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<東京怪談・PCゲームノベル>


『千紫万紅 縁 ― ライラックの花の物語 ―』


 身勝手な想い。
 だけどあたしは想ってしまう。
 抱いてしまう、彼に。
 口に出して言ってしまうのは簡単。
 でもそれであたしは彼の夢をあたしの想いで縛り付けて、潰してしまいたくなかった。
 だけれども抱いてしまう恐怖心。
 あたしはどうしようもなく彼に恋をしていたのだ。
 そしてあたしは出逢った、とても可愛らしい黒瞳黒髪のライラックの花の妖精に。



 ―――――――――――――
【第一輪 リラ冷え】


 最初の出逢いはどうしても諦めきれなかったコンサート会場でだった。
 チケットが取れずに諦めなければならなかったコンサート。だけどそれをどうしても諦めきれずに足を運んだそこで私は彼と出会った。
 チケットの無い私に彼は急用で来られなくなった友人の分のチケットを私にくれた。普段の私なら、多分断っていた。
 それでも初対面で申し訳なく感じながらもその申し出を受けたのはそれだけそのコンサートが聴きたかったから。
 魅力的な申し出。喉から手が出るほどに欲しかったチケット。ただそのコンサートが行われている空間に居られればそれでよかった。そう言い聞かせて居た空間で、出逢った思いがけない幸運。
 だけどチケットをくれた彼に顔を真っ赤にさせながら頭を下げていた私はその時は知らなかった。その出逢いの意味を。私が出逢ったその人が後にもっと私を驚かせる事になる人物である事を。
 開演までの短い間、簡単な自己紹介。それから彼がエッセイを書いている事を知った私は愛読している雑誌の大好きなエッセイの事を話し、『あの、すみません。その雑誌の旅行記を書いているの僕なんです』、という照れながら顔を真っ赤にして云った彼の言葉に大いに驚いたのだ。
 本当に私はその言葉にものすごく驚いた。
 よく世間は狭いというけど、本当にそうだと想い、そして彼の色んな話を聞きながらもやっぱり私が楽しみにしているその雑誌のエッセイを書いているその人が私の前に居る事が不思議でならなかった。
 だけど嬉しい幸運はそれで終わらなかった。
 出逢いは偶然。
 わずかコンサートの間だけの時間だと想われた二人の縁は、それ以降の時間も私にくれた。
 それから何回か私たちは一緒に出かける事になる。
 彼の運転する車の助手席に乗る度に私はそれが信じられなくって、不思議で、夢見心地で、そして彼と一緒の空間に居る事にとても緊張して、恥かしくって。
 ―――だけどその今までに感じた事の無い緊張は決して嫌なモノではなかった。
 寧ろ私はその緊張…彼の隣に居るだけで恥かしさに火照る顔、彼の声を聞いてるだけで、彼の優しい視線に見つめられるだけで、彼の体に温もりに触れるだけでとくん、と早く脈打つ軽やかで幸せな心臓の音色が私に囁きかけてくる。


