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秘密の花園まで何マイル?
「とも子くん、桜観に行こうか」
「え?」
料理の本からそのまま抜け出してきたかのような夕食が並ぶ食卓で、城田とも子は、夫の京一から思いがけない言葉を渡された。
「だからね、桜を観に行こうかって話。どうかな?」
「どうかなって、京一さん……本気?」
「わたしは冗談でこんな誘いはしないよ」
「そうね、そうかもしれない」
北海道でもさらに北の方ならまだ咲いているかもしれないけれど、旅行に行こうと誘われたわけではないみたいだと考えて。
とも子はにっこり微笑んだ。
「京一さん、ご飯のおかわりはいる?」
「うん、欲しい」
多少気が違ってしまっても、京一は京一のままだろうし、彼はそれでこそ彼だとも思う。
それに。
そう、それに、彼ならきっととても面白いところへ連れていってくれる気もした。
秘密の香りがする、とても素敵な場所へ。
有難うと言いながら差し出された茶碗にご飯をよそいながら、とも子はくすくすと楽しげに笑った。
彼と一緒に、『桜』を観に行こう。
そこに一体何が待っているのか、考えるだけで一日が楽しくなる。
朝と呼べる時間を過ぎてそろそろ昼に差し掛かる頃、夜勤の業務が無事終了した京一が、帰宅を告げるチャイムを鳴らした。
「いいタイミングね」
くすりと笑って、とも子は白のロングコートを羽織り、風呂敷の包みを手に家を出た。
「おや、それは?」
助手席に自分を迎えてくれた夫は、膝に乗せたものに不思議そうに首を傾げる。
「物騒なものじゃないわよ?」
「食べ物?」
「ごく一般的主婦の嗜みとしては、これくらいしなくちゃと思って」
花見というからにはそれなりに準備が必要だからと、朝早くから重箱の作成に取り掛かっていたのだ。
玉子焼きにから揚げ、煮物にサラダ、練り物、おにぎり。
色とりどりの美しい料理を詰めて、なかなかに豪勢な弁当が完成するのと、彼からのコールがほぼ同時だった。
「さすが、準備がいいね」
「あら、準備を怠るようじゃ生き残れないわ」
「そうだったね」
「そうよ」
任務遂行の為に必要なことは、綿密な計画と充分な準備。そして連絡。臨機応変に、あらゆる事態を想定することも大切だ。
「だからね、京一さん。このお弁当、実は三段目に仕掛けがあるの。いざというとき役に立つと思うんだけど」
「それって、わたしが食べても大丈夫なもの……じゃないよねぇ?」
「試してみたい?止めはしないけど、出来れば桜の見れる場所に連れていってくれてからの方が嬉しいわ。あるいは場所をあらかじめ説明してくれるとか」
ひとりじゃ行けないもの。
そんなふうに言葉を続けて、くすりととも子は笑った。
「……ふむ。三段目には手を出さないようにしておくよ」
京一も軽く声を上げて笑う。
会話のないようさえ気にしなければ、ひどく和やかで微笑ましい
ふと、彼女好みの曲がラジオから流れ出す。
懐かしい、異国の地で遠くに聞いたラブソング。あの頃はこの歌詞の意味なんてまるで分からなかった。
今はどうなんだろう。彼はどう思っているんだろう。
「そういえば覚えている?」
「ん?」
そんなとも子の言葉で、会話はほんの少しだけ方向を変える。
頭上で燦々と光を振り撒いていた太陽が、そのチカラを弱め、西の空へ落ちていく頃、2人の乗った車は東京からかなり離れた、とある場所へと到着した。
そこに降り立ってみると、眩しいサーチライトがその景色を鮮やかに浮かび上がらせていた。
桜だけじゃない。
梅も桃も、盛りをとっくに過ぎたはずの花たちが一斉に咲き誇って、まるで花霞だ。
「この間ね、偶然見つけたんだ」
風呂敷包みを抱きかかえた京一が、子供みたいに笑う。
ぐるりと周囲を囲んでいるのは、有刺鉄線の巻きついた背の高いフェンス。
時折遠くで赤いランプが点滅する。
細長く闇を切り裂く光が掠めるこの場所の名は、バイオ研究所――山奥にあるはずのない施設。
「それじゃ行こうか、とも子くん」
「ええ、行きましょう、京一さん」
誰かが意図的にやったのか、それとも彼が予めそうしていたのか、大人ひとり位なら潜り抜けられる穴が草に隠れたしたの方にぽかりと口を開けていた。
