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<東京怪談ノベル(シングル)>


1765年 フランス


 辺境の地ジェヴォーダンの異変が、太陽の国を蹂躙していく。女子供ばかりが100人あまり、正体不明の獣によって命を奪われていた。遺体はどれも無残な有り様で、おおよそヒトが害したものとは思えないほどだった。まるで鉄の大斧が自我を持ち、めったやたらに非力なものを打ち据えたかのようだ。もしくは、彼女たちが自ら火薬を飲み、そのあと種火でも飲みこみでもしたかのようだった。従順な召使いだろうが、夜な夜な寝台に誘う男を変えるあばずれであろうが、鼻水を足らした子供だろうが、殺戮者は分け隔てることなく牙を剥いた。
 凶行の現場をはっきりと見た者はない。見た者は皆死んでいる。けれども、その残虐なやり口から、犯人は獣の類ではないかという噂が立ち始めていた。もちろん、その獣とやらも、はっきりと見た者はいないのだ。
 姿のない獣は、無為な殺しをつづけた。
 人々の噂の中で、獣は鉄の牙と鉄の爪を持ち、しまいには翼を持つにいたった。熊よりも大きな身体を持ち、兎や鹿のように身軽に動くらしい、ということにもなった。
 ……そして、いまでは、本能のままに人間を殺しているわけではない、ということにもなっている。獣は裁きを下しているのだ。獣は地獄よりの使者。罪深き人間を獄に引きずりこむために現れた。――と、いう話だ。

「くだらない」
 紅毛の美女は、ぼそぼそと語り続けていた老人を、そう一蹴した。
「誰がそのケモノを見たというの? 見たのは死人だけでしょう。確かではないものに力を与えているのは、あなたたちよ」
「こ、この罰当たりのよそものめ」
 酒場の老人は唸り声を上げた――その声は、震えてもいた。
「女。今宵、おぬしに裁きが下ろうぞ」
「おもしろい。私はね、この私に裁きを下せる者を、見てみたいがために旅しているのかもしれないのよ。――そのケモノ、私より上に立てるというのかしら。だとしたら……おもしろいわ」
 紅毛の女は、東洋の煙管からぱたりと灰を落とし、微笑した。
 白い肌に、みごとな紅毛と美貌のよそものが、いつからジェヴォーダンにいたのか。辺境の民であるから異邦人の訪問には敏感なはずだか、誰もこの紅毛の女がはじめて現れた日のことを記憶していない。
 噂が噂をねじ曲げていくのだ。
 神出鬼没の女は、獣が人を殺し始めた頃から、この地に居座っているのではないかと――。


「私が獣そのものになるまで、さして時間はかかりそうにないわね」
 とん、と彼女は煙管から灰を落とす。はげた丘の頂から、彼女はたいまつの舞を見下ろしていた。
 太陽王が勅命を下し、魔獣討伐隊をジェヴォーダンに送りつけたのである。獣を殺すために男たちが夜を拭う。つめたい秋の雨が、ひたひたと足音をしのばせ、彼女を避けて通っていった。女は、秋に現れたのだ。
 彼女の紅い瞳が見下ろすたいまつは、右へ左へ前へ後ろへ――思い思いに動き、舞っている。たいまつの数だけの男たちが、のどかだった田舎を駆けずりまわっている。その様相は世の終わりを描く大がかりなオペレッタのひとこまのようである。恐ろしく、そして、愛らしいほど滑稽だ。
「これが、世界の西の果てのすがた?」
 紅毛の女は、血よりも紅い目を細めた。
「あまり、おもしろくないわね」
 雨が降りしきる黄昏は、すでに、闇の中だった。
 女の美も、闇に溶けた。


 狗という狗が殺された。狼や野犬はいうに及ばず、愛されていた飼い犬も、信頼を置かれていた猟犬も。狗という狗は焼きつくされ、血生臭い炎を上げた。雨は、どす黒い煙や炎を消すほどの力を持たなかった。
 ある家では、父親がころころと太った子犬の首根っこをつかんで、外に連れて行こうとし――泣きわめく子供が、父の足にしがみついた。父親は子供をはりとばすと、犬を屋外に持ち去り、切り株に叩きつけてその命を砕いた。
 死んだ子犬をなおも殺そうとする父は、子供の泣き声も、子供の叫び声も聞いていなかった。