 私が、隣に居る彼に、抱く想いの名前を。


 では彼はどうなんだろう?
 彼は、私の事をどう想っていてくれるのだろう?
 雨の日、一緒に傘を差して歩く私は隣の彼の顔を横目で盗み見る。そしたら私の視線に気付いた彼はん? という優しく柔らかな眼差しを私に向けてくれて、それだけで私は恥かしくって、もう何も言えなくって、俯いてしまう。
 多分、嫌われていないとは想う。自意識過剰かもしれないけど、それでもあの人に大切にされている自覚はあった。
 だから私はその事に安心してしまって、それから前進する事……自分の想いを彼に口に出す、または彼に私への気持ちを問う事には躊躇ってしまう。
 私自身もまだ、私の心臓の音色に、戸惑っているから。私は本当に彼に………してるの? って。
 だから不用意に自分でもまだよくわかっていない感情の名前を口にしてぎこちなくなるのが嫌だった。それでせっかくの二人の関係が壊れしまうのが怖かった。
 彼に大切にしてもらっている自覚はあるけど、それでもその相手の感情はLikeかもしれない。Loveじゃなくって。
 一緒に居ると楽しいけどとてもドキドキして、緊張して、にこにこ笑顔の彼の気持ちがとても気になる。
 気の合う友達と出かけるのが楽しい………
 ―――ひょっとしたら彼はその程度の気持ちなのかもしれない。
 私は感じた感情に苦笑を浮かべて、舌を出す。
 だってそう想ったら少し残念なような気がしてしまったのだもの。
「それってやっぱり………よね」
 肩を竦める私は、目の前にある木を見つめた。
 そしてその木と、手に持つ雑誌の旅行記とを見比べる。
 その旅行記はこの言葉から始まっていた。
 リラ冷え。
 リラ冷え。とても綺麗な言葉。
 ライラックのもう一つの呼び方。
 フランス語表記『lilas』、リラ。
 リラ、というのはフランス語。
 実際に冷たく澄んだ空気が肌に触れているようなそんな錯覚を覚えさせるとても綺麗で丁寧な空気の描写が、リラ冷えという言葉に続いていて、そして次に私はその文章を読みながら美しく咲き誇るライラックの花を想い描いた。
 北海道、札幌市の旅行記の始まりはそんなリラ冷え、という美しい季語と、綺麗に咲くライラックの花の描写で始まっていた。
 その文章があまりにも綺麗だったので私は思わず北海道や札幌市、それにライラックの花や、リラ冷えについてネットで検索したものだった。
 そしていつか私は北海道に、札幌市に、この雑誌の旅行記に載っている写真のライラックの花を見に行こうと心に決めた。
 初めて見たその旅行記が載っている雑誌はだから私の宝物となって、私はもうほとんどその旅行記を読むためだけにその雑誌を読むようになった。
 そんな時に思いがけずに出逢ったそのエッセイを書いているあの人。
 その人に抱いた想い。
 彼の書く文章から垣間見える彼への憧れなのか、それとも出逢った彼に抱いた憧れの想いなのか、その二つの想いの狭間で新に抱いた想いに悩む私はだから、常々胸に抱いていた北海道旅行を決めた。
 初めて彼を知ったその旅行記に沿って旅をして、彼が見た物、聞いた物を、私も見て、聞いて、それで彼への想いを確認してみようと。
 そうして立ったライラックの木の下。
「わぁー、本当にすごく綺麗なものね」
 私は彼の旅行記にあらためて目を通す。
 鮮やかな花の色彩の描写。
 芳しい匂いが香るような文章を読んでから、そっとライラックの花に向けて背伸びをしてみる。
 わずかに近くなった花はとても綺麗で、かわいらしい形をしていた。
 それから私はふいに前にネットで検索したライラックの花の伝説の事を思い出す。
「だけどそんなに簡単には見つからないものよね」
 というか、ラッキーライラックの伝説、って………
 ちょっと顔が火照ってしまう。
 多分今の私は耳まで赤くしているのだろう。
 うぅ…。何をやっているの、私?
 自分で自分に突っこんで、何となくテンションが下がって、私は溜息を吐きつつ、背伸びしていたかかとを地面に下ろした。
 見上げていた視線を前に向ける。
「…………」
 にへらぁー、と笑うその子。
 さぁーっと全身に鳥肌が立つのがわかった。
「きゃぁー」
 思わず後ろに飛びのいた私だけど、慌てていたせいでバランスを崩して後ろに倒れそうになる。
 左手は雑誌を抱えていたから、右手で空を掻くのだけど、それでバランスを取り直せる訳も無く、私は尻餅をついてしまった。
「痛ぁ〜い」
「わわ。ごめんなさいでしぃ」
