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夏至の夜、午後十時
窓越しに見える、夕闇に暮れなずむ街を千住瞳子はぼんやりと眺めていた。
新宿都庁に近い高層ビルの二十七階にあるレストランは、夕食には幾分早い時間のせいか静かな空気が流れている。
透明硝子の向こうに広がるのは新宿の街並。
ビルの群れの中、点在する緑の森がいち早く夜の闇に染まっていく。
青く沈んでいく街の中で、街灯やビルの照明が明度を増したかのように輝きだしていた。
「綺麗ですよね」
瞳子の視線の先にあるものを同様に見つめていた槻島綾が、ぽつりと呟いた。
その声に我に返ったように瞳子は視線を対面にいる青年に戻す。
「ごめんなさい、私ったら」
景色に見入っていたことに恐縮し顔を赤らめた瞳子に、綾は柔らかな笑みを口元に湛えゆっくり首を左右に振った。
「僕もここから眺めるこの時刻の景色が好きなんです。目が吸い寄せられてしまいますよね」
「本当に。夕暮れの空も綺麗なんですけれど、街の光が表情を持ち始めてる感じがして」
「陽の光の中では目立たない光が、闇の中では花が開いたような華やかな印象に変わりますよね。人が作り出した光は、夜にこそ本当の姿を見せるのかもしれません」
本来はそのために生み出されたものたちですから。
そう続けた綾の言葉に瞳子は相好を崩す。
「さすが作家さんですね、咄嗟にそんなことにまで思い至るなんて」
「あまり自分では意識したことはないんですが」
面映そうな表情を浮かべ、綾は視線を再び外へと向けた。
「この景色を見るたびに星の光に似ているなと感じるんです。昼間もそこに光はあるのに、夜にならないとその存在に気づけない。……星といえばなんですが先日、夜の地球を写した衛星写真を見る機会があったんです。瞳子さんはご覧になったことがありますか?」
薄暗い青に沈んだ世界地図の中、先進国を中心に散らばる無数の光の点。
光の版図であるそれは世界の情勢地図と見ることも出来た。
省エネを訴えかけるために使用されたその写真を、綾はただ純粋に美しいと感じてしまった。自ら光を発することのできない惑星が、宇宙に向かって呼びかけているように見えたのだ。暗い海に向かって光を放つ灯台のように。
そう告げると瞳子も分かります、と大きく頷いた。
「私もつい先日、友人に見せてもらったんです。キャンドルナイトに参加してみないかって誘われたときに」
「キャンドルナイト?」
首を傾げる綾に、瞳子は一言断りを入れて鞄の中から一枚のペーパーを取り出した。
『でんきを消して、スローな夜を』
表にはいくつもの蝋燭が生み出すオレンジの光に照らし出された少女たちの写真が配されている。闇と光の微妙なバランスの世界の中で二人の表情は温かく、また柔らかい。
綾はその写真の傍らにレイアウトされた趣旨の説明を目で追っていく。
夏至の日。二時間、文明社会から離れてみる。
「その裏に、夜の地球の衛星写真が載っているんです。私たちはもう光を手放した生活をすることはできないですけれど……三百六十五日のうちのたった一日、それも数時間だけならできるなって。夜の衛星写真、綺麗だとは思うんですけれど、でも、なんていうんでしょう、これはいいことなのかなって思ったり、綺麗だけど寂しいなとか、感じてしまって。思えば随分と光のない夜から遠い所に来てしまったんだなって思いました」
一生懸命喋る瞳子の姿に目を細め、綾は微笑を浮かべる。
「色々なことを考えさせてくれる写真ですよね。……そうだ、瞳子さん。僕らもキャンドルナイトをしてみませんか?」
都合が宜しければ、と控えめに提案した綾に瞳子の表情がぱっと華やぐ。
「是非。家ではちょっと出来そうになくてどうしようかな、と思ってたんです」
「ご家族が多いと難しいかもしれないですね。では僕のマンションの方で。楽しみにしていますね」
穏やかな笑みを浮かべる綾に、こちらこそ、と瞳子も微笑んだ。
◇2
可愛らしい色彩の雑貨店の前で、瞳子が難しげに眉を顰めている。
「匂いがきついのは……。うーん、無香タイプかな。長すぎるのも勿体ないですよね」
色とりどりのアロマキャンドルを手に取り、時には鼻を近づける瞳子の姿を、綾は苦笑交じりに眺めていた。
同年代の男性に比べてこういった店に入る抵抗は少ない方だと思うが、やはり周囲の視線は気になる。
だが、あれは、これは、それとも、と、くるくる表情をかえる瞳子は見ていて飽きなかった。
「じゃあ、これにします。買ってきますね」
何本かの蝋燭と蝋燭立て用の小皿を抱えてレジに向かう瞳子の姿を見送っていると、
「よぅ」
聞きなじみのある声とともに肩を叩かれ、驚いて振り返ると、そこには某興信所の所長が立っていた。
「何かあったんですか?」
ハードボイルドを好む彼がこういった店に好んで姿を現すとは思えず、綾が調査か何かと問いかけると、気だるげに顎で店の奥を指し示す。
「事務所のメンバーでキャンドルナイトパーティとやらをやるってことになってな。その買出しだ」
