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† 月 光 風 †
月明かりすら差し込まない真っ暗な部屋。
窓際にある小さなベッドの上に薄い布にくるまれた一人の少女の姿があった。
まるで道端に毛布にくるまれて捨てられている猫のような空気さえ感じさせるその風景。
しかし、そこは道端などでもなく、そしてまた彼女も捨て猫というわけでもない。
ここは彼女の…”ロゴス”と言う名の小さき少女の部屋だった。
消え入りそうなほどの小さな寝息をたてていたロゴスのまぶたがピクリと動く。
静かにゆっくりと開かれた青い瞳は未だ夢うつつの間ではっきりとはしていなかった。
「……誰…?」
定まっていなかった焦点は、小さな呟きを発すると同時にはっきりとしてくる。
そこには見慣れた部屋の天井。
「―――誰なの…?」
聞きなれぬ誰かの声が自分を呼んでいる気がして、ロゴスはその身を起こした。
真っ暗闇の部屋の中、ぼうっと彼女の目の前に一人……いや、
人として数えて良いのかわからないが、そこには血にまみれた剣を手にした騎士の姿があった。
その剣は部屋を支配する夜の暗闇より暗き漆黒で、刀身には赤い血の色がつっと伝っている。
黒い刃と、真っ赤な血。そこには生を何も感じさせない何かがあるような気がした。
「あなたは…誰?」
目の前にいるその騎士を見ても、ロゴスは動じず、騒ぐこともなく静かに問いかける。
騎士はじっとロゴスを見つめたままで何も答えず、ただそこに佇んでいた。
視線をその騎士の手元に移したロゴスは、騎士が剣以外になにかを持っている事に気づく。
………真っ黒な表紙の古い本。
戦う騎士がどうして賢者のように本を持っているのだろう…ふとそんな事がロゴスの頭を過る。
その時、ピチャリと音を立てて、騎士の剣を濡らしていた真っ赤な血が床に滴り落ちた。
ゆっくりとロゴスは視線をその血と剣に向け、そのまま流れるように騎士の顔へと向ける。
「……ロゴスも…殺すの…?」
『殺す』と言う言葉を発しても、ロゴスは恐怖感などは無かった。
目の前にいる騎士はきっと死神なんだろうと…自分を地獄へ連れて行ってくれる神様なんだろうと、
むしろ、ほっとするような安堵を感じていた。
騎士はやはり何も答えず、無言のままでその大きな腕をロゴスへと伸ばした。
「……お願い…」
ロゴスは誰かに何かを聞かれたような気がして無意識のままで呟き返していた。
何を聞かれて何を答えたのかは、自分でもわからなかった。
ただ、騎士の腕に抱かれてロゴスは安らいだ気持ちで目を閉じた。
このまま地獄へ連れて行ってくれる…そうすれば、きっと安らぎの眠りを手に入れることが出来る…
騎士の腕の感触を感じながら、ロゴスは眠りに落ちるような感覚に身を委ねた。
※
頬に感じる風と、鼻腔をくすぐるような草の香りの心地よさにロゴスは目を覚ました。
きっと次に目を開いたときに見えるのは地獄の闇だろう…そう思っていた彼女の目の前には今、
夜空に浮かぶ、薄蒼色の丸い月が輝いていた。
自分が今おかれている状況を理解しようと身体を起こしたロゴスの視界一面に、
優しい風が表面を撫でている緑の草原が広がっていた。
まだ時間は暗い夜であるにも関わらず、景色がはっきり綺麗に見える理由は…上空に浮かぶ月の光。
薄蒼の月は、夜の闇を優しく、それでいてどこか鋭く切り裂いて草原に光を降り注いで照らしていた。
「…地獄じゃ…ない…?」
風の音よりも小さなロゴスの呟く声と同時に、彼女の背後に馬の蹄の音が響く。
振り返ったそこには、あの黒い剣を持つ奈落の騎士が、力強く黒い毛並の馬と共に立っていた。
「ここは…何処…?」
騎士の顔をじっと見つめながら問う少女の言葉にも、騎士は答えない。
彼女の言葉が聞こえないわけでも、無視をしていると言うわけでもなく…ただ、答えない。
「あなたが…ロゴスを連れてきてたの?」
声を出すこともしなければ頷くことも首を振ることすらしない、騎士。
「―――あなたは…誰?」
ここへ来る前にも問いかけたのと同じ問いをロゴスは投げかける。
しかしやはり、騎士は何も答えなかった。
自分をこの草原へと連れてきた理由も、自分の前に現れた理由もわからない。
ただ、敵意や殺意と言った『負』の感情は感じられなかった。
ロゴスはゆっくり立ち上がりながら、よろけるように一歩、騎士へと歩み寄る。
彼女を見つめながらも、微動だにしない騎士。
正面で黙ったまま向き合い、そっと、ロゴスはその細い腕を騎士へと伸ばす。
騎士の手に自分の手が触れる一瞬前、少しの躊躇いを見せたものの、ロゴスはぎゅっと騎士の手を握った。
何故だろう?何故だかわからないけれど…そうしたいと思った。
無言のままで騎士を見上げるロゴス。
無言のままでロゴスを見下ろす騎士。
そのまま、ただ時間だけ過ぎていってしまうのだろうか…と思った、その時。
「!」
騎士の手を握っていたロゴスの手に加わる、力強い感触。
騎士も同じようにロゴスの手を握り返していた。
力強い自分の手が彼女の手を壊してしまわないように、優しく。
ただ、手を握っているというそれだけの事。
それなのに、そこから何か暖かい感情が流れ込んでいるような気がして、ロゴスは安堵の気持ちを感じた。
―――地獄へ行けるんだと感じた時とは違う、安堵の気持ちを。
ロゴスはその時、笑顔を見せた。
それは彼女が見せた、はじめての笑顔だった。
†終†
※この度はご依頼誠にありがとうございました。
※誤字脱字の無いよう細心の注意をしておりますがもしありましたら申し訳ありません。
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