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<東京怪談ノベル(シングル)>


「春の海」


春の海 ひねもす のたりのたりかな  蕪村

国語の教科書で見つけた、お気に入りの一句。
なんとも穏やかな、ゆったりとした心持ちを表現しているのが好きで
優名は幾度となく読み返しては思わず微笑んでしまう。

まだ、海を見たことはない。

よく、映画やテレビに登場するのは常夏の真っ青なマリンブルー、
砕ける波と白い泡飛沫、爽快な空には入道雲――そんな風景だが、
蕪村の歌う「春の海」は、そういう雰囲気ではないようだ。
人も魚も波も空も、すべてが穏やかに凪いで、
生命が息吹く春を思い思いに謳歌しながらゆったりとくつろいでいる、
そんな、春の海。
春に見る海という意味ではなく、海の心に春が来ているのだ。

きっと、波は穏やかにうねって、海の色は少しくすんだような青なのだろう。
澄み通りすぎて触れるのに気が引けてしまうような生粋の青ではなく、
触れればやんわりと溶け合うような、生命が溶けたスープのような海。

いつか、行ってみたい

そう思う時、なぜか心のどこかで、それは叶わぬ望みなのだという
予感めいた感情が生まれて、漠然と寂しいような気持ちになる。
なぜだろう、それはわからない。
そんな時、ふと、見つけた蕪村の俳句。

まだ見ぬ海、まだ触れぬ海――優名の心の中では、
いつでも、蕪村が歌った春の海のイメージが広がっている。
耳を澄ませば、そのまま穏やかに凪いだ潮騒が聞こえてきそうだ。

「あー、いいお天気!」
窓の桟に背を預けて、寄りかかりながら外に顔を出す。
ちょうど教室の窓から上半身を突き出すような格好で、仰向けに空を仰いだ
優名を見て、グラウンドを駆けていた数名の学生が危うく転びそうになった。
ちょっと、危ないよ優名! 慌てたように声をかけ、教室に引き戻そうとする
クラスメートたちに、大丈夫大丈夫、と笑い返す。
校舎の壁を伝うようにして吹き降ろしてきたビル風に目を細め、
真上に広がる茫洋とした空を見つめた。きれいな青。

きっと、春の海はあんな感じだろう。
きっと、春の潮風はこんな感じだろう。

海と空は、似ている。
見たことはないけれど、でも、きっとそうだ。
水を集め渦を巻き、風を吹かせ、青く深く澄んで見る者を引き寄せる。
時には荒れ、時には凪ぎ、人の心を映し出して鮮やかに獰猛にうねる。

波に触れたくて、空に向かってそっと右手を伸ばしてみた。
途端に、まるでそれに応じるように吹いてきた風が優名の手を取り、
頬を撫で髪を揺らして、ゆったりと流れていく。
すぐ下に植えられたポプラの梢がザワザワと風に鳴り、
それがまるで、潮騒のように思われた。
「クロール!」
呟いてから、ふふ、と小さく微笑んで、空気の流れの中で指をゆっくりと動かす。
そうしていると、自分が前に向かって、上に向かって、泳いでいるような気がする。
そのまま見上げていた空が近づいてきて、自分を包んでいるような錯覚。
ちぎれた雲の片鱗は、波飛沫。
舞い上げられた花びらは波間を滑るヨットの帆。
飛び行く雲雀はカモメの子。
そして、波風に身を委ね、ゆっくりと青の中を漂う私は、人魚のつもり。

ずっとこうして、空の海と戯れ、心までゆったりと深い青に染まりたい。
だんだんと薄れていく寂しさ。
ずっと一緒だと、ずっと共にあると、そう語りかける空の波。
七つの海に住まう人魚姫のように、大きくうねる波間を抜けて、
その青の先、そのずっと先にある、海の心に話し掛けてみたい。

そんな風にぼんやりと思い巡らせながら、春の陽気にほだされていく。

春の海 ひねもす のたりのたりかな
(春の海を眺めながら、一日中 のんびりのんびりしたいものだよ)

蕪村は、本当に春の海を見てそう思ったのだろうか。
毎日あくせく動き、移り変わっていく世の中を行過ぎながら、
ふと空を見上げ、穏やかな春の海を思い描いて微笑んだのでは?
――今の自分のように。

まだ見ぬ海を思い描いて、心馳せて。

生命の源を抱いてたゆたい続ける、青い世界の穏やかさを、
神秘的な言葉で綴って壁を作ってしまうのではなく、
“ひねもす のたりのたり”と、他愛ない身近な言葉で表して、
もっと近くに置いておきたかったのかもしれない。


また、風が吹いてきた。
静かに目を細め、伸ばした手で波をすくうように風に触れる。
「気持ちいい……」
春の海の青が、優名を抱きしめるようにして降りてきた。
うららかな陽気の中で、溶け出す青が見も心も染めていく。

あの空をずっと辿っていけば、やがて陸が終わり、海に連なる。
空は、きっと海が溶け出して広がったから、
あんなにみずみずしい青なのだろう。

いつか、行ってみたい

まだ見ぬ海、まだ触れぬ海――優名の心の中では、
いつでも、蕪村が歌った春の海のイメージが広がっている。
遠く近く、まるで母のようにすべてを抱く、穏やかな海が。

耳元を、波の音がかすめたような気がした。