 顔をくしゃっとさせて寄ってくるその子。
 慌ててやってくるその子には本当なら大丈夫だよ、っていう笑みを浮かべてあげるべきかもしれない。
 だけど今はどうしてもダメ。
 だってその妖精の子ったら、ビニールのエアーで動く蛙の玩具を持ってるんですもの。
 だから私は寄ってくるその子に右手を出して、振った。
「ダメ。来ないで。お願い」
「うぅ。わたしは虫じゃないでしよ?」
「虫はいいの。寧ろ虫と蛙だったら、虫を選ぶから。だからお願い。その蛙の玩具だけはどこかにやって」
「でし? わわ。わたしを虫と間違えてびっくりしたんじゃないんでしか? そうでしか! よかったでし♪ いつも皆さん、わたしを虫と間違えて驚くんでしよ。って、あ、でもわたしは本当に虫じゃなくって、スノードロップの花の妖精なんでし♪」
「え、あ、うん。それはわかったからお願い。お願いだから蛙をなんとかして!!!」
「あ、はい。わかったでし♪」
 そうして蛙の玩具をしまってくれた彼女に私はほぉっと一息吐いて、がっくしと両肩を落とした。
 なんだかどーんと一気に疲れてしまった。
「大丈夫でしか?」
 私の顔を覗き込むその妖精の姿に私は今更ながらにちょっと驚く。
「妖精って、本当にいたんだ」
「はい、居るんでしよ♪」
 にぱぁっと微笑んだ彼女。その彼女の背後から、その優しそうな顔をした男の人はやってきた。
 銀色の髪の下にある顔に優しそうな笑みを浮かべて、ちょっと驚いたように青い瞳を見開くと慌ててこちらにやってくる。
「あの、すみません。大丈夫ですか? またひょっとしたらうちのスノーが何かご迷惑を」
「あ、いえ、違います。違います。私がちょっと躓いて転んじゃっただけですから」
 私は慌てて立って、お尻についた砂を払った。
 その人の肩に座って妖精は私に向かって両手を合わせる。
 私はくすりと笑ってしまう。
「ご旅行ですか?」
 その人は私の持つ荷物を見ながらにこりと微笑んでそう訊いてきた。
「はい。うちの大学、5月には皐月祭という球技大会を開いて、その間は講義が無いんです。ですからその時間を利用して、北海道に一人旅に」
「はわぁ。一人旅でしか??? 怖くはないでしか? 何か危ない目に遭わなかったでしか? 綺麗なお嬢さんが一人旅だなんて危ないでしよ。女の子の一人旅と三人旅は危険でし」
 両拳を握ってそう訴える妖精に私は苦笑を浮かべる。
「あの、スノードロップの妖精さん。女の子の一人旅が危ないのはまあ、わかるとして、三人旅はどうして?」
 小首を傾げた私のさらりと揺れた前髪の向こうで彼女はふるふると震えながら言った。
「女三人旅は何かの殺人事件に巻き込まれて、それを解決しないといけなくなるでし」
 思わず私は目を瞬かせてしまう。
 そしてその後に至極真剣に言った彼女には悪いけどくすくすと笑ってしまった。
 だって本当にかわいらしかったんですもの。確かにテレビドラマでは女三人で旅行に行くと、絶対に殺人事件に遭遇してしまう。
「あ〜、笑うなんてひどいでし!」
「ごめん。ごめん。もう笑わないから許して。ええ。女の子の一人旅と三人旅には気をつけるわ」
「はいでし」
 こくりと頷く彼女に私も頷いた。
 それから私は少し遅くなったけど、自己紹介をする。
「あの、私、千住瞳子と言います。大学では美学美術史を専攻しています」
「ああ、それで北海道へ?」
「あ、いえ。今回はこの旅行記に沿って旅をしてみたくって、それで。私は音楽学を中心に勉強しているんです」
 微苦笑を浮かべながら私は肩を竦める。
「ああ、なるほど。それではこちらも順番が逆になってしまいましたが、自己紹介をしますね。僕は白、と言います」
「わたしはスノードロップでし♪」
「白さんたちは地元の方なんですか?」
「いえいえ、わたしたちはお仕事で来てるんでしよ」
「お仕事?」
「はい。僕は樹木の医師なんです。このライラックの木の定期検診に」
「え、この木、病気なんですか?」
「いえ、この木は元気ですよ。ずっと。とても大切にされていますから。僕の依頼者に」
「依頼者?」
 この木が植わっている土地の地主だろうか?
「瞳子さんはこの後に用事はありますか?」
「あ、いえ、特には。でも、あの、この近くにある喫茶店に行こうと想いまして」
 私がそう言うと、白さんはにこりと微笑んだ。
「それではもしもよかったらご一緒に昼食でもどうですか? 僕にこのライラックの木の定期検診を依頼している方がおそらくはその喫茶店のマスターだと想いますから」



