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<東京怪談ノベル(シングル)>


あちこちどーちゅーき 〜銀鱗回帰〜

 錆が浮き、頼りなげに道に連なるガードレールの下から、冷やりとした風が吹き上げて青年の髪を揺らした。
 緑濃い山々の合間、川に沿って延びる道を桐苑敦己は歩いていた。
 自動車二台がすれ違うのがやっと、という道幅だが、敦己が対向車とすれ違ってからすでに一時間以上経っていた。
 所々ひび割れた舗装の隙間から、ハルジョオンが柔らかな若い葉と白い花をのぞかせている。
 見上げた木々の隙間から、陽射しが敦己の瞳にまぶしく映る。
 日が当った所だけ暑いな。
 視線を向かいの山に向ければまだ雪が木陰に残るというのに、太陽の暖かさは季節どおりだ。
 額にかかる光を掌で遮りながら敦己は息を吐き出す。
 新緑の爽やかな甘さを含んだ香りを胸一杯に吸い込み、敦己は立ち止まって休憩を取る事にした。
 靴紐を緩め、ペットボトルのお茶を口に含んで、寄りかかるのがためらわれそうなガードレールの下を覗けば、額に浮いていた汗もすっと冷えていく。
 細くも激しい水の筋は岩と木々の合間を縫って、飛沫を上げながら流れていた。
 その流れの中で、時折跳ね上がる影が見られる。
 あれだ……!
 細い川筋に不釣合いな大きな魚体、雪解け水で白く濁った流れの中にあっても一際輝いていた。
 銀色のその魚は『はるつぐ』とこの辺りの人々に呼ばれていた。


「そういえば、はるつぐさんが帰って来とるんよ」
「え? ご親戚の方ですか?」
 一瞬の間を置いて、ご飯をよそっていた旅館のおばちゃんの動きが止まる。
 そして大きな声で敦己は笑われてしまった。
「はるつぐさんは人じゃないとですわ」
 春になると川に戻ってくる魚、みたいなもんですよってにと、おばちゃんは笑って敦己に厚手の茶碗を渡す。
 元々あてのない旅の途中、山間のこの集落に敦己が立ち寄ったのは偶然だった。
 単純に道を一本間違えてしまい、引き返すには夜も遅い山道なので旅館に泊まる事にしたのだった。
 突然の来訪にも旅館のおばちゃんは快く部屋を用意してくれ、手厚くもてなしてくれた。
「魚みたいなもの、と言いますと?」
 人でもないのに、さん付けで呼ぶ辺りとても珍しいものなのだろうか?
「はるつぐさんは、子供と年寄りしか見えんのですわ。
昔っから春になると海から帰ってくるんだけども、それが見えるのはまだ小さい子供か、老いぼれたもんだけでの。
同じ川見とっても、いい若い者には見えんとです」
 若い者で見えるんは、よっぽど目が優しいお人なんじゃろね、とおばちゃんは続けた。
 優しい瞳。
 人ならざるものを受け入れる、しなやかな感性が瞳に現われれば、それは優しいと言えるのだろうか。
「俺も見てみたいな」
 雪解け水の中、上流を目指していく魚影は凛とした美しさがあるような気がした。
「ほんじゃ、よく橋の上で子供が川を見とるから、聞いてみればよかですわ」
「そうしますね」
 敦己は山菜の並べられたお膳を早々と平らげると、お礼を言って旅館を後にした。


