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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


紫陽花の家(前編)


------<オープニング>--------------------------------------


 雨音で、女は目を覚ました。
 最初に見えたものは、木目の浮いた古い天井。うすら青く光る障子、その上に嵌められた欄間の、牡丹の意匠。冷えた空気には、湿った土壁のにおい。馴染みのある部屋。
 ゆっくりと床に半身を起こすと、キリ、と目の奥が痛んだ。
「……ツ」
 小さく声を漏らし、彼女は額に掌を当てた。頭が重い。随分と長い時間、眠っていたような気がした。
 奇妙な焦燥感がある。思い出さなければいけない。眠りにつく前に、何かとてつもなく、恐ろしいことがあったのではなかったか。
 重い頭を、女は俯けた。長い黒髪が、肩から胸へざらりと落ちた。その影で、赤い唇がせわしない呼吸に震える。
 記憶は彼女の頭の中に、洪水のように渦巻いた。何がどの順序で起きたのか整理するのに、ひどく時間がかかった。
 やがて女は、弾かれたように立ち上がった。思うように脚が動かず、裸足の爪先で畳を擦るようにしながら障子に駆け寄り、取っ手に手をかけて思い切り開いた。障子戸が枠にぶつかる音が、タン、と響いた。
 雨音が大きくなった。障子の向こうは縁側だ。空と、庭が見えた。
 雲に覆われた空はぼんやりと明るいばかりで、目覚めたばかりの女の目にも、眩しくはなかった。
 庭では、溢れんばかりに咲いた紫陽花が、雨露を受けて濡れている。最後に見た時には、確か躑躅(つつじ)が花の盛りだった。
 自分は一体どれだけの間、眠っていた?
 女が愕然とした時、トト、と。足音が、廊下の角の向こうから近付いてきた。
 子供が駆ける、軽い足音だ。
 ややあって柱の影から出てきたのは、白い靴下を履いた小さな足だった。
 現われたのは、子供だ――その顔が、女を見つけて喜色に輝く。
 おかあさん、と、子供は言った。丸かった筈の頬がやつれて、痛々しかった。
 女は崩れるように膝をつき、駆け寄ってきた子供をかき抱いた。子供の肩を、女の涙が濡らした。


           ++++


 依頼の内容は、身辺調査。
 久々に、心霊だの妖怪だのといった単語の出てこない、まともな仕事だ。
 草間興信所にとっては本来喜ばしいこと。
 で、あった、が。
 興信所所長、草間・武彦(くさま・たけひこ)はポーカーフェイスを装いつつも、内心は舌打ちしたい気持ちで満々だった。
「あなたのお兄さんの奥方……ややこしいな、つまりその、あなたの義理のお姉さんの身辺を調べて欲しいと?」
 草間の言葉に、応接机で向かい合って座っている依頼人、島津・礼二(しまづ・れいじ)は、仰々しく頷く。
「ええ。徹底的にお願いしたい」
 礼二の持ち込んだ書類に目を落とし、草間はふむ、と鼻を鳴らした。
 書類には調査対象の女性と、その周辺についての情報が一通り書き込まれている。
 島津・花枝(しまづ・はなえ)。旧姓、木崎(きざき)。9年前に、資産家として名高い島津・義一(しまづ・よしかず)と結婚。因みにお互い初婚である。現在、男児一人に恵まれ、東京郊外の屋敷で生活中。
 目を引くのは、現在35歳の花枝に対して、義一が73歳という極端な年齢差だ。
 書類にクリップでつけられた写真からは、花枝は実年齢よりもよほど若く見えた。そして、上品な鶯色の訪問着がよく似合っている、中々の美女だ。
 ひいふう、と草間は思わず指折り数えている。
「26で、64歳の男と結婚したのか……」
 若い美しい女が、老齢にさしかかろうとする資産家の妻に納まった。これだけ聞けば、他人は何となく胡散臭さを感じてしまうものだろう。
「兄は仕事一徹の男でしたからね。引退して気が抜けたところで、あの女の手管にコロリと参ってしまったのでしょうよ」
 仮にも義姉にあたる相手に対して、礼二は嫌悪感を隠さない。落ち着いた紳士を装っているものの、そこに礼二の地金が出ている気が、草間にはする。
 まあ、そんなこったろうな。こっそりと、草間は口の中で呟いた。
 見たところ、礼二は50歳そこそこ。兄の義一とはかなり歳が離れている。そして、島津家では唯一の身内なのだと言っていた。
 つまり、順当に行けば、兄の資産は全て弟の礼二に転がり込むところだったのだ。義一が花枝と結婚さえしていなければ。
「しかし、分かりませんね。9年間、お兄さん夫婦の生活は順調なんでしょう? お子さんもいらっしゃる。結婚前に身元を確認しようというのならともかく、わざわざ今更、しかも弟の貴方が奥方の身辺調査も何もないでしょうに」
「……それは……」
 意地悪く、草間が問うと、案の定、礼二は言葉に詰まった。その時だ。
「このところ、おにいさんの体調が優れないって、主治医に聞いて欲が出たんでしょう?」
 淡々と冷たく、厳しい声音が飛んできた。
 声の方向へと目をやれば、事務所の戸口でパンツスーツ姿の若い女が一人、礼二を睨みつけている。外は雨だったのだろう、彼女が片手に持った傘の先から水滴が垂れている。その傘を傘立てに放り込むと、女はカツカツとヒールを鳴らし、応接セットへと歩み寄った。客だと思って出迎えた零が、玄関先に取り残されて目を丸くしている。
「少しでも自分の取り分を多くしたいから、姉さんを首尾よく追い出しておきたいのよね? あることないこと、おにいさんに吹き込んで。……ねえ、借金まみれの礼二さん」
「尾(つ)けて来たのか! 失礼な女だな」
 女の言い草に、礼二が激して立ち上がる。
「姑息なのはお互い様でしょう。ろくでもないことを考えていらっしゃるようだとは思っていたけど。まさか、探偵まで雇って嗅ぎ回ろうだなんて」
 女は鼻で笑った。礼二の額に青筋が浮いた。
「姉妹揃って、何て奴らだ! この間から花枝が一ヶ月も家を空けているのは、どうせ愛人と旅行にでも行っているんだろう!? 兄貴が体調を崩したのは、心労のせいじゃないのか!? 近所の噂になっているのを知っているんだぞ!」
「あら、そうでした? 私は初耳です」
 礼二の怒声にも、女は片眉をピクリと上げただけで涼しい顔だ。
「あー……その、何だ。身内の喧嘩なら、何もうちでやるこたねえだろ」
 仕事は惜しいが、面倒なことになるくらいなら、二人ともお引取り願えないだろうか。うんざり顔の草間に、女がにっこりと笑いかけた。
「初めまして。私は島津花枝の実妹の、木崎・香子(きざき・きょうこ)と申します。ここにいる島津礼二さんとは、義理のきょうだいにあたるわけです。……仲は、見てのとおりですが」
「はあ。どうも、草間です」
 礼二を押し退けて、香子は草間の前に座った。
「昔から、礼二さんは邪推が過ぎて困るんです。先ほど聞いたところでは、草間さんは姉の身辺調査をお受けになったんでしょう?」
「ああ、まあ」
 草間の返事に、気分を害するかと思いきや、香子はますます笑顔を深くした。
「姉には、何もやましいところはありません。何でしたら、すみからすみまで調査して下さったら良いんです。そうね、家に行きたいのなら、私の友達ということにして、いらして下さってもいいわ」
「そんなことを言って、調査員をそっちの味方に取り込む気なんだろう!」
 香子の言葉を聞いて、礼二が割り込んでくる。
 草間は頭を抱えた。
「…………ややこしいことになったな、オイ」
 少なくとも、進んで関わりたいタイプの事件ではなさそうだ。誰か他の奴に行ってもらおうかなあ、と。草間は遠い目をしながら、エスカレートしてゆく礼二と香子の言い争いを聞いていた。