 ―――――――――――――
【第二輪 マスター】


「いらっしゃい。白さん。ご苦労様でした。それであの子は?」
 あの子? 多分ライラックの木の事。
 でもあの子、だなんてまるで人に対して言うみたい。
 私はそのマスターさんの優しさに微笑ましさを覚えた。
 確かにあの人が言うようにとても優しい人のようだ。
「おや、そのお嬢さんは? スノーちゃんの他にも助手さんを雇ったのかい、白さん」
「あ、いえ、私は」
 私はマスターさんに手を横に振った。
「この方は千住瞳子さん」そして白さんはマスターさんに私があの人の旅行記のファンで、それに従ってここに旅行に来た事を説明した。
 マスターさんはほやっと笑う。
「懐かしいねー。彼がこの街に取材に来た時にここにも寄っていってくれてね。それで彼とは親しくなったんだ」
「はい、聞いています。色々とマスターさんには良くしてもらったと」
 なんとなく伝えたかった。あの人の今を。
 それはものすごく照れくさかったのだけど。
 そう言うとわずかにマスターさんは驚いたように目を見開いて、それからにこりと微笑んだ。
 白さんの方もあの優しい顔を浮かべている。白さんの銀色の前髪の下の青い瞳を見ていると、なんだかこの人は最初から私と彼との関係に気付いているような気がした。
「ここには最初から来るつもりでした。彼から聞いているんです。ここの喫茶店のオムライスは玉子がふわふわでとても美味しいって。それからマスターさんたちの恋物語とか」
 私がそう言うと、マスターさんは照れたように頬を人差し指で掻いた。
「参ったな」
「いえ、とても素適だと想いました。よろしければマスターさんからもお聞きしたいぐらいに」
「若い人にそう何度も聞かせるような話じゃないんだけどね」
「マスター。僕も聞きたいですね」
「わたしもでし!」
「おいおい、白さん、スノーちゃん。困ったね」
 そう苦笑したマスターさんは大きく肩を竦めて、それから万歳をした。
「それじゃあ、老人の若かりし頃の恋物語を聞いてもらおうかな。その前に瞳子さん。オムライスでいいかい?」
「はい」
 私はこくりと頷いた。
 わずか十数分で美味しい匂いを香らせるオムライスが私の前に置かれる。
「うわぁー、すごく美味しそうだね、スノーちゃん」
「はいでし」
 大きなお皿の上に悠然と乗っているオムライス。マスターさんがナイフをオムライスの真ん中にすぅーっと入れると、ケチャップライスの上に玉子がとろーんと広がる。
 その上にミートソースがかけられた。
「さあ、どうぞ」
「はい、いただきます」
 スプーンにケチャップライスと玉子を乗せてそれを口の中に運ぶ。ふわりと広がった玉子のまろやかな食感とミートソースの味がすごくマッチしていて、その後にバターで炒めたケチャップライスと他の具の美味しさが口の中に広がった。
 彼に話を聞いてからずっと食べたかったオムライスなのだ。それを食べれた幸福感に私はとても嬉しくって、それからその事を彼に話したらどんな反応を見せるのかそれを想像するのがとても嬉しかった。
 あのコンサートの開演時間までの短い間にしあった自己紹介で私は彼があの旅行記の書き手である事を知ってとても驚いて、それから彼に夢中になって私が初めて読んだ彼の札幌の旅行記の感想を話した。そうしたら彼は事細やかに私に話してくれたのだ。あの旅行記を書くに当たっての経験した事の全てを。
 その中にここの喫茶店の事もあった。
 マスターさんがとても良い方で、すっかりと意気投合してお店に泊めてもらって、地元の事を話してもらった事、それからマスターさんと亡くなった奥さんとの恋愛話。
 彼の話し方や声は、彼の旅行記の文章を読んでいる時のようにリズム良く軽やかに私の心の中に流れ込んでくるようで、とても心地良かった。
「さてとどこまで聞いているんだい、私らの事は?」
「えっと、最初からお願いします」
「しますでし♪」
 私とスノーちゃんは笑顔でマスターに言う。やっぱりマスターは照れくさそうな微苦笑を浮かべながら頷いて、そして話してくれた。



 私と妻、塔子が出会ったのは40年も前でした。当時彼女は……
 ―――マスターさんの話は彼に聞いた通りの話だった。
 とてもロマンチックな恋物語。
 そしてちょっぴりと不思議な恋物語。
 ライラックの花の妖精が縁結びした恋物語。



