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誰もが通り過ぎてゆくこの街で
「はあ……」
植え込みの脇に腰を下ろして、ジェイドは溜め息をこぼした。
そろそろ日も傾きかけた夕方。学校や仕事の帰りとおぼしき人々が行き交う中、ジェイドはと言えば、無為に1日を終えようとしている。
着の身着のままにやって来た日本。
頼る当てなどあるはずもなく、バイトをしながらその日暮らしの毎日。
しかし日本語に不慣れなジェイドにとっては、そのバイトを探すことすら容易ではなかった。
今日もまた結果は参敗。焦れば焦るほど、何もかも上手く行かない。
(考え、甘かったかなあ……)
心の中でぽつりと漏らす。
きっと何とかなるだろう、そんな気持ちでやって来たは良いものの、ここでの暮らしは思い描いていたほど明るいものではなかった。
ここに住む人たちは、基本的に「他人」には冷たい。
こうして困っていたって、手を差し伸べてくれる人など誰もいない。
皆、無関心に通り過ぎてゆくだけ。
熱心に携帯電話をいじる少女。友達とメールでも交わしているのだろうか。
そのすぐ横では、若者が駆け寄ってきた女性と腕を組んで歩き出す。これからデートなのだろう。
楽しそうな笑顔。でも、それがジェイドに向けられることはない。
これだけたくさん人がいても、そのすべてがジェイドにとって「他人」なのだ。
誰もが皆、「他人」には見向きもしない。
「……はあ」
再び溜め息をついたその瞬間、頬にぽつりと冷たい雫が当たった。
次に額へ、その次はうなじへ……それは次第に勢いを増し、少しずつジェイドの体を濡らしてゆく。
「あーあ……空にまで嫌われたか」
呟いて口元を歪める。
もはや、雨宿りのためにどこかへ移動しようという気力すら湧かなかった。
もうどうでもいいや――そんな投げやりな気分になって、ただ濡れるに任せてぼんやりと座り込む。
しかし……降り出した時と同様に、不意に雨は止んだ。
いや、正確には止んだのではない。差し出された傘によって遮られたのだ。
「……?」
咄嗟に状況が理解できず、ぽかんと顔を上げる。
すると目の前には1人の少女が立っていた。
「あの……大丈夫ですか?」
どことなく怯えるようなか細い声。それでも心配そうな、気遣うような表情を浮かべ、自分が濡れるのも構わず傘を差し出してくるその人。
誰もが黙って通り過ぎてゆくこの街で、ただ1人、足を止めてくれた人。
「……あ……」
ありがとう。その一言すら、出てこなかった。
何故なら、一気に涙が込み上げてきそうになったから。
そんなジェイドに、少女は少し困ったような、それでいてひどく優しい微笑みを向けた。
* * *
「えっと……風呂、ありがとう」
貸してもらったバスタオルで髪を拭きながらジェイドが言うと、
「いえ、風邪をひいたら大変ですから……」
台所に立つ少女――弓弦は、やんわりと微笑んで答えた。
あの後、弓弦の家に連れてきてもらったばかりか、風呂まで借りてしまった。冷え切った体もすっかり温まり、ついでに心まで温かい。
やがて彼女は出来上がった食事を運んできて、テーブルの上に並べてゆく。
コンソメスープに簡単なサラダ、スクランブルエッグ、サンドイッチ……あり合せのもので取り急ぎ作ったメニューだが、まともな食事にありつくのさえ久々なジェイドにとって、それは涙が出るほど嬉しいものだった。
それが心のこもった手作り料理とあれば、なおさらだ。
「これ、食べていいの……?」
「もちろんです。そのために作ったんですから」
「ありがとう……いただきます!」
瞳を輝かせ、サンドイッチにかぶりつく。そして次々に料理を口に運ぶ。
そのあまりの食べっぷりに、弓弦はしばし目を丸くしていたが、やがてくすりと笑う。
それに気づいたジェイドは、がっついてしまっている自分に気づき、少し顔を赤らめた。
(みっともないとこ見せちゃったかな)
少し反省しつつ、今度はペースを落としてじっくり味わいながら食べる。
味付けはやや控えめ、でも決して味気ないわけでもなく、優しくまろやかで。まるで少女の人柄をそのまま表しているかのよう。
「……おいしい……」
しみじみと呟くジェイド。
ものの数分で、すべてのお皿は綺麗に空っぽになってしまった。
* * *
洗い物をするために再び台所に立つ弓弦の背中を、ジェイドはぼんやりと眺める。
何故ジェイドがあんなところでずぶ濡れになっていたのか、弓弦は訊こうとはしなかった。
それが嬉しくもあり、少し淋しくもある。
元々寡黙なだけなのか、それとも気を遣ってくれているのか。
あるいはジェイドが日本人ではないので、話しかけづらいのだろうか?
もしそうだとしたら、何故助けてくれた?
訊きたいことも話したいこともたくさんあるのに、その想いをこの国の言葉で上手く表現できない自分がもどかしく、歯がゆい。
けれども……
「熱いので気を付けてくださいね」
こう言ってお茶を出してくれる弓弦を見ていると、言葉など些細な問題でしかないと思えてきた。
たとえ彼女の話す言葉が完全には理解できなかったとしても、その声音や笑顔、所作から滲む気配は充分に伝わってくる。
この部屋に満ちた温かく澄んだ空気……それが何よりも雄弁に教えてくれている。
彼女の持つ優しさ、清けさを。
それに気付いた時、ジェイドの中で何かが吹っ切れた。
「……ありがとう」
改めて、ジェイドは告げる。
誰も自分のことなど気に掛けてくれないと思っていたけれど、そんなことはないのだと気づかせてくれた。
言葉などなくてもちゃんと伝わるものはあるのだと、気付かせてくれた。
ここに来て良かったと、そんなふうに思わせてくれた。
「……ありがとう……」
まだ拙い日本語だけれど。
飾りも何もない、あまりにもシンプルな言葉だけれど。
自分も弓弦と同じように、言葉など関係なく気持ちを伝えることができるだろうか。
自分がどれだけ救われたか、どれだけ励まされたか、ちゃんと伝わるだろうか。
少し不安に思いながら、ちらりと弓弦の瞳を見つめる。
彼女は何も答えなかったけれど、ただ黙って微笑みを返してくれた。
それだけで嬉しかった。
* * *
誰もが通り過ぎてゆくこの街で、ただ1人、立ち止まって手を差し伸べてくれた人。
その出会いが、これからどんな未来に繋がってゆくのかは分からない。
もしかしたらとても大きな意味を持っているのかもしれない。
あるいは、たくさんの思い出の中のひとつとして、ゆっくりと静かに埋もれていってしまうのかもしれない。
それはとても曖昧で不確かなことだけれど。
それでも、今のジェイドはとても晴れやかな気分で空を見上げた。
雨も上がりすっかり晴れ渡った夜空には、きらり、星が輝いていた。
−終−
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