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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


 □恐れの土壌□


 ビルの狭間に月さえ見えない夜に、けれど街は昼のように明るく活気を保っていた。
 終電も最後の駅を出発して久しいが、街に残る人々は帰還の意思すらないかのように、退廃的な雰囲気と酒に酔って陽気な声をあげている。

 そんなネオンの下を、冷めた瞳の男が歩いていた。

 男の名は城田 京一という。
 人間の中にある器官の筈だというのに、宝石のように硬質で温度を感じさせない瞳を静かに前へと向け、京一はひとり賑やかな道を歩いていた。
 赤い顔のサラリーマンがふらりとよろけても、喋りに夢中で周りが見えていない学生の群れが道の向こうから押し寄せてきても、肩さえ触れさせずに歩みを進める。あまりにその様が自然であった為に、京一の側を通り過ぎていった者たちは振り返りすらしなかった。
 酒と人いきれの入り混じる繁華街。気分を高揚させる赤や橙が派手に散りばめられたその中で、京一はアクアマリンの瞳を瞬かせてビルの一角を見上げ、軽く息をつく。大きなデジタル時計はちょうど数字の二を表示した所だった。
 とも子に先に寝ていてくれと伝えておいて良かった。そう考えてビルから視線を外し、再び道を歩き出す。
 手が足りない、と言われ家を出てくる時に遅くなる予感がしていたのだ。

 遅くなる。
 靴を履きながら簡潔に言った京一の後ろで、見送りに出てきていた妻のとも子は「そうなの」と平然と返した。
 互いに遅くに結婚したとはいえ、入籍してからまだそんなに時間は経っていない。普通の妻ならば寂しがる素振りを見せるだろう状況で、けれどとも子は特に表情も変えずに京一を見送った。口さがない者が見れば『新婚だというのに冷え切った関係の夫婦』と言っただろう。だが、京一ととも子にしてみればこれが全くの普通なのである。
 義理で結婚したわけではもちろんなく、だからといって大恋愛の果てに結ばれたなどという事実もない二人にとっては、こんな会話こそが当たり前だった。
 そして妻のとも子は夫がたとえ午前様になったとしても、遅くまで出歩いている若者たちに絡まれるのではないかという心配はしていない。京一も同様に、家にひとりでいる妻の身の心配はしていなかった。もし互いに泥棒や暴漢に襲われたとしても、それは共に相手の運が悪かったとしか言いようがないからだ。

「さあ、さっさと帰りますかね」

 まばらになってきた人影の間をすり抜けながら京一は呟き、住宅街へと歩いていく。

 そんな京一の骨ばった背を、ひとつの影が見つめていた。
 小さな影は路地のごみバケツの上に腰かけながら道行く人々を眺めていた。血走った目は幾つかの人間を物色していたが、どれもこれも並み、並み、並みで、影の欲を満たしてくれるような強烈な輝きなど微塵もない。
 京一の姿を目に留めたのは、河岸を変えるか、と影が思い始めた時だった。
 普段、人の視線に敏感である京一は、熱心に見つめる影の視線にはけれど全く気付いていない様子でコンクリートの上を歩いていく。影の視線も京一に合わせるかのように動き、とうとう路地から見えなくなりそうになると、影はためらいもせずにバケツの上から飛び降りた。そのはずみで蓋がカランカランと音を立てて落ちる。
 周囲の者がいきなり落ちたバケツの蓋に軽く眉を寄せている間に、影は駆けた。弧を描いた口の隙間から赤い舌をべろりと出し、大きく舌なめずりをする。

 ああ、ああ。なんて久しぶりの、そして極上の凶気――――。

 影はそうひとりごちると、けたたましく笑った。
 しかし誰も影の方を見ようとはしなかった。





 京一の住む家がある住宅街は、犬の吼え声以外に何も音がしなかった。遠く尾を引いて深い群青の夜空にたなびいていく、野良犬か飼い犬かすらも分からない声が静けさを強調する。
 犬の声を聞き流し、辿り着いた一軒家の小さな門を開ける。玄関に小さくとも明かりがあるのは、『城田』という表札がかけられたこの家だけだ。京一は玄関灯のささやかな光の下でポケットから鍵を出し、開いた扉の向こうへと滑り込む。
 中の照明は既に落とされていた。という事は、とも子が上の寝室で既に眠っているという事だ。特に何の感情も湧かないままに風呂場へ向かい、軽く汗を流してから京一は二階への階段を上った。小腹が空いているような気もしたが、今から何か用意するには遅すぎる上に明日も早いので、早々に眠りにつく事を京一は選んだのだった。医師という職業は多忙ではあるが、だからといって常に付きまとう寝不足などを理由にミスが許されるような職ではない。
  