 私と彼の物語はどうなのだろう?
 ただの友情物語?
 それとも………



 ―――――――――――――
【第三輪 ライラックの花】


 私はまたあのライラックの花の下に来た。
 思いがけずにマスターさんのご好意によって私は彼も泊まったあの喫茶店の二階の部屋に泊れる事になった。スノーちゃんと一緒に。
「綺麗ね、やっぱり」
「はいでし♪」
 さぁーっと風が吹く度に枝が擦れて鳴って、それが心地良くって、そうして揺れる花の舞いはとても綺麗だった。
 だけど吹く風はやっぱりまだまだ肌寒い。
「うぅ〜、でも寒いでしね」
「うん、リラ冷え」
 リラ冷え。その原因はオホーツク海高気圧で、その冷たい空気が北海道に影響を与えているのだ。
「この北海道を代表する俳人さんが詠んだ句の冒頭に使われたのが最初なんだって。リラ冷えっていうのは造語なのよ。その人が作った。そしてこのリラ冷え、っていう言葉を広めたのが作家さん」
「うわぁー、すごいでしね、瞳子さん。物知りさんでし♪」
「ありがとう」
 リラ冷え、その言葉の響きと、彼の文章がとても綺麗だったから私はその言葉を調べて、それらの事を丸暗記した。もちろん、その作家さんの本も読んだ。
 今までよりも強い風が吹いて、そしてライラックの花の花びらが空を舞う。
 私は風に遊ぶ髪を押さえながらそれを見つめた。
 かつてこのライラックの木の下で結ばれたマスターさんと奥さん。
 きっと二人もこの綺麗に咲き綻ぶ花を見ていたのだろう。その時に二人は、一体その光景の事をどう想ったのだろうか?
 私はそれをひどく知りたいと想った。
「あなたは知っているのかしら?」
 そっとライラックの木の幹に触れて、抱きしめる。
 その瞬間、どくん、とライラックの木が何故か脈打ったように感じた。
 リラ冷えの頃の肌寒い風。
 その風が奏でる音に混じって、誰かの、「はくしゅん」、というかわいらしいくしゃみの音が聞こえた。
 私は私の右肩の上に居るスノーちゃんを見る。だけど彼女は右手を振った。
「違うでしよ、わたしじゃないでし」
「あれ、じゃあ、誰が?」
 くしゃみは私の木を挟んで反対側から聞こえてきた。
 試しに半周してみると、いつの間にかそこにひとりの女性が居た。
 年の頃は私と同じくらい。
 ライラックの木の幹に背中を預けて座り込んでいる彼女。長い黒髪が印象的だった。
「あの、大丈夫ですか?」
 目をぱちぱちと瞬かせる彼女。どうやらお互いにお互いの存在を気がつかなかったようだ。
 ―――でも若干、その事に怪訝な想いを抱くのだけど。
「え、ええ、だいじょう…ぶ、はくしゅん」
 彼女は照れくさそうな笑みを浮かべながら鼻を啜った。
「あの、よかったらこれをどうぞ」
 私は空港でもらったラベンダーの香りがするポケットティッシュを彼女に渡した。
「ありがとう」
 彼女はほやっと笑う。
「ごめんね、見っとも無いところを見せちゃって」
「いえ。今はリラ冷えの季節。ついつい薄着で出ちゃいがちだけど、それでは肌寒いんですよね」
 だけど彼女はん? と小首を傾げた。
 あれ、何か言い方を間違えただろうか?
「リラ冷え?」
「ええ。リラ冷え。ちょうど今のこの季節、ライラックの花が咲く頃の冷え込みの事を、言うんですけど?」
 おかしいな。リラ冷えってもう季語にもなっていて、北海道の人は誰でも知ってると想っていたんだけど………
「初めて聞いた。でも綺麗な言葉ね」
「ええ」
 私は頷く。やっぱりその言葉は嬉しい。
 リラ冷え、というのは私にとって想い出深い話だから。
 そして私は躊躇いながら訊く。
「泣いて、いたんですか?」
 彼女はかぁーっと顔を赤くして、手で顔を擦った。
「嫌だなー。ごめんね。またまた変なところを見せちゃって」
「い、いえ。あの、でも、何かあったんですか?」
 お節介とも想ったけど、私はそう訊いてみた。
「あ、うん。彼氏とね、喧嘩したの」
「それは…困りましたね」
 私が言葉を探しながらそう言うと、彼女は彼女の隣に同じようにしゃがみこんだ私の肩を両手でぎゅっと掴んできた。
「聞いてくれるの。彼の愚痴」
 私の体をがくがくと振りながら言う彼女に私は苦笑を浮かべながら言う。
「聞きますよ。それであなたも少しは落ち着くだろうし」
 ちなみに女の子の彼の愚痴とは、そう書いて、のろけ話と読む。
 ちょっと私は心を引き締めながら彼女の隣に座りなおして、彼女に頷いた。
 彼女はとても嬉しそうな笑みを浮かべた。その表情を見て私は彼女の事をかわいいと想った。そして彼女は恋をしているのだな、って。