見れば顔馴染みのメンバーが店の奥の方に見え隠れする。何やら己の上司たる所長をとがめだてするような表情だった。
どうやら気を遣ってくれたらしい。……目の前の人物以外は。
「お前らは?」
「同じくキャンドルナイト用の買出しですよ」
彼の視線がレジでの清算を済ませ戻ってきた瞳子の顔へと移動する。
「あら、こんにちは」
「よぅ。お前さんたちもキャンドルナイトをするんだってな」
「ええ、この間食事をしていたときにその話題になって、やってみましょうって話になったんですよ」
嬉しそうに喋る瞳子とそれを見つめる綾の穏やかな表情に、探偵を生業とするその人は意味深長な笑みをその面に浮かべた。
「二人で?」
「ええ二人で」
彼は意図的と分かるほどあからさまに、ゆっくりとした口調で言葉を重ねる。
「二時間、暗闇で」
「そういうつもりじゃありません」
その言葉の意味するところを察し顔を赤らめ応える綾に対して、一方瞳子はにっこりと微笑み、「そうですよ」と何事でもないといった様子で頷いた。
その真意を測りかねて黙り込む男性二人に対して、
「いい映画らしいですから、楽しみですよね」
とこの店を訪れる前に借りてきたレンタルビデオの入った袋を掲げてみせる。
「槻島くん」
無邪気な瞳子の表情を見つめながら厳かな口調で彼が言葉を紡ぐ。
「健闘を祈る」
その言葉に綾は微苦笑をもって返答とした。
◇
一番陽が長い日と云えども、八時近くになれば夜の帳も落ちる。
綾の手料理に舌鼓をうち、食事の片付けを終えると、二人はリビングのソファの上で時計の針を見つめ、その時が来るのを待っていた。
テーブルの上には入れたての紅茶の他、色とりどりの蝋燭とマッチが並べられている。
「あと一分ですね」
「……五十六、五十五……」
「……三十、二十九、二十八」
カウントダウンをする二人の声は徐々に小さくなっていく。
綾はソファを立ち上がり部屋の照明のスイッチへと手をかけ、瞳子はマッチの準備をする。
「五、四、三、二、一」
ゼロ、という言葉とともにパチンという音が室内に鳴り響き、照明が落ちる。
それとほぼ同時に瞳子がマッチを擦り、蝋燭に火を灯した。
鼻をつく火薬のかすかな匂いとともに、部屋の中心に次々と小さな炎が生まれていく。
テーブルの周囲を照らしだす光に、瞳子の輪郭も淡く浮かび上がる。
「ハッピーキャンドルナイト、とでも言うべきですかね」
笑みを含んだ声で周囲を憚るように囁きながら、綾はソファに腰掛ける。
五本並んだ蝋燭にすべて炎を灯した瞳子も、ちょこんといった体で綾の傍らに座り込む。
「そうですね、ハッピーキャンドルナイト、でしょうか。ちょっと誕生日のあのドキドキ感を思い出しちゃいました」
「ケーキの蝋燭に炎が灯って、おめでとうと言われながらその火を吹き消すのが誕生日の醍醐味ですよね」
「ケーキの蝋燭ってすぐに火を吹き消しちゃうでしょう。あの胸の高鳴る感じがずっと続いてるような気分になりますね」
くすくすと小さな笑い声をたてながら、お互いいつの間にか顔を寄せ合って喋っていることに気付き、瞳子が驚いたように離れる。
「ビ、ビデオ、セットしますね」
慌てた様子の瞳子に綾は笑みを浮かべて、髪の毛を掻きあげた。
その映画はアイルランドが舞台だった。
どこか青みを帯びた映像、荒削りな自然と、不思議な空気。
妖精の伝説の残る寒村で生きる少女とその家族、自然と人間、人間と妖精、妖精と自然、そういったものたちの係わりを静かに、そして美しい映像で綴った良作だった。
エンドロールを見ながら、眼鏡の弦を人差し指で直しながら綾が隣を見遣ると、瞳子が寝息をたてて眠っている。
最近はレポート続きだったという話も聞いていた。そしてこの暗闇、またの映画の人の心を癒すような音楽では致し方ないことかもしれなかった。
オレンジ色の光が作る柔らかな陰影。いつもよりも幼く見える寝顔。
「瞳子さん」
囁くように名を呼んでみるが、彼女が起きる様子はない。
睫毛が長いんだな、などとぼんやりと思いながら、綾は知らずその瞼に唇を寄せていた。
唇に触れる温かな肌の感触に、自分が何をしたのか気付き、そっとソファを立ち上がる。
口元を押さえながら己の行動に微苦笑を浮かべる。
綾は立ち上がり、寝室からタオルケットを持ってくると何もしらず眠り続ける瞳子にそっと被せた。
時計へ目を向けるともう十時を過ぎてしまっている。
蝋燭はまだ長く、この炎と空気を消してしまうのは忍びない。
綾は窓際にたち、閉めたカーテンをそっと開ける。
「もうしばらく寝かしておいてあげましょうか」
空に浮かぶ月齢十四の月に話しかける。
キャンドルナイトのあとは月の光を楽しむのも悪くないと思っていたのだが。
「送りがてら、月明かりの中ドライブっていうのもいいですよね」
そう呟いて綾は炎の揺れる室内を振り返った。
でんきを消して、良い夜を。
END
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