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■+ 挑み続ける子供達 +■
至福の時は、そう長く続かない。
これは自然の摂理……なのかもしれなかった。
ほややんとした表情の大層品の良い、いや、有閑貴族と言っても大袈裟ではない容貌を持つおじさまは、現在テレビに熱中している。
本日彼の家族の一員である垂れ耳ウサちゃんは、黒い肌を持つキュートな少女と一緒に過ごしている為、ここにはいない。
ちなみにそれは、後になってからとっても良い判断であったと言うことが解るのだが、お釈迦様でない彼は、涙ながらに一時の別れを惜しんだのである。その彼を、シオン・レ・ハイと言う。
彼を見て、住所不定無職の男だとは、きっと誰も思うまい。
理知的に見える青い双眸を潤ませ、黒く長い髪をハンカチと共にきりりと噛み、食い入る様に、毎週土曜お昼の時代劇アワーで放映されている『慌てん坊将軍』を見ていたのだ。
この『慌てん坊将軍』の筋書きは、毎週手を変え品を買えつつも、基本は至極単純である。
運のみで将軍さまになってしまった、紀州藩主の次男坊が、生来の慌てん坊属性を発揮し、余計なことに首を突っ込んでは事件を大きくしてしまう。しかし周囲に迷惑をかけつつも、お庭番やら、ま組の大将のフォローでもって、自分が大きく混迷させた事件を解決してもらうと言ったものだ。
今は丁度、そのクライマックスが流れていた。
大立ち回りを演じる慌てん坊な将軍さまの太刀は、全て空振り、そればかりかお庭番を背後から斬りつけるとこになったりもする。傷だらけになったお庭番は、それでも抜け作な将軍様をお守りする為、必死の形相で腹黒い大黒屋と結託していた某お武家さまの部下を蹴りつけている。
「太助さん! 頑張って下さい! そこですっ!!」
ちなみに太助とは、そのお庭番の名前であった。
もう一人、まるで葵の御紋を振りかざす、越後のチリメン問屋を騙ったご隠居様がご出演遊ばしている番組にいるかの如くな、お色気担当の女お庭番もいたりする。しかし彼女は、現在温泉にて、来る予定のない黒幕のお武家さまをモロ肌出して待っている為、ここにはいない。時折『遅いわねぇ』と温泉につかりつつ色っぽく呟く映像が、世のお父様方の鼻の下を伸ばし、その様を見たお母様方のまなじりをつり上げることになっているのだが、ここでは全く関係ないので割愛する。
殆ど孤軍奮闘状態である太助は、あまりに使えない将軍様に業を煮やし、毎週のパターン通り、ハリセンで突っ込んで気絶させ啖呵を切った。
「……これだと、どっちが主人公か解ったもんじゃないな」
ぼそりと呟くのは、この興信所の所長である草間武彦だ。
しかし当然の様に、シオンは草間の呟きなんぞ、聞いちゃーいない。彼の脳内は、ノビびている将軍様に感情移入し、涙を流しているのだ。
「頑張っても頑張っても報われないないなんて、何て可哀想なんでしょうっ!」
ハンカチはぼとぼと寸前である。
「シオン、大の男が涙なんか見せるんじゃない。男は黙って背中で語れ」
訳の解らないことを言う草間だが、シオンに取ってその言葉は、使用前のティッシュペーパーよりも軽かった。
ノビている将軍様の襟元を掴み、太助が腹話術師もまっつぁおな芸で一件落着を宣言する。
後は何時もの様に、場面転換が行われ、正体を知らないま組の面々に、慌てん坊将軍が盛大なボケをカマすシーンのみである。
シオンは、そのシーンもまた大好きであった。
が。
彼の腹が、ぐうと鳴る。
「……虫の知らせです。……イヤな予感がします」
シオンの涙がすっと引くついでに、顔色までがすっと引く。
「そりゃお前、腹が減っ……」
草間の言葉を最後まで聞く余裕など、現在のシオンには持ち合わせがなかった。
気が付いた時には、草間を押しのけ窓際へと駆け出すと、戸惑いもなくそこから飛び降りた。
「サンバは何処じゃぁぁっ!!!」
目の前にある粗末なドアを蹴り倒し、筋肉親父が腹の底から天地を轟かす様な大声で叫んだ。
ドアの向こう側にいる草間の煙草から、灰がぽろりと落ち、あんぐりと開きつつある口からは、煙草がゆっくり落ちていく。