------<調査開始>--------------------------------------


 折角出した紅茶は、ほとんど手をつけられないまま冷めてしまった。礼二と香子はお互いを罵り合うのに忙しく、草間にもまた余裕がなかったので。
 ロクな情報が引き出せないまま二人が帰った後、どっと疲れた顔をしている草間の鼻先に、湯気の立つマグカップが差し出された。中身は煎れたてのコーヒー。
「お疲れ様」
 と、草間を労ったのはシュライン・エマだ。
「悩むことはないと思うわよ。どちらも調査を願ってるのに変わりはないし、冷静な視点で調査報告を提出すれば良いのだもの」
 眉間に皺を寄せながらコーヒーを啜る彼に、シュラインは言った。全くもってそのとおり。こんなうらびれた興信所で何故彼女が事務員を――とは、色々な意味で囁かれることである。
「あなたたちもどうぞ」
 シュラインが振り向いた先には、礼二と香子が言い争い……もとい、草間と相談している間に事務所にやってきた面々がいる。トレイには、彼らの人数分のカップが乗っていた。
「嫌な話だなあ。遺産目当てでどうのこうのって」
 コーヒーをもらいながら、羽角・悠宇(はすみ・ゆう)が溜息を吐いた。悠宇は書類棚にもたれて、草間と同じく精根尽き果てた顔をしている。普段は快活な少年である彼でさえ、ドロドロな大人たちを見ているのはかなり堪えたようだ。それでも、隣に居る初瀬・日和(はつせ・ひより)のぶんのカップをトレイから取ってやるのは忘れない。
「噂はともかく、お身内が揉めているのは、ご病気のご主人や、小さなお子さんの為にならないと思います……胡散臭いとおっしゃる部分があるのなら、それを明らかにする事がまず必要ではないでしょうか」
 言って、日和は気遣わしげに眉を寄せる。
「そうですね。それに……」
 梅・蝶蘭(めい・でぃえらん)が、日和に同意を示しながら応接セットに歩み寄った。
「草間さんもおっしゃっていたように、おかしいです」
 マグカップを片手に、先ほど香子が座っていたソファに腰を下ろし、意志の強そうな瞳をきらりと光らせて、蝶蘭は草間を見た。
「礼二さんは遺産を手に入れたいが為、花枝さんの不倫を確証したいってとこでしょうけど、お子さんが出来て何年も経っているのに、今更過ぎますよね」
「まずは、そこだよなぁ」
 頷いた草間の前に、タン、と音を立ててマグカップが置かれた。応接机の上に中身をこぼす勢いだ。
「私も気になります、草間さん! いえ、探偵さん!」
 と、蝶蘭の隣に滑り込んできたのは、冴島・泉水(さえじま・いずみ)だった。
「私は、実は香子さんと礼二さんは共犯なんじゃないかと思うの」
 ごく真面目な顔で、泉水は口火を切る。
「礼二さんは借金を返したい。香子さんの場合、義一さんの遺産がお姉さんに入って花枝さんとお子さんが亡くなれば、遺産は妹の香子さんへ。それで香子さんが礼二さんの借金の返済をしてあげればそれでOKでしょう?」
 泉水が披露した推理に、周囲の反応はいまいちだった。
「うー……ん」
「それは、少し飛躍しすぎなんじゃ……?」
 唸ったきり返事に詰まってしまった草間に代わり、悠宇が言った。でも、と蝶蘭が割って入る。
「あながち、あり得ない話でもないかもしれません。そうでなくとも、礼二さんには何かがあったのではないでしょうか。例えば、最近になって借金以外に急遽お金がいる出来事が」
 無駄になった紅茶をキッチンに片付けて、シュラインが戻ってきた。
「確かに、依頼された調査内容自体は単純明快だけれど、状況が不自然であることは否めない事実ね」
 シュラインの言葉に全員が同意し、悠宇と日和と蝶蘭と泉水の間であれやこれやと議論が始まった。礼二さんが気になる、香子さんにも何かありそうだ、島津夫妻の息子に話を聞いてみるのはどうか――。
「どうする、武彦さん?」
 シュラインに水を向けられて、草間はまた唸った。
 外の雨は降り止みそうにない。揃いも揃って制服姿の少年少女たちに、ここは雨宿りする場所じゃないからさっさと帰れと、草間は言おうとしてやめる。ちょうど人数が欲しいと思っていたところだ。
「お前ら全員、調査員として協力しろ」
 代りにそう告げた。