 雨の中に、月が現れる。雲が足音さえ立てて去って行こうとしていた。降り続いていた雨はじきに止むだろう。月の光は、獣を呼び覚ましていく。森の中で――ぎゃ、あ、あ、あ、と凄惨な悲鳴が上がった。しかし、悲鳴は未だにしぶとく居座っていた雨音と、喧騒にかき消されてしまっていた。馬を駆る領主や、怒号を上げて右往左往する男たちの耳に、あわれな悲鳴は届かなかったのである。
 悲鳴を聞いていたのは、紅い姿の女であり、獣たちだった。
 子供や女の胸から、弾けるようにして生まれた闇の塊。
 それは湿った月の空にのぼり、消えていく。獣たちの唸り声と囁き声が、それについていく。ドレスの裾を持ち上げもせず、東洋の煙管を手に、紅の貴婦人は獣たちに近づいた。
「それくらいにしておきなさい。もう充分だから」
 紅い声に、獣たちは――666の獣たちが振り向く。
 ぼろのフードをかぶっていた老人がひとり、現れた。獣が顔を見せたのだ。
「おぬしは、酒場にいた女……」
「随分気合の入った嘆願があると思って来てみたのよ。望みは何だというの」
 老いた男たちは、顔を見合わせた。一様に、この女がまさか、と言いたげな目をしていた。
 だが女の紅い瞳を見て、ごくりと固唾を呑む。
「では、これまでに捧げた女子供100余名の魂と血肉を、受け取って下さるか」
「まあ、いいでしょう。望みを言って御覧なさい」
「太陽王に死を」
 老人たちは、枯れた声で囁いた。それは、獣の唸り声であった。森の外の喧騒から、その呻き声は隔離されている。
「我が国に光を」
「腐るばかりのこの国を、救ってくだされ」
「我らが持つ輝きを貴方に捧げます」
「それをより大きな光へ繋げて下され」

「世界を殺せというのね」
 召喚された存在は、にい、とゆっくり微笑んだ。
「わかったわ。けれど――」

「その望みを成すには、まだ少し、足りないわね。腹が減っては戦は出来ぬ、――東洋では、そう言うのよ」


 月が再び、隠れたのだ。
 黒雲が空を覆い、ほど近くから雷鳴が降りる。森の断末魔は、このとき、奇跡的にも男たちに届いた。雷雨の中を駆け、馬が、たいまつが、ジェヴォーダンの森の前でたたらを踏む。
 若い男たちはそこで獣を見たのだ。地獄から喚びよせられたか、天から降った裁きか、獣は誰もが見たこともない姿を持っていた。
 鉄の爪、鉄の牙、うねる縞模様。紅い瞳。巨大なあぎとから滴り落ちるのは、鮮血だった。雨がその血を洗い流すをよしとせず、獣は舌なめずりをし、牙やあぎとに絡みついた血をも堪能したのである。
 闇の中で、紅い双眸が爛々と光り輝いていた。
 馬が後足で立ち上がり、泡をふいて、主人を振り落とす。幾人もの男が、叫び声すら上げずに恐怖で倒れた。
 獣には翼があったのだ。その翼は――いま雨を降らせている黒雲なのだ。獣は森ほどもある大きさだった。その獣の前では、槍も細剣もマスケット銃も、おもしろくはない冗談にすぎぬ。
 獣はついに、女子供のみならず、男たちまで喰ってしまった。
 しかし獣は約束を違えることはなかった。ジェヴォーダンにあらわれた紅の獣は、やがて、太陽の国を滅ぼしたのである。フランス王朝は滅び、ひとつの世界が崩れ去って、血にまみれた光の卵が――あらわれた。


*******

「あら、映画になったの、ジェヴォーダンの御伽噺が? なかなかおもしろそうじゃない。DVD、手配してくれる? ……どんなストーリーにされてるのか、楽しみなのよ。あの頃私は、そこの辺りをぶらぶらしてたんだけれどね……フフ。
 あんまりおもしろくなかったんだろうねえ、どんな道中だったか、忘れてしまったのよ。
思い出すというのは、案外面倒なものでねえ――」




<了>