 寝室の扉を開けると、微かな寝息が聞こえてくる。妻であるとも子はいつものように自分のベッドに入り、静かに目を閉じていた。
 京一はそんな妻の様子を見やると、暗い部屋の中をどこにもぶつかる事無く歩み、もう一つのベッドへと身体を横たえる。小さなサイドテーブルを挟んだ向こうにある妻のベッドから聞こえてくる寝息と仕事の疲れとが、程よく眠気を誘った。
 シーツに身を沈めれば、閉ざした瞳の奥から眠りが意識を奪う為に穏やかに押し寄せてくる。ゆっくり、ゆっくりと這いずってきたかと思えば知らぬ間に全てを絡め取らめ取るその様は、狡猾な罠とどこか似ていた。
 こうなれば眠りというものを必ず欲する人間にとって、もう抗う術はない。後は呑み込まれるままに、ただ意識を喪失していくだけになる。
 眠りという名の泥沼に完全に落ちていく刹那、京一は少しだけ息を吐いた。

 溜め息のような吐息を聞きつけ、寝室の扉の前で影はくすくすと笑った。
 部屋に降りる暗さとは全く異質な、闇そのものの色をした影は、軽やかにカーペットの上を跳ねて京一が眠るベッドへ向かう。音もなく、月もない、あるのはただ寝息だけ。そんな状況を影は何より好いていた。獲物を頬張るのに集中できるからだ。
 目の前に転がるのは久方ぶりの馳走だった。
 こんな機会はそうそうないのだから、骨の髄まで啜らなければ。

 しわがれた声で囁き、影は眠りについた京一の額へと、ゆっくりと手を伸ばした。





「ふむ」

 濃い緑と水の匂いが鼻をつく中、京一は辺りを見回した。
 彼は緑の中にいた。背丈ほどにも伸びた草や、折れ曲がりながらも成長を続ける木々、そして空さえも覆い隠す無数の葉。本来人が踏み入るべきではないような場所に、京一は立っていた。
 後ろを見ても歩いてきた形跡はなく、だからといって空からヘリで降りてきたわけでもないらしい。この瞬間、まさに今現れたかのように彼は鬱蒼と茂る緑の真ん中に存在していた。

 視界の全てが緑、緑、緑という状況に首を傾げた京一だったが、しかし特に表情も変えずにそのままどんどん先へと歩き出す。何がどうなっているのか、自分がここにいるという事の前後関係が分からない以上、つっ立っていてもしょうがないと考えたからだった。
 いつのまにか手には愛用のナイフが握られていたが、さして気にもせずに京一はそれで邪魔な草木を切り払う。道を作るのは過去に何度も経験済みである為、京一は手際よく前へと進む。

 針のように棘を伸ばす蔦が十重二十重に絡まっている場に出た時も、手に傷を負いながら進んだ。微かな痛みと共に道は開け、京一は前へと進む。
 自分の背丈ほどに伸びた草が一面に広がっていた時も、黙々とみずみずしいそれを切り刻みながら歩いた。裂かれた草から噴出した水が降りかかる感触に、京一はぼんやりと似た感触を思い出す。戦場で血を浴びた時と同じような暖かなぬめりが、頬をつたった。
 細い木が行く道を遮った時も、時間をかけてそれらを効率よく折りながら、慎重に前へと足を踏み出していく。曲がり、もしくは折れていく木々たちが発する軋みは、まるで悲鳴のように。