 そしてあらためて私は想った。あの人の隣に居る私はいつもどんな表情をしているんだろう? って。
「あのね、彼はコックなの。この近くにあるホテルのレストランでコックとして中学校を卒業してから働き出したんだけど、でもその彼がフランスに料理の勉強に行くって言い出して。じゃあ、あたしはどうすればいいのよ? って。だってあたしたち付き合いだしたばっかなのよ。今が一番いい時期なのに。あたしはいつも彼の隣に居たくって、彼の声を聞いていたくって、手を握りたいとも想うのに、なのに彼はフランスだなんて遠くに行きたいって言うの。じゃあ、何? そう想っていたのはあたしだけなの? あたしだけが恋人関係になって浮かれていたの? って、すごく恥かしくなって、それで子どもみたいに彼に言いたい事を言って、ここに逃げてきてしまいました」
「それは………困りましたね」
 確かに今は電話にメール、チャットとかもあって、遠距離恋愛も前ほどには辛くは無いかもしれないけど、でもやっぱり………
 私は頭上のライラックの花を見上げる。
 とても綺麗で、可憐な淡い薄紫の花。
 その花を見ていて、自然に思い浮かぶのはあの人の顔。
「とても綺麗な物を見た時には伝えたいですよね。見せてあげたい。そしてできるなら一緒にそれを見たいですよね」
 私がなんとなく、そう、とても綺麗な夕焼け空や、虹、そういうとても涙流すような綺麗な物を見た時にいつも抱く想いを言葉に紡いだら、
「あなた…恋をしているのね」
 そうやっておもむろに彼女に言われてしまった。
 私は思わず目を瞬かせてしまう。
「いやだ、ひょっとして自分が恋をしている、っていう自覚ないの?」
「あの、えっと…」
 突然の事に頭が真っ白になってしまって、上手く言葉が見つからない。
 そしたら彼女はとても優しい笑みを浮かべた。そしてそれはどことなくうちの一番上の姉の笑みに似ていた。前に初恋に苦しむ私の相談を静かに聞いてくれて、そしてアドバイスしてくれたあの時の姉の。遠い昔の懐かしい思い出。
「とても綺麗な物を見た時に、それを一緒に見たいと想う人の事を女の子は好いているんだよ。もしも願いが叶って、その人と恋人関係になれようものなら、本当にその感情は片想いの時以上に強くなるんだから。好きな人に自分の感動した光景を見せたいと想うのは当たり前だし、やっぱりそういう感情は共有したいじゃない」
 優しく微笑む彼女はくすっと笑って、そして私の目からいつの間にか溢れ出した涙をハンカチで拭ってくれた。
「あれ、やだ。ごめんなさい。私ったら…」
「大丈夫」
 彼女は優しくそう言ってくれる。ぎゅっと私を抱きしめてくれて。
 私の目から溢れ出した涙。
 だけどそれは嬉しい涙。
 とても心嬉しくなるような想いの色に色づく心が流した涙。
 そう、私はあの人に恋をしていたのだ。
 憧れはいつの間にか親しみと信頼に変わり、そしてそれが恋心を生んだ。
 それが嬉しかった。
 とても、とても、とても。
 あの人に恋をしている、私。
 そんなにも嬉しく、幸福なことはないもの。
「あの、えっと、ごめんなさい。あなたのお話を聞いていたのに」
「いいえ、いいのよ。あなたの涙のおかげであたしもなんだかすっきりとしたから。あたしもね、ここで彼に告白されたの。その時はとても嬉しくって、幸せで、あたしも泣いてしまった。その想いに今も変わりは無いのよ。あたしは彼がとても好き。とても好きだからこそ、彼がフランスに行ってしまうのが怖い。会えない時間が、二人の居場所の距離が彼の気持ちを変えてしまったら、って…。それが怖くって。嫌な女ね。彼の夢を応援してあげたいのに、笑って彼をフランスに行かせてあげたいのに、なのにそんな恐怖心ばかりが心を満たすの」
「だけどそれはあなたが彼を好きだから」
 私はそんな事しか言えない。
 彼女はぶんぶんと顔を横に振る。
 そう。好きだからこそ不安なのだ。
 女の子はいつだって恋に臆病で、不安だから。
 私は瞼を閉じて、心を鎮めさせると、うんと頷いた。
 それから私の肩の上のスノーちゃんを見る。
「スノーちゃん、協力して」
「瞳子さん?」
「ラッキーライラックを探すの」
「あ、はい。わかったでし♪」
 私は立ち上がって、背伸びしてラッキーライラック…花びらが5つに裂けている花を空を飛ぶスノーちゃんと一緒に探す。
「あの?」
「ちょっと待ってて」
 私は不思議そうな顔をする彼女に微笑んだ。
 彼女の恋を応援してあげたい。
 彼女を笑わせてあげたい。
 彼女を幸せにしてあげたい。
 確かにラッキーライラックの伝説は、あくまでただのジンクスでしかないけど、それでも想いは力となって、奇跡を呼ぶから。