 欄干が古びて黒ずんだ橋の上、ランドセルに黄色いカバーを付けた子供たちが橋の下を一心に見下ろしている。
 新一年生なのだろうか、背中よりも大きなランドセルは子供たちの背で朝日を浴びて輝き、黄色が目に鮮やかに飛び込んでくる。
「何か見えるかい?」
 敦己が話し掛けると、意外と人見知りもせず子供たちは答えてくれた。
「お兄ちゃん、よそから来た人?」
「学校行かなくていいの?」
「……あれ、見える?」
 橋の上から川面を見下ろせば、大人と同じ大きさの魚がゆったりと上流に向かって泳いでいる。
 これが、はるつぐ?
「ずいぶん大きい魚だね」
「見えるんだ!」
 子供たちは高い声をあげて笑った。
「お兄ちゃんはまだ、はるつぐさん見えるんやね!」 
「やっぱりあれがはるつぐさん、なんだ」
 大人には見えなくなってしまうという、幻の銀鱗。
 悠然とそれは川渕を舐めるように泳ぎ、つい、と橋の袂から抜けて上流に泳ぎだしていった。
「皆、また川見とったんやね。学校もうすぐ始まるよ」
「あ、先生おはようございますー」
「お兄ちゃんまたねー」
「走って行こう!」
 ぱたぱたと駆け出した子供たちのあとに、初老の男が残された。
 品のいいスーツは良く手入れされているが、いささか古びた感がある。
 この集落からずっと出ずに教諭をしているのかもしれない。
「ご旅行ですか?」
「ええ、そうです。
はるつぐさんって……どういうものなんですか?」
 ふ、と懐かしむような光が男の瞳に灯り、そのまま視線を橋の下に向ける。
「子供や年配の人しか見えない不思議なものでね。
私も小さな頃は、春になるとこうして川とはるつぐさんを見るのが好きでした。
あの大きな魚を見ていると、訳もなく胸がどきどきしてね」
 束の間瞳を閉じて、彼は思い出に身を任せた。
「いつの間にか、川を見る事もなくなって、はるつぐさんも見えなくなってしまったけれどね。
まだ、きみには見えるんだね?」
「はい」
 あんな大きなものが、人によって見えていない方が驚きだった。
「もう一度見たいと今でもたまに思う時があるけれど……まだ、その時は来ないなあ」
 子供の頃の憧憬は、この集落の人々に春の川面のきらめきとなって刻まれているのだろう。
 敦己はふと疑問を口にした。
「はるつぐさんて、あの……人みたいな名前ですよね。どういう由来が?」
「ああ。それは『春を告げるもの』だからだって、昔から言われているよ」
 遠くで予鈴のチャイムが鳴っている。
「先生が遅刻じゃ笑われるな」
 去りかけた男の背に敦己はもう一言だけ聞いた。
「はるつぐさんが上って行った先には何があるんですか?」
「さあ……はるつぐさんが見える子供やお年寄りでは、上流は目指せないからね。
神社があると聞いた事はあるけれど」
 自分の目で確かめるといいよ、という言葉に、敦己は頷いて歩きだした。


 ずっと沢づたいにあった道はいよいよ細くなり、もうこれ以上は進めないかと敦己が諦めかけた時、行き止まりの先に赤い鳥居が見えてきた。
 神社?
 小さな社と鳥居が、川の傍に寄り添うように建てられている。
 柱に塗られた朱色は褪せていたが、静謐な雰囲気は今も信仰を集める場所にふさわしい。
 社の奥に置かれたご神体は波濤と魚影を図案化したもののようで、ここがはるつぐさんを祀っているのは明らかだった。
「神主さんは……いるわけないか」
 一人呟いて、ぐるりと社の周りを回ると、社の後ろに緑の水をたたえた池があった。
 きちんと石を積み上げられたその真円の形から、偶然できたものではない事がわかる。
 水底を覗き込めば、ゆらゆらと魚影が幾つも影のようによぎる。
 ――久しい事よ。人の子がここまで来るのはいつぶりか。
 ――おお、おお。この者成人を過ぎて尚、我らが姿見ておるわ。
 魚影の口から気泡が昇るたびに、囁くような声が敦己の耳に届く。
 はるつぐさんの声なのか!?
 慌てた敦己の様子に、水底から笑うような気配が感じられた。
 ――いかにも我らよ、人の子よ。
   そなたはただの迷い子ではあるまい? 何用でここまで来たのか?
 確固たる意志があった訳ではない。ただこの美しい魚影が目指す先の風景を見たかった。
 それだけだったのだ。
 そう告げるのは高慢だろうか。
「俺は……」
 ――無理に言葉にせずとも良い、人の子よ。
   我らが姿、その瞳に映るだけで、そなたは人として無垢なものを持っておるのだから。
 大らかに包み込むような温かさを敦己は感じた。
 ――我らが何者なのか思いあぐねておるか。
   里の者は『春を告げるもの』と言っておったろう?
 池の水が淡い光を放ち始める。さざ波が水面に立ち、底から幾つもの魚影が上ってくる。
 ――我らは『春を継ぐもの』でもある。
   海神より山神へ、春のきざはしを手渡すものなり。
   この地にも春を告げ、これより雲となり水となり、また海神の元へと戻らん……。
 銀色に輝く魚体は霧のように霞み、朝もやが晴れ渡った空を目指すように上って行く。
 山里の遅い春の訪れに、敦己は瞳を細めてまぶしい空を振り仰いだ。


(終)