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<東京怪談ノベル(シングル)>


耳に残る声


「いってきます」
「いってらっしゃい」
 城田・とも子(しろた ともこ)は玄関でそう言って夫を送り出し、再び台所に戻ってきた。朝食の片付けをする為にだ。
「……あ」
 とも子の動きは、テーブルの上にあった食器を片付けつつも、ぴたりと止まってしまった。そこには、大き目の布に包まれた四角い物体があったからだ。
「何で忘れてるのよ?」
 ぽつり、ととも子は呟きながら、その物体を見つめた。
 つまりは、弁当。
 総合病院に勤務している夫は、病院内の食堂を使わずにとも子の弁当を食べる。それが日課となっているのだ。
「……今日のお昼ご飯、困るんじゃないかしら?」
 とも子の脳裏に浮かぶのは、昼食時に鞄を開けて弁当を取り出そうとし、そこに弁当の姿を見つけられずがっくりする夫の姿である。きっと、弁当を忘れてしまったという、哀しい思いで一杯になるに違いない。
(届けないと)
 とも子の頭は、それで一杯になった。そうと決まれば、さっさと後片付けをして夫のいる総合病院に一刻も早くいかなければ、という思いで。
「……座のあなた!」
 突如付けっ放しだったテレビから、自分の星座が聞こえてきた。とも子はそれに気を取られ、テレビを見つめる。
 出てきたのは、哀しそうな天使とへっへっへと笑う悪魔。
「ごめんなさーい!今日は最悪の一日になるかも」
「……最悪……」
 とも子は再び弁当箱を見つめ、大きく溜息をついた。
(弁当を届に行かなくなるなんて、確かに最悪かもしれないわね)
 とも子はそう考え、再び朝食の後片付けにとりかかった。勿論、不吉な事を言ったテレビを切ってしまうのを、忘れる事なく。