------<調査その1・木崎香子の話>--------------------------------------

 香子の勤め先は、都内のデザイン事務所だった。若年層向け衣料品のオリジナルブランドが人気上昇中で、ファッション業界では少々有名……らしい。
「昨日有給取っちゃったもんだから、今日は皺寄せで残業決定なの。あまり時間は取れないわ。ごめんなさいね」
 待ち合わせのカフェにやって来るなり、香子は言った。
「お忙しいところに、無理を言ってすみません」
 向かい合って席に座り、礼儀正しくお辞儀をした蝶蘭に、香子は興味津々といった風の視線を向けてくる。昨日は礼二との会話に夢中で、事務所にいたはずの蝶蘭のことは憶えていないようだ。
「調査員ってあなた? あの興信所、こんな若い子も雇うのね。その制服、高校? 中学?」
「中学です」
「へえ。うちの主力購買層だわ。あら、肌がとってもきれい。今ちょっとオリエンタル系が流行ってるんだけど、真っ黒な長い髪が似合う子って、意外と少ないのよ。ねえ、ティーンズ雑誌のモデルとか興味ない?」
「……いえ」
 香子が勝手な方向に話を進めようとするのを、蝶蘭は短く制した。
「それより、そちらのお話を聞かせていただけないでしょうか」
「ああ。……そうね、昨日は所長さんにもろくにお話してなかったものね」
 蝶蘭が告げると、香子は軽く肩をすくめ、息を吐いた。
「礼二さんは不動産の会社を持ってるんだけど……バブルが崩壊してから、ご多分に漏れず経営が苦しくて。なんとか持ちこたえてたみたいだけど、最近は火の車みたいね。これは、ちょっと調べればすぐにわかることよ」
 アイスティーにシロップを流し込みながら、香子は鼻で笑った。相当、礼二のことを良く思っていないようだ。
「最近、ですか」
 礼二が焦っている理由はそのあたりだろうか。呟いた蝶蘭をよそに、香子ははずみがついたように喋りつづける。
「ええ。おにいさん――義一さんと同じだけの資産を両親から受け継いだのに、今や天と地ほどの差があるのよ。あんまり経営の才能がないのね、あの人。おまけに私生活が派手だから、個人的な借金もあるらしいわ。でも、そんな風なくせに、おにいさんにはお金の無心さえしたことがないみたい。礼二さんが話さなくても噂くらいは伝わってくるから、おにいさんとしては頼って欲しいみたいだけどね。きっと、コンプレックスがあるんだと思うわ。おにいさんに頭を下げるのが嫌なのよ。そのくせ遺産は少しでもたくさん欲しいだなんて……考えることが薄汚いわ」
 礼二を悪し様に言いながら、香子はストローで落ち着きなく紅茶をかき混ぜる。
「やはり、わからないですね」
 蝶蘭の言葉に、香子は顔を上げた。
「あら。何が?」
「礼二さんに、昨日言ってましたよね、『姑息なのはお互い様』って。それは?」
「ああ。このところずっと、可能な限り礼二さんのことをつけまわしてたの、私。素人のやることだから、礼二さんも薄々気付いていたみたい。でも、最初に姉さんの周りをコソコソと嗅ぎまわるようなマネをしたのはあっちだから、お互い様、ってわけ」
 カラカラ。ストローを回しながら肩を竦めた香子を、蝶蘭は正面から見据える。
「お姉さんにはやましいことはないとおっしゃっているのに、貴女はそうやって、礼二さんの行動をとても気にしている。本当に何もないのならば、礼二さんがなにをしようと、」
 関係がないはずでは?と蝶蘭が言い切るより先に、香子が口を開いた。
「もともと、礼二さんは私たち姉妹のことを信用してはいなかったわ」
 香子の手許のグラスで、からからと、ストローで混ぜ返された氷が鳴る。
「あの家のこともあって――」
 言いかけて、香子は口をつぐんだ。ずっと蝶蘭の目を見て話していた香子が、ここで初めて目を逸らした。
「ああ、ごめんなさい。関係ないわ、偶然のことだもの」
「家?」
 蝶蘭が聞き返すのを無視して、香子は続けた。
「出会って一年も経たないうちに姉さんたちが結婚したってことでね。礼二さんは当時から随分と反対していたわ。すぐに子供が――智彦(ともひこ)が生まれて、それからは何も言わなくなっていたけど」
 せわしなく氷を鳴らしながら、香子は唇を噛んだ。
「余計なことを掘り起こして欲しくないの。姉さんは義兄(にい)さんを愛しているし、義兄さんも姉さんと智彦を愛してるわ。それが事実よ。それだけで充分でしょう」
 ストローを指から放すと、香子は腕時計を見て、あらこんな時間と呟いた。
「私に話せるのはこれだけよ。早く礼二さんを納得させるだけの資料を集めて頂戴ね」
 香子が去った後に、一口も飲んでいない紅茶のグラスが残されていた。