 どれほど歩いたのだろうか。京一は息も乱さずにそんな事を考えながら、ひたすらに前へと進む。歩みは全く緩めずに、ただ黙々と。
 目的も分からないのだから、休もうと思えばいつでも自分の意思で休憩を取る事ができるにもかかわらず、彼は足を止めはしなかった。
 何故かは分からない。追いたてられているわけでもない。ただ、前へ、という声が聞こえてくるような気がするだけだ。内から響く淡々とした声なき声が、脳に筋肉に神経にただ囁いている。ただ前にというたったそれだけの言葉を、囁いている。
 指し示すもののない密林の中で己の本能だけを道標にしながら、京一はひたすらに歩いた。

 数えもしていなかった何本目かの赤い線が腕に走った瞬間、緑の中に隙間が見えた。
 血が落ちるのにも構わずにナイフをかざし、枝葉を倒していく京一の手には、僅かながら力がこもっていた。先が見えた。ならばもうすぐ、何かしらの結果が出る筈だ。
 たとえその先に何が待ち受けていたとしても、またその時に考えればいいだけの事だ。そう思いながら京一は進んでいく。
 あと数メートルで、もうすぐ、もうすぐに――――

 結果、が。

「……………………」

 密林の奥深く、ただ緑しか色が存在しない筈のこの地で、それは異質な色だった。
 唐突に枝葉が途切れ現れたのは、円形の大地だった。まるでその部分だけが何者かの手によりほじくり返されたかのような、人工の香りがする土の円。

 中央にそれは存在していた。
 それ、と言うのは、既に生命としての活動をしていなかったからだ。
 大の字に倒れていたそれは人のかたちをしていた。控えめな色の室内着を着て、土の円の中央に仰向けに横たわっているが、顔は天を向いてはいなかった。
 ねじ切られる寸前にまで首を捻られたのだろう、皮一枚で繋がった頭は大地にめり込むようにして、強制的に横を向かされていた。
 両手両足はナイフで深々と貫かれ、磔のような様相を呈している。そして腹部には木の枝が何本も刺さっていた。枝のほとんどは既に木の色をしてはおらず、朱に染まったそれらはまるで腹部から生えてきたような禍々しい錯覚を見る者に与えた。

 京一は動かない。
 死体などこれまでに幾つも見てきた上に、己のだろうが他人のだろうが死というものを恐れない彼にとって、死体というものは感慨を引き起こさせるようなものではなかった。
 だが、京一は動かない。いや、――――動けない。
 彼は土に頬を埋めるようにして息絶えていた者の顔を、見てしまった。

「…………とも子くん」

 まだ呼び始めて間もない妻の名を呼ぶ。だが、返事をする筈の妻は答えない。
 彼女は強かった。強い筈だった。だというのに今目の前に転がっているのは、かつての妻だった存在にすぎなかった。
 密林に強引に隙間を開けるように、風が吹く。
 生ぬるく青臭い、動物の呼気のようなむっとする匂いの中、京一は草木のざわめく音と共に耳ざわりな響きを聞いた。

『く、くくく。あまりにも極上だからどんなものかと思えば、所詮はヒトということか』
『凪いだ海が波立つ音がする。恐れが湧き立つ前兆よ』

 不快な風の中、京一は前へと歩き出す。その足取りは先程まで密林を掻き分け進んでいた、迷いのないそれではなかった。

『そのまま前へ、前へと進め。宝のようなその目でしかと視ろ』
『ヒトは確認せずにはいられない生き物よ。たとえそれがどんなものであろうとも――――』

 とうとう無残に横たわる女の頭を見下ろすようにして、京一は立った。
 そして、確実に、見てしまった。

「とも子――――くん」

 見開かれた、かつて妻だった女の瞳を。
 既に生気の失われた、かつて生き物だった者を。
 風に乗って、声は笑った。ひどく楽しそうに、大声で笑った。

『そうか、そうか、確認したのか!! 馬鹿な生き物、自ら絶望の淵を除くとは!!』
『これこそが、おまえが最も恐れていることなのだな……!!』

 馬鹿な。
 立ち尽くし、京一は無表情のままそれを心で否定した。
 死というものは誰にでもいつか訪れるものなのだから、恐怖を抱くものではないと京一は思っている。実際、彼はたとえ戦場で仲間の誰が息絶えたとしても、病院で手を尽くした患者が息を引き取ったとしても、涙や恐れとは無縁だった。
 それはきっと最近結婚してみたばかりの妻に関しても同じの筈だった。だというのに眼下にある妻の濁った瞳と視線を交わすだけで、指先が痙攣したように動くのを感じ、京一は手のひらを握り締めてそれを押さえ込んだ。
 だが、拳を握り締めても止まらない震えに京一は静かに驚愕する。