 朝食の後片付けを済ませたとも子は、弁当箱をそっと紙袋の中に入れた。
「早く行かないと」
 とも子はガスと電気を確認し、鍵をかけて家を出た。家から夫の通う総合病院まで、バスと徒歩で行けば良いだけだ。充分、夫の昼食には間に合うだろう。
 バス停に辿り着き、待っていると定刻通りにバスがやって来た。
(この分なら、あっという間につくかもしれないわね)
 とも子は吊り輪を持ちながら、ぼんやりと考えていた。
 と、その時であった。
 キキキキー!という凄まじいブレーキ音が鳴り響き、バスが大きく左に揺れた。とも子は吊り輪から手を離し、弁当箱の入った紙袋を抱えて守りながら受身を取った。更に来るかもしれない振動に備えて体を低くして足を踏ん張っていると、ごん、という大きな音と振動がやってきた。
「……何事?」
 とも子はそう言い、すっと立ち上がって運転席近くに向かった。バス内はどうにか怪我人はいないらしく、ざわざわとしていた。恐怖で手が震え、動けない者もいた。だが、とも子は離れした雰囲気を纏い、運転手に「何があったんですか?」と尋ねた。
「……と、飛び出しです」
 とも子の問いに、それまで呆然としながらハンドルを握り締めていた運転手がはっとし、口を開いた。運転手の言葉に頷き、外を見ると確かに大声で泣き叫んでいる子どもがいた。
「歩道に乗り上げたのね。ただ、ガードレールにぶつかってしまったから、すぐに動かそうとするのは無理ね」
 とも子は外を見て状況を判断し、そう言った。その言葉に、動揺していた運転手はこくこくと言葉も無く頷いた。
「ほ、本部に連絡しますので。皆様、申し訳ないですが他の交通機関を使ってください」
 運転手の言葉に、とも子は小さく溜息をついた。
 状況を見てそういう事になるだろうとは思っていたのだが、実際にそう確定してしまうと少しだけ哀しい。なにせ、今のとも子には夫に弁当を届けると言う、大事な用事があるのだから。
「仕方ないわね」
 とも子は小さく呟き、バスを降りた。改めてみると、ガードレールに突っ込んだもののその時に歩行者は無く、飛び出してきた子どもも親が必死になって助け出したようだ。バスの乗客たちにも誰一人として怪我人はいなかったようだし、良かったと言えば良かったのだが。
(でも、バスを降りてしまったわね)
 とも子の中で、ネックになっているのはその一点であった。一刻も早く夫に届けてしまいたい弁当が、自分の手元にあるのだから。
「この距離なら……歩いて行っても間に合うわね」
 とも子は腕時計を確認しつつ、そう呟いた。バスが事故に遭ったとはいえ、まだ充分昼食時間には間に合う筈である。
 とも子は、道を急ぎながら夫のいる総合病院に向かった。
「あら」
 その途中、公園があるのが目に入った。見れば、行きたい方向に出口がある。横切ってしまえば楽そうである。
(ついでに、気分転換にもなるし)
 とも子はそう思いながら頷き、公園に足を踏み入れた。
「……待ってたよぉ」
 突如、訳の分からないいやらしい声が聞こえた。とも子は誰に向けられた声かわからなかったため、とりあえず無視する。
「僕だよ、僕ぅ。来ないかとおもっちゃったよぉ」
 とも子の腕が、がっちりと捕まえられた。妙に生暖かい、汗ばんだ手である。
 気持ち悪い事、この上ない。
「何ですか?」
「嫌だなぁ、約束したじゃないか」
「した覚えは無いですけど?」
「だって、その紙袋を持っているんだから、間違いないだろう?」
 とも子は眉間に皺を寄せながら、自分の持っている紙袋を見つめた。夫に届ける為の、大事な弁当である。
(まさか……)
 とも子の脳裏に、嫌な予感が駆け巡った。目の前のいやらしいオヤジについて、一つの導き出したくない答えが出てきたのだ。
(出会い系……?)
「なぁなぁ、旦那が冷たくて寂しいって言ってただろぉ?そんなの、僕がすぐに癒してあげるってぇ」
「……いりません」
 とも子は辛うじて言葉を発した。理性が勝った瞬間である。
「またまたぁ。頑固なアタシをゆ・る・し・てって言っても駄目だぞぉ」
 駄目だった。オヤジが言うように、確かに駄目だった。
 とも子は気付けば、オヤジの鳩尾をぐっと殴りつけていた。たった一発ではあったが、それは出会い系にはまりきっていた中年オヤジの鳩尾には衝撃的なダメージであった。
 がくっと膝を地に付け、その場に崩れ落ちてしまった。
 カンカンカンカン!勝利の鐘が鳴り響く。勝者、とも子!
「……こんな事に、構っていられないわ」
 とも子はそう吐き捨てるように呟くと、崩れ落ちたオヤジに目をくれる事も無く、その公園を後にした。
 公園に誰もいなかったのは幸いであった。好奇の目も、恐怖の目でも見られることも無かった。
 公園を出ると、総合病院はあと少しになっていた。もう一分張りすれば、夫のいる総合病院に辿り着くことができるのだ。腕時計で確認をすると、結構な時間ロスをしたものの、なんとか昼食時間には間に合いそうな時間であった。
「あとちょっとね」
 とも子はそう言い、真っ直ぐに病院を目指す。すると、前からウウウウ、という唸り声が聞こえてきた。地の底から這い上がってくるかのような、唸り声である。
「……何?」
 その妙な唸り声に、とも子はあたりを見回した。……唸り声の主は、容易に発見する事が出来た。しかし、とも子は思う。世の中には、知りたくないことが存在すると言う事を。
 唸り声の主は、ドーベルマンであった。すらりとしたボディ、剥き出しになっている牙、睨みつける鋭い視線。更に不幸な事に、そのドーベルマンには首輪があっても鎖が無かった。
 迷子ドーベルマンである。ウウウウ、と唸り凄むドーベルマン。
「……私に喧嘩を売ろうっていうの?」
 じろりと冷たい目線を向ける、とも子。
 戦いの火蓋は、今まさに落とされたのである……!
 と、いうのは大袈裟であるが、迷子ドーベルマンととも子の目線は、間違いなく戦っていた。目線を逸らした方が負け、つまり敗者となる。負けられない戦いである。
「……他愛も無いわ」
 五分後、勝者となったのはとも子であった。勝因は、ドーベルマンの睨みよりもとも子の睨みの方が勝っていた、と言う事である。
 ドーベルマンはきゅうんきゅうん、と打って変わって可愛らしい声を出しながら、向こうへと去って行ってしまった。とも子は小さく「ふう」と息を吐き、はっと気付く。
「お昼、もうすぐじゃない……!全く、今日の占いが最悪っていうのは当たっているわね」
 とも子は慌てて小走りになった。そしていつしか、小走りは走るという行為に変わっていった。
 その先に先程勝負に負けたドーベルマンがいて、怯えたように走っていたのを追い抜かしたのだが、そんな事は全く気付かなかった。ともかく夫の昼休憩に間に合うように、昼食のお弁当を食べられるように、とも子は走った。
 12時10分前になった時、とも子はついに総合病院前にいた。
「間に合ったわ……」
 とも子は呟き、微笑んだ。この時間ならば、余裕で夫の昼食に間に合うだろう。
 とも子は急ぎ足になりながら、夫の元に向かった。夫のいるであろう場所に向かって、足早に歩く。
 と、その途中で知り合いの医師に出会った。
「おや、城田さんの……」
「あ、主人がお世話になっております」
「いえいえ、こちらこそ。旦那さんなら、さっき食堂の方に向かってましたけど」
「え?」
 とも子はその言葉に、一瞬呆然とする。
「昼休憩って、12時からじゃないんですか?」
「ああ、今日は早目に始まったんですよ」
 その言葉を聞いた途端、とも子は足早に食堂へと向かっていた。わき目も振らず、一心に。
 そして辿り着いた食堂では、夫が定食を食べていた。
「あなた、何を食べているの?」
「……A定食」
 とも子は思い出す。乗ったバスは事故に遭った。公園では変なオヤジにつかまった。突如ドーベルマンと目線で戦った。星座占いにもめげる事なく。
「……どいわ」
「え?」
「ひどいわ、あなた!」
 とも子は叫び、夫の元に向かっていった。夫は思わず立ち上がる。そして迷う事なく、立ち上がった夫を投げ飛ばした。
 見事に綺麗な弧を描きながら夫が飛んで行く。
 さらに、とも子は髪具黒から弁当を叩きつけた。がしゃん、という哀しい音が食堂内に響く。
 とも子はぐっと拳を握り締めながら大きく溜息をつき、食堂に背を向けた。
「ごめ……」
 背中から夫の声が聞こえた気がしたが、あえて無視した。ぐっと奥歯を噛み締め、家へと向かった。
『ごめんなさーい!今日は最悪の一日になるかも』
 帰路につくとも子の耳に、朝聞いた占いの声が響いているのであった。

<大きな溜息をつきながら・了>