厳重な警備を配するのなら、こういうところにもきちんと目を配るべきだと、他人事ながらとも子は心配してしまう。
それでも、樹海にも等しい暗い緑の世界へ一歩足を踏み入れると、彼女は言葉をなくして、ただただ感嘆の溜息をこぼした。
むせ返るほどの香織が薄桃の色彩と一緒に自分たちを包み込んだ。
「すてきだわ……」
「お気に召していただけたようで何よりだよ」
彼と肩を並べて、ゆっくりと闇に沈んでは浮かび上がる花たちに目を移す。
時々、植物そのものがやわらかな光を発しているような気さえした。
「あら、この花って、ねえ?」
「うん?うん、珍しいよね。日本の気候じゃまず育たないものだよ」
白、青、紅、黄……淡く、濃く、高く、低く、広がり、凝集し、一面に咲き乱れる色彩。
一度も見たことはないけれど、ここが桃源郷だというのなら信じてもいいかもしれない。
「ほら、こっち」
足音も気配も殺して、京一が差し伸べてくれた手に捕まりながら、軽く凹凸の激しい道を乗り越え、草むらを書き分けて。
「あら」
「ね、一際すごいだろう?ぜひとも君に見せてあげたくてね」
それは樹齢数百年を越えているだろう桜の木だった。
呼吸を忘れるほど見事な花を闇の中に広げ、妖しく揺らめきながら、淡く淡く発光する。
そして。
風に舞い、花びらがさらさらと、ひらひらと、降り注ぐ。
それはまるで温度を感じさせない、優しい雪のようで。
とも子の中で、再びゆっくりと時が遡る。
思い出すのは、冬の終わり。
珍しく、雪が灰色の空から舞い落ちてきた日。
突然、名前を呼ばれた。
「アニマ?」
聞き慣れたコードネームを、こんな街中で耳にするとは思わなかった。もう誰も、自分をそんな名では呼ぶはずがなかったのだ。
咄嗟に拳銃の所在を手で確かめる。口を封じなければと反射的に考えた。
でも、
「ラボ・コート……」
思わず口をついて出たのは、やはり呼びなれた彼のコードネームの方で。
「あなた……」
アフガンで借りを作った。
けれど、そこから先に起きたそれぞれの出来事を、自分は知らない。
彼がこんなとこにいることも、知らなかった。
「きみも日本に帰ってきてたんだね」
相手も、袖口に隠し持った銃を握ったのが分かる。
でも、とも子が手を離せば、彼もそれから指を外す。
外側からは見えない、振り向く人もない、少々物騒だけれど、挨拶代わりのちょっとした応酬。
「折角帰ってきたんだから、桜は観に行かなくちゃ。あともうちょっとすれば、きっとすごく綺麗に咲くよ」
銃撃戦もない。爆撃音もない。張り巡らされた緊迫感もない。そんな東京の街中で再会した同僚は、あそこにいた時には見せなかった種類の笑顔を自分に向けた。
懐かしい旧友に会ったみたいに、屈託なく、笑っていた。
プロポーズをされたのは、それから数ヵ月後。
互いの素性を知っていて、そして、互いにごくごく平穏な日常を手にしたかったから。秘密を共有しながら、それでも普通という状況を楽しみたかったから。
とも子は彼の申し出を受けて、ここにいる。
不意にとも子を思い出の世界から引き戻したのは、けたたましく鳴り響くサイレンだった。
「おや」
「あら」
それは、侵入者に気付いたあちら側からの威嚇であり、警告であり、宣告だ。
「思ったより早く気付かれちゃったかな」
「やっぱりもっと準備をしてくるべきだったかしら」
遠くでサイレンに混じり、犬の鳴き声が多重音声で響き渡る。草葉を踏みつけて駆け抜ける、軽い足音はどんどん近付く。
サーチライトの動きが、明確な目的意識を持ち始めていた。
「じゃあ今夜は」
「そうね。退散しましょうか」
顔を見合わせ、くすりと笑いあって、2人の足は軽やかに地面を蹴り、コートをひらめかせて夜の闇に紛れた。
幸いというべきか。重箱の三段目を使う機会はないままで、何とか切り抜けられそうだった。
バイオテクノロジーの美しい集大成。
ひみつの花園。
あの香りは、もしかするとちょっとしたチカラを持ち始めているかもしれない。
例えば、心に響くような。
遠い過去に触れるように、心を動かすような。
「いつか依頼が来るかしら」