『哀れ。無駄なことを無駄とは知らずにそうするヒトのむなしさよ』
『ああ、だがまだ足りない。もっと恐れよ凶気の主よ。そうでなくては満たされぬ、わしが全く満たされぬ』

 京一は何も言わないまま、ただ妻だったものを見続けていた。異質な声が傍らにあるのが分かっていても、そうするより他に何もできなかったのだ。
 ぬるい風はぐるぐると京一の身体にまとわりつきながら低く笑い声をあげ、そして囁く。

『そうだ。この女がよりむごい方法で死んでいく様を、お前の目に焼き付けてやろうか。恐れは更に増し、かたかたとわななく心はより甘美に舌の上で転がるに違いない』

 ヒトの心など、所詮その程度で崩れ壊れるもろいものだ。
 声は唾液を啜るような音をたて生暖かい空気と共にまとわりつく中、京一はゆっくりと左右に首を振った。何度も、何度も。その場にある全てのものを否定するかのように、首は振り続けられた。
 だが京一は自分が何故こんな事をしているのかを、理解できてはいなかった。
 一体何を拒否しようとしているのだろうか。
 妻が死んだという事実か、震えの止まらない拳か、それともかつて経験した事のない『恐怖』への恐れだとでもいうのか――――。
 
「…………違う」
『違わない』

 声が囁く。

『違わない、お前は恐れているのだ』

 京一が、きつく目を閉じる。

『近しい者を失う事こそを、お前は、最も恐れて――――』





 ――――瞬間。
 鼓膜が弾け飛びそうな音が、全てを打ち壊す。





「………………」

 再び目を開けると視界は緑ではなく黒色だった。この色彩に彼は覚えがあった。僅かに弾む心臓を落ち着かせていけばやがて目が慣れ、自分が今見上げているものが寝室の天井である事を知る。
 溜め息をつく間もなく人の気配を感じた京一は、目をすがめて闇に落ちた寝室を見やり、宝石のような目を見開く。
 パジャマをまとった肩に長めの黒髪を落とし、銀の瞳をこちらに向けて立っていたのは、とも子だった。その手には短銃が握られ、銃口は真っ直ぐに京一の頭からはみ出た枕へと向けられている。京一が首を動かして確認するまでもなく、傍らから漂ってくる焦げ臭さから全てが知れた。
 彼女が、何かを撃ち抜いたのだ。

「……どうしたんだい」

 問いかけに、とも子は短銃を下ろして自分のベッドへと歩きながら

「うなされてたわ」

 とだけ答えると、いつものように毛布の中へと落ち着いていった。
 その至極あっさりとした妻の背中をじっと見送り、毛布に覆われた肩が静かに上下するのを確認すると、京一は改めて視線を天井へと向ける。
 あれは夢だったのだろうか。そんな事をつらつらと考えるが、しかし今こうしてとも子が息をしているという事は、きっとそうだったのだろう。
 枕元には銃弾の痕跡以外に何もなく、妻が何を撃ったのかは分からない。
 だが、あの銃声が夢から自分を引き出した事だけは確かだ。京一にとっては、それだけで十分なように思えた。
 長い息をつき、震えていない拳を何度か握り直すと、京一は再び目を閉じる。

 
 ――――二つの寝息が穏やかに響く寝室。その中に、一つだけ異質なものが転がっている。
 眠る京一の枕元、とも子が撃ち抜いた場所に銃弾によって胴体を切断された鬼の残骸があった。しかしたとえ京一が目を覚まし傍らを見たとしても、アクアマリンの瞳はその無残な姿を見とめる事はないだろう。異質な者の気配はおろか、その姿すらも彼の目は見る事ができないのだから。
 
 

 数時間後、二人は何もなかったかのように揃って朝を迎えた。
 風変わりな夫婦としての、何度目かの朝だった。






 END.