 そう。私がずっと彼に会いたいと想い続け、そして彼と出会ったように。



「あー」
 思わず顔が綻んだ。私は背伸びをして、それに手を伸ばす。中指と人差し指の先が花に触れる。
「わたしが取りましょうか?」
「ううん、大丈夫。スノーちゃん、私に取らせて」
「はいでし」
 そう。私が取ってあげたかった彼女に。
 そして私の指先が花に触れて、それからライラックの花が自ら私の想いに応えてくれたように、花が枝から取れた。
「やった。取れた。あの、これを」
 私は彼女にラッキーライラックを渡す。
「これを飲んで」
「ライラックの花?」
「そう。普通のライラックの花は花びらが4つに裂けているの。でもこれは5つに裂けているでしょう? こういう花の事をラッキーライラックと呼ぶの。この花を飲み込むと、愛する人が心変わりをしない、そういうジンクスがあるの」
 彼女は私が渡した花をじっと見た。そしてそれを口に持っていって、だけどそこで手を止めて、私を見つめて、微笑んだ。
 涙に濡れた顔に浮かべた彼女のその表情を私は本当に綺麗だと想った。
「ありがとう。だけどもう大丈夫」
「え?」
「あたしは彼の心変わりが怖くってしょうがなかったけど、でもあなたに出逢えて、大丈夫だと思えるようになったの。だってあなたはあたしの恋を一生懸命応援してくれた。まるであたしの恋を成就させるためにあなたが現れて、そして応援してくれた。それだけであたしはあたしの恋は大丈夫だと想えるの。運命の出会いというのをあたしは何よりも信じるから。だからこのラッキーライラックの花はあなたと出逢った記念に持っておく。そっちの方がお守りになるような気がするの」
「うん」
 私は頷いた。
「あの、そういえば自己紹介がまだ。私は千住瞳子。こちらの妖精はスノードロップの花の妖精のスノーちゃん」
「あたしは…」
 リラ冷え。
 とても強い風が吹いて、
 そしてライラックの木は、花びらを惜しげもなく舞い降らせる。
 降るように舞い落ちる淡い薄紫の花びらが作った花霞みの向こうから男の人の声が聞こえた。
「塔子ぉー」
 それはとても若かったけど、でも間違いなくマスターさんの声だった。
 そしてじゃあ、この私の目の前に居る彼女は………
「あたしは木内塔子よ」