『サンバって何?』と言うことすら出来ずにいるのは、あまりにその親父が強烈過ぎたからであろう。
「あ、あの……どちら……」
『様で?』と付けようとした草間のことなど歯牙にもかけない親父様を、紫桔梗しずめ(しぎきょう しずめ)と言う。
逆立つ様な銀の髪と同じ色の髭がわっさわっさと生えており、それは中に何かもそもそと蠢いているのかもしれないと錯覚する程立派でもあった。腰にはライフル、手には地獄の鬼が持つ様な針が生えている金属バット(特注品)を持ち、『触るな危険』、『死にたいヤツは俺んとこ来いっ』を地で行く様なジイさんだ。
しずめはどかどかと不法侵入を果たした草間興信所の更に奥、つまりのところキッチンへと進んで行く。
何を探しているのか、草間にはさっぱり解らないだろう。まるで本能の赴くままに行動しているかの様なしずめは、確かに何も考えていなかったのだから。
RPGの勇者様が『師匠と呼ばせて下さいっ』と拝み奉る程に、堂の入った家捜しを行っている。
手がメモの張り付いた冷蔵庫に伸びた瞬間、惚けていた草間は理性をがっちり取り戻した。
「止めろっ! 俺のなけなしの食……」
「何っ?! 食料とな! では、わしの食料庫として進ぜよう」
そうきっぱりはっきり言い切ると、しずめはばくんとそれをご開帳。
コンビニに屯っている悪たれ小僧の様に、ヤンキー座りを決め込むと、中身をつぶさに確認していった。日頃大雑把であるのに、何故か細心の注意を払っている様に見えるのは、決して錯覚ではない。
冷蔵庫に焦点を定めたしずめは、現在きちんと『プリン』と言う目標を持っているのだ。
「うん? 何じゃこれはっ! ゼリーなぞと言う軟弱なモノを入れおってからにっ! ええい、わしが喰ってやろう」
本来プリンを食べる筈の『マイスプーン』を懐から取り出すと、差し入れとして入っていたゼリーをがつがつと一ヶ月間食事していない人間の様に食らい始める。
『軟弱と言うのなら、喰わなくても……』と、草間は思ったが、あまりなことに何も言えない。
十個はあった筈のゼリーは、カップラーメンが出来上がる時間にもならない内に、食い尽くされた。
更にしずめの探索は続く。
手を伸ばし、滂沱の涙を流したまま無口になっている草間は、次の獲物を確認して『あ、これなら良いや』と思った。
しずめが手にしたのは、先程までここにいたシオンがなけなしの懐を叩いて買って来た大福である。
「何じゃこれはっ! この様な女性(にょしょう)の柔肌の様な饅頭はっ! ええい! 男らしゅうないものなど、ここにはいらんっ!」
『饅頭じゃないんだけど…』と思った草間は、やはり先程と姿勢は変わらず。
そして。
「おおっ! これじゃこれじゃ! わしの探していた心の天使っ! プリン嬢じゃ!」
「げぇぇっ!!」
草間は今度こそ燃え尽きた。
それは心のオアシスとして食後のデザートに買って来ていた、プッチ●プリンであったのだ。
マイスプーンがきらりと閃き、腕を高く上げたしずめが、プリンの攻略を開始する。
「うぬぬぬっ。不味いぞ不味い。これ程までに、わしの味覚を刺激し、脳天をかち割るまでに不味いプリンは初めてじゃ!」
ずばばとカラメルまでをかき込んで一言。
「不味ぅぅぅぅい! もういっぱいっ!!」
草間に向かい、空になったそれを差し出すが、燃え尽きた彼が反応を返すことはなかった。
「い、痛いです……。でも、虫の知らせは収まりません」
草間興信所の窓から飛び降りたシオンは、思いっ切り着地に失敗し、そこに止めてあったブツに鼻面をぶつけて鼻血を出していた。
貧血一歩手前になりつつも、腹の虫がぐうぐうと鳴いて教える虫の知らせにより、何とかそこから立ち上がる。
そして目にしたものは、この世の地獄を連想させるものであった。
「こ、これは……っ?!」
黒光りしている様に見えるハーレーである。
地獄の番犬ケルベロスも、裸足で逃げ出す恐ろしさを兼ね備えたハーレー。
懐から、シャキーンと取りい出したるは、アロン●ルファ改。
通常のそれの数百倍と言われる程、粘着性のあるものだ。
シオンは迷いなど百万光年の彼方へと捨て去り、そのハーレーを地面と結婚させるべく、塗り塗りした。
