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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


若紫


 川にせり出す形で設けられたテラスにテーブルが並んでいる。白いパラソルで作られた日影に隠れるように座る者もいれば、柔らかな陽射しを楽しんでいる者もいる。
 約束の20分前は少し早すぎただろうか、そう思いながらテラスに出た綾は岸辺に近い場所に座る瞳子の姿を見つけて目を丸くした。てっきり自分の方が早く着くと思っていたのだ。
瞳子の方は彼に気付く様子はなく熱心に本を読んでいる。何の雑誌だろうか。
近付いてみると彼女の見ているページに見覚えがある事に気が付いた。あれは自分の記事ではないか。気恥ずかしいものを感じながら、綾は彼女に声をかける。
「こんにちは」
「あ。こんにちは、綾さん」
 目を上げると、瞳子は笑みを浮かべた。
「早かったんですね」
「瞳子さんこそ。……それ」
「さっき、本屋で」
 綾さんのお名前があったから。そう言われて綾は頬を緩めた。普段あまり読まないだろう系統の本でも手にとってくれたのは、自分の名前があったからだと思えば嬉しい。
「しかし、なんだか照れくさいものですね」
「何がですか?」
「瞳子さんが僕の本を読んでいてくれるのは知っていたのだけれど、目の前で読まれるとどうにも……」
そんな事を言う綾に瞳子は首を傾げた。
「あら、でも担当さんとかは読まれるんじゃないんですか?」
「それとは勝手が違いますよ」
 そういうものかしらと言う笑顔に黙って頷く。不思議そうに瞳子は口を開いた。
「担当さんって目の前で読まないんですか?」
「読む事もありますよ。でも仕事の相手が読むのと瞳子さんが読むでは大分違う。……そうだな、論文を目の前で音読されているような気恥ずかしさかもしれない」
 その図をちょっと考えてみたのだろうか、瞳子は頷いた。
「それはちょっと恥ずかしいかも……あ」
 強く風が吹いた。川を渡った風は涼しくて心地良いものであったけれど、勢いが強くて瞳子の髪を乱した。テーブルの上の雑誌もぱらぱらと見えない誰かにページを捲られる。
 瞳子が髪を慌てて手で抑える様子を見て、綾は川に背を向ける位置に座る事にした。こうすれば少しは風除けになりそうだ。
風の勢いが弱まって瞳子はほっとして軽く手で髪を整える。まっすぐな癖のない髪はすぐに元の状態に戻った。ほっとして綾の方へ目を向けると、彼は瞳子の手元に視線を向けていた。広告のページには一面に藤の花が咲いていた。
「うわぁ、綺麗」
「見事な藤ですね」
 視線を向けて思わずといった風に呟いた瞳子に綾も深く頷く。
 幾重にも重なった見事な花房がいくつもいくつも垂れ下がっていた。見渡す限り薄い紫が覆っている。こんな藤の花なんて見た事がなかった。
 ――撮影場所 千葉県
 一体どこの藤だろうと端の方へ視線をずらせば、実に大雑把な記載が小さな文字で記されていた。一口に千葉県といっても一体どこだろうか。
「こんな素敵な藤の花があるなら一度見てみたいですね」
 じっと雑誌を見つめていた瞳子がぽつりと呟く。綾はにこりと微笑んだ。
「探しに行きませんか?」
「え?」
「手掛かりはこれだけですけど」
 千葉県の文字を指で示す。千葉県に一体どれだけの藤があるのだか判らないけれど、行き当たりばったりに探してみるのも悪くない。今ならまだ藤の花も咲いている筈だし、探すのなら今がチャンスだ。
「素敵……いつ行きますか?」
「今からでも。……ああ、いえ」
 言葉を止めた綾に瞳子は首を傾げて言葉の続きを待った。
「ここでお茶を飲んでから、がいいですね」
「ええ」
 悪戯っぽい笑顔の青年に瞳子はくすりと笑って頷きを返した。


 高速道路を綾の車が走る。流れに乗って走り、時には追い抜きながら向かう先は千葉だ。晴れたそれはいかにもドライブ日和で、彼らの他にもそれなりの車が同じ方向に向けて走っている。
 瞳子には運転技術がどうとかなんてよく判らない。けれど、綾さんの運転は安心出来ると知っている。二人で過ごすドライブの時間はいつも楽しい。ちょっとだけ今は車に酔いそうだけれど、それは今だけの事だ。
 ロードマップと睨めっこをしている瞳子に綾は少し躊躇ってから声をかける。
「あんまり真剣に見ていると酔いますよ」
「大丈夫です、後少しだもの。……やっぱり、公園神社仏閣辺りかしら? でも学校もありそうね」
「学校?」
 やや不審げな綾に瞳子は小さく頷いて説明をする。
「学校の中庭に藤棚がある所もあるんですよ」
「へえ、それは知りませんでした。桜ならありそうな気がするんですけどね」
 笑う声に瞳子は頷く。桜ならばある程度の広さがある場所にはどこにでもありそうな気がするが、藤となると難しい。
「思い出してみると藤ってあまり知らないんですよね。いつ咲くのかとか漠然としか判らないし」
「5月頭位かな。日本らしい花と言う気がするけど、僕もあまり詳しくは知らない」
 実際、綾は正確な花期は知らない。何となくのイメージだ。
「ですよね。日本人ってまず桜って感じがするし……、あ、でも日舞に藤のお話がありますよね」
「ああ。藤娘だっけ」
 瞳子は頷きながら、笠を被り藤の枝を下げた少女の舞を思い出してその歌を口ずさむ。
「若紫に十返りの 花をあらわす 松の藤波」
「どんな意味なんですか?」
「松の木の中に一つだけ大きな藤がたわわな花をつけている所、かしら。舞台では大きな大きな藤の木が背景になっているんですよ。藤の花の精霊が花が咲くたびに美しい姿で藤の下に立って恋に悩むお話なんですって」
 うろ覚えな知識を披露するとへえと綾が頷いた。
「言われてみれば、藤はそんな話が似合いそうな雰囲気だな。……さて、次のインター辺りで降りようかと思うのだけど、どっちに向かえば良い?」
 インターの名前を確認して地図と見比べると瞳子は顔をあげる。
「最初に右に曲がって国道に合流してください。……ね、綾さん、見つかると良いですね」
 笑みを浮かべた女性の言葉に綾は頷いた。