 ぱん、と空間が爆発するように花の嵐が起こって。



 そしてそれが止んだら、そこに居るのは私とスノーちゃんだけだった。



 ―――――――――――――
【ラスト】


 私たちは顔を見合わせて、それから小首を傾げあう。
「瞳子さん」
 そんな時に後ろからかけられた声。
 振り返るとマスターさんが居た。
「綺麗ですねー、本当に」
「はい」
 私はマスターさんと同じように花を見上げて頷いた。
「私はね、ここで妻に告白して、それからわずか1ヵ月後に、フランス留学の報告をして、大きな喧嘩をした後にまたこの木の下で仲直りをして、それから彼女にプロポーズをしたんです」
「はい」
 頷く私にマスターさんはズボンのポケットから取り出したペンダントを渡してくれた。
 私の手の平の上にあるのはラッキーライラックのペンダント。
「私と喧嘩をして泣いていた妻に、このライラックの花の妖精がくれたペンダントだそうです。妻曰く、とてもかわいらしい恋する妖精さんだったそうです」
「え、え、えっと」私は照れてしまう。
「私たちが長い間遠距離にあっても、結婚の約束を忘れずに想いあって、そしてちゃんと結婚できたのはその花のペンダントのおかげなんです。だからそれを瞳子さん、もらってくれますか?」
 私はそのマスターさんの申し出に慌ててしまう。
「でもそんな、大切な物を」
 でもマスターさんはとても優しい顔で頷いてくれる。
 だから私は…
「ありがとうございます」
 それを受け取った。
 そして店があるマスターさんはまた休憩を終えてお店に戻っていって、スノーちゃんもマスターさんと一緒に行ってしまったので、私はひとりライラックの花を見上げる。
「本当にとても綺麗」
 きゅん、と胸が切なく痛んだ。
 とても嬉しい色、恋心と言う色に染まる私の心。
 だけどそれ故に胸が切なく痛い。
 私は彼に会いたいと想った。
 彼と同じ空間に居て、そして彼の声を聞いて、彼の温もりを感じながら、この美しく優しい夕暮れ時の光を浴びるライラックの花を見たいと想った。彼に見せたかった。この優しく美しい世界の光景を。
 私は彼が好きだから。
 自然に携帯電話のカメラで今目の前にある光景を写して、そしてそれをメールで彼に送ろうとして、そしたら携帯電話に電話がかかってくる。
 ひょっとして、そんないつも電話がかかる度、メールが着信する度に胸に抱く予感をやっぱり感じながら液晶画面を見ると、そこに表示されているのは彼の名前で、それで私はいつも以上に緊張しながらその電話に出るのだ。
 ちなみに私が今、ここに居る事は内緒になっている。だからきっと私がここに居る事を告げたら彼は驚くだろう。
 そう言えば彼は今は何処に居るんだろう?
 確か旅行記の取材で………
「こんばんは」
『こんばんは』
「今回の旅行記の取材、そういえばどこに行っているんですか?」
『どこだと想いますか? 実はね、キミが読んでくれたあの旅行記の、札幌の街に居るんです。今、ライラックの木の所に向かっているんです。とても綺麗に今年も花を咲かせていると聞いたから、だからせめてキミに写真を撮って、送ってあげたいと想ったから。本当は見せてあげたかったんですけどね、キミにとても綺麗なライラックの花を』
 それから………
 それから、私たちの会話は止まる。
 だって私たちはライラックの花の下で出逢ったのだから。
 そして私は彼に微笑んで、まずは彼に何から話そうか考えながら口を開いた。


 ― fin ―




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【5242 / 千住・瞳子 / 女性 / 21歳 / 大学生】


【NPC / 白】


【NPC / スノードロップ】


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、千住瞳子さま。
 はじめまして。
 このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。


 今回はご依頼ありがとうございました。^^
 いかがでしたか?
 今回は瞳子さんが彼に抱く想いを自覚できるようなお話を、という事でこのようなお話にさせていただいたのですが?^^
 お気に召していただけていますと幸いです。^^


 今回選ばせていただいたお花はライラックの花。
 ライラック全般の花言葉は、愛の芽生え・愛の最初の感情・青春の喜び・若き日の思い出・初恋の感動・無邪気・若さ・友情 となっており、所縁の日は、5/2・5/11・5/12・6/26(誕生花として全てOK)となっています。^^
 ライラックの花言葉がまだ恋が始まる少し前の淡く切ない、そして何かが始まる喜びと期待、そういう感情に満ち溢れた瞳子さんたちの関係に相応しいかなーと想い、この花を選びました。^^
 お二人様のシチュエーションノベルがもう本当にすごく素適で、こんなお二人様の関係に触れるお話を書かせていただける事がすごく嬉しかったです。^^
 お二人の恋、上手く成就すると良いですよね。^^
 本当にお二人がそうなれる日がすごく楽しみです。^^
 またもしもよろしかったら、書かせてくださいませね。^^


 それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
 ご依頼、本当にありがとうございました。
 失礼します。