------<調査その2・島津智彦の話>--------------------------------------

 終業のチャイムが鳴ってしばらくすると、校門からわらわらと子供たちが出てきた。
 黄色い傘や雨合羽、ピンクや水色の色鮮やかな長靴の群れの中から、悠宇と日和は目的の子供を見つけた。
 今時の小学3年生にしては小柄、色が白くて目元が母親似で、ちょっと女の子みたいな男の子。昨日礼二が興信所に置いていった写真の中に、一枚だけ花枝と子供が一緒に写っているものがあった。雨具のせいでわかりにくいが、容姿が一致する。
「島津・智彦(しまづ・ともひこ)くん?」
 黄色い傘の下から、少年は声をかけてきた日和を見上げた。予想していたほど警戒はしていない表情だ。離れたところに居た悠宇にも視線を走らせると、
「……どちらさまですか?」
 落ち着いた声で言った。
「俺たちは……」
 歩み寄ろうとした悠宇は、不意に腕を捕らえられて前につんのめる。
「あなたたち、さっきから何? うちの生徒に何か用なの?」
 悠宇を睨みつけたのは、校門に立っていた女性教師だった。日和と二人でこっそり待ち構えていたのが裏目に出たようだ。雨が降る中、ずっと同じと頃に立っている二人はいくら少し離れた場所にいても目立ったらしかった。おまけに、智彦が出てくるまでの間に、クラスメイトだという子供を見つけて話を聞いていたのも悪かったらしい。
「あの、私たち、怪しい者ではなくて……智彦君とお話がしたいと思って……その、お家が大変だってうかがって……」
 日和が慌てて悠宇の許に駆け寄ると、女性教師の表情が多少は柔らかくなった。名門高校の制服を着ているばかりでなく、いかにも優等生に見える日和にそう言われて、すぐに疑えというほうが難しいだろう。
「……? このお姉さんたち、親戚の方か何か?」
 数歩先で立ち止まっていた智彦は、少し考えるような仕草をした後、女性教師の言葉に頷いた。

            +++

 ところ変わって、小学校近くのケーキ屋。店内のカフェスペースには、スポンジの焼ける甘い匂いと、紅茶の香りが漂っている。
「お兄さんたち、気をつけなきゃ。小学校ってガードって厳しいんですよ、このご時世」
 言って、智彦少年はショートケーキについたセロファンを、フォークで器用に取った。
「悪かったよ。あーあ……嫌な世の中だな……」
 悠宇は複雑な表情で、チーズケーキにフォークを入れる。
「ごめんね。急に誘ってしまって……」
 申し訳なさそうに頭を下げた日和の前に、季節替わりのフルーツタルトが運ばれて来た。季節の果物として乗っかっている、枇杷(びわ)のオレンジ色が鮮やかだ。
「いえ。香子おばさんが昨日、電話で言ってましたから。……探偵さんが来るかもしれないけど、ヘンなこと言っちゃダメよ、って」
 智彦の言葉に、日和は目を瞬いた。調査に協力するようなことを言っていたのに、香子のしていることは明らかに口止めだ。
 小さくケーキを切り取ったフォークを、智彦はぱくりと口に入れる。咀嚼した後、顔を上げた。あまり顔色が良くない。しかし、悠宇と日和に向ける目には、決然とした強い意志が宿っている。
「子供だから簡単に何か聞きだせると思っていらっしゃるのかもしれませんが、お母さんのこと、僕に訊いても無駄ですから」
「え……?」
「お母さんなら、もう帰ってきました。それに……近所のおばさんたちが言うみたいに、お父さん以外の男の人とどこかに行ったりは、絶対にしていません。ついてきたのは、これをお伝えしたかったからです」
 机の上に置かれた、智彦の拳が震えている。物言いだけはまるでまるで大人のようなのに、顔は今にもぐしゃぐしゃに泣き出してしまいそうだ。
「智彦くん、それは……」
 日和たちは、けして花枝の身辺調査を礼二の有利に進めるために、智彦を訪ねてきたのではない。しかしそれをどう伝えたらいいかわからず、日和は思わず悠宇を見た。悠宇はというと、真っ直ぐに智彦を見ている。
「わかったよ」
 言われて、智彦は拍子抜けしたようにぽかんと口を開けた。
「おまえの両親が、自慢のお父さんとお母さんだってことは、俺にもよくわかった。草間さんも俺たちも、おまえのお母さんのことをおかしな風にでっち上げたりは絶対にしないから。それだけは安心しててくれ」
「本当に?」
 恐る恐る、智彦は悠宇の顔を覗き込む。
「ああ。約束してもいいぜ。男同士の約束だ」
「……探偵と指きりするなんて、思ってなかったや」
 悠宇に小指を差し出されて、智彦も小指を出した。
 探偵と聞いてスパイのような人間を想像していたのかもしれない。子供らしくないくらい落ち着いて見えても、そんなところはやっぱり子供なのだと、日和は思った。
「周りがどんなことを言ってても、お前にとっての両親の姿が本物なんだと俺は思うよ。……息子のお前が信じる事が父さん母さんの力になるんだから、がんばれよ」 
「うん」
 指きりの指をほどくと、智彦は緊張の解けた笑顔を見せた。やっと思う存分ケーキに手をだす気になれたようだ。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、いいね。歳が近くて」
 ショートケーキのイチゴを頬張りながら、智彦は不意にそう言った。日和と悠宇にその意味がわかったのは、次の言葉を聞いてからだった。
「うちは、多分絶対、お父さんのほうがお母さんより先に死んじゃうから。お父さんは、とってもとっても、それが辛いんだって。だから、お父さんが死んじゃったら、お母さんを守るのは僕の役目なんだよ。お父さんと約束してるんだ。僕が頑張らなくちゃ――折角、お母さんが帰ってきたんだから」

            +++

 智彦が帰った後には、スポンジのかけら一つ残さず空になったケーキ皿が残った。フォークは机と平行になるように行儀良く置いてある。
「……あの子と話をした限りじゃ、島津さん夫婦がうまくいってないとは思えない」
「そうだね。礼二さんが言ってたような噂と、どっちを信じるかって言われたら……私は、あの子が感じていることのほうを信じる」
 悠宇に頷いて、ただ――と、日和は続けた。
「智彦くん、なんだかすごく疲れてるみたいだった。気晴らしになればと思ってここに誘ったんだけど、悪いことしたかな」
 智彦に会う前に、クラスメイトだという子供たちに聞いたことを、日和は思い出していた。
 一月ほど前から、智彦は学校を休みがちだった。学校には、風邪だと連絡があったという。毎日登校するようになったのは、ここ23日のことらしい。
 島津花枝が家を空けていたと言われていたのも、先月から一ヶ月ほど。
「キーワードはここ一ヶ月、なんだな」
 悠宇が呟いた隣で、キュウ、と小さな鳴き声がした。見ると、日和のポケットから小さな狐のような獣が顔を出している。
「……末葉(うらは)? こんなところで放しちゃ駄目だろ」
「勝手に出てきちゃったの」
 末葉は、日和が銀のピルケースの中に飼っている霊獣、イヅナだ。普段は大人しくポケットに入っているのだが、何かあれば日和に知らせようと出てくることがある。
 智彦が座っていた方へ鼻先を持ち上げて、末葉はヒクヒクと髭を動かした。空気の中の匂いが気になるときの仕草だ。
「何か、良くない匂いがするって言ってるみたい」
「匂い?」
 チ、と鳴いて、末葉は日和の肩に駆け上った。その時、末葉の尻尾に煽られるようにして、智彦の座っていた席のほうから、確かに何かの匂いが日和の鼻に届いた。
「なんだろう、これ……」
 お香のような匂い。その中に一筋、嫌な匂いが混じっていた。血の臭いに似ている。でも、それよりももっと嫌な臭い。日和は眉を寄せた。
「……死臭?」
 自分の唇から出た言葉に、日和は目を丸くした。嗅いだことはないけれど、一言で表すとすればそれしか思いつかなかったのだ。
「だって、そんな。智彦くんから?」
 日和は頭を振ったが、気のせいだと笑ってしまうことはできなかった。気になることがあった。聞いていて、ほんの少し、ひっかかりを覚えた言葉が。
『折角、お母さんが帰ってきたんだから――』
 帰ってきた、とは何度も言った。しかし、一体どこから帰ってきたのか、智彦は結局一度も言わなかったのだ。

------<調査その3・島津礼二の話>--------------------------------------

 昨日と同じく、草間興信所の応接セットに、島津礼二は居た。
「借金がある。金に困っている。それは事実だ。認めよう。しかし、それと今回の依頼とは別問題だろう?」
 今日、応接机を挟んで彼と向かい合うのは泉水だった。胡散臭いものを見る目になっている泉水に対し、礼二は不遜とも見える態度を崩さない。
「私だって何も、不倫をでっちあげろとは言っていないさ。事実が知りたいだけなんだよ」
 そう言われてしまうと、何も言い返せなかった。しかし、泉水とて自分の推理にそれなりの自信があった。
「その事実とやらは、案外あなたがご存知なんじゃないですか?」
 カップをソーサーに戻して、泉水は口火を切った。
「いえ、あなた方、と言ったほうがいいかもしれませんね」
 何を言い出すのかと、礼二は怪訝な顔をしている。図星を指されて驚いた……というよりは、純粋に何を言われるのかわからなくて驚いているように見えるが、泉水はくじけず言葉を継いだ。
「礼二さん、あなたが義一さんの唯一の身内ということは、どういうことかというと。礼二さんが亡くなった後、花枝さんとそのお子さん、そしてあなたに遺産が渡るということです。でも、その次に花枝さんとお子さんが亡くなったときに、もう一人遺産を相続する人が現われますよね。それはつまり――香子さんです」
「……ああ、そうだな」
 言われて初めて気がつきました、とでもいうような顔で、礼二は頷いた。本当に今初めて気付いたっぽい……と思いつつ、いやいや、と泉水は自分を励まして最後まで続けた。
「つ、つまりですね、遺産という点においてはあなたと香子さんの利害が一致するんです。そして今、義一さんが体調を崩していて、花枝さんは姿を消している。ひょっとしてあなたは、香子さんと共謀して、花枝さんとお子さんを拉致しているのでは!?」
 二人の行方不明は、当然義一氏の健康に甚大な影響を与えるだろう。そして、花枝の不倫をでっちあげ、自分から子供を連れて失踪したかのようにさせる。そうすれば、礼二にも香子にも遺産が入る。
 以上が、昨日一晩、泉水が煮詰めた結果の推理である。
 どうだ、と泉水は礼二を見詰めた。ティーカップを持つ礼二の手が震えている。礼二はカップを口から離そうとしたが、時既に遅く。
「――――ぶふっ」
 奇妙な音を立てて紅茶の霧を吹いた。浴びせられた泉水はたまったものではない。
「何するんですか!」
「いやいや、失礼。それは私も思いつかなかった! 実にいい考えだ! キミには陰謀の素質がある!」 
 泉水にハンカチを差し出しながら、礼二は腹を抱えて笑っている。
「笑っていられるのも今のうちです! 今、草間さんとシュラインさんが義一さんのおうちに向かっているところです。あなたたちの陰謀は、もうすぐ白日の下に――」
 と、泉水が拳を握ったところで、事務所の電話が鳴った。零が取って、泉水を手招く。草間からだった。
 島津邸に着いたら、様子を連絡してもらうことになっていた。
「え? 花枝さん、おうちにいらっしゃいました……か……」
 受話器を耳に当て、泉水はがっくりと肩を落とした。礼二の笑い声が大きくなった。この男、笑い上戸らしかった。
「……いや全く、失礼した。お嬢ちゃんが私たちを疑う気持ちもわかるよ。事実、俺は少しでも多く遺産が欲しい。それに、香子だって姉を気遣うようなことを言いながら、実のところはあの家が欲しくて仕方がないんだからな」
 ひとしきり笑った後、目尻に浮かんだ涙を拭いながら、礼二は言った。
「我が肉親ながら、兄貴はマニアというか……変人だ。そんな変人で既婚暦もなく老境にさしかかろうとしてる男に、出会って間もない若い女が嫁ぐというんだから、最初はそりゃあ胡散臭いと思ったものさ。でもな、いざ甥っ子が生まれてみると可愛くてな。智彦が成長するにつれて、疑う気持ちはなくなっていった」
 甥の名を呼ぶとき、礼二の表情に複雑な色が過ぎった。
「俺が今更になって花枝を疑いはじめたのには、それなりの理由がある」
 礼二は息を吐いて、しばらく迷っているようだったが、ややあって口を開いた。
「……血液のABO型の遺伝を習うのは高校の生物だったかな。兄貴はA型で、花絵はO型。二人の息子の智彦はO型だ。さてお嬢ちゃん、これはあり得ることか?」
「? えーっと、AはAAかAOでしょ。OはOOだから……」
 突然の出題に、泉水は理科の授業の黒板を思い出しながら答えた。
「別に、あり得なくはないんじゃないですか??」
「そう。だから俺も、つい最近まで気付いてなかった。深く考えなかったんだな」
 言って、礼二は自嘲するように肩を竦めた。
「でもな、ふと思い出したんだ。……俺と兄貴の両親は、父母共にABだったんだよ」

------<調査その4・島津邸にて>--------------------------------------

 山に近付くにつれ、雨音が大きくなるようだった。
「――木の葉に雨が当たる音ね」
 傘を傾げ、シュラインは緑深い山を見上げる。目的の島津邸は、その麓に敷地を広げていた。
「で……っけえ家だな、こりゃ」
 シュラインの隣で、草間の口が半開きになっている。
 塀だけ見ていても、この中は寺か公園か、というくらいの長さだ。門がなかなか見えない。まず、滅多にお目にかかれない豪邸である。
「あとは、お家の方に直接当たるだけね」
「そうだな」
 シュラインに頷きつつも、草間は少々うんざりぎみの表情だ。
 午前中から、草間とシュラインは周辺の聞き込みにあたっていた。あくまで「新居の場所を探しているカップル」として、この町の住み心地を聞くふりをしながら。
 お屋敷の歳の差夫婦はやはり有名らしく、少し誘導をかければ義一と花枝のことはすぐに話題にのぼってきた。時折、彼らのことを近所中に聞きまわっていた男の噂も聞いたが、それは恐らく礼二のことのようだった。
「まず、噂を流したのが礼二さん本人じゃなさそうだってことはわかったわよね」
 そもそも、シュラインはそこから疑ってかかっていた。礼二本人が噂を流布したのなら、もっと目立たないように行動しただろう。
「そして、噂の内容は礼二さんの持ち込んだ資料と相違なかった。花枝さんが男性と一緒にいるところは、何度か目撃されている。何人か、見たという本人から直接話が聞けたし、男性の容姿についての証言が一致するから、信憑性は高いわ」
 聞いた話だけど、という出だしで始まる話は、無責任なただの噂であることが多い。逆に、自らが見た、経験したとして語られる場合は、真偽の責任が自分にかかってくるため、虚言であることが少ない。決定的な証拠とはならないが、参考にはなる証言だった。
「中肉で長身、30代くらい。だらしなさそうな長髪に、目尻に目立つホクロ、ね。目撃者の口ぶりからすると、あまり良いイメージの人じゃないみたい。せいぜい喫茶店で話をしているところを目撃されているくらいだけど……礼二さんが自分で嗅ぎまわったのが、悪い噂を助長しているみたいね」
「まあ、そりゃそうだろうな」
 苦笑して、草間は顎を撫でた。火のないところに煙は立たないとは言うが、煙を見てその下に火の存在を予測してしまうのもよくあることだ。
「ここ一ヶ月ほど奥さんの姿が見えないから、じゃああの男の人と旅行にでも行ってるんじゃないかって、これは本当に根拠のない、ただの推測から出た噂話ね。実際、こんなに広いお家なら、人が居ても留守に見えることもあるわよ、きっと」
 集めた話を整理しつつ、草間とシュラインは塀に沿って歩いた。角を曲がり、やっと島津の表札のかかった門の前に出る。
 インターホンを押すと、スピーカーから女性の声がした。草間が名乗ると、すぐに返事があった。
「ああ。香子から聞いています。日本家屋をご覧になりたいとか。門を開けますので、お入りになってください」
 お手伝いさんなどではなく、島津花枝本人であったらしい。物腰の柔らかそうな、昨日写真で見た女性にいかにも似合う声だった。
 ロックの解けた門扉を開けると、玄関まで玉砂利と飛び石が続いている。整えられた植木が、その両脇に枝を広げていた。
「見事なお庭ね」
「維持費がかかりそうだな」
 それぞれ違った感想を口にしながら、飛び石の上を渡った。
「腕でも組んどくか。一応、今は夫婦設定だからな」
 石が濡れて滑ることに気付いて、草間はシュラインに腕を差し出す。ひねくれた物言いにくすりと笑って、シュラインは草間の傘の中に入った。
 平屋の日本家屋を囲む庭は、広く奥へと続いている。本当に寺か公園のようだ。花の終わった躑躅がこんもりと葉を茂らせている向こうに、青い花の群れが見えた。
「紫陽花……ずいぶんたくさん植えているのね」
 草間の腕に指をかけながら、シュラインは呟いた。他にも花はあったが、紫陽花の本数が圧倒的に多い。
「好きなんですよ」
 突然の声に、シュラインは前を向いた。いつの間にか玄関が開いて、和服姿の女が立っていた。
「いらっしゃいませ。主人がふせっておりまして、あまりお構いできないかもしれませんが、どうぞ、ご覧になって行ってください」
 微笑んで、島津花枝はたおやかに頭を垂れた。

            +++

「……事務所に電話しなくちゃな」
 通された客間で、草間はまず携帯を取り出した。花枝が無事で家に居た旨を、草間が泉水に伝えている間に、シュラインは部屋の中を見回した。柱や壁の色に古さを感じるが、手入れはきちんと行き届いている雰囲気だった。雨の湿気で土壁の匂いがするのも、けして悪くはない。
 しかし、ふと、そこに一筋異様な匂いが混じっているような気がして、シュラインは首を傾げた。血の臭いに似ているけれど、違う。何か、もっと、嫌な匂いだ。
 ややあって、花枝が盆を持って部屋に来た。
「香子から電話があって、急いでお掃除しましたの。このところ私も体調が悪かったものだから、家の中のことに手が回らなくて」
 黒檀らしき卓袱台に、花枝が緑茶の茶器を並べる。茶菓子は竹筒入りの水羊羹だった。
 竹筒から羊羹を出すのに熱中しかけている草間の袖を、シュラインは引っ張った。
「本当に急に、失礼なお願いをして申し訳ありません。立派なお家で羨ましいって、今この人と言っていたんですよ。こんなに広いお屋敷なのに、ひょっとしてご家族だけで管理していらっしゃるんですか?」
「ええ。家もですけど、庭も。義一さん……主人も私も、花や木の世話が好きなんです」
「まあ、お庭も」
「たまには業者さんに頼みますけれどね」
 感嘆しながら、シュラインは花枝の表情を覗った。花枝は穏やかに笑っている。夫の名を呼ぶ声の優しさに、偽りはなかった。
 噂の男性のことを聞いておきたい気がしたが、どう切り出したものか。シュラインが訊ねあぐねていると、草間が口を開いた。
「理想的なご夫婦なんでしょうね。実は俺、この近所で奥さんをみかけたことがあるんです。一緒にいらしたのはご主人ですよね? お若いのにこんな立派な家をお持ちだなんて、本当に羨ましい限りです」
 はっと、花枝が息を飲む気配がした。若いと言われて、義一のことではないと気づいたのだ。これでただの友人ならば、それは夫ではないと一言いえば済むことだろう。しかし、草間の湯呑みに緑茶のおかわりを入れようと急須を取った花枝の手が、かたかたと震えている。
「あ……すみません。なんでも……」
「――花枝」
 襖の向こうからした声に、花枝は助け船を得たように立ち上がった。
「あなた」
 襖が開いた。廊下に立っていたのは和服姿の男だった。顔を見ると、どことなく礼二に似ている。義一だ。姿勢良く背筋が伸びていて、肩幅が広いところが、若いころの体格の良さをしのばせた。このところ体調が悪いというせいか、頬の肉がそげ、目が幾分落ち込んでいるものの、老齢と言える年齢の人物にはとても見えない。
「花枝。あまり長い間起きているのは、まだ辛いだろう。無理をせずに休みなさい」
「でも、お客様が」
 言われて初めて気がついたとでも言う風に、義一は座っているシュラインと草間を見下ろした。
「ああ。香子さんが昨日言っていた人たちか。家なら、この部屋に入るまでに充分見たでしょう。申し訳ないが、そろそろ帰っていただきなさい」
「……でも」
 花枝が振り向くよりも先に、シュラインと草間は座布団から立ち上がっていた。
「ご迷惑をおかけしてしまったようです。申し訳ありませんでした。武彦さん、おいとましましょう。お茶、ごちそうさまでした」
 会釈をして、シュラインは花枝の横を通り抜けた。
 花枝の着物からは、焚き染めてあるのだろう、香の匂いがした。それに混じって、先ほど感じた不快な臭いが鼻をくすぐった
 家に染み付いている臭いかと思ったら、違う。花枝からなのだと気付いて、シュラインはその怪訝さに眉を顰めた。

------<報告書>--------------------------------------

 各々が調査を始めてから数日後。
 事務所には、今回の件に関わった調査員全員が集まっていた。
 あの後、花枝の行動をチェックしてみたものの、結局彼女は一度も家から出なかった。食料や日用品は宅配業者に頼んでいたのだから、徹底的だ。不倫の証拠を取るも何もなかった。

 ――ここまでの調査の結果、現在島津花枝に不倫は認められない。
 最後の一文を打ち込んで、シュラインはエンターキーを押した。 
「なにか……結局、香子さんの望むとおりになってしまったような感じですよね」
 後ろからディスプレイを覗き込みながら、蝶蘭が言った。
「そうなのよね。協力的なように見えて、こっちの行動をいいように制御されてしまった気がするわ」
 シュラインも、すっきりしない顔をしている。
「智彦の為にも、早く身内のゴタゴタは片付いたほうが良いんだろうけどな」
 頬杖をついて眉間に皺を寄せる悠宇の横で、日和も浮かない顔をしていた。
「花枝さんにやましいところがなかったのは事実じゃないかと思うんです。でも……」
「近所の噂になってた男の人と、どうも結婚前から関係が続いてたんじゃないかって疑ってるみたいなんだよね、礼二さんのほうは」
 草間のデスクに腰をもたれさせて、泉水は難しい顔をしている。
「ねえ、どう思う? 探偵さん」
 くるりと振り向いた泉水に、草間はばりばりと頭を掻いた末一言。
「…………わからん!」
「ええー!」
 異口同音に非難を受けながら、草間はタバコを一本咥えた。
「結局のところ、夫婦の問題だからな。義一氏が何だろうが許すって言うんなら、礼二氏からどんなことを知らされようが、離婚も何も成立しないだろう。探偵にできるのは、求められた事柄を調べることだけだ」
 タバコに火を点け、紫煙を吐き出してから、草間は続けた。
「話を聞く限り、花枝さんや香子や……義一氏さえ、不倫なんてもんじゃない、何かもっと別のことを隠しているんじゃないかって気はするがね」


                                      紫陽花の家・前編 了
 

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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま/26歳/女性/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【4700/冴島・泉水 (さえじま・いずみ)/15歳/高校生】
【3524/初瀬・日和(はつせ・ひより)/16歳/女性/高校生】
【3525/羽角・悠宇(はすみ・ゆう)/16歳/男性/高校生】
【3505/ 梅・蝶蘭 (めい・でぃえらん)/15歳/中学生】


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          ライター通信         
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 いつもお世話になっております。お届けさせていただきました、階アトリです。
 一日遅刻の納品、申し訳ありません。

 今回は調査がメインということで、それぞれのPC様が向かった先で入手した情報をメインに入れさせていただき、全ての方に同一の文章でお届けさせて頂いております。プレイングの被った部分は、他のPCさんが調査したことになっている部分もあります。
 この前編で、島津邸で起こったことについて、大体のところは推測ができるところまでは書けているつもりなのですが……。
 誤解を招く部分・わざと誤解をさせようとしている部分もあります。
 長くなりすぎたような気がするのですが、サスペンスドラマの前半部分のような感じで楽しんでいただけましたなら幸いです!