「来ると、楽しいだろうね。ぜひ受けよう」
「今度は二人で?」
「そうだね、出来れば二人で」
出来ればもう少しだけ、あのひみつの花園は秘密のままであって欲しい。
でも、彼ともう一度、今度はそれを解明する為に来れたらきっともっと楽しいかもしれない。
その時は、今日とは違う準備をうんとしておこう。
バックミラーごしに遠くなっていく施設に向けて、とも子は知らず、楽しげな笑みをこぼしていた。
夜のドライブ。
夜の桜。
もと来た道を、今度はとも子が運転する。
思い出を刻むように。
「ねえ、とも子くん」
運転を変わった自分に、助手席で重箱をつつきながら、京一はちらりと言葉を掛ける。
出かけの忠告のとおり、彼は重箱の一段瞳と二段目だけを膝の上に広げていた。
「楽しかった?」
「ええ、もちろん」
「嬉しかった?」
「それはもう」
「そうか、良かった」
屈託のない笑顔が、視界の端で弾けた。
「うん。良かった。そして、ごめんね」
優しい彼の、申し訳なさそうな笑み。
そこでようやく、とも子は今日の誘いが彼なりの詫びの仕方らしいことに気付いた。
彼は自分に秘密を持っていた。
友人と誘われたから、飲みに行ってくる。
職場の歓迎会でね、ちょっと顔を出してくるよ。
研修があってね、数日留守にするから。
そんな言い訳の裏側に隠されていたものたちを突き止めたのは、ほんの少し前。
京一の嘘の影にあるものに対して、浮気や賭博といった負のイメージは何故か全然浮かばなかった。
硝煙の匂いが微かに残るような、そんな浮気なんてとりあえずこの日本じゃ考えられないし、そもそも彼はそんなことに自分の時間を割かない。
その辺は妙な確信を持っている。
だから、彼を尾行した先で見つけたものを前にして、とも子はむしろ嬉しくなってしまったのだ。
あのちょっと変わった探偵のいる興信所、あるいは、ちょっと変わった記事を載せる雑誌の編集部での出来事。
けしてキライではないけれど、でもほんの少しだけ退屈していた『当たり前の一般的平穏な主婦業』に、刺激的なエッセンスが付加された。
そのことが単純に楽しかった。
だから、気にしなくてもいいのに。
「ねえ、京一さん……」
「ん?」
あの場所を見つけたのは、たまたまなんかじゃない気がした。
偶然見つけたなんて嘘で、本当は興信所か編集部か、それとももっと違うルートから引っ張り出してきた情報だったんじゃないかしら。
だってあんな山奥に、たまたまなんかで辿り着けるわけがないもの。
でも、とも子はわざわざそれを夫に確かめるのは止めにした。
言いかけた言葉を飲み込む代わりに、小さく小さく笑みをこぼした。
「私、怒っていたわけじゃないわよ?」
くすくすと、小さく。
「え?そうなの?」
箸を止めて、彼が顔を上げる。
叱られることを想定して失敗を告白した子供がなんのお咎めもないことに驚いているような、とても怖いことを想像していたのにオバケの正体は猫だったことに拍子抜けしているような、そんな表情を浮かべている。
だから、ちょっとだけ視線を横に滑らせて、頷いて見せた。
「本当に怒っていたら、私、迷わず貴方を撃ってるもの。あんなふうに貴方の謝罪を待ったりしないわ」
状況証拠はこんなところかしら。
そして、自分を誰よりも理解してくれる彼は、神妙な顔で頷いた。
「ふむ。それは一理ある気がする。なるほど……」
「でしょ?」
「うん」
「でも」
「でも?」
また少し困った顔になる。
本当にこの人って子供みたい。
そんなことを考えながら、とも子はにっこりと、出来るだけ最上級の笑みを浮かべた。
「こういうスリリングな外出は大歓迎よ」
「それじゃあ、また2人で出かけようか。とも子くん、次は何が見たいか、リクエストはあるかい?」
「そうね……」
唇に指を添えて、ほんの少しだけ首を傾げる。
約束をしてくれる京一の言葉に嘘はないから、だからとも子は次のことを当たり前のように考える。
こんなふうに過ごせる時間は、もしかするととても貴重で、とても楽しいことかもしれないから。
END
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