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<東京怪談ノベル(シングル)>


日常


 広すぎるマンションの一室。そこは時折、城田とも子の胸にささやかでありながらも大きな淋しさに似た何かを落とす。妻として落ち着く場所を手に入れたというにも拘わらず、夫と同時に得たこの生活空間はひどく殺風景なものだった。家具家電が揃っていないわけではない。生活に必要なものは十分に揃えられ、広すぎる空間を確かに埋めているというのにそれでも消えることのない空白がそこかしこにひしめいている。
 何がそうさせるのかと自分なりに考えてみたこともないわけではない。夫が以前独りで生活していたこの場所にどうにかして馴染もうと思っていることも本当だ。けれどこの部屋について考える時、決まって鮮明になるのはここは独りで生活するにはあまりに広すぎるというそれだけである。そして自分はまだ馴染みきれていないことを痛感するのだ。居場所がないわけではない。居心地が悪いと断言することもできない。けれどささやかでありながらもはっきりとした違和感を拭い去ることができないのだ。はっきりと言葉にされることがなくともここにいてもいいのだと夫が云ってくれていることはわかる。けれど何のためにここにいるのかということがわからなくなると決まって、この部屋に犇く淋しさのような不確かなものがとも子の胸を重くした。
 プラチナのリングを贈られて、奇妙なプロポーズの言葉を告げられたのは数ヶ月前のこと。
「結婚でもして、一緒に暮らしてみようか」
 まるで明確にはならないことを確かめようとしているような口調だった。しかしだからといってその明確にならないものがなんであるのかがわかるのかといったらそうではない。なにも自分の年齢を考え結婚を急いだわけではない。一緒に暮らしてみようかと云われて、ただなんとなくそれもいいかもしれないと思うことができたから頷いたのだ。この結婚に後悔はない。だからといって人が云うような幸せがあるのかといったら、わからないとしないとしか云いようがないのはどうしてなのだろうか。きっとどこかではこの生活を幸せだと思うことがいる自分がいることがわかる。けれどそれを確かなものとして受け入れることができない違和感がとも子の思考をいつもささやかながらも乱し続けていた。
 専業主婦らしく家事全般をそつなくこなすことができる自分がいたことに気付くことができたのは、結婚してからのことだった。元々そうした才を持ち合わせていたのか、今ではすっかり主婦業が板についている。炊事洗濯、夫の生活の面倒をみること。近所付き合い。どれもこれも決して面倒なことではない。誰かのためになどということは思わないけれど、妻としてしなければならないことをこなしていく日々は以前にはなかったものをとも子に与えてくれた。自分でも不思議に思うくらいに、つまらないと思うような一般的な生活がとも子をどこかで満たしてくれているのは本当だ。
 それでもふとした瞬間に思う、淋しさにも似た何かがそうしたものを素直に受け止めることを許してはくれない。きっと何かが決定的に足りないのだと思う。夫婦として暮らすこの日々のなかには肝心な何かが明らかに欠落しているというのに、それがわからないことでこうした憂鬱のようなものを感じてしまうのだ。
 夫婦仲が悪いわけではなかった。しかしそこに恋愛感情があるのかといったら今はまだ否と答えることしかできない。これまで一度として甘く、激しい盲目的になれるほどの強い感情を夫に抱いたことはない。ただなんとなくそこにいるからその存在を素直に受け入れているだけで、誰にも渡したくないだとかささやかなことで嫉妬心を抱くようなことはこれまで一度としてなかった。夫というその人に関する総てを諦めているのだろうか。そんな風に考えたこともあったけれど、それは何かが違うと思う。
 もし本当に総てを諦めていたならきっと、家事をこなすことの意味さえも同時に失っていただろう。今、この家に腰を落ち着け家事をこなし、夫の帰りを待つ日々が続いているということはまだどこかで夫に何かを望み、期待している証明なのだととも子はまるで縋るような思いで信じている。
 キッチンに立ち、ひねった蛇口から溢れる水に手を受けると、それはひどく冷たかった。温度が夫の瞳の色を思い出させる。時折ひどく冷めた鋭利な光を放つそれは、時々どこへ向かおうとしているのかをわからなくさせる。医者という社会的なポジションを持ち合わせていても、そこに根を張るつもりなどないと云っているかのような気配。夫はどんなことがあっても自分は医者だと云う。とも子もその言葉を信じている。けれど夫としてではなく、彼を個人として見るとその言葉はいとも容易くとも子の胸のうちでゆらゆらと揺れた。
 総てはあの瞳が時折見せる鋭利な光のせいだった。傭兵としてコードネームと共に生きていた頃、あのような目をした人を多く見てきた。どこか淋しげで、そして総てを諦めて、ただ一つの駒として動くことに努めている人ばかりだった。そうした人々が今、どこで何をしているのかは定かではない。自分のように引退したものもいる筈だと思えども、引退するというそれだけであの頃に目にしていた総てが別のものに変化するとは思えなかった。
 だから怖いのかもしれない。
 手に水を受けながらとも子は思う。
 夫もまたとも子と同じ引退した傭兵だ。だからこそ理解しあえることもあると思うけれど、だからこそできないことがあるのだということもわかる。同じであるからこそわかりあえないことは多い。今の自分にはあのような生活には戻るつもりはなかったけれど、いつ夫があの日々に戻ろうとするかもわからなかった。今ではないこの先のことを考えれば不安ばかりがそこにある。はっきりとしたものではないから尚更に、不安がある。ささいなことをきっかけに総ては良くも悪くもなるのだということを肌で実感させられる日々を過ごしてきた。予測することはできても、それが絶対ではないということを厭というほど目の前で見てきた。ほんの一瞬先のことであっても、それが確固たるものであるということを証明できる者は誰一人として存在しない。
 だから怖い。
 濡れた手で触れた耳朶には夫の瞳の色によく似たアクアマリンのピアス。頭の片隅には夫のためにと思う夕食の献立が腰を落ち着けて、この部屋に帰ってきたその時にはどんな顔をして用意したそれを見てくれるのかと考え始めている。口に合うものを作ることができればいいと思っている。そして何より無事にこの部屋に帰ってきてくれればいいと切実ともいえる強さで希う自分がいた。
 この平和すぎる日本では帰ってくることが当然だというにも拘わらず、夫が無事に帰宅することを待つ心はまるで戦地に赴く夫を待つ心境だった。いつだって夫は当然のように帰ってくるけれど、それがいつ何を発端にして突然ぷつりと途切れてしまうかもしわからない。当然の連続が断ち切られる瞬間はいつも唐突だ。そんな日々を過ごしてきたから尚更に怖いと思う。帰宅して顔を見るまでは安心することができない。平和すぎる日本の一部となって暮らしているつもりでも、どこかで隔てられているのかもしれないと思う気持ちが心配する心を肥大させる。自分が死ぬことを怖いとは思わない。思うことができない。それなのに夫が帰宅しないことを思うとこんなにも心が乱されるのは一体どういうことなのだろうか。とも子にはわからなかった。
 それでも総ては日常の一部。途切れることなく続く日常というもののなかに存在する一部にしかすぎない。淋しさも不安も恐れも何もかもが一部にしかすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。だからこそとも子はただ待ち続けることしかできない。頭の片隅には夕食の献立。魚嫌いの夫に魚を食べさせるにはどうすればいいのか。そんな他愛もないことだけがささやかな温かさをまとってとも子の脳裏にあった。