばかりで、気まずい沈黙を回避するための音楽は既に必要とされなかった。鮮やかに咲く会話の花が二人の距離を縮め、その日の一日の出来事をとても幸せなものにする。
「今日は、ありがとうございました」
 彼女の言葉が綾の胸に痞えていた心配事の総てを溶かした。どうしたしまして、と告げた自分の声はきっといつにも増して浮き足立ったものになっていただろうと後に独り反省するほどに、綾は素直にまるで子供のような素直さで応えていた。
「また機会があったらお付き合い願えますか?」
 図々しいだろうかと思いながら云った綾の言葉を彼女はそんな心配事を無意味なものに変えてくれるような笑顔で受け止めてくれる。それは約束を受け入れてくれたその時の笑顔と同じもので、ただ頷くその時に綾を真っ直ぐに見ていてくれたことだけが違っていた。
 あの日から彼女のことを考える度に、綾はこれからも多くのものを彼女と共に楽しんでいくことができればいいと思う。以前にも増して強く、彼女と共にあれば多くのものが色鮮やかなものに見える気がした。彼女がすぐ傍で笑っていてくれるというのなら、いつまでもすぐ傍で守っていきたいと願ってしまう。
 今はまだ子供のように不器用な誘い方しかできないけれど、いつかもっと素直に感情を表すことができるようになったなら彼女に伝えたいと思う言葉が既に胸の内に芽生えていることがわかる。
 二人であることができるなら、きっとそこには幸いの花が咲く。
 綾は思って、彼女と次に会うことができる日を想った。