 いくつの場所を巡っただろうか。あれやこれやと場所を巡って、もう数時間になる――いまだ目的の藤は見つかってはいない。
疲労はしていたが、それは楽しい疲れだった。藤棚の下のベンチに並んで腰掛けペットボトルのお茶を飲みながら二人は頭上にある花を見上げた。
「当り前だけど藤にも色んな種類があるんですね」
「ああ。それに近付いてみると薄紫とは言い難いな、結構濃い色をしている」
「花弁の付近も黄色いし……今まで全部薄紫色なんだと思ってました」
 僕もだ、と頷かれて瞳子は笑顔になった。知っている筈の知らない事を二人で知っていけるのは楽しい。そんな瞳子の密かな思いを知ってか知らずか、綾は大きく伸びをする。
「桜以外の花をこうして見て回る機会ってなかったな。瞳子さんは?」
「私もです。藤以外も見て回ると素敵かもしれませんね」
 頷いて綾は立ち上がった。もう少しのんびりしたくもあるが、夕闇が迫っている。
「見て回れるとしたら後一つかな。どこの藤がいいだろう」
「……藤を見て回ってるの?」
 のんびりと藤棚の前を散策していた中年女性が振り返った。はい、と瞳子が頷くと女性は言葉を続ける。
「高圓寺にはもう行った?」
「高圓寺? いいえ、まだ」
 首を振ると女性はそれはいけないと首を振った。
「ここまで来て長寿藤を見ないなんてもったいないわ。近いから是非行ってみて」
 樹齢200年とも言われるその藤は花房が1メートルにもなるという。それを聞いて二人は顔を見合わせた。もしかしたらあの写真の場所かもしれない。女性に詳しく場所を聞いて、二人は早速、高圓寺へと向かったのだった。


 目の前に広がる光景に二人は息を飲んだ。
 高い位置にしつらえている筈の藤棚から下がる花房は目の前まで降りてきていた。一つ一つを見れば然程大きくない花だと言うのに、それが集まった花房はなんと大きく艶やかな事だろう。
 そんな存在感をしていながら、風に揺れる様はどこか儚い。
 儚いのにどこか力強い。相反した二つの言葉を内包した美しさがそこにあった。
「なんて綺麗……」
「……ああ」
 呟くような言葉にため息のような応えが返る。しかし二人はそれに気にする様子もなくただひたすらに目の前にある光景に見入っていた。
 なんという光景だろう。なんという花だろう。
 桜に勝るとも劣らない美しい花がそこにあった。こんな美しい花を見落とすなんて随分勿体無い事をしていたものだ。
「若紫に十返りの……」
 先程、瞳子が吟じた言葉を綾は呟いた。
「花をあらわす 松の藤波。……こんな光景なんですね」
 今にもその向こうから美しい娘が現れて来そうだ、そう思う。
もしもいるならばその娘はどんな面影を宿しているのだろうか。目を閉じれば思い浮かびそうだ。
 左腕がそっと引かれた。見下ろせばどこか不安げな面持ちの瞳子がそこにいる――綾の見た藤娘の面影がそこにあった。
「どうしました?」
「……あ、いえ。なんだか」
 なんだか藤娘がそこにいるような気持ちになって。
 瞳子は目を伏せた。綾さんを連れて行かれそうな気がした、なんて口に出せる訳もない。
「僕もそんな気持ちになりましたよ。……人になった末娘を探しに来たなんて」
 え、と首を傾げた瞳子は小さく笑った。
「私は藤娘じゃありませんよ」
「ええ。でないと僕が困ります。藤娘なら花が散ったら消えてしまう」
 言ってから自分の言葉の意味に気付き、綾はそっと瞳子の様子を伺った。やや頬を染めてはいるが拒絶の色がない事に安堵する。
「私は……いなくなったりしません」
 その、と言葉を探す様子に綾は笑みを浮かべた。お互い、上手い言葉はそうそう思いつくものではない。
「……来年も」
「ええ。来年もまた」
 一緒に見に来たいですね、笑いあってそう約束する。きっとその約束は叶うだろう。
 だからその言葉を胸に刻みながら、日が暮れきるまで二人は藤を眺め続けた。
 ――来年までに思い出が色褪せないように、忘れないように、と。


fin.