『幾久しく、この世の終わりまで仲良くしていて下さい。ええ、決してお別れなんか、しないで下さいねっっ!!』
何故か目尻に涙が滲んでくる。
前輪、後輪とも、念入りに塗りつけ、更にブレーキとアクセルが使えない様にと、取り敢えずは目に付いたそれにも塗り塗り塗り。
日頃は良心の固まりとも天然過ぎるボケとも言われるシオンだが、現在は真剣である。怖いくらいに真面目になる彼を、常日頃知っている者が見れば、思いっ切り引くだろう程に真剣なのだ。
鼻血まみれの顔だから、尚のことと言えるのだが。
アロン●ルファ改を十本程使用し、漸く気休め程度に接着したと感じたシオンは、背筋を這い上がる悪寒と言う知らせを素直に受け取る。
「出来るだけ遠くに逃げなければっ!」
シオンの脳裏にあるのは『ニゲル』の三文字のみ。
百ポイントの極太MSゴシックで脳裏に描かれたそれが、現在シオンの原動力だ。
ちなみに色は、血まみれの深紅。
おどろおどろしさを強調している為、シオンの足にも力が漲る。
駆けだしたシオンは、全く周囲を見ていない。
だから当然、走ってきたバイクになんぞ、気が付いてはいなかった。
バイクに思っい切り横っ面を張られたシオンは、彼の望む様に、遠く跳ね飛ばされて行く。
「ウウウウウウサちゃんを置いてきて、本当に良かったですぅっ!!」
それはシオンがこの世に残した、最後の言葉……ではなかった。
「えええっっ?!」
百才のご老人が心臓発作で即死しそうな強面な顔を真っ青にして、彼はいきなり飛び出してきた男が放物線を描いて飛ぶのを凝視していた。
彼の炎の様な髪が逆立ち、鋼鉄の様な銀の瞳が恐怖に引きつると、その姿を見た者は、未来永劫悪夢に魘されるとまで言われる顔立ちである。
けれど、それを生かして主役級の悪役を目指している彼ではあるが、本来の心根はとても優しいのだ。
そんな優しい彼だから、自分が人を跳ねてしまったと言うことに、とっても動揺している。
取り敢えず、このまま逃げると轢き逃げ犯は確定だ。
いや、それ以前に、彼──CASLL・TO(キャスル・テイオウ)には、逃げると言う選択は出来なかった。
男の着地地点目指し、慌ててバイクのアクセルを噴かす。
凄まじい音がするも、人命優先である。騒音公害など気にしてはおられない。
上を見つつ、時折前に障害物がないかを確認し、CASLLはバイクを操った。
見事なまでに飛んでいる男は、何処かで見た気がするなと思っていたが、落ちてきた時に確認できるだろうと考え、取り敢えず横へ置いておく。
まるで自力で飛んでいるのかと思える程の飛びっぷりだが、やはりそれには終わりがあった。
「おおおっっ!!」
急ブレーキをかけると、キキィーっと言う凄まじいスリップ音と共に、タイヤの焦げる匂いが立ちこめる。
「……二度轢きしてしまうところでした」
地面と熱い抱擁を交わし、何故かぺちゃんこになっているのは、先程の予感通り、CASLLの知る人物であった様だ。
「……シオンさん」
気を失っているのだろうかと、彼はバイクから降りて確認する為しゃがみ込んだ。
いや、跳ね飛ばされ、更に地べたに叩き付けられて『気を失っている』も何もないだろうが、呆れる程に強いシオンの生命力を知っているCASLLは、取り敢えず彼が死ぬことはないだろうと確信していた。
CASLLが肩に手をかけようとした、刹那。
シオンがバネ仕掛けの人形の様に跳ね起きた。
「ひぇぇぇぇぇぇっっ!!!」
お化け屋敷よりも怖いかもしれない。
顔は鼻血で血まみれ、更にアスファルトの欠片が鼻の穴に詰まり、更に月のクレーターでもマシだろうと言う程に顔がその欠片でへこんでいる。
腰を抜かしたCASLLだが、夢から覚めた様に覚醒したシオンが迫ってくると、更に大きく悲鳴を上げて後ずさりした。
がっしと肩を掴まれ、恐ろしい形相になったシオンの顔が近付いて来る。
『ごめんなさいっ、済みませんっ、私が悪う御座いましたっ』
心の中で、念仏の様に唱えているのは、ただ単に声が出なかっただけである。
「出来るだけ遠くに逃げて下さいっ!!」
がくがくと身体を揺さぶられつつ、『シオンさんから?』とボケを心で返してしまう。
「早くっ! CASLLさんだけが頼りですっ!」
漸く我に返ったCASLLだが、それでもシオンの顔が怖い。
徐々に元へと復活してきているから、尚のことだ。
もしかすると、今現在なら『怖い顔選手権』で、シオンに負けることが出来るかもしれないと、ちょっとだけ嬉しくなってしまったのは秘密であるが。
「わわわわ解りましたっ!」
取り敢えず、この怖い顔を見なくて済むなら、何処にだって行ってやる。
そんな気分になってしまった。
「乗って下さいっ!」
バイクに跨ったまま、顔は明後日の方向に向けてそう言うと、離すまじと言わんばかりのシオンが、CASLLの後ろに張り付いた。
後ろは極力見ない方向で行くつもりのCASLLだが、反射的にミラーを見て、そこに映ったシオンに、またもや失神しそうになる。
何とか気合いで耐えてアクセルを噴かす。
ぶるるんと、荒馬の様にバイクが吼えた。
「行きますっ!」
一際腹に響く音がして、バイクが北北西に進路を取った。
燃え尽きた男を尻目に、時代劇アワー後に放映されているバラエティ番組を見終えたしずめの手には、何故かカップラーメンがあった。
ちなみに、やはり草間興信所なけなしの保存食であるカップラーメンは、一箱分食い尽くされている。
「うーむむ。不味ぅぅぅいっ! もういっぱい!!」
先程からテレビを見ながらもずるずるやりつつ、一つ空ける毎にそう言っては次ぎに手を伸ばしている。
どうやらしずめに取って『不味い』と言うのは、『満腹満足腹満タン』と言う意味らしい。
しかしその意味を悟ったとて、イナゴが大群で通り過ぎた後の様な食糧難となってしまった草間興信所所長草間武彦には、何の利もなかった。
取り敢えず、イナゴの頭領であるしずめが、煙草に興味を示さなかったのは僥倖と言うしかないだろう。
マイフォークを握りしめ、漁っていた箱の中に、もうカップラーメンがないことを確認すると、彼はゆらりと立ち上がった。
「なんじゃ、もう仕舞いか。まあ、てれびと言うものも終わったことじゃし、ま、今日のところはこの辺りで勘弁してやるかのぉ」
草間の首が、赤べこの様に何度も触れる。
目指せ固茹で卵の思いは遠く、生卵に成り下がった様だ。
ふんふんと鼻歌交じりに、しずめが針付き金属バットでバトンダンスをしつつ、壊した興信所の出入り口をくぐり抜ける。
階段を軽快──しかし揺れは凄まじく、ビル住民は地震かと震え上がった──に降りていくと、自身のハーレーに手をかけた。
が。
「うん? ……うぬぬぬぬっ。何とぉっ! わしの下僕の分際で、逆らいおるかぁっ!!」
シオンがしずめ怖さに本能で接着したハーレーは、ちょっとくらいでは地面と離婚してくれなかった様だ。
こめかみに怒りマークを貼り付け、しずめはハーレーを握る手に力を込めた。
「ぬぉぉっ! ……んほっ!!」
時間的にはホンの一秒の葛藤である。
べりともばりとも聞こえる音がして、ハーレーは地面と離婚した。
慰謝料は、その車輪である。
「あれまあ、取れてしまったではないか。仕方ないのぉ……」
ぽりぽりと頬をかきつつ、暫し逡巡。
「いくら主に反乱を企てたとて、見捨てるのは忍びない」
しずめはそう呟くと、まことに情のこもった視線でハーレーを見やり、直後、わっしとばかりに担ぎ上げる。
「では、行くとするか」
ぎろりと赤い瞳が稲光したかの様に光ると、それは一陣の風と去って行ったのだった。
「ここまで来れば、安全……でしょうか」
既に顔面の傷は治癒している。
通常ならこうは行かないのだが、しずめの恐ろしさで、一時的にシオンの身体の回復力が上がっているらしい。
CASLLも漸くシオンの顔が見れる様になったらしく、ちろりとミラー越しに覗いているのが解った。
取り敢えずは、適当に本能の赴くまま、CASLLのバイクで逃げているのだが、いかんせん、しずめの恐怖は拭えない。
シオンは、幼き日に降りかかった災厄の数々を思い出す。
「……そう言えば、虎さんの檻に放り込まれたことがありましたねぇ」
CASLLの背中がびくりと震える。
ただその時は、気の優しい虎であったらしく、何故か変わりに育ててもらった記憶がある。
「ああ、鮫さんの養殖場にも、水泳の練習と言われて放り込まれましたねぇ……」
またもやCASLLの背がびくりと震えた。
ちなみにその時に友だちとなったシャーク一号ちゃんは、いつの間にか養殖場を逃げ出し、大海原でシオンと共に生活していたこともある。
「青木ヶ原の樹海にも、無人島サバイバルに向けての練習だと言って放り込まれました……」
普通は死ぬ。迷って。
CASLLの背中から力が抜けた様だ。
人、それは『脱力』と言う。
「まあそれがあったから、無人島に連れて行かれた時も、何とか無事に生活出来たのでしたっけ…」
どうやらちょっとだけ感謝の念が浮かんだことを、CASLLは感じた様だ。
しかし。
はっきり言って、感謝などする方が可笑しい。
暫くの間、その無人島で暮らしていると、シャーク一号ちゃんと再会することが出来た。更に木の上で掘っ立て小屋を作り、木の実を食べ、魚を釣り、狩りをして、何時しか無人島ライフを楽しむ余裕も出来たりしたのだが。
「──っ!!!!」
シオンの背中に悪寒が走ると同時、腹の虫がぐうと鳴る。
「虫の知らせですっ!!」
シオンに脇腹を思いっ切り捕まれ、CASLLが小さく情けない悲鳴を上げた。
太平洋をも走って横断できる程の速度を持つ物体が、二人を追い抜いていく。
「ひぃぃぃぃぃっっっ!!!」
シオンの絶叫が周囲に響く。
彼は見た。
ハーレーを担ぎ走る、しずめの後ろ姿を──!
CASLLはシオンの悲鳴で、思わず失神しそうになった。
けれどバイクが彼にはある。
彼が失神したら、このバイクは無惨にも大破してしまうだろう。それがCASLLの意識をつなぎ止めている。
「にににににににに逃げて下さいっ!!」
更に脇腹をにぎぎとつままれ、あひゃーとばかりに悲鳴を上げる。
取り敢えず、背中が見えなければ良しとばかり、CASLLは方向転換した。
「ここで掴まったら、エベレストで兎跳びマラソンさせられます! 何としても、逃げ切って下さいっ!」
またもやシオンの顔が、怖くなっている。
目が血走り、鼻息も荒い。
しかし、CASLLはとあることに気が付いた。
「あ、あの……シオンさん」
声をかけるも、シオンは逃げろと言うばかり。
先程しずめと別れた辺りの方向では、何やら強烈な破壊音が響いている。
「………」
CASLLは黙る。
もしも彼の予測が大当たりしていたとて、恐らく何の意味もないと悟ったからだ。
そう、予想が大当たりしていたとしても、あの破壊音の元で起こっていることに巻き込まれない為にも、ここは三十六計で頑張るべきだ。
グリップを握りしめ、更にスピードUp。
破壊音から、いや、しずめから遠ざかるのだ。
甲斐あって、徐々にその音は聞こえなくなり、漸く二人に安堵の時間が訪れたかと思えた。
いや、それは錯覚であると、次の瞬間、CASLLは思い知る。
キキィーーーと言う、彼らしからぬ乱暴な運転でコーナーを曲がりきったそこに見たものは、腰に手を当てつつ、青汁を飲んでいる恐怖の大王であった。
「不味うぅぅぅいっ! もういっぱいっ!!」
「ひぇぇぇっぇぇっぇぇっ」
殿様蛙のしゃっくりの様な悲鳴が、シオンの喉から発せられる。
続いてCASLLの口からも、この世の終わりの様な悲鳴が響き渡った。
「ぶ、ぶぶぶぶぶつ、ぶつかりますぅぅぅっ!!」
思わずハンドル操作をミスってしまい、彼らの目の前には、電柱が迫っていた。
通行人は、全てムンクの叫び状態だ。
瞼をぎゅっと閉じている場合ではないのだが、CASLLは正面を見ることが出来なかった。
「はぁっ!!」
その声に、漸く前を見ることが出来たCASLLの目に映ったのは、電柱目がけて駆けていく青白い鮫。
電柱に特攻した鮫は、そのまま瞬時にそれを蒸発させて不意に消えた。バイクは、そのぶらんぶらんしている電線の中、逃げまどう通行人を奇跡的に跳ねることをせずに通り抜けていく。
何が起こったのか、CASLLは咄嗟に理解出来なかったが、背後で何やら妖気にも似た気配を発しているシオンがミラー越しに見えた時、漸く事態を把握する。
カバの様に鼻の穴を広げ、黒い手袋を外して手を突きだした状態で、シオンがタンデムシートの上でがに股立ちしていた。
「……目の前の危機は、何とか脱しました」
ほうと一息吐いた彼が、CASLLの脇腹を掴んで座り、再度CASLLは悲鳴を上げた。
彼が見ると、その鮫の炎の煽りを受け、しずめは店ごと真っ黒になっている。
店内は、しずめが乱入した際、店員+客が逃げてしまっていたのだろう、彼以外被害にあったものはいない。
CASLLはバイクを操った。
取り敢えず、この場から逃げる。逃げる。逃げ……たい。
「皆さん、申し訳ありません。このお詫びは、私が世界一の悪役になることで許して下さい……」
周囲の惨状を捨て置いて逃げ出すのは、大層忍びないことではあるが、彼も己が身が大切である。祈りにも似た呟き一つ、CASLLのバイクが沈みつつある夕日に向かって駆け抜けて行った。
しかし彼らに安息は訪れなかった。
あれからも彼らの目の前では、水道管が破裂して不思議の国へと続く虹が発生し、しずめ主催ファイヤーダンスの残り火で、老朽化したポリボックスが新築の憂き目に遭い、針付き金属バットを素振りした結果、超高層ビルがだるま落としされて行ったのだ。
追いつめられた──と勘違いしている──二人は、バイクと共に震えていた。
勿論、走行を止めている訳がない。
「かくなる上は、神頼みですっ!」
握り拳でそう宣言したシオンだが、すぐさま現れた恐怖の権化にすくみ上がった。
真正面からやってくるのは、アンゴルモアの大王級に恐ろしい、紫桔梗しずめ、その人である。
やはり彼は、車輪の取れたハーレーを肩に担ぎ、真正面からどどどどどと言う音と共に疾走していた。
その現在位置は、二人から可成り離れているのだが、異様なまでのオーラが立ち上っていると言う理由だけでなく、本能で察することの出来るシオンには、彼の鼻毛の一本一本も感じているのだ。
「つつつつ捕まりますっっ!!」
それだけは断じてノーサンキュー、いや、大勘弁である。
シオンはパニックを起こした。
パニックを起こしつつ、恐るべき集中力も見せた。
とにかく、この場を何とか凌ぎたい。何とか逃げおおせたい。
その一心である。
火事場の馬鹿力とは、まさにこのことだろう。
バイクは、目の前のしずめ目がけて突っ走っている。CASLLは前から走って来るのがしずめであると確認した際、ハンドルを握りしめたまま気絶していた。
ただただ駆けるバイク。
タンデムシートの上に仁王立ちしたシオンは、すっと右手を掲げた。
しずめと同じ能力を使っても、向こうの方が上である限り負けてしまう。
負け=捕獲だ。
「神様、お願いですっ、私を助けて下さいぃぃっ!!」
周囲が瞬時、夜色に染まる。
シオンの右手が真白の燐光を発し、ごうと冷気が渦巻いた。
雪狼がその姿を現し……。
『やりましたっ!!』
目前に迫るしずめの鼻息が、恐るべき冷気に凍り付き、巨大な氷細工を形成していた。
勿論鼻の穴から。
すれ違う。その時。
「べぇぇぇぇぇっっっくしゅんっっっ!!!」
こちらに向いたしずめが、気合いを籠めてくしゃみする。
大地が揺れた。
怒れる弾丸と化した氷細工が、鼻の穴から発射され、ついで雪狼も、シオン達へと特攻する。
「いいいいいいいいいいいっっっ!!!」
何処ぞの怪人の様な悲鳴を上げたシオンを、凍える冷気が打ちのめす。
ばこんぼこんべこんがこんと、氷弾がシオンを、CASLLを、そしてバイクを連打した。
その一弾が、ガソリンタンクをぶち抜いたから堪らない。
燃え燃えているそれと氷弾が、瞬時に反応したや否や。
大爆発を起こした。
紙くずの様に軽々ぺらぺらと吹っ飛ばされる、シオンとCASLL。
「私のバイクがぁぁぁぁっっーーー!」
漸く意識を取り戻したCASLLが、己のバイクの有り様を確認し、滝涙を流している。
夕日に輝く涙の軌跡は、まるで一意の宝石の様……であったとかなかったとか。
そして。
既にしずめは遙か遠くへ、走り去っていたのであった